概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1945年9月11日(74歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 181cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはデフェンダー(リベロ)。
利き足は右。
現役時代はリベロ(攻撃に参加するスイーパー)システムを確立させ名声を得た人物である。
背筋を伸ばし、常に冷静沈着で、DFながらエレガントなプレーでチームを統率し、ユーティリティープレイヤーとしても、見事なリーダーシップを発揮し、ピッチ上で味方の選手達を操る姿と、『神よ、皇帝フランツを守り給え』に詠われたオーストリア皇帝フランツ1世(最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世)と同じファーストネームであることから、「皇帝(カイザー)」と呼ばれた。
ワールドカップ制覇やUEFAチャンピオンズカップ制覇など様々な偉業を成し遂げた。
獲得タイトル
- バイエルン・ミュンヘン
- ブンデスリーガ : 1968-69, 1971-72, 1972-73, 1973-74
- DFBポカール : 1965-66, 1967-68, 1968-69, 1970-71
- UEFAチャンピオンズカップ : 1973-74, 1974-75, 1975-76
- UEFAカップウィナーズカップ : 1966-67
- インターコンチネンタルカップ : 1976
- ハンブルガーSV
- ブンデスリーガ : 1981-82
- ニューヨーク・コスモス
- 北米サッカーリーグ : 1977, 1978, 1980
- 西ドイツ代表
- FIFAワールドカップ : 1974
- UEFA欧州選手権 : 1972
個人タイトル
- バロンドール : 1972, 1976
- FIFAワールドカップベストヤングプレイヤー : 1966
- ドイツ年間最優秀選手賞 : 1966, 1968, 1974, 1976
- シルバーネス・ロールベブラット : 1966, 1967
- 世界最優秀監督(ワールドサッカー誌): 1990
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 4位(ワールドサッカー誌)
- 国際サッカー歴史統計連盟20世紀世界最優秀選手 3位 (1999年)
- 国際サッカー歴史統計連盟20世紀欧州最優秀選手 2位 (1999年)
- FIFA100
- ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章(Verdienstkreuz am Bande) : 1976
- ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章(Verdienstkreuz 1. Klasse) : 1986
- ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章(Großes Verdienstkreuz) : 2006
- バイエルン州功労勲章 : 1982
- ニーダーザクセン州一等功労勲章 : 2008
- ノルトライン=ヴェストファーレン州功労勲章 : 2009
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1964-1977 | ![]() |
427 | (60) |
1977-1980 | ![]() |
105 | (19) |
1980-1982 | ![]() |
28 | (0) |
1983 | ![]() |
27 | (2) |
代表歴 | |||
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1964 | ![]() |
3 | (3) |
1965 | ![]() |
2 | (0) |
1965-1977 | ![]() |
103 | (14) |
クラブ
1964年、バイエルン・ミュンヘンの会長を務めるヴィルヘルム・ノイデッカーの推薦もあってトップチームに昇格しプロ契約を締結。
しかし少年時代から選手としての優れた資質を発揮する一方で未熟な体躯であったことから、指導者からは「素質はあるがファイターではない」と評されていた。
ベッケンバウアーがバイエルンのトップチームに昇格した当時、クラブは中堅クラスの実力を有していたが、最上位リーグであるブンデスリーガに所属するトップレベルのクラブとの実力差は歴然としていた。
また同じ都市を本拠地とする1860ミュンヘンというライバルクラブが大衆的なクラブとして人気を得ており、先にブンデスリーガ入りを果たしていたことや西ドイツ代表選手を数人有していたこともあり実力の面でも差を付けられていた。
監督のズラトコ・チャイコフスキはベッケンバウアーに「君はクルップ社のような鉄になれる素材だが、今は生クリームのようだ。それでは、いくら優れたボールテクニックを身に付けていても何の意味もない」と評し、フィジカルを向上させるための様々なトレーニングを課して、選手としての成長を促した。
チャイコフスキーはベッケンバウアーの他にもGKのゼップ・マイヤーやFWのゲルト・ミュラーといった10代の有望な若手選手を育成し後の成功に至る基盤を築くことになった。
同年6月6日、1963-64シーズンブンデスリーガ昇格ラウンド第3節のFCザンクト・パウリ戦でトップチームにデビュー。
ベッケンバウアーは左ウイングとしてスタメン出場を果たし4-0と勝利を収めデビュー戦を飾った。
同年9月、1964-65シーズンレギオナルリーガ南部開幕戦のMTVインゴルシュタット戦でリーグ初得点を記録すると、その後はポジションをフォワードから中盤に下げ、マイヤーやミュラーらと共にブンデスリーガ1部昇格に貢献。昇格初年度の1966年にはDFBポカールを制すると翌年も連覇。
1966-67シーズンにはUEFAカップウィナーズカップ優勝、1968-69シーズンにはブンデスリーガ初優勝に貢献した。
ベッケンバウアーの貢献度の高さからファンからはバイエルンミュンヘンの事を「FCベッケンバウアー」、イギリスのサッカージャーナリストからは「ベッケンバウアー株式会社」と呼ぶようになった。
1970年代に入るとドイツ国内ではヘネス・バイスバイラーが監督を務めるボルシア・メンヒェングラートバッハ(以下ボルシアMG)との2強時代に突入した。
ベッケンバウアー擁するバイエルンは、ギュンター・ネッツァーやベルティ・フォクツらといった選手を擁して攻撃的なサッカースタイルを標榜したボルシアMGとの間で鎬(しのぎ)を削ったが、1971-72シーズンからリーグ3連覇。
国際舞台においても1972-73シーズンからUEFAチャンピオンズリーグ3連覇を達成。
1976年のインターコンチネンタルカップ優勝などの実績を残した。
自身も西ドイツ代表での活躍もあってバロンドール受賞2回(1972年、1976年)、ドイツ年間最優秀選手賞を4回(1966年、1968年、1974年、1976年)を受賞した。
1977年5月、北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスへ移籍。
同年限りでの引退を表明していたペレの後継者を探していたコスモス側からのオファーを受けたもので、契約期間は4年、移籍金は250万ドル(当時の金額)とも言われた。
コスモスではリベロではなく中盤でプレーをし、同年のサッカーボウル(北米リーグチャンピオン決定戦)で優勝。
選手投票によるリーグMVPにはペレを抑えベッケンバウアーが選出された。
ペレの引退もあって翌年は優勝を逃したものの、1979年と1980年にはサッカーボウル連覇を果たし米国での人気を不動のものとした。
一方でアメリカの競技場の人工芝の堅いピッチは柔らかい天然芝のピッチに馴染んでいたベッケンバウアーの肉体を徐々に蝕んでいった。
1980年、ハンブルガーSV へ移籍。同年11月15日のVfBシュトゥットガルト戦でブンデスリーガ復帰を果たすとリーグ通算18試合に出場し往年のテクニックを披露した。
しかし翌1981-82シーズンはチームはブンデスリーガ優勝を果たしたものの、ベッケンバウアー自身は、アキレス腱断裂などの度重なる怪我に苦しみ、治療の為に試合出場がかなわない状態だった。
ここでトップレベルでのプレーが出来ないと判断しハンブルクからの退団を決意。
1982年7月1日、ハンブルクのフォルクスパルクシュタディオンで行われた西ドイツ代表対ハンブルガーSVによる「ベッケンバウアー感謝試合」では前半は西ドイツ、後半はハンブルクの選手としてプレー。
試合は4-2で西ドイツが勝利を収めベッケンバウアーはドイツのファンに別れを告げた。
また、この試合に先立ち西ドイツサッカー連盟のヘルマン・ノイベルガー会長から代表チーム名誉キャプテンの称号が贈られた。
1983年、再びニューヨーク・コスモスへ移籍。サッカーボウルで準々決勝ラウンドで敗退すると、このシーズン限りで現役引退を表明した。
代表
1965年、西ドイツ代表に招集。同年9月26日、敵地のストックホルムで行われたワールドカップ・イングランド大会出場をかけたスウェーデン戦で代表デビューを飾る。
この試合を2-1で勝利を収め本大会出場に貢献したベッケンバウアーはヘルムート・シェーン監督の下でレギュラーに定着して行った。
1966年、ワールドカップ・イングランド大会出場。
ベッケンバウアーは20歳で迎えた初のワールドカップの舞台にて中盤の要としてゲームをコントロールすると共に得点を重ね、グループリーグ初戦のスイス戦で2得点、準々決勝のウルグアイ戦と準決勝のソビエト連邦戦でそれぞれ1得点の合計4得点を挙げる活躍で決勝進出に貢献。
決勝戦では地元イングランドとの対戦となり、この試合でベッケンバウアーはイングランドのエースのボビー・チャールトンのマンマークを担当。
チャールトンを封じる事には成功したものの、延長戦の末に2-4で敗れ準優勝。
この結果に専門家からは「チャールトンを封じることに囚われ、ベッケンバウアー本来の攻撃面を発揮する事が出来なかった。西ドイツの作戦ミスなのではないか」との批判を受けた。
1968年6月1日、ハノーファーで行われたイングランドとの親善試合。
イングランドとは2年前のワールドカップ決勝で対戦した因縁の相手であり、1908年以来、0勝2分10敗と大きく負け越すなど苦手意識を抱えていた。
この試合でベッケンバウアーは82分に決勝点を決めサッカーの母国に対し初勝利を収めると共に長年の苦手意識を払拭した。
1970年、2度目のワールドカップとなったワールドカップ・メキシコ大会では準々決勝で前回優勝国のイングランドを延長戦の末に3-2で下し2大会連続の準決勝進出。
準決勝のイタリア戦は追いつ追われつの試合展開で、延長戦の末に3-4で競り負けたがサッカーファンからは世紀の一戦(Game of the Century)と評された。
ベッケンバウアーはこの試合途中に右肩を脱臼したが交代枠が残っていなかったため、右肩から右腕をテーピングで固定した状態でプレーし続ける。
ダイビングヘッドでクリアをするなど気迫を見せたが、決勝進出には手が届かなかった。
1971年4月25日、トルコ戦において26歳で西ドイツ代表のキャプテンに就任。また所属クラブとは異なり代表チームでは中盤でプレーする機会が多かったが、この時期からリベロとしてプレーをするようになった。
1972年、UEFA欧州選手権1972準々決勝ラウンドでイングランドを相手に敵地で完勝し本大会進出に導くと、ベルギーで開催された本大会では準決勝で地元ベルギーを2-1、決勝ではソビエト連邦を3-0で下し大会初優勝。
この時のリベロを務めるベッケンバウアーとゲームメーカーを務めるネッツァーのコンビネーションや流れるようなパスワーク、選手個々の身体能力とラテン系を彷彿とさせるテクニックを融合したサッカーを披露した事から「夢のチーム」と称えられた。
1974年、3度目のワールドカップ出場となったワールドカップ・西ドイツ大会では地元開催の重圧からグループリーグ第3戦の東ドイツ戦を0-1で落すなど苦境に立たされた。
この敗戦の後、チームを立て直すべくベッケンバウアーはリーダーシップを発揮しシェーン監督との二頭体制でチームの修正を図る。
調子の上がらないネッツァーに代わってヴォルフガング・オヴェラートを中盤の核とすることや、ベルント・ヘルツェンバインやライナー・ボンホフの起用を進言するなど、チームの再編成に着手した。
そして2次リーグを3戦全勝で突破し決勝進出に導くと決勝戦ではヨハン・クライフの率いるオランダを2-1で下し、1954年大会以来となる2度目のワールドカップ制覇を成し遂げた。
1976年、UEFA欧州選手権1976では予選ラウンドを突破し、ユーゴスラビアで開催された本大会に出場。
地元のユーゴスラビアを退け2大会連続の決勝進出に導くが、決勝戦ではダークホースのチェコスロバキアにPK戦の末に敗れ準優勝に終わった。
この試合で西ドイツ代表選手として初の100試合出場を達成したベッケンバウアーは、1977年2月23日のフランス戦(試合は0-1で西ドイツの敗戦)で代表から退くまで国際Aマッチ103試合に出場し14得点を記録し、50試合でキャプテンを務めた。
西ドイツ代表での戦績は69勝18分18敗。
代表通算出場記録は後にローター・マテウスによって塗り替えられるまで、ドイツ歴代最多記録だった。
なお1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会と1982年のワールドカップ・スペイン大会でも招集される可能性が残されていた。
1978年大会は所属するニューヨーク・コスモス側の「ワールドカップ期間中のみの参加を認める」意見と「直前のテストマッチや合宿への参加」を要請するドイツサッカー連盟との意見は真っ向から対立し、再度両者間で交渉を試みるも決裂したため参加を断念。
1982年大会は度重なる怪我の影響もあって出場を断念した。
エピソード
物心ついたころから5歳上の兄や近所の子供たちと共に路地や空き地などでストリートサッカーに興じて技術を磨いた。
1954年、8歳の時にSCミュンヘン1906の下部組織に入団して本格的にサッカーを始める。
当時のポジションは左ウイングで、後にセンターフォワードを任せられるようになった。
憧れの選手はフリッツ・ヴァルダー。
地元のギーシング地区に本拠地をおくサッカークラブTSV1860ミュンヘンを応援するサッカー少年だった。
SCミュンヘン1906で5年間を過ごしたが、クラブの財政事情により育成年代のチームを維持できなくなったことを知るとチームメイトと共に1860ミュンヘンへ移籍することを考えるようになる。
1958年夏、SCミュンヘン1906での最後の試合としてミュンヘン近郊のノイビベルクで開催された14歳以下(U-14)大会に出場し決勝進出、決勝の相手は1860ミュンヘンとなった。
この試合にてベッケンバウアーを警戒する相手選手との小競り合いの末に相手から平手打ちを受けるという事件が起こった。
これをきっかけにファンだった1860ミュンヘンではなく、同じバイエルンのシュヴァービング地区を本拠地とするバイエルン・ミュンヘンの下部組織に入団することを決意した。
ベッケンバウアーは、ここでもセンターフォワードを務め、入団最初のシーズンで100近い得点を記録した。
1960年、14歳でギムナジウム(中等教育機関)を卒業後、保険会社のアリアンツに就職。
社会人として生活を送る一方で引き続きバイエルンの下部組織でサッカーを学び、18歳の頃にはバイエルン州選抜や西ドイツユース代表に選出される。
ユース代表では監督のデットマール・クラマーの下で公私共に指導を受けた。
ベッケンバウアーは監督しても優れ成功を収めた。
監督としてもワールドカップを獲得した数少ない人物だ。
プレースタイル
ベッケンバウアーという選手をリベロ・システム抜きに語ることは出来ない。
いわば「攻撃に参加するスイーパー」であるこのポジションは、「ディフェンダーは守備の専門」という従来の概念を覆すことになった。
イタリアのカテナチオにおけるスイーパーの役割がDFラインから一列下がり相手の攻撃の芽を摘み取る役割に徹していた。
さらにそもそもイタリアの「リベロ」という言葉自体が単に「マーク相手をもたず、守備ラインの背後に位置するDF」という意味だった。
そのリベロを「自由に攻撃するDF」というイメージに変えてしまったのだった。
ベッケンバウアーが確立したリベロ・システムは、そのDFライン後方の深い位置から効果的なパスを繰り出すなど攻撃の起点となり、また機を見て前線に攻め上がり決定的なパスを通すなど得点機に絡んだ。
DFの攻撃参加自体は既に1960年代頃からイタリアのジャチント・ファケッティによりなされていた。
厳密にはファケッティのポジションは中央ではなく左サイドバックだったが、ベッケンバウアーは中央に位置するスイーパーにも出来ないはずがないと、ファケッティの攻撃的なスタイルに触発された結果が攻撃的なスイーパー=リベロの誕生へと繋がった。
ベッケンバウアーは少年時代にセンターフォワードを務めていたが、所属するバイエルン・ミュンヘンの下部組織では戦術で雁字搦めにすることはなく、伸び伸びとプレーをさせていた。
ある試合でストッパーの役割を任せられたベッケンバウアーは、守備だけには飽き足らず力を持て余すと、機を見てゴール前に攻めあがって得点を決めてしまうこともあった。
その後もストッパーの役割だけに留まらず中盤に上がれば効果的なパスを繰り出し、前線に攻めあがることを繰り返したという。
こうした行動はDFは守備の専門家という定石を無視したものであったが、後に「君のプレーは全ての指導法に反するものだが、そのまま続けなさい」と認められそのままプレーを続けた。
自身が確立させるリベロ・システムの原型や選手としてのユーティリティ性は少年時代から培われていたのだった。
マンツーマンで守るDFの背後をカバーするのがリベロというポジション。
しかし、ベッケンバウアーは攻撃時にはゲームを組み立て、そのまま前進してラストパスを出し、シュートまで決めてみせた。
それまでは“守備の保険”だったリベロに、まったく新しい画期的な解釈を加えたのだ。
背筋をピンと伸ばした姿勢、優雅なボールコントロール、冷静沈着な判断力、そして右足のアウトサイドを使った長短の正確なパスがトレードマーク。
DFでありながらスライディングタックルはあまりやらず、卓越した読みでパスをインターセプトし、シュートをブロックした。
ボールを奪い返しに来るFWは華麗なターンで外し、味方を使いながら中盤へ進出、サイドへカーブやバックスピンのかかったロングパスを供給する。
バイエルンのチームメートでもあるゲルト・ミュラーやウリ・ヘーネスとの壁パスから、一気に中央を割って相手ゴールへ迫るプレーも得意としていた。
無骨なタイプが多かった西ドイツの選手の中では、痩身長躯で貴公子然としたプレーぶりは異質であり、若手のころには「ファイターではない」と批判もされた。
相手のクロスボールをジャンピングボレーでバックパスしたり(当時はGKへのバックパスが許されていた)、ゴール前の混戦の中でリフティングしながら危機回避するなど、人を食ったようなプレーも多々あった。
それによって「傲慢だ」とも言われたが、技術レベルが周囲とは隔絶しており、ほとんど失敗もしていない。