概略
国籍 | ![]() |
---|---|
出身地 | メリーランド州ボルチモア |
生年月日 | 1895年2月6日 |
没年月日 | 1948年8月16日(53歳没) |
身長 体重 |
188 cm 97.5 kg |
ポジションは投手、外野手。
左投左打。
愛称は「バンビーノ」。
最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人であり、本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した。
1927年に記録したシーズン60本塁打は、1961年にロジャー・マリスによって破られるまでの34年間、MLB最多記録であった。
また、生涯通算本塁打数714本も1974年にハンク・アーロンに破られるまで39年間MLB最多であった。
ブラックソックス事件による当時の球界への不信感を、豪快な本塁打の連発により払拭するにとどまらず、さらに野球人気を高めることに成功した。
アメリカ国内において、数多いプロスポーツの一つに過ぎなくなっていた野球を、最大の人気スポーツにした事で「野球の神様」「アメリカ球界最大の巨人の1人」と評されている。
タイトル
- 最優秀防御率1回(1916年)
- 首位打者1回(1924年)
- 本塁打王12回(1918年 – 1921年、1923年、1924年、1926年 – 1931年)
- 打点王6回(1919年 – 1921年、1923年、1926年、1928年)
表彰
- シーズンMVP1回(1923年)
- DHLホームタウン・ヒーローズ選出(2006年)
記録
- オールスターゲーム選出 2回:1933年 – 1934年
- 最多得点8回(1919年 – 1924年、1926年 – 1928年)
- 最多四球11回(1920年、1921年、1923年、1924年、1926年 – 1928年、1930年 – 1933年)
- リーグ最高出塁率10回(1919年 – 1921年、1923年、1924年、1926年、1927年、1930年 – 1932年)
- リーグ最高長打率13回(1918年 – 1924年、1926年 – 1931年)
- リーグ最高OPS13回(1918年 – 1924年、1926年 – 1931年)
- 通算サヨナラ本塁打12本
- 通算満塁本塁打16本
- 通算ランニング本塁打10本
経歴
選手歴
|
|
|
1913年、野球部のエースとして君臨していたルースの活躍は、偶然試合を見に来ていたジョー・エンジェルの目に留まる。
ワシントン・セネターズの投手であったエンジェルは、すぐにボルチモア・オリオールズ(現在のオリオールズ球団とは無関係であり、当時はマイナーリーグチーム)のオーナー兼監督のジャック・ダンにルースを紹介した。
その場でルースの練習風景を30分ほど見たダンは、即座に年給600ドル(現在の金銭価値に換算すると約6万6000ドル)の契約を結ぶ。
これは1914年2月14日、ルースが19歳の時のことであった。
ルースはこの時のことについて、「もともと仕立て屋として就職する予定であり、手先が大事な仕事だから、(手を痛めることが大いにありえる)野球はもう辞めようと決意していただけに、感極まりないうれしさがあった」と語っている。
外部から隔離された全寮制の矯正学校での生活が長かったためか、世間知らずで子供じみた所のあったルースは、早速チームメイト達から「ジャック(・ダン)の新しいベーブ(赤ちゃん)」と揶揄されるようになる。
この時の「ベーブ」というあだ名は、生涯残る事になり、以後「ベーブ・ルース」として周りから呼ばれるようになった。
なお、オリオールズ時代以降のチームメイトは「ベーブ」を意図的に避け、「ジョージ」「ジッヂ」「バム」などと呼んでいたりした。
1914年7月7日、ダンはルースを他の2名の選手とセットにして、金銭トレードに出す計画を立てていた。相手チームはフィラデルフィア・アスレチックスであった。
しかし、ダンが要求していた1万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)という額により、交渉は決裂。
オリオールズが業務提携を結んでいたシンシナティ・レッズとも決裂した。
1914年7月9日にはボストン・レッドソックスのオーナー、ジョー・ランニン(Joe Lannin)と交渉を成立させる。
金額については諸説あり、不明である。
メジャーリーグデビューとなった1914年、ルースは5試合に出場し、そのうちの4試合は投手としてマウンドに登った。
デビュー戦となった7月11日には、初登板初勝利を記録する。
しかし、当時のレッドソックスはスター選手を多く抱えており、登板機会がさほど与えられないままマイナーへ降格された。
ルースが「登板できないなら打撃で貢献しよう」とバッティング練習をすれば、自身のバットを折られる等の嫌がらせにも遭ったというが、ルースはどこからか古いバットを見つけてきてバッティング練習を続けたという。
また、ルースに代打が送られることもあるなど、後に本塁打王と呼ばれる選手に相応しくない処遇であった。
1915年、シーズン前の春季キャンプにて、レッドソックスの先発ローテーション入りを果たす。
同年、ルースは18勝8敗の好成績を挙げ、レッドソックスはアメリカンリーグのペナントを制した。
また、バッティングでもチームに貢献しており、打率.315に加えて本塁打を4本打っている。
レッドソックスは4勝1敗でワールドシリーズを制したが、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロに終わっている。
1916年、若干春季キャンプで苦しむものの、23勝12敗・防御率1.75、9完封を挙げる。
防御率と完封数はリーグ1位であり、完封数は1978年にロン・ギドリーが並ぶまで左投手としてはリーグ記録であった。
同年6月27日のフィラデルフィア・アスレチックス戦では自己最多の10奪三振を奪ったり、大投手ウォルター・ジョンソンに投げ勝ったりするなど、ルースは投手としての実績を着々と積んでいった。
一方でチームの攻撃力は、主力のトリス・スピーカーがクリーブランド・インディアンスへ移籍したことでだいぶ弱まっていた。
それでもレッドソックスは投手陣の踏ん張りで再度ワールドシリーズに進出。
ルースは14イニング1失点の成績で、ブルックリン・ロビンスを4勝1敗の成績で破った。
1917年もルースは大活躍を見せ、24勝13敗・防御率2.01、6完封に打率.325の成績を残す。
しかしチームは100勝をあげたシカゴ・ホワイトソックスの快進撃に及ばず、9ゲーム差の2位に終わった。
6月23日のワシントン・セネターズ戦では、先頭打者に四球を与えたあと怒りに狂い、審判を殴ってしまう。
これによりルースには10試合の出場停止処分が下された。
その後7月11日の試合は、デトロイト・タイガースに対して1-0の1安打完封勝利を挙げる。
ルースはこの試合を「現役生活で一番興奮した試合」と後年に振り返っている。
1918年は20試合に投げ、13勝7敗・防御率2.22を挙げる。
また、11本塁打を放って生涯初となる本塁打王のタイトルを獲得した。
これは現在メジャー唯一となる「同一年度での10勝かつ10本塁打」でもあった。
この年以降ルースは主に外野手として起用された。
同年は7月に監督と口論になり、一時期チームの帯同から外れていたため、若干成績に落ち込みが見られるシーズンであった。
チームはワールドシリーズに出場し、ルースは第1戦と第4戦の先発投手を任された。
両試合ともに勝ち星を挙げ、17回を投げ自責点2、防御率は1.06を残す。
ワールドシリーズでの連続無失点イニング数は29回と3分の2を記録し、これはホワイティ・フォードが1961年に破るまでMLB記録であった。
なお、この年の右翼席へ打ち返した打球が当時のルールでサヨナラ三塁打と認定されたので、ルースは現行ルールでは通算715本の本塁打を放っていることになる。
1915年から1917年にかけてルースが投手以外で起用されたのは、たったの44試合であった。
1917年のシーズン終了後、チームメイトであったハリー・フーパーは、「ルースは野手として毎日試合に出場した方が価値は上がる」と提言をしている。
ルースが外野を守る回数が増え、登板する機会が減っていったのは1918年からである。
かつてのチームメートであるトリス・スピーカーは、「投手でありながら登板のない日に野手として試合に出るのは馬鹿げたことだ」と話し、この転向がルースの選手生命を縮めるかもしれないと見ていたが、ルース自身は打撃の方に関心が移っていき、本格的に野手に転向することになる。
この年、ルースは打率.300に11本塁打をレギュラー野手としては圧倒的に少ない317打数で達成している。
そして1919年には、130試合に出場するもわずか17試合にしか登板しなかった。
同年に放った29本塁打は当時のMLB記録である。当時ホームランはシーズンで二桁打てば相当なスラッガーであり、最初期の「飛球をワンバウンドで取ってもアウト」というルールの影響から本塁打自体の評価も低かった。
そのため29という本数は驚異的で、本数を重ねるうちに過去のMLBの本塁打数記録が調べ直され、本塁打記録が1884年のネッド・ウィリアムソンの27本(ライトが約60mなど本拠地が異常に狭かった球場での記録)に修正されるなど、それだけ当時としても脅威の本数だった。
ルースの登場により、飛ばないボールのデッドボール時代が終わり、本塁打が量産されるライブボール時代が始まった。
ルースの猛打の噂は瞬く間に広がって、プレーを一目見たさに大観衆が詰めかけた。
第一次世界大戦終戦による解放感、更には未曾有の好景気から、大衆は華やかで、派手で、爽快なパフォーマンスを求めており、ルースの特大ホームランはその望みにぴったりだった。
1919年12月26日、レッドソックスのオーナーであったハリー・フレイジーは、ルースをニューヨーク・ヤンキースへと金銭トレードで放出する。
ヤンキースに移籍後のルースは、投手から打者へと完全に移行していた。
ヤンキースでの15年間で2000試合以上に出場したが、投手としてマウンドに上がったのはそのうちのわずか5回である。
その全てで勝ち投手となっており、登板は元投手であるベーブ・ルースのデモンストレーションやファンサービスの意味合いが強かった。
ヤンキースでのデビュー年となった1920年には、「もうこれ以上の本塁打記録は生まれないだろう。去年が異常だっただけであれほどの本塁打数は期待できない。20本打てれば上出来だろう」と言われながら、ルースは打率.376、54本塁打を記録し、周囲を驚嘆させる。
同年に記録した長打率.847は、2001年までMLB記録であった。
この年にルースが放った54本塁打というのは異常な数値であり、2位はセントルイス・ブラウンズの強打者、ジョージ・シスラーの19本と、約3倍の差で突き放す圧倒的な数だった。
また、ルースよりも多く本塁打を打ったチームはフィラデルフィア・フィリーズのみであった(64本)。
1921年から1928年まで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎え、アメリカンリーグで6回優勝し、ワールドシリーズで3回優勝した。
その中でルースは、1921年、もうこれ以上の本塁打記録は生まれないと言われた本塁打記録をさらに更新する活躍を見せた。
打率.378、59本塁打を記録し、ヤンキースをチーム史上初のリーグ優勝に導く。
7月18日には、現役通算139本目の本塁打を放ち、それまでの通算本塁打王だったロジャー・コナーの記録をたった8年のプロ生活で更新する。
ルースの名前はもはや本塁打の同義語として扱われ、野球というスポーツ自体に新しくパワーの概念を導入した。
ルースが打った中で一番大きな本塁打は1921年7月18日にデトロイトのネビン・フィールドでの一本と言われている。
センター場外に消えていった打球は、175メートルの特大弾であった。
1929年にはヤンキースは4年振りにワールドシリーズ進出を逃した。
一方でルースは1929年から1931年にかけて3年連続で本塁打王を獲得した。
1930年シーズンの途中には、1921年以来初めてマウンドに上がり、完投勝利を挙げている(それまでもオープン試合などでマウンドに上がることは度々あった)。
また、同年にヤンキースは日常的に背番号制を導入した初めての球団となった。
当時の背番号は打順を表し、ルースは日頃3番打者を務めていたため、「3」が与えられた。
1932年には、ヤンキースはジョー・マッカーシー監督の下で107勝47敗とリーグ優勝を成し遂げ、ルースも打率.341、41本塁打、137打点を記録。
ワールドシリーズではギャビー・ハートネット率いるシカゴ・カブスと対戦し、4連勝でカブスを下した。
このシリーズの第3戦で、ルースは球史に残る有名な「予告ホームラン」を放つ。
打席に立ったルースは外野フェンスを指さし、その後に放った打球は実際にバックスクリーン一直線の本塁打となった。
37歳になっていたルースだが、ボールは490フィートも飛んだのでは、と言われている。
長年に渡って論争の的となってきたのは、本当にルースはスタンドを指差したのか? という疑問である。
対戦相手のカブスの投手チャーリー・ルートは、ルースの予告ホームランを真っ向から否定しており、第3球目のモーションにうつる前に「この野郎、俺を三振させるには、もう1つストライクを投げなければダメなんだぞ」と怒鳴って人差し指を突き出してきた。
その後にたまたま、センターのスタンドに飛び込んだので、あんな話が出来上がってしまったのだと述べている。
1933年にもルースは好成績を残し、打率.301、34本塁打、103打点を記録するとともに、リーグ最多の114四球を記録。
この年、初めてのオールスターゲームがシカゴのコミスキー・パークにて開催され、ルースはオールスター史上第1号本塁打を放つ。
この時に打った2ランホームランにより、アメリカンリーグはナショナルリーグを4-2で下した。
1933年シーズン終盤には投手として1試合だけマウンドに上がり、完投勝利を挙げる。
投手としての最後の登板となった。
ヤンキース時代における投手としての出場は5試合であり、主にファンサービスのためではあったが、その全てで勝ち投手となっている。
ルースは現役通算で投手としては94勝46敗という数字を残している。
1934年、打率.288、22本塁打を記録し、2年連続でオールスターに選出される。
オールスターゲームではカール・ハッベルが5連続奪三振を成し遂げ、ルースは不名誉にもその一人目の打者であった。
1934年シーズンはルースがヤンキースの一員としてプレーした最後の一年であったが、ヤンキー・スタジアムでの最終戦ではたったの2000人しか観客がいなかった。
ルースはこの時点で個人的な目標だった700本塁打を達成しており、いつでも引退する用意は出来ていた。
その後ブレーブスに移籍し1936年に引退した。
エピソード
本格的に野球を教わり始めた時には捕手を気に入り、本格的に守った最初のポジションとなった。
しかしルースは左利きであり、当時から左利きの捕手はほとんど存在しないためミットなど一般には作成されておらず、特注しなければならない状態だった。
そのため他のポジションを勧められるが、「どうしても捕手をしたい」と右利き用のミットを投げる方の左手にはめて、返球の際はミットをはずし、捕った左手で投げていたという。
盗塁阻止時には動作が遅れるはずであるが、それでも余裕で間に合うほどの強肩であったため、捕手で定着する。
そのうち投手や一塁や外野も守るようになり、打撃の方では打率にして5割近い数字を残していた。
セント・メアリー時代のある試合で捕手をしていたルースは、味方の投手があまりにも打たれてしまうので、途中からおかしくなって笑いが止まらなくなってしまった。
するとマシアスから「そんなにおかしいのなら、君が投手をしてみせろ」と言われ、やむを得ず投手として登板してみると、その試合で好投。
そのため、次の試合からは投手をすることが多くなった。
マシアスは、このときルースに投手をさせた理由として、「ルースの態度を戒める目的もあったが、同時に元々ルースに投手の才能を感じていたためでもある」と語っていた。
結果的にこの投手転向がプロへの道を開くことになった。
投手としてのルースも無失点記録をつくるなど優秀であったが、カーブを投げる時に舌を出す癖があり、自分でその癖に気付くまでは狙われることが多かったという。
また、ヤンキース時代は投手として時々登板し好投している。
タイ・カッブのヒット狙いの打法に対し、ルースは「あんたみたいな打ち方なら、俺なら6割はいけるだろうな。でも、客は俺のけちなシングルヒットじゃなくて、ホームランを見に来ているのさ」とコメントしたという。
カッブから反論されると実際に本塁打を量産しつつ4割近い打率を残して見せ、これにはカッブもルースを認めるコメントを出している。
また、この出来事が悔しかったのかカッブは狙ってマスコミの前で本塁打を放って見せたことがある。
四球ばかりで、投手からまともに勝負してもらえなくなるのを避けるため、新人だったルー・ゲーリッグに目をつけ、自分の後を打つ打者として直接指導し、ゲーリッグは強打者に成長。
ルースとゲーリッグの二人はリーグでも屈指の3番4番となった。
巷では不仲説もあったが、実際の二人は一緒に釣りに行くなど仲が良く、ゲーリッグが筋萎縮性側索硬化症のために37歳の若さで亡くなった時には、ルースはゲーリッグの死をとても悲しんでいた。
打率が2割そこそこの打者に、ルースは冗談で「君はスイッチヒッターになれば右打席2割、左打席2割で合計4割で4割打者になれる」と言った。
するとその打者は冗談を本気にし、実際にスイッチヒッターになって高打率を残したことがあるという。
ドジャースの一塁コーチをしていた際に若い選手にファンにサービスが悪いことをよく注意していた。
あるとき、若い選手が子供にサインをねだられたが、「忙しい」と言ってサインをせずに行ってしまい、子供は落ち込む。
それに気がついたルースが選手に注意をしてサインをさせる。
さらに「俺はベーブ・ルースだ」と言ってサインをすると言うと、子供はその若い選手のときよりも喜んでいたという話があるなど、引退後でも人気は健在であった。
ルースは様々なメディアへの出演を果たした。
1930年代から40年代にかけては頻繁にラジオ番組に出演を果たしており、自身の番組を持ってもいた。
1934年4月16日から7月13日にかけては、週3回『ベーブ・ルースの冒険』という15分番組が放送され、その3年後の1937年4月14日から7月9日にかけてはCBSで週2回『ベーブ・ルースは俺だ』が放送された。
その他にもNBCなどでレギュラー番組を持っていた。
ルースが映画に初出演したのは『Headin’ Home』という無声映画であった。
また、1928年のハロルド・ロイドの映画『Speedy』など、幾つもの無声時代の映画に出演しており、そのどれもが大体は野球選手役もしくは本人役であった。
その中の一つに、ゲーリッグの死後に作られた映画『打撃王』がある。
ルースの声はクラーク・ゲーブルの声に似ていたとされている。
ルースは私生活でも派手好きで粗暴な性格ではあったが、その反面子供が大好きで、ファンサービスに熱心だったことでも知られている。
ルースの打ったファウルボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たって、あとでその子犬を見舞いに行ったことがあった。
また、ジョニー・シルベスターという野球好きの少年が落馬し、それが原因で瀕死の状態であった。
両親が、ジョニーが好きだったルースに励ましてもらおうと無理を承知でヤンキースに連絡をとると、ワールドシリーズの最中に、ヤンキースのメンバーのサインボールと、ルースが「水曜日の試合で君のために本塁打を打つ」と書いたボールが送られて来た。
結果は三本塁打を放っている。このエピソードは「約束のホームラン」か、それに類するタイトルで、ルースの伝記にはほぼ全て取り上げられている。
映画では直接会いに行ったことになっているが、それは史実と異なる。
もっとも、翌年のシーズン終盤にジョニー少年の叔父と名乗る老紳士が、その後のジョニーが順調に回復している事を報告して礼を述べた際に、ルースは「それは良かった」と喜んでみせたものの、紳士が帰った後に傍にいたチームメイトに「ジョニー・シルベスターって、聞いた事のある名前だけど誰だい?」と尋ね、呆れたチームメイトが「君が去年見舞って約束のホームランを打った少年じゃないか。」と教えると、「そういや、そんな事もあったっけな。」と平然としていたという話が残っている。
その後ジョニーとルースが再会したのは、ルースが晩年に病気のために入院していた時で、かつての病弱な少年はたくましく成長し、海軍に入隊するまでになっていた。
ある時、試合が終わって、ルースが帰りのバスに乗るために球場から出て道路を歩いていた時、路上に停まっていた1台のオープンカーの座席に元気のない少年が座っているのを見て、何気なく「坊や、こんにちは」と声をかけると、少年は目を輝かせてルースの名を叫びながら立ち上がった。
すると、周りの人々が驚いたように歓声をあげ、傍にいた親らしき人物は涙を流しながら、「立った、立った!」と叫んだ。
その歓声を聞いてルースは何事かと思ったが、急いでいたのでそのままバスに乗って去って行った。
後で分かったことだが、その少年は小児麻痺のために両足の機能が失われ、2年間も立つことができない状態であった。
それが、憧れのルースからいきなり声をかけられたので、驚きと嬉しさのあまり夢中になって立ち上がったのだという。
この奇跡の出来事は当時の新聞でも紹介され、「子供たちにとって、ベーブ・ルースという名前はどんな薬よりも良く効くようである」と評された。
ルースが子供たちに優しかったのは、貧しい下町の不良少年だった彼自身の生い立ちと深い関係があり、彼はファンの子供たちを幼い頃の自分と重ねて見ていたと言われる。
実際、ルース見たさにヤンキー・スタジアムへ来るものの、お金がなくて入場券を買うことができず外に立ち尽くしている貧しい子供たちの姿を見て、ルースは彼らを気の毒に思い、係員に札束を渡して、「これであの子たちに入場券を買ってやれ」と説得したこともあった。
また、友人と共にゴルフ場に行った時には、入口付近でルースを見つめる2,3人の子供の姿を見て、「君らも来いよ。今日はいいプレーができそうだぞ」と誘い、子供たちと談笑しながらラウンドを回り、休憩時にはお菓子とジュースを振る舞ったという。
プレースタイル
ベーブルースは投手として打者としても活躍した、いわゆる二刀流の選手です。
投手としても打者としても数々の大記録を打ち立てた偉大な選手でした。
投手としてキャリアをスタートさせ後に打者としても台頭していくことになります。
投手として
ベーブルースは投手としては、大リーグ通算94勝46敗、20勝以上を2回含んだ4回の2桁勝利をあげています。
1916年にシーズン9完封をはたし左投手としての完封数の記録として、1978年に破られるまで半世紀以上にもわたる大記録を残しました。
また、1916年には最優秀防御率のタイトルを獲得しています。
左利きのエースだった彼は投げた球が勝手にSail(セイル)しルース投手は変化球を投げたつもりはないのに、打者にはホームベース付近でボールが波打つ(蛇行する)ようにまがり、それでアウトをとることもあったようです。
打者として
ベーブルースの打者としての成績は、通算714本塁打・本塁打王12回・打点王6回・首位打者1回などの数々の大記録を残しています。
豪快な本塁打を放つホームランバッターでした。
それまでメジャーリーグでは、安打を繋ぎ得点を奪うスタイルだったが、その常識を破り本塁打を量産した。