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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

ジーコ

サッカー

概略

ジーコがどんだけ凄かったかよくわかる動画!サッカーの天才です●ブラジル代表 鹿島アントラーズ Brazil legend ZICO Skills and Goals
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 1953年3月3日(67歳)
出身地 リオデジャネイロ州リオデジャネイロ
身長 172cm
体重 72kg

 

ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。

 

利き足は右。

 

愛称である「Zico」は「やせっぽち」の意味。

 

小柄な体格であり、しばしば「白いペレ」と呼ばれることもあったが、実力もペレ同様に高く、最も技術のあるフィニッシャー、最も優れたパサーの一人、1980年代初頭の世界一の選手とも評される

 

さらに、歴史上最も優れたフリーキックのスペシャリストの一人としても知られており、速いスピードで曲がるボールを蹴ることができた。

 

2004年3月には、ペレによる偉大な存命サッカー選手125人にも名を連ねた。

 

歴代最も偉大なサッカー選手と言われるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べた。

 

ブラジル代表では、72試合に出場し52ゴールを挙げており、ワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。

 

これらの大会では優勝を逃したが、1982年のブラジル代表は最も優れたブラジル代表の一つと言われている。

 

1982年ワールドカップスペイン大会では名将テレ・サンタナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。

 

技巧的なパスワークと攻撃力で世界を魅了した。

 

1981年と1983年に、雑誌「ワールドサッカー」は、世界最優秀選手に選んだ。

 

獲得タイトル

フラメンゴ
  • カンピオナート・カリオカ : 1972, 1974, 1978, 1979, 1979 (extra), 1981, 1986
  • カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA : 1980, 1982, 1983
  • コパ・ウニオン : 1987
  • コパ・リベルタドーレス : 1981年
  • トヨタカップ : 1981

個人タイトル

  • ブラジル最優秀選手 : 1974, 1982
  • 南米年間最優秀選手 : 1977, 1981, 1982
  • カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA得点王 : 1980, 1982
  • コパ・リベルタドーレス得点王 : 1981
  • トヨタカップ最優秀選手 : 1981
  • FIFAワールドカップベストイレブン : 1982
  • JSL2部得点王 : 1991-92
  • IFFHS選定20世紀世界最優秀選手 14位 1999
  • IFFHS選定20世紀南米最優秀選手 7位 1999
  • 英誌ワールドサッカー選定世界年間最優秀選手 : 1983
  • 英誌ワールドサッカー選定20世紀の偉大なサッカー選手100人 18位 1999
  • ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ得点王 : 1995
  • ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ最優秀選手 : 1995
  • フラメンゴ クラブ歴代最多得点記録(508得点)
  • マラカナンスタジアム歴代最多得点記録(333得点)
  • FIFA100 2004
  • ゴールデンフット賞 (all time legend) 2006
  • アントラーズ功労賞 2009
  • 日本サッカー殿堂 2016

 

経歴

Zico, o Galinho de Ouro [Goals & Skills]
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1971–1983 ブラジルの旗 CRフラメンゴ 635 (476)
1983–1985 イタリアの旗 ウディネーゼ 53 (30)
1985–1989 ブラジルの旗 CRフラメンゴ 97 (33)
1991–1994 日本の旗 住友金属/鹿島アントラーズ 64 (48)

 

代表歴
1976–1986 ブラジルの旗 ブラジル 94 (77)

 

クラブ

 

1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロのフラメンゴのユースチームのテストに合格し加入。

 

加入当初はテクニックは通用するが身長1m50cm、体重30kgの「やせっぽち」な体躯であることが致命的になり、思春期が終わり骨の成長が遅くなるのを待ってジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。

 

その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった結果、計画は成功。

 

兄二人の教えもありトレーニングメニューを次々と消化し、競り合いに負けない強靱な体格を手に入れた(サイボーグと比喩されたことも)。

 

その後、ユースチームで116試合81得点という記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。

 

前年、現夫人となるサンドラ(エドゥの妻の妹)と出会い交際開始。

 

4年後の1975年、結婚の目標だったアパートを購入しサンドラと結婚。

 

フラメンゴでは、10年以上に渡って在籍し中心選手としてプレーし、コパ・リベルタドーレス1981やトヨタカップ、4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で優勝した。

 

コパ・リベルタドーレス1981では得点を量産し、決勝のブレロア戦、1stレグで2ゴールを決めて勝利に貢献、2ndレグを0-1と落としたが、優勝決定戦となった3rdレグで2ゴールを決め、優勝に大きく寄与した。

 

同年トヨタカップではリヴァプールを3-0と破り優勝、ヌネスの2ゴールをアシストし大会MVPに選ばれた。

 

1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍、この移籍はフリウーリ地区のみならず、イタリア国内でも大騒動となり、イタリアサッカー協会により移籍が合法的に行われたかの調査が行われた。

 

8月21日のコッパ・イタリア、グループリーグのボローニャ戦で移籍後初ゴールを決め、9月12日、セリエA開幕節のジェノア戦で2ゴールを挙げ鮮烈なイタリアデビューを飾り、更に第2節のカターニャ戦でも2ゴールを決め、その後、更に2試合連続ゴールとセリエA開幕戦から4試合連続ゴール(合計6ゴール)を決めた。

 

ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(怪我の影響で20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)。

 

これらの活躍によってサポーターの人気を集めた。

 

1984-85シーズンは怪我での離脱、長期の出場停止があったが、3月31日のインテルで約半年振りのゴールを決めると、次節のユベントス戦でもゴールを決めたが、契約の問題で、このシーズンを最後にイタリアを去ることとなった。

 

また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。

 

ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。

 

1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。

 

フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。

 

1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受けると、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。

 

引退イベントも既に終えて年齢的に再び選手として走る気は無かったが、ゼロからプロサッカークラブを築くという話に魅力的なものを感じたジーコは住友金属と契約し来日。

 

鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。

 

その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成されていた。

 

しかし当の本人は、練習場へは電車で通勤し、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と、おもむろに自分のシューズの手入れを始めるなどジーコのストイックな姿勢に周囲は唖然とする。

 

また、自分から線審を買って出てジャッジとプレーの関連を指導するなど、周囲のお祭り騒ぎとは裏腹に本人は暗中模索で日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心しており、練習後に「僕は一体何をしてるんだ」と自問し嘆息し、また翌日には溌剌と練習に参加して終わったらまた頭を抱えて呻くという日々を繰り返していた。

 

1992年10月11日のJリーグカップ、サンフレッチェ広島戦ではハットトリックを決めた。

 

1993年のJリーグが開幕前にして、サントスの他にもう一人外国人の戦力補強が必要だと考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。

 

イタリア遠征を行うが、セリエAのチームに次々敗北、クロアチア戦では1-8と大敗、帰国後、鹿島スタジアムのこけら落としとなった、フルミネンセFCとの親善試合で、ジーコは鹿島スタジアム第1号となるゴールを決め、勝利した。

 

迎えた開幕初戦、名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した。

 

2節以降は怪我で欠場、6月23日ヴェルディ川崎戦で復帰したが、またも怪我で欠場したものの、アントラーズは1stステージ制覇。セカンドステージでは13試合6ゴールの成績を残し、天皇杯の2回戦、東北電力戦ではヒールボレーでその後も称賛され続けるゴールを挙げた。

 

しかしチャンピオンシップ、ヴェルディ川崎戦の2ndレグでは退場処分となった。

 

1994年第1ステージは怪我の影響で5月14日サンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日ガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め、最後の3試合となった6月8日浦和レッズ戦、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴール、現役最後の公式戦となった6月15日ジュビロ磐田戦(決勝ゴール)と3試合連続ゴールを決めた。

 

引退試合として古巣フラメンゴが訪日しアントラーズと試合を開催したが、出場はせず試合終了後、特別企画として現役ラストシュートをゴールに放ち、観客に披露した。

 

7月23日のJリーグオールスターサッカーに先発フル出場したのを最後に、ブラジルへ帰国したが、1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。

 

また、プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いている。

 

1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。

 

以降、このCFZ運営資金の為に、監督業に本格的に乗り出した。

 

代表

 

1976年2月25日のウルグアイ代表との親善試合にブラジル代表として初選出され、その試合で得意のFKからゴールを決めるデビューを果たし、次の29日アルゼンチン代表との親善試合でもゴールを決めた。

 

FIFAワールドカップには1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。

 

初のワールドカップ出場となった1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場(フル出場は同試合のみ)。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消された(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)。

 

2次リーグのペルー戦ではゴールを決めたが、監督との確執もあって3位決定戦となったイタリア戦でも出番を得られないなど、不本意な大会となった。

 

1982年、FIFAワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンタナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目された。

 

1次リーグでは第2戦のスコットランド戦で1ゴール、第3戦のニュージーランド戦で2ゴールを決め、2次リーグに進出、アルゼンチン戦では1ゴールを決めて勝利、最終戦でのイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマンマークにあう。

 

5分にイタリアのパオロ・ロッシに先制されたブラジルは12分、ハーフウェイラインを超えドリブルして来たソクラテスがジーコにスルーパスを出すと、ジーコはクラウディオ・ジェンティーレのマークをターンで外し、そのままゴールに走り込んだソクラテスにリターンのスルーパスを出し、同点ゴールをアシストした、しかし2-2で迎えた75分、ブラジルはDFのミスからロッシに3点目を決められ、2次リーグ敗退(現在の規定でベスト8相当)、しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられている。

 

1986年、FIFAワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングー戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。

 

最後のワールドカップはグループリーグ最終戦の北アイルランド戦、ラウンド16のポーランド戦でいずれも途中出場、準々決勝のフランス戦では交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げることは出来なかった。

エピソード

日本サッカーの神様 ジーコ プレー集

 

2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれた。

 

ブラジル国民の大半がインターネットなどで投票し、2位のロナウドとはダブルスコアの大差であった。

 

これは、攻撃的MFとしてプレーしながらロマーリオに次ぐブラジル歴代代表4位の66得点(88試合)の記録を持つことも1位に選ばれた要因のひとつと考えられている。

 

また、日本代表の親善試合でイギリス遠征中、ジーコやスタッフの待機する控え室にベッカムが「少年時代のヒーローだった」と正装姿で訪問したり、ブラジル代表のアドリアーノがパルマでのチームメイトだった中田英寿に「ジーコのサインが欲しい」と交渉したりと、現代のスーパープレイヤー達も崇拝する名実共にサッカー界の英雄であり、その知名度ゆえ各国のメディアに対する発言力も大きい。

 

選手として日本に来日した当初は周囲とのレベルの違い(当然他の選手はアマチュアであり、ジーコとは大きな落差があった)に、練習後車の中で「俺は何をやっているんだ…」と葛藤したかと思うと、翌日になると「さあ、頑張るぞ!」と張り切るという様子を繰り返していたという。

 

ジーコが加入した当時の住金サッカー部は選手たちのアマチュア意識が抜けなかった。

 

そのため夕食後に寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードを買いこんでくる選手たちが多かった。

 

ジーコは彼らにプロ意識を叩きこむため、毎晩選手寮の出入りを見張り、「プロ選手のカラダ造りに菓子は必要ない」と選手たちのジャンクフードを没収。

 

当時、選手寮の玄関脇で飼っていた雌犬(名前はヒメ)にそれらを次々と食べさせていた。

 

毎晩のようにジャンクフードを与えられていたヒメは丸々と太ってしまったが、その様子を見てジーコは「お前ら選手のおかげで、可愛かったヒメがこんなに太ってしまった」とまた選手たちを叱責した。

 

ブラジルは、サンバやボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。

 

1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。

 

ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーチストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。

 

エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。

 

ロベルト・バッジョは幼少の頃ジーコに憧れ、フリーキックの蹴り方を真似ていた。

 

またバッジョから、自身のフリーキックの精度向上のため、フリーキックを蹴る映像を送って欲しいと依頼され、ジーコは自ら多くの時間を割いて、映像を編集したビデオを送付した。

プレースタイル

ジーコ スーパープレイ集

ブラジルスタイルの抜群のテクニックを持ち、ドリブル、パス、シュートの三拍子を持ち合わせた1980年代の代表的な10番。

 

右足から繰り出される長短のパスの正確さは世界最高峰で、前線に張る選手、背後から飛び出す選手を問わず、絶妙のタイミングでパスを飛ばす。

 

無論プレースキックも大きな武器だった。

 

また、得点能力はFWを凌駕するほどで、FWの後ろから飛び込むダイレクトプレーを始め、常に得点を狙う攻撃的MFとして活躍した。

 

身体能力の面では計画的なフィジカル強化によって、強靭な肉体も併せ持っていた。

 

元ジェフ市原のDFとして対戦経験もある宮澤ミシェル曰く「ボールの捨て方もうまかった選手」。

 

これは、エースであるジーコには相手選手の何人もの激しいプレッシングが襲いかかり、ボールを回さざるを得なくなること場面も多々あったが、ジーコはボールをそのまま下げるより、むしろ無理な体勢からでも相手バックラインの隙間を狙ったスルーパスを狙い、結果的に走り込んだFWやサイドMFへのアシストにつながることが多かったからである。

 

サッカー史でも最高レベルのテクニックを持っているものの「テクニックはロナウジーニョのほうが上だ。しかし勝利に結びつくプレーは自分の方が上だ」と自己評価するように、ロナウドやマラドーナのような個人技が主の選手ではなく、味方を活かすプレー選択の確かさと敵の弱点を瞬時に見抜く卓越した戦術眼や、得点に結びつく動きの質の高さに最大の特徴がある。

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