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カリーム・アブドゥル=ジャバー

バスケ

概略

Kareem Abdul-Jabbar – One and Only
誕生日 1947年4月16日(73歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク
出身 UCLA
ドラフト 1969年 1位
身長(現役時) 218cm (7 ft 2 in)
体重(現役時) 112kg (247 lb)

ポジションはセンター(C)。

 

1970年代と1980年代の20年にわたりNBAの第一線でプレーし続けた伝説的センタープレイヤー。

 

類まれな能力と技術を持ち、数々の記録や受賞歴に彩られたキャリアを過ごす。

 

史上最高のセンターが誰かを論ずる際にはしばしば挙げられる人物であり、史上最高の選手と言われることもある。

 

出生名は「ルー・アルシンダー(フルネームはファーディナンド・ルイス・アルシンダー・ジュニア)」。

 

1971年にイスラム教に改宗、現在の名前に改名している。

 

アラビア語で「カリーム」は「尊い」、「アブドゥル・ジャバー」は「偉大な者(神)の僕」を意味する。

 

NBA記録

  • 通算得点:38,387(歴代1位)
  • 通算出場時間(分):57,446
  • 通算フィールドゴール成功:15,837
  • 通算フィールドゴール試投:28,307
  • オールスター選出回数:19
  • オールスター出場試合数:18
  • プレイオフ出場試合数:237

その他の記録

  • 1,560試合出場(歴代2位)
  • 17,440リバウンド(歴代3位)
  • 5,660アシスト(歴代31位)
  • 1,160スティール
  • 3,189ブロック※(歴代3位) ※ブロック数が公式に記録され始めたのは1973-74、72-73までは記録がない
  • フィールドゴール成功率.559(歴代8位)
  • フリースロー成功率.721
  • 3Pフィールドゴール成功率.056(通算成功数1 通算試投数18)

 

タイトル

 

  • 6×NBAチャンピオン:1971, 1980, 1982, 1985, 1987, 1988
  • 6×MVP:1971, 1972, 1974, 1976, 1977, 1980
  • 2×NBAファイナルMVP:1971, 1985
  • オールNBAチーム
    • 10×1stチーム : 1971-1974, 1976, 1977, 1980, 1981, 1984, 1986
    • 5×2ndチーム:1970, 1978, 1979, 1983, 1985
  • NBAオールディフェンシブチーム
    • 5×1stチーム:1974, 1975, 1979-1981
    • 6×2ndチーム:1970, 1971, 1976-1978, 1984
  • 19×NBAオールスターゲーム出場:1970-1977, 1979-1989
  • 新人王 : 1970
  • バスケットボール殿堂:1995
  • NBA50周年記念オールタイムチーム:1996
  • No.33 ミルウォーキー・バックス永久欠番
  • No.33 ロサンゼルス・レイカーズ永久欠番

 

経歴

【カリーム・アブドゥル=ジャバー/ルー・アルシンダー】Kareem Abdul-Jabbarプレー集 〜NBA通算得点No.1プレイヤー〜【NBA history】
選手経歴
1969-1975
1975-1989
ミルウォーキー・バックス
ロサンゼルス・レイカーズ

 

1969年、NBAドラフトでミルウォーキー・バックスに全体1位で指名を受け同チームへ入団する。

 

1969-70シーズン、プロ1年目から支配的な活躍で、前年27勝55敗だったバックスを56勝26敗の地区2位へと押し上げる。

 

1試合平均28.8得点はリーグ2位、14.5リバウンドはリーグ3位の記録で、最優秀新人賞を受賞した。

 

1970-71シーズン、バックスはオフにオスカー・ロバートソンを獲得、チームは20連勝などを含むシーズン66勝(リーグベスト)を挙げる。

 

アルシンダーはこの年、1試合平均31.7得点・16リバウンドの成績で初の得点王、シーズンMVPを獲得する。

 

プレイオフでは通算12勝2敗と他を寄せ付けず、特にNBAファイナルではブレッツに4連勝(スウィープ)で勝利。ここでもアルシンダーは初のファイナルMVPを受賞した。

 

1971年、オフにカトリックからイスラム教へ改宗、同時にカリーム・アブドゥル=ジャバーへと改名する。

 

迎えた1971-72シーズン、前年に引き続きチームを地区首位に導き、自身も平均34.8得点の成績で2年連続得点王、MVPのタイトルを獲得する。

 

1973-74シーズンには平均27得点、14.5リバウンド、トータル283ブロック、フィールドゴール成功率.539(全てリーグ4位以内)という成績を残し、プロ5年目で3度目のシーズンMVPを獲得している。

 

この年チームは再びNBAファイナルへ進出し、ボストン・セルティックスと対戦する。

 

シリーズの第6戦では試合終了間際にアブドゥル=ジャバーの放ったスカイフックが見事に決まってバックスの勝利となった(このプレーはNBAの過去の名プレーの映像にたまに登場する)。

 

しかし、結局第7戦はボストン・セルティックスの勝利となり、バックスはシリーズに敗れている。

 

1975年オフ、アブドゥル=ジャバーはバックスで輝かしい実績を残しながらもミルウォーキーから離れることを希望し、大学を過ごしたロサンゼルスか出身地のニューヨークへのトレードを要求する。

 

GMはこれを承諾し、4選手と引き換えにアブドゥル=ジャバーをロサンゼルス・レイカーズへ放出した。

 

1975-76シーズン、アブドゥル=ジャバーは入団1年目から、低迷していたレイカーズに前年を10上回る勝ち星をもたらし、4度目となるMVPに選出されるがチームはプレイオフに進出できず。

 

1976-77シーズン、チームをリーグ最高となる53勝29敗の成績に導き、5度目のMVPに選出された。プロ8年で5度MVPを受賞した選手はビル・ラッセルとアブドゥル=ジャバーだけである。

 

しかしプレイオフではレイカーズは西地区決勝でポートランド・トレイルブレイザーズに0勝4敗で敗退している。

 

ブレイザーズのセンターはUCLAの後輩ビル・ウォルトンで、ロサンゼルスでの初の優勝に燃えるアブドゥル=ジャバーはウォルトンを圧倒し、「レイカーズを倒せてもアブドゥル=ジャバーは倒せない」と言われたほどの活躍を見せたがチーム力では劣っていることを証明してしまった結果になった。

 

1977-78、78-79シーズン、アブドゥル=ジャバー自身は例年並みのスタッツを残すが、チームは平凡な成績に終わる。

 

レイカーズはこの間、ユタ・ジャズとのトレードで1979年のドラフト1巡目1位の指名権を手に入れた。

 

1979年NBAドラフトでレイカーズはマジック・ジョンソンを指名。

 

開幕戦でアブドゥル=ジャバーが試合の終了間際にスカイフックを決めて勝利し、アブドゥル=ジャバーに喜んだマジック・ジョンソンが抱きついた。

 

1979-80シーズンはレイカーズは強豪へと戻り60勝を挙げアブドゥル=ジャバーは6度目のMVPを獲得する。

 

プレイオフでも各チームを順調に撃破し、NBAファイナルではフィラデルフィア・76ersと対戦。

 

アブドゥル=ジャバーの大活躍もあってレイカーズが3勝2敗と優勝に王手をかけたが、第5戦の最中にアブドゥル=ジャバーは足を捻挫してしまう。

 

第6戦はアブドゥル=ジャバーは欠場を決め、第7戦に備えてフィラデルフィアに移動せず自宅で静養することになった。

 

しかし、第6戦ではマジック・ジョンソンがアブドゥル=ジャバーの代わりにセンターをつとめ、42得点の大活躍でレイカーズを優勝に導き、ファイナルMVPにも輝いた。

 

しかし、アブドゥル=ジャバーは本当は自分こそがMVPに選ばれるべきだったと後に発言し、マジックも「このファイナルのMVPはカリームだ」と語っている。

 

1984年4月5日のジャズ戦、マジックのパスからスカイフックを決め、通算31,420得点目を記録、ウィルト・チェンバレンを抜いて通算得点歴代1位となった。

 

1984年のプレイオフはレイカーズは過密日程に苦しみながらも西地区のチームを全て退け、NBAファイナルでレイカーズの宿敵であるボストン・セルティックスと対戦。

 

大学時代からのライバルであるマジック・ジョンソンとラリー・バードの対決に全米は湧いた。

 

アブドゥル=ジャバーは第1戦で偏頭痛に苦しみながらも36得点をあげる活躍を見せてシリーズを先勝する。

 

しかし、第2戦ではレイカーズのいくつかのミスを巧みにセルティックスに突かれ、第4戦では試合中の乱闘によって集中力を乱され、延長の末にレイカーズは敗退し、シリーズは2勝2敗に追いつかれる。(この試合、アブドゥル=ジャバーはファウル・アウトになり、延長戦の途中で退場させられている) そして第5戦では寒冷なはずのボストン市が異常気象に襲われ、会場のボストン・ガーデン内が42度以上の猛暑になるという異常事態となる。

 

この試合で暑さによってレイカーズの選手達は動きに精彩を欠き、この試合を落としてしまう。

 

アブドゥル=ジャバーは特に暑さに弱く、試合後、「まるで泥の中を走っているような気分だった」と語った。

 

レイカーズは第6戦に勝利したもの、再度会場をボストン・ガーデンに移して行われた最終戦に敗退。

 

レイカーズの面々にはボストンのファンから罵声が浴びせられ、屈辱的な敗戦になった。

 

前年の雪辱を果たすべく、翌年(1985年)も西地区1位となり、プレイオフを勝ち抜いてレイカーズはNBAファイナルに進出し、ボストン・セルティックスと再戦する。

 

ところがNBAファイナル第1戦、38歳のアブドゥル=ジャバーはセルティックスのセンター、ロバート・パリッシュに12得点、6リバウンドに抑えられ、レイカーズも148対118と大敗を喫してしまう(この試合は「メモリアルデーの虐殺」などといわれた)。

 

しかし試合後にヘッドコーチのパット・ライリーに繰り返し自分が失敗するシーンのビデオを見せられたアブドゥル=ジャバーは第2戦で奮起、30得点、17リバウンド、8アシスト、3ブロックを記録し勝利。

 

レイカーズは結局4勝2敗でボストン・セルティックスを下してチャンピオンとなり、アブドゥル=ジャバーは1971年以来、18年ぶりにファイナルMVPとなる。

 

パット・ライリーはアブドゥル=ジャバーのプレーぶりを「そこに情熱をみた」と絶賛している。

 

1986-87シーズン、40歳となったアブドゥル=ジャバーは初めて平均得点が20を下回ってしまう(17.5得点)。

 

40歳近くまでアブドゥル=ジャバーはチームで最も得点の多い選手であり続けたが、このシーズンからチームの中心はマジック・ジョンソンに移るようになる。

 

しかしレイカーズは1987年のNBAファイナルでボストン・セルティックスと80年代で3度目となる対戦をし、4勝2敗でセルティックスを下しチャンピオンとなる。

 

このシリーズでもアブドゥル=ジャバーは優勝を決めた第6戦で終了間際に立て続けにシュートを決め、ロバート・パリッシュからファウルを受けながらもスカイフックを決め、パリッシュをファウル・アウトで退場に追い込んだ。

 

この試合でアブドゥル=ジャバーは32得点をあげ、40歳にしてまだ実力は衰えていないことを証明した。

 

その後も第一線で活躍するが1988-89シーズン、42歳になったアブドゥル=ジャバーは開幕前にこのシーズンを最後に引退すると表明した。

エピソード

Kareem Abdul-Jabbar Top 10 Plays of Career

その風貌から黒人選手であることを疑う者はいなかったが、実は父親は黒人で母親は白人である。

 

彼は一人息子である。

 

父親はニューヨークの警官で当時の黒人家庭としては相当に裕福で、兄弟が多く貧困の環境からはい上がった者の多い他のNBA選手達とは相当に異なった生い立ちだった。

 

また知能指数が高く、学業成績も優秀で頭脳も明晰だった。

 

こうした彼の独自性が東洋の精神世界に深く傾倒し、他人と全く違った嗜好をもつ人間性を育てたと言われている。

 

現役時代には物静かな人物で他人とあまり話をしたがらず、記者からの評判も悪かった。

 

マジック・ジョンソンも最初の数年間はコート外ではほとんど会話をしたことがなかったという。

 

その反面悪戯好きな性格でもあり時としてチームメートを悩ませた。

 

スリの名手でもあり、油断したチームメートが困惑することもあった。

 

チームメイトの服を取り替えたり、ハンカチやバッグを抜き取って隠しておいてチームメイトがあわてるのを楽しんでいたりしたという。

 

彼はジャズ音楽が大好きだった。

 

他の選手たちがロックやディスコミュージックを聴いているときにもいつも一人で違う音楽を聴いていたという。

 

また現役時代から何度も持病の偏頭痛に苦しんでいた。

 

しかし頭痛に苦しみながらもNBAファイナルで36得点をあげたこともある。

 

体調や私生活などのトラブルをプレーに影響させない精神力・集中力はマジック・ジョンソンも賞賛している。

 

偏頭痛に効果があるとしてカリフォルニア州の許可をもらってマリファナを治療のために使用していたが、現役引退後に空港でその所持でトラブルになり、逮捕されたことがある。

プレースタイル

Kareem Abdul Jabbar DOMINATES In the Playoffs! | Best Buckets From The NBA Vault!

大学時代、NCAAは彼が原因で試合中のダンクシュートを禁止したほど彼のゴール下でのダンクは誰も止めることができなかった。

 

そのために編み出されたのが有名なスカイフックというシュートだった。

 

ジャバーと言えばスカイフックといわれるほど彼の代名詞である。

 

通常のフックシュートはゴール近くの混戦の中からボールをゴールに押し込むために打つか、ゴール前に立ちはだかる相手選手にブロックされないために自分の体の幅を使い相手の頭上を越してゴールを狙う。

 

手を離れたボールはアーチ状の軌道をえがいてからゴールへ落下するが、スカイフックはゴールよりも高い位置から投げ下ろされるため、ブロックは不可能(シュートの際、ゴールよりも高い位置の落下するボールに触れたら反則となる)。

 

更にアブドゥル=ジャバーはこれを左右両方の手で打つことが出来た上にスカイフックを相当な遠距離からも楽々と決めることができた。

 

普通の選手ならジャンプシュートを使うようなペイントエリアの外側、ゴール下の人垣の外側から、パスをもらうとすぐさま振り向いてスカイフックを決められるので相手にすればこれほど止め難いプレーヤーはいなかった。

 

アブドゥル=ジャバーの長いプロキャリア、高いフィールドゴール成功率はスカイフックによって支えられていた部分が大きく、彼のトレードマークとも言える武器であった。

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