概略
国籍 | ![]() ![]() ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1926年7月4日 | ||
出身地 | ブエノスアイレス | ||
没年月日 | 2014年7月7日(88歳没) | ||
身長 | 178cm | ||
体重 | 76kg |
ポジションはフォワード(セカンドトップ)、ミッドフィルダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「LA SAETA RUBIA(金髪の矢)」
1950年代後半にUEFAチャンピオンズカップ5連覇を達成したレアル・マドリード黄金時代のエースとして活躍し、それまで2度しかリーグ優勝の経験がなかったレアル・マドリードを20世紀最優秀クラブに選ばれるほどのビッグクラブへと変えた選手である。
また3ヶ国(アルゼンチン、コロンビア、スペイン)の代表経験があり、生涯では1126試合、893得点という記録を打ち立てた。
一方でワールドカップでのプレー経験はなく、ジョージ・ベストらと共にワールドカップに出場していないスター選手の代表格として知られる。
バロンドールを2度受賞したほか、1989年に歴代最優秀選手としてスーパー・バロンドールに選出された。
1998年には、盟友フェレンツ・プスカシュらと共にFIFAから偉大なサッカー選手10人に選ばれ、さらにディ・ステファノはそのトップに輝いた。
ワールドサッカー誌選出の「20世紀の偉大なサッカー選手100人」やペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人にも選出され、2003年にはスペイン人としてUEFAジュビリーアウォーズを受賞した。
また、2008年から始まったUEFA会長賞の初代受賞者でもある。
現役引退後はアルゼンチンやスペインなどのクラブで監督を歴任し、2000年から2014年に亡くなるまでレアル・マドリードの名誉会長を務めた。
獲得タイトル
チームタイトル
|
個人タイトル
- アルゼンチンリーグ得点王 : 1947
- コロンビアリーグ得点王 : 1951, 1952
- スペインリーグ得点王 : 1954, 1956, 1957, 1958, 1959
- 南米ゴールデンブーツ : 1947, 1951
- UEFAチャンピオンズカップ得点王 : 1958, 1962
- コパ・アメリカ最優秀選手賞 : 1947
- スペイン最優秀選手賞 : 1957, 1959, 1960, 1964
- 南米最優秀選手賞 : 1947, 1953
- 欧州最優秀選手賞 : 1957, 1959
- 歴代最優秀選手賞 : 1989
- 20世紀ワールドチーム : 1998
- 20世紀世界最優秀選手 4位 (1999年、国際サッカー歴史統計連盟)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 – 6位 : 1999
- UEFAジュビリーアウォーズ : 2003
- UEFAゴールデンジュビリーポール – 6位 : 2004
- FIFA100 : 2004
- all time legend : 2004
- マルカ・レジェンダ : 2008
- UEFA会長賞 2008
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1945-1949 | ![]() |
66 | (49) |
1946-1947 | →![]() |
25 | (10) |
1949-1953 | ![]() |
102 | (90) |
1953-1964 | ![]() |
282 | (216) |
1964-1966 | ![]() |
47 | (13) |
代表歴 | |||
---|---|---|---|
1947 | ![]() |
6 | (6) |
1949-1952 | ![]() |
4 | (0) |
1957-1961 | ![]() |
31 | (23) |
12歳の時に、ラス・カルダレスというクラブに加入。
そこでの活躍によりCAリーベル・プレートに目をつけられる。15歳の頃、“ラ・マキナ”(機械)と呼ばれ当時世界トップクラスの強さを誇っていたリーベル・プレートのユースチームに入り、1943年にトップチームとプロ契約を結んだ。
18歳の時に4部リーグでプレーし始め、3部、1部と昇格し、1945年にCAウラカン戦でトップチームデビューした。
しかしトップチームではアンヘル・ラブルナら前線に優秀な選手が揃っていたことから、1946年にウラカンへレンタル移籍した。
ウラカンでは25試合に出場して10ゴールを記録し、リーベル・プレートとウラカンとの試合では試合開始15秒で得点を挙げた。
これらの活躍により、その翌年にリーベル・プレートへ復帰した。
ディ・ステファノはアドルフォ・ペデルネラを移籍へと追いやり、そのシーズン27得点を挙げ得点王となる。
その内の1点はペデルネラが移籍したCAアトランタ相手にアウェーで決めたものであり、その敗戦でアトランタは降格が決定。
試合後に相手サポーターからの襲撃を受けて病院に運ばれた。
1947年の南米選手権において、ボリビア戦でアルゼンチン代表デビューを果たすと、62分に初得点も記録。
同大会ではコロンビア戦でのハットトリックを含む6得点を奪って優勝に貢献し、最優秀選手にも選ばれた。
リーベル・プレートでは、2度リーグ優勝を果たした。
1949年のシーズン途中、給料問題や労働条件をめぐるゼネラル・ストライキによりリーベル・プレートを退団。
1948年に創立したばかりであり、当時まだFIFAに加盟していなかったコロンビアリーグのミジョナリオスFCへ移籍した。
当時のミジョナリオスは地元の財界人の出資によって経済力が非常に強く、リーベル・プレートで共にプレーしたペデルネラら有力選手を多く抱えており、“Ballet Azul”(青いバレエ)の異名を持っていた。
シーズン途中からの参加であったが、移籍後初シーズンに15試合で16得点を挙げ、クラブのリーグ初優勝に貢献。
ミジョナリオスでは4シーズンで292試合に出場、267ゴール記録、1951年(31得点)、1952年(20得点)には得点王になり、3度リーグを制覇したほかコパ・コロンビアなどのタイトルを獲得した。
この活躍によりコロンビアサッカー連盟からのコロンビア代表への強い要請を受け(当時は複数の国の代表でプレーが可能だった)、コロンビア国籍を取得しコロンビア代表として4試合に出場したが、FIFAから正式に認められることはなかった。
1952年にミジョナリオスは親善試合のためにスペイン遠征をした。
すでにミジョナリオスのスポークスマンも務めていたディ・ステファノは試合前にミジョナリオスの会長、レアル・マドリードの会長サンティアゴ・ベルナベウと共にラジオに出演。
ベルナベウは、この時の感想を「あの男は名選手の匂いがする」と地元記者に語った。
ミジョナリオスのほかにノルウェーのクラブであるノルシェーピングも親善試合に招かれ、地元マドリードを本拠地とするレアル・マドリードを含めた3つのクラブで三者間トーナメントが行われた。
ノルシェーピングとの試合は2-2の引き分けに終わったが、ミジョナリオスの2得点は共にディ・ステファノによるものであった。
レアル・マドリードとの試合では4-2で勝利し、ここでもまた2得点を決めた。
この活躍によってベルナベウはディ・ステファノの獲得を目指した。
しかし、当時FCバルセロナのチーフスカウトをしていたジョゼップ・サミティエールもレアル・マドリード時代のコネクションでその試合の観戦チケットを入手しており、バルセロナも同選手の獲得に興味を示した。
この2クラブの激しい争奪戦の末、1953年にレアル・マドリードへと移籍した。
レアル・マドリードでの11シーズンで通算307得点、UEFAチャンピオンズカップ通算49得点、リーグ優勝8回、コパ・デル・レイ優勝1回、インターコンチネンタルカップ優勝1回、5度のリーグ得点王、1957年、1959年と2度のバロンドール受賞などの輝かしい成績を残した。
またディ・ステファノを擁したこのチームは、1955-56から1959-60シーズンまでチャンピオンズカップ5連覇という偉大な記録を打ち立てた。
9月23日にマドリードに到着したディ・ステファノは、その数時間後にFCナンシーとの親善試合でレアル・マドリードデビューした。
試合結果は2対4で敗れたが、ディ・ステファノはその試合でヘディングから得点を挙げた。
1953-54シーズンの3試合目となるラシン・サンタンデール戦で公式戦デビューを飾ると、公式戦初ゴールも記録。
初のエル・クラシコでは2得点を挙げた。
リーグ優勝を決めたバレンシア戦ではハットトリックを記録し、ピチーチ賞を受賞した。
1955年9月8日にセルヴェットFC戦でUEFAチャンピオンズカップデビュー。
ACミランとの準決勝では、数日前まで喉疾患を患っていたにも関わらずプレーし、そのパフォーマンスにサン・シーロのミランサポーターから拍手を受けた。
スタッド・ランスとの決勝戦では開始直後に2得点を奪われるも、反撃の口火を切る1点目を挙げて逆転勝利に導いた。
1956-57シーズン、ディ・ステファノはリーグで30試合31得点と1試合1得点以上の得点率を記録してリーグ優勝に貢献。
チャンピオンズカップ決勝のACFフィオレンティーナ戦でも後半70分にPKで先制点を挙げた。
1959-60シーズンのチャンピオンズカップ決勝アイントラハト・フランクフルト戦では先制点こそ奪われたものの、ディ・ステファノ3得点、フェレンツ・プスカシュ4得点と2人で7点を奪い、5度目の優勝を飾った。
5連覇を果たしたチャンピオンズカップの決勝全てで得点を挙げており、5試合で7得点を記録している。
また、第4回大会決勝以外の4試合で、レアル・マドリードにおける1点目を奪っている。
1960年から始まったインターコンチネンタルカップにおいて、コパ・リベルタドーレス優勝者のCAペニャロールと対戦。
アウェーであるモンテビデオではスコアレスドローとなったが、マドリードでの2戦目では前半10分までにディ・ステファノの得点を含む3得点を記録し、結果5-1でペニャロールを下し初代王者となる。
また、プレーのみでなくチーム作りにも影響を与えた。
フランシスコ・ヘントがレアル・マドリードに移籍してきた当初は他のクラブにレンタル移籍させる予定だったが、ディ・ステファノの希望によってクラブはヘントをチームに留まらせた。
また、普段の練習では好調なプレーを見せるものの実際の試合ではあまり活躍することができなかったヘントを活かすため、ベルナベルに対して「ヘントがもっとプレーに関われるように、彼にパスを出せる左サイドMFを入れてほしい」と補強を要請し(ベルナベウによると、自分がパスしたボールをまた返してくれるプレーヤーが必要と語り)、アルゼンチン時代の友人であるエクトル・リアルを推薦した。
一方で1959年にチームメイトとなったジジは1958年のFIFAワールドカップで最優秀選手に選ばれたほどの実力者だったにも関わらず、彼と上手くいかなかったことでたった一年でチームを去っている。
1956年にはスペイン国籍を取得し、1957年1月30日のオランダ戦でスペイン代表デビューも果たしている。
スペイン代表では4年間しかプレーしていないにも関わらず、エミリオ・ブトラゲーニョが更新するまで代表最多得点を保持していた。
1960年に開催された第1回の欧州選手権では、第1回戦はディ・ステファノの3得点を含む2試合合計7-2でポーランド代表を圧倒したが、当時フランシスコ・フランコが総統として君臨していたスペインは、スペイン内戦時代に第二共和政を支援してフランコら反乱軍と敵対していたソビエト連邦との試合を許さず、第2回戦でソ連代表に不戦敗した。
1962年、スペイン代表としてFIFAワールドカップに招集されたものの、怪我によって出場することができず、最後までワールドカップには縁がなかった。
1962年、再びチャンピオンズカップ決勝まで駒を進め、前年優勝したSLベンフィカと対戦した。
その試合は5-3でレアル・マドリードが敗北を喫し、ディ・ステファノは無得点に終わるも、試合後にエウゼビオから「史上最も完成された選手」と賞賛された。
同大会では7得点を挙げ、チームメイトのプスカシュらと共に得点王に輝いた。
1963年8月、プレシーズンにスモールワールドカップ参加のためカラカスにいたディ・ステファノは反政府ゲリラFALNによって誘拐される。
この事件はヨーロッパのほぼ全ての主要紙で報じられ、ベネズエラ政府が戦車部隊を出動させるほどの騒ぎとなった。
事件から3日後にスペイン大使館前で解放された後、トーナメント最終戦のサンパウロFC戦で短時間のみプレーした。
また、同年イングランドサッカー協会の設立100周年記念試合においては、FIFA選抜チームのキャプテンに指名された。
1964年にサンティアゴ・ベルナベウからテクニカルスタッフのオファーを受けるも、自身はまだ現役を続けるつもりであったためそのオファーは決裂し、UEFAチャンピオンズカップ決勝のインテル戦を最後にディ・ステファノはレアル・マドリードを去ることとなった。
そして、現役時代はライバルであるバルセロナに所属し、スペイン代表で共にプレーしたこともあるラディスラオ・クバラに誘われ、クバラが監督をしていたエスパニョールに移籍。
エスパニョールでのデビュー戦の相手は前所属のレアル・マドリードであり、その試合はエスパニョールが敗北した。
1966年、40歳で現役を引退する。
1967年6月7日にエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにチャンピオンズカップ覇者のセルティックFCを招き、アルフレッド・ディ・ステファノ・トロフィー(もしくはアルフレッド・ディ・ステファノ・カップ)と呼ばれる引退試合が行われた。
エピソード
有名な愛称として選手時代のブロンドの矢が知られるが、特にレアル・マドリードの選手や関係者からは畏敬の念を込めてドン・アルフレッドと呼ばれることがある。
ディ・ステファノは気難しい性格で知られ、サッカー選手として多くの賞賛を浴びた一方でチームメイトから愛される選手と評されることはなかった。
ジジの件のほか、長年プレーしたレアル・マドリードとの決別の際も、ディ・ステファノの尊大な態度が一部の人々の反感を買っていたことも要因の一つとされる。
フランシスコ・ヘントは「ディ・ステファノの関心は2つのみ。試合に勝つことと、儲かる契約をすることだ」と語っている。
喫煙者ではあったが酒や散財に興味を示さず、2000年にエル・パイスに掲載されたインタビューでは「自分はタバコは吸うが、他は何もやらない。サッカー選手は身体に気を付けなければいけない」と語った。
また、レアル・マドリード監督時代には、バイクで練習に通っていたエミリオ・ブトラゲーニョに対して「身体を気遣い、他の手段で通うべきだ」と諭し、その後友人に会うためにバイクに乗っているブトラゲーニョを見かけたディ・ステファノが罵声を浴びせたというエピソードもある。
プレースタイル
サッカー界最初のトータルフットボーラー、万能型選手のパイオニアと評されるディ・ステファノのプレーの特徴は、プレーエリアの広さにある。
ポジションはFWであったが、中盤に下がってのゲームメイクや守備能力にも長けた万能なプレイヤーであり、試合中はそのスタミナを活かして様々なポジションに顔を出した。
レアル・マドリード時代の同僚であるミゲル・ムニョスはその能力を「ディ・ステファノが1人いればあらゆるポジションが2人いるのと同じことだ」と語り、元フランス代表選手、代表監督であり、ガブリエル・アノは「最高に完成されたプレイヤー。神の摂理のように彼の中心は至る所にあり、彼の周辺はどこにもない」と評した。
また、ホセ・マリア・サラガ曰く、GKとしての腕も悪くなかったという。
ストライカーとしても左右両足、頭でボールを自在に操り、スピード、嗅覚、戦術眼、テクニックなどサッカー選手に必要な能力をすべて高いレベルで併せ持つ。
所属した3つのナショナルリーグやチャンピオンズカップで得点王になるなど高い決定力を誇ったが、レアル・マドリードにおいてフェレンツ・プスカシュの加入後は攻撃に参加することが減り、キャリア後半はプスカシュにクラブ得点王を譲ることとなった。
得点だけでなくチャンスボールを供給することもでき、ペレはディ・ステファノについて「両足が使えて空中戦にも長け、まったく穴のない選手」と評している。