ディエゴ・マラドーナ

概略

国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 1960年10月30日(59歳)
出身地 ラヌール
身長・体重 165cm、67kg

 

ポジションはフォワード(セカンドトップ)またはミッドフィルダー(オフェンシブハーフ)。

 

利き足は左。

 

「神の子」の異名を持つ。

 

ペレ、ヨハン・クライフ、フランツ・ベッケンバウアー、アルフレッド・ディ・ステファノ、ジーコなどと共に20世紀のサッカー史に名を残すスター選手である。

 

アルゼンチン・リーグ史上最年少でプロデビューし、ボカ・ジュニアーズを経て欧州に渡った。

 

FCバルセロナではさまざまな問題に悩まされたが、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回の立役者となり、「ナポリの王様」としてファンに愛された。

 

引退から時間が経った現在でも彼の信奉者はファン、選手、サッカー関係者を通じて多く特にアルゼンチンでは彼を「神の子」と崇拝する宗教が生まれ、ナポリでは旧市街に彼を讃える祭壇が設けられているほどであり、自らのキャリアを汚す薬物スキャンダルなどもあったが、人間的な魅力に溢れた彼を愛する人間も多い。

 

「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは彼を象徴するプレーとして後世に語り継がれている。

 

選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後は入退院を繰り返した。

 

獲得タイトル

代表

U-20アルゼンチン代表
  • FIFAワールドユース選手権 : 1回 (1979)
アルゼンチン代表
  • FIFAワールドカップ : 1回 (1986)
  • アルテミオ・フランキ・トロフィー : 1回 (1993)

クラブ

ボカ・ジュニアーズ
  • アルゼンチンリーグ : 1回 (1982)
FCバルセロナ
  • コパ・デル・レイ : 1回 (1983)
  • コパ・デ・ラ・リーガ : 1回 (1983)
  • スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1回 (1983)
SSCナポリ
  • グエリン・ドーロ : 1回 (1985)
  • コッパ・イタリア : 1回 (1986-87)
  • セリエA : 2回 (1986-87, 1989-90)
  • UEFAカップ : 1回 (1988-89)
  • スーペルコッパ・イタリアーナ : 1回 (1990)

個人

  • FIFAワールドユース選手権最優秀選手 : 1回 (1979)
  • FIFAワールドカップ最優秀選手:1回 (1986)
  • アルゼンチンリーグ得点王 : 2回 (1978M, 1979M, 1979N, 1980M, 1980N)
  • セリエA 得点王 : 1回 (1987-88)
  • 南米年間最優秀選手賞(エル・ムンド紙): 6回(1979, 1980, 1986, 1989, 1990, 1992)
  • 記者選出アルゼンチン最優秀サッカー選手賞 : 4回 (1979, 1980, 1981, 1986)
  • 記者選出アルゼンチン最優秀スポーツ選手賞 : 1回 (1986)
  • 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌): 1回 (1986)
  • オンズドール : 2回 (1986, 1987)
  • 20世紀の偉大なサッカー選手100人2位(ワールドサッカー誌)(1999)
  • 記者選出20世紀アルゼンチン最優秀スポーツ選手賞 (1999)
  • FIFA20世紀最優秀選手(2000)
  • ゴール・オブ・ザ・センチュリー(2002)
  • ゴールデンフット賞All Time Legend (2003)
  • FIFA100 (2004)

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1976-1982 アルゼンチンの旗 アンヘンティノス・ジュニアーズ 166 (116)
1981-1982 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 40 (28)
1982-1984 スペインの旗 バルセロナ 36 (22)
1984-1991 イタリアの旗 ナポリ 188 (81)
1992-1993 スペインの旗 セビージャ 26 (5)
1993-1994 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ・オールドボーイズ 5 (0)
1995-1997 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 30 (7)

 

代表歴
1977-1979 アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20 24 (13)
1979-1994 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 91 (34)

 

クラブ

 

13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念し、1974年にAAアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし、15歳の誕生日にはクラブからアパートが提供された。

 

在籍時にはエル・ピベ・デ・オロ(El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ)という愛称を授かった。

 

1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11カ月でタジェレス・デ・コルドバ戦に初出場し、同年11月14日のCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦でプロ初ゴールを決めた。

 

プリメーラ・ディビシオン(国内1部リーグ)のナショナルリーグで1979年、1980年に得点王を獲得。

 

1979〜1981年にアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年〜1980年に南米年間最優秀選手賞を受賞した。

 

1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。

 

4月10日のスーペルクラシコではボカの全3得点を挙げる活躍でCAリーベル・プレートを下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった。

 

この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化し、また彼は20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場していたことから疲労がピークに達していた。

 

 

1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍することで合意に達した。

 

1982年6月4日、FCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた。

 

カンプ・ノウで行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた。

 

1982-83シーズン序盤のバルセロナダービーでは試合唯一となる得点を決め、その2日後のUEFAカップウィナーズカップ2回戦・レッドスター・ベオグラード戦では2得点を決めて華々しいスタートを切ったが、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でホセ・ルイス・ヌニェス会長との関係が悪化し始めた。

 

ウイルス性肝炎や鬱状態などの病気に悩まされリーグ4位となったが、コパ・デル・レイ決勝でレアル・マドリードに2対1で優勝を手にした。

 

1983-84シーズン、セサル・ルイス・メノッティが監督に就任し、9月のハビエル・クレメンテ率いるアスレティック・ビルバオ戦でアンドニ・ゴイコエチェアからタックルを受けて左膝腱を損傷し、3ヵ月欠場の深手を負い、わずか勝ち点1差でビルバオに優勝を逃してしまう。

 

また、コパ・デル・レイ決勝のビルバオ戦でも度重なる激しいマークに遭い、0対1で得点のチャンスを逃した。

 

試合直後に度重なるマークに激怒し、ジャージ姿の相手選手の顔面を膝蹴りして気絶させ、乱闘騒ぎを起こしたことが決定打となり、ヌニェス会長との関係が最悪な状態にまで陥り、その後スペインサッカー連盟から3ヵ月間出場停止を言い渡される。

 

そこで副会長でヌニェス会長の右腕でもあるジョアン・ガスパールがクラブに留まる気があるかを尋ね、「残留するのなら、会長との仲を取り持つ」と5年の契約延長を提示したが、マラドーナがそれを拒否、クラブは放出の断を下した。

 

1984年6月29日、イタリア・セリエAのSSCナポリへの移籍が実現し、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルがFCバルセロナに支払われた。

 

7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見にはヘリコプターからピッチに降り立つパフォーマンスで登場し、7万人のサポーターが駆け付けたこの日の入場料収益は7000万リラに上った。

 

彼はこの時、ナポリが前年まで残留争いを繰り広げるような弱小チームだとはまったく知らなかった。

 

サポーターから「ナポリの王」と呼ばれて愛され、シーズンチケットが瞬く間に売れたことから、莫大な移籍金および給料を払ってもなおクラブの財政は潤った。

 

1984年8月22日コッパイタリア、SSアレッゾ戦でゴールを決めるデビューを飾り、9月22日2節UCサンプドリア戦でセリエA初ゴールを決めた。

 

マラドーナとブルーノ・ジョルダーノ、カレカの攻撃トリオは頭文字からマジカ(Ma・Gi・Ca、魔法)と呼ばれ、クラブの黄金時代を築き上げた。

 

1984-85シーズンはリーグ8位、14得点を決めて得点ランキング3位に入り、1985-86シーズンはチームをリーグ3位に押し上げた。

 

1986-87シーズンはクラブ史上初のセリエA優勝を飾り、コッパ・イタリアとの2冠を達成。

 

これまで北部の2チーム(トリノ、ユベントス)しか達成していない国内2冠を南部のナポリが達成できたことを非常に誇りにしていると自伝で語っている。

 

代表でのワールドカップMVPの活躍と合わせて世界最優秀選手賞に選ばれた。

 

一方で、愛人がマラドーナの子どもを出産したシナグラ事件(後述)などもあって気分が不安定で、子どもの認知を渋ったために地元メディアから攻撃された。

 

1987-88シーズンには15得点を決めてアルゼンチン人として初のセリエA得点王に輝き、1988-89シーズンにはUEFAカップを制覇した。(準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦ではファーストレグ、セカンドレグ共に2アシストずつを決め、決勝シュッツガルト戦ファーストレグでゴールを決めると、セカンドレグではフェラーラとカレカのゴールをアシストした。)

 

1988年以降は負傷で試合を欠場する頻度が増え、監督やクラブ会長との確執も取り沙汰された。

 

1990 FIFAワールドカップを控えた1989-90シーズンは2度目のセリエA優勝を飾った。

 

1990年から1991年にかけて、麻薬使用やマフィアとの関連が報道されてマスコミから集中砲火を浴び、1991年3月24日26節のUCサンプドリア戦に出場しゴールを決めた後、イタリアサッカー連盟から15ヵ月間の出場停止処分を受けた。

 

喧嘩別れのような形になったが、後にSSCナポリはマラドーナの功績を称えて彼の背番号10を永久欠番とした。

 

SSCナポリ時代には税金を滞納し、税務局から3700万ユーロ(約40億円)もの支払いを求められており、イタリアに入国する際にはその都度金品を没収されている。

 

 

1991年にはJリーグ発足に向けて補強を進めていた名古屋グランパスエイトへ、年俸や契約金を併せ総額15億円という契約で加入がほぼ内定していた。

 

交渉は順調に運び、残すは名古屋の親会社であるトヨタ自動車の決定を待つのみであったが、決まりかけた日本行きはマラドーナのコカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。

 

その後、FIFAが移籍交渉に介入したこともあり、1992年9月にスペインのセビージャFC移籍が決定した。

 

チケットの売り上げという点ではクラブに貢献したが、荒んだ生活や怠慢な練習態度などからカルロス・ビラルド監督と対立し、26試合に出場してわずか5得点しか挙げることができなかった。

 

1993年6月のレアル・ブルゴスCF戦で後半開始早々に交代を指示され激怒し、アルゼンチンに帰国した。

 

1993年10月、セビージャFCとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズに移籍した。

 

アルフィオ・バシーレ監督によってアルゼンチン代表にも復帰したが、契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇された。

 

1994 FIFAワールドカップのドーピング違反でFIFAから再び15ヵ月間の出場停止処分を受け、処分期間中は国内2チームの監督を務めた。

 

1995年10月、14年ぶりにボカ・ジュニアーズへ復帰。

 

髪にボカのシンボルカラーである金色のメッシュを入れてプレーした。

 

1996年にはリーグ戦で5本連続してPKを失敗し、引退騒動を起こした。

 

スイスでの薬物依存症治療を経てボカと再契約し、1997年7月には公式戦に復帰した。

 

同年10月25日のスーペルクラシコへの出場を最後に、自身の37歳の誕生日となる10月30日に現役引退を発表した。

 

代表

プロデビューから間もなくアルゼンチン代表に招集され、1977年2月16日、ハンガリーとの親善試合に途中出場し、フル代表の最年少出場記録を樹立した。

 

翌年に地元開催された1978 FIFAワールドカップには最終候補の25人に残りながら、「経験不足」という理由により大会登録メンバーから外れた。

 

マラドーナはこの落選を「人生に永遠に残る、決定的な、一番大きな失望だった」と語る。

 

1979年6月2日、スコットランドとの親善試合で代表初ゴールを決めた。

 

20歳以下代表チームのキャプテンとして、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権に出場。6試合中5試合で6ゴールを決め、ワールドユース初優勝に貢献した。

 

チームメイトのラモン・ディアスが8ゴールを挙げてゴールデンシューズ賞(得点王)となり、マラドーナはゴールデンボール賞(MVP)に選出された。

 

圧倒的な攻撃力をみせたアルゼンチンユース代表について、マラドーナは「文句なしに、自分のキャリアの中で一番素晴らしいチームだった」と語る。

 

アルゼンチン代表は1978年大会優勝メンバーにマラドーナ、ディアスらユース世代を加え、1982 FIFAワールドカップに出場した。

 

21歳のマラドーナは10番を付けて出場し、第1ラウンド2戦目のハンガリー戦でワールドカップ初ゴールを含む2得点を挙げた。

 

第2ラウンド初戦イタリア戦では「殺し屋」ことクラウディオ・ジェンティーレに徹底的にマークされた。

 

続くブラジル戦では味方選手がファウルを受けた際、バチスタの下腹部を蹴り、報復行為でレッドカードを受けた。

 

マラドーナはブラジルの「黄金の中盤」のパス回しに翻弄されており、本当はパウロ・ロベルト・ファルカンに対して怒っていたと述べている。

 

チームは1-3で敗れ、大会を去ることになった。

 

1985年5月に約3年ぶりに代表に復帰。カルロス・ビラルド監督はマラドーナをキャプテンに指名し、その個人能力を活かすチーム作りを行った。

 

マラドーナは右膝に負傷を抱え、チームの成績も芳しいものではなく、当時のチームはメディアから「史上最弱」と酷評されていたが、1986 FIFAワールドカップが始まると一転して華々しい活躍を見せた。

 

グループリーグ初戦韓国戦ではチームの3ゴールすべてをアシスト。

 

イタリア戦ではボレーで同点ゴールを決め、ブルガリア戦でも1アシストを記録した。

 

準々決勝のイングランド戦試合前には3年前のフォークランド紛争(マルビナス戦争)の因縁もあって両国メディアの舌戦が続いたが、その試合はいわゆる「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルを記録した試合として知られている。

 

後半4分、ペナルティエリアに走りこんだマラドーナと浮き玉を処理しようとした相手GKピーター・シルトンと交錯したが、マラドーナは空中のボールを素早く左手ではたき、ボールはそのままゴールインした。

 

シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判は彼の得点を認めた。

 

その4分後にはセンターライン付近でパスを受けると単独で60m近くドリブルし、5人を抜いて無人のゴールにボールを蹴りこんだ。

 

前者の得点については「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」という趣旨の発言をしたことから「神の手」ゴールという呼称が広まった。

 

2007年には後者の得点がイギリスのワールドサッカー誌によって史上最優秀得点に選ばれた。

 

準決勝のベルギー戦でも2得点を挙げ、決勝の西ドイツ戦ではローター・マテウスのマークにあいながらも、ホルヘ・ブルチャガに絶妙なラストパスを供給し、決勝点をアシストした。

 

大会中チームの総シュート数のうち約半分を放ち、全14得点のうち5得点5アシストを記録。

 

アルゼンチンを2度目のワールドカップ優勝に導いた事から大会最優秀選手に選ばれ、同大会は「マラドーナのための大会」と呼ばれた。

 

 

1990 FIFAワールドカップは本大会では不調といわれながらもグループリーグ全試合に出場し、ソビエト連邦戦では自陣ペナルティエリア内で手を使ってシュートを防ぐ2度目の「神の手」を見せた。

 

決勝トーナメント1回戦のブラジル戦では、ドリブルで相手4人を引きつけながら右足でクラウディオ・カニーヒアへ絶妙のパスを送り、決勝ゴールをお膳立てした。

 

準決勝は所属クラブの本拠地ナポリで、開催国イタリアと対戦した。

 

試合前にイタリアファンを煽るような発言をしたことや、PK戦で最後に蹴って勝利を決めたのがマラドーナであったことから、イタリア国民やSSCナポリファンとの関係が悪化した。

 

決勝の西ドイツ戦ではアルゼンチンの国歌吹奏に場内から大ブーイングが浴びせられ、マラドーナはカメラに向かって「イホス・デ・プータ(英語の『サノバビッチ』に相当する侮蔑語)」と吐き捨てた。

 

試合ではギド・ブッフバルトのマークに沈黙。

 

敗戦後は人目をはばからず号泣し、イングランド代表のポール・ガスコインが準決勝で流した涙とともに人々に記憶されている。

 

薬物使用によるブランクを経て、1993年2月に代表復帰。

 

アルフィオ・バシーレ監督はマラドーナ抜きのチーム編成を進めていたが、南米予選コロンビア戦で完敗したため、オーストラリアとの大陸間プレーオフでレギュラー復帰が実現した。

 

1994 FIFAワールドカップでは再びキャプテンに就任し、カニーヒアやガブリエル・バティストゥータと強力な攻撃陣を組んだ。

 

1次リーグ緒戦のギリシャ戦では豪快なミドルシュートでワールドカップ通算8ゴール目を決め、ナイジェリア戦でも好調なプレーを見せた。

 

しかし、試合後のドーピング検査で尿から使用禁止薬物が検出され、大会からの即時追放と15ヵ月の出場停止処分を受けた。

 

このニュースは世界中に衝撃を与え、選手としての華々しい代表経歴を閉じることになった。

エピソード

自身と同じスラム街に生まれて偉大なサッカー選手になったペレには幼少期から憧れを抱いており、1978年にはペレを訪ねて話をするためにリオデジャネイロ巡礼の旅に出た。

 

1979年ワールドユース選手権南米予選で活躍したことでブラジルメディアがマラドーナのことを「ペレ以来の逸材」と称賛した。

 

1982年ワールドカップで失望しか残せなかったことからペレ本人に批判され、この後は彼に対して嫌悪感情を抱くようになった。

 

折に触れて互いを批判し合っているが、『10番の夜』にペレがゲスト出演し、ペレとマラドーナのどちらが偉大だったか聞かれた際には「私の母は私だと言うし、ペレの母はペレだと言うだろう」と模範解答を答えた。

 

ペレとはしばしば比較される。

 

2000年にはFIFAによる20世紀最優秀選手が発表されることになったが、FIFA公式サイトによるインターネット投票ではマラドーナが1位(ペレが2位)の得票を得たのにもかかわらず、FIFAの役員を始めとしたサッカー関係者による投票では3位(ペレが1位)にとどまり、双方の結果に対しブラジルとアルゼンチンの両国間で激しい論争となった。

 

FIFAは最終的にペレをFIFA選考委員会による最優秀選手とし、マラドーナはインターネット投票による最優秀選手として賞を分け合うことに決めた。

 

FCバルセロナ時代にはコカイン使用疑惑が浮上した。

 

クラブ役員によって隠蔽工作が行われたために在籍時には明るみにされなかったが、1996年1月に「私が初めてコカインを試したのはバルセロナにいた1982年だ」と自白した。

 

1986 FIFAワールドカップでマラドーナは3度のドーピング検査を受け、いずれも陰性と診断されたが、アルゼンチン代表の不正薬物使用疑惑は大会期間中常に付きまとった。

 

1991年3月17日、ASバーリ戦後のドーピング検査でコカインが検出され、イタリアサッカー連盟から15ヶ月間の出場停止処分を下された。

 

同年4月にはブエノスアイレス市内でコカイン使用容疑により逮捕された。

 

彼はのちに「ナポリでは麻薬はいたるところにあり、ウェイターがトレーに乗せて持ってくるように簡単に手に入った」と述べている。

 

1991年4月からは精神科医をともなったリハビリ作戦が進められ、限られた者しか面会できない状態で数ヶ月にも渡って治療が行われた。

 

1994年には、それ以前に犯した麻薬の使用を理由にキリンカップサッカーアルゼンチン代表としての日本入国を拒否された(アルゼンチン代表も来日を中止)。

 

ボカ・ジュニアーズでプレーしていた1997年8月にはまたもやコカインの陽性反応が出て、医師に「薬物の使用を続ければ命が危ない」と告げられた。

 

現役引退後も、2000年のトヨタカップでは再び来日を拒否されたが、2002 FIFAワールドカップでは「アルゼンチン観光・スポーツ庁長官特使」という肩書きで特例措置を認められ、横浜国際総合競技場で行われた決勝戦を観戦した。

 

1990 FIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦のブラジル戦では1アシストを決めて勝利したが、敗れたブラジルが「試合中にマラドーナからブランコに渡されたコップの水に薬が入っていた」と主張した。

 

後年のバラエティ番組でマラドーナ自身が給水ボトルに睡眠薬を混ぜていたことを暴露した

 

その後、当時代表監督のカルロス・ビラルドが番組のインタビューで「やったともやらなかったとも言えない・・・。」と曖昧な発言をしたことで騒動に拍車が掛かり物議を醸した。

 

1994年の1994 FIFAワールドカップでは2戦目のナイジェリア戦後に受けたドーピング検査でエフェドリンを含む5種類の禁止薬物が検出され、特に国外のメディアから強い非難を受けた。

 

マラドーナが政治的利用価値の高い選手であることから、彼に対するペナルティの軽重にはFIFAの内部でもさまざまな意見があったが、大会の残り試合への出場停止処分が下された。

 

その2ヶ月後の8月24日には「意図的に薬物を使用したとは認められず、薬物の構成成分が何であるかも全く知らなかった。しかし、そのような事情はあっても、マラドーナはFIFAのドーピング・コントロールに関する規則に違反している」として15ヶ月間の出場停止処分と2万フラン(約150万円)の罰金が課された。

 

マラドーナは個人トレーナーがアメリカで購入した減量用サプリメント「Ripped Fuel」にハーブの一種が含まれており、そこから微量のエフェドリンが検出されたと説明し、故意の使用を否定している。

プレースタイル

 

身長は160cm台半ばと小柄でずんぐりとした体格であるが、足が非常に速く、フィジカルが強靭でボディバランスと洞察力に優れ、卓越したテクニックとパスセンスを持っている。

 

ほとんどすべてのプレーを左足一本で行い、前述の「五人抜き」ドリブルの際も左足しかボールに触れていない。

 

圧倒的な個人能力を持っている。

 

類稀な得点能力を持っており、フリーキックも得意である。

 

風間八宏は当時のマラドーナについて「顔の前に1メートル四方の空間を確保できれば、マラドーナにとってフリーといえる」と語った。

 

足にボールがくっついているかのようなボール捌き。

 

瞬時に相手を置き去りにする驚異的なダッシュスピード。

 

大きな相手に対しても当たり負けしない強靱なフィジカル。

 

一本のパスで局面を変えてしまう正確すぎるパス。

 

寸分の狂い無くゴールに吸い込まれるフリーキック。

 

マラドーナは天然のファンタジスタで、感覚派のプレースタイルだった。

 

現在でもマラドーナほどマジカルなプレーをしてゴールできる選手は他にはいないと言われています。

 

マラドーナのプレーは繊細かつスピーディーだけにはとどまらず曲芸的だった。

 

そしてその曲芸は単にテクニックを披露するためのものではなくマラドーナが効率的にゴールするための動きで、どれもゴールという結果に結びついているものですのでなおさら驚きです。

 

マラドーナのボールタッチの基本はリフティングで、そのテクニックが存分に試合中に自然と出ていた。

 

例えば、足の腿だけでなくアウトサイドや踵だけでリフティングなんてしたり… などなど

 

ここまで天才的なプレーとなってくると、もはやサッカーボールとは一心同体です。

 

そして即座に思い付いた技術を試合中に生かす即興が凄く多いことでもあって、そのためかゴール集が頭一つ飛びぬけて多いです。

 

プレースタイルという決まった型に囚われず、なおかつ攻撃の技術をすべて備えている自由なプレーをする選手だった。

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