概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1940年10月23日(79歳) | ||
出身地 | トレス・コラソンエス | ||
身長 | 173cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはフォワード(セカンドトップ、センターフォワード)またはミッドフィルダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
ブラジル代表のエースとして3度のワールドカップ優勝。
15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した。
その実績から「サッカーの王様」、「神様」あるいは「20世紀最高のサッカー選手」と評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と見做されている選手である。
獲得タイトル
- クラブ
- サンパウロ州選手権優勝 11回(1956年、1958年、1960年、1961年、1962年、1964年、1965年、1967年、1968年、1969年、1973年)
- リオ・サンパウロ選手権優勝 4回(1959年、1963年、1964年、1966年)
- タッサ・ブラジル優勝 5回(1961年、1962年、1963年、1964年、1965年)
- コパ・リベルタドーレス優勝 2回(1961年、1962年)
- タンターコンチネンタルカップ優勝 2回(1962年、1963年)
- インターコンチネンタルスーパーカップ優勝 1回(1968年)
- 北米サッカーリーグ優勝 1回(1977年)
- 代表
- FIFAワールドカップ優勝 3回(1958年、1962年、1970年)
- 個人
- FIFAワールドカップ・最優秀若手選手賞 1回(1958年)
- コパアメリカ得点王 1回(1959年)
- サンパウロ州選手権得点王 11回(1957年、1958年、1959年、1960年、1961年、1962年、1963年、1964年、1965年、1969年、1973年)
- タッサ・ブラジル得点王 3回(1961年、1963年、1964年)
- リオ・サンパウロ選手権得点王 1回(1963年)
- コパ・リベルタドーレス得点王 1回(1965年)
- 南米年間最優秀選手賞 1回(1973年)
- 北米サッカーリーグ最優秀選手賞 1回(1976年)
- BBC選定年間最優秀スポーツ選手(1970年)
- アメリカ合衆国サッカー殿堂(1993年)
- 大英帝国勲章(1997年)
- 国際連合児童基金選定20世紀最優秀サッカー選手(1999年)
- タイム誌選定20世紀の最も影響力のある100人(1999年)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 1位(ワールドサッカー誌選出 1999年)
- 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 選定20世紀最優秀サッカー選手(1999年)
- 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 選定20世紀最優秀南米サッカー選手(1999年)
- 国際オリンピック委員会 (IOC) 選定20世紀最優秀アスリート(1999年)
- 国際サッカー連盟 (FIFA) 選定20世紀最優秀サッカー選手(2000年)
- ローレウス世界スポーツ賞・生涯功労賞部門 (2000年)
- FIFA100 (2004年)
- BBC年間最優秀スポーツ選手生涯功績賞(2005年)
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1956-1974 | ![]() |
438 | (474) |
1975-1977 | ![]() |
64 | (37) |
代表歴 | |||
---|---|---|---|
1956-1971 | ![]() |
92 | (77) |
クラブ
1956年にサントスに入団。
しかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であったこともあって直ぐにトップチームでプレーすることは叶わずリザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった。
月給6000クルゼイロで仮契約を結び、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った。
数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた。
国内のリーグ戦でFWのヴァスコンセロスが骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった。
ヴァスコンセロスはペレの入団以来、先輩として友人として親しく接していたが、この怪我からの復帰後も以前のようなプレーを取り戻す事は出来ず、他のクラブへ移籍した。
1957年のサンパウロ州選手権では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ。
1958年には同じくFWを務めていたエマヌエレ・デル・ヴェッキオが欧州のクラブに移籍したことでポジションを不動のものとし、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献した。
同年にはジト、ペペ、ジウマールらと共にブラジル代表としてワールドカップに出場し初優勝に貢献。
ブラジル代表での活躍もあってクラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。
サントスFCは収容人数の少ないスタジアムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行い、必要な収入を確保しなければならなかった。
ペレはそれらの全ての試合で奇跡を起こすことを期待されていたが、1959年に行われた最初の欧州ツアーは6週間に22試合をこなす過密日程だった。
また、クラブでのプレーと平行して兵役の義務を負わなければならなかった。
ペレは「ブラジル代表として国の為に戦ったのだから再び国に仕える義務はない」と主張したが、医学的に正当な理由がない限り義務が免除されることは許されず、サントスの沿岸防衛部隊に配属され同年11月には軍選抜チームに選ばれ南米軍人選手権に出場した。
同年にはサントス、ブラジル代表、サンパウロ選抜、兵役で配属された沿岸防衛部隊のチーム、そして軍選抜の合計5チームの選手として年間通算で103試合に出場。
24時間に2試合に出場することが9回ほどあり、時には48時間に3試合に出場するなど、多忙な日々を送った。
1961年3月5日、マラカナン・スタジアムで行われたリオ・サンパウロ選手権のフルミネンセFC戦において、自陣のペナルティエリア外でボールを受けると、そのままドリブルを開始し相手選手を次々に振り切りゴールキーパーを含めた6人抜きドリブルからの得点を挙げた。
この得点はサンパウロの『オ・エスポルチ』紙から「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛され、同スタジアムには「ペレはこのマラカナン・スタジアムにおいて歴史上、最も美しい得点を決めた」と刻まれた記念のプレートが設置された。
この時の得点は後に「ゴウ・ジ・プラッカ」(gol de placa、プレートのゴールの意)と呼ばれるようになり、ペレのサッカー人生において最も美しいゴールの一つとされている。
また同年のサンパウロ州選手権、グアラニFCでは自身のシュートがゴールラインを割っていないにも関わらず主審により得点が認められる珍事もあった。
ペレは浮き球で2人の相手DFを翻弄した後で3人目のDFを振り切りシュートを放ったが、クロスバーに当たった後に地面に叩きつけられておりゴールラインを割っていたか否かは微妙な状況だった。
グアラニの選手やファンは猛抗議をしたが主審は「あれだけ見事なプレーなのだから、ゴールを割っていようがいまいが関係ない」と主張したため判定は覆らずゴールが認められた。
こうした活躍からヨーロッパの有力クラブの関心を集め、スペインのレアル・マドリードは会長を務めるサンティアゴ・ベルナベウが直接オファー。
1961年にイタリアに遠征した際にはインテルナツィオナーレ・ミラノから4000万クルゼイロ、ユヴェントス会長のウンベルト・アニエッリからは百万ドルから数千万ドルの移籍の申し入れがあった。
しかしペレはこれらのオファーに乗り気ではなく、所属クラブのサントスもペレを放出する意思がないことを示したが、この移籍騒動は後にブラジル政府が「ペレは輸出対象外の国宝である」と公式に宣言して移籍を阻止する事態にまで発展した。
また所属するサントスFCはペレを慰留させるための多額の金銭を工面した。
なおペレは欧州のクラブでプレーをしなかった理由について「ジジがレアル・マドリード、ジノ・サニとジョゼ・アルタフィーニがACミランへ移籍したように欧州のクラブでプレーをした選手が何人かいたが、私はサントスFCでの生活に満足していた」「欧州に移籍することも考えたが、サントスFCと共にあることを選んだ」と発言している。
ペレは他の多くの選手と同様にブラジル国内に留まってプレーを続けて、国内のリーグ戦で世界トップレベルの技術を磨いていた。
1962年、南米のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスに出場し決勝に進出。
ウルグアイのペニャロールとの対戦となったが、1勝1分で迎えた最終戦でペレの2得点などで勝利し、ブラジル勢として初のタイトルを獲得した。
この勝利によりインターコンチネンタルカップへの出場権を得てエウゼビオを擁するポルトガルのSLベンフィカと対戦。
ホームでの第1戦は自身の2得点などで3-2と勝利。
敵地リスボンでの第2戦も好調なプレーを維持。ベンフィカの守備陣を翻弄し3得点1アシストという活躍で5-2と勝利を収め、クラブ世界一となった。
なおリスボンで行われた試合を「私のキャリアにおいて最高の試合」「素晴らしい内容で、生涯忘れることの出来ない芸術的な試合」と語っている。
翌1963年にもコパ・リベルタドーレスに出場してアルゼンチンのボカ・ジュニアーズを下して大会2連覇、インターコンチネンタルカップにおいてもイタリアのACミランを下して2年連続クラブ世界一となった。
一方で数々のタイトルを獲得し著名になっていったことで、ペレは対戦相手から執拗なマークを受けるようになった。
かつてのような新進気鋭の若手選手ではなく打倒すべき勝利者とみなされ、クラブや代表チームでもいかにペレの動きや周囲とのコンビネーションを止めるかに焦点が当たるようになった。
相手DFはペレがどこのポジションに付いていても終始マンマークを付けてラフプレーも辞さない激しいプレーを仕掛け、時には言葉による挑発を仕掛けて故意に退場を誘おうとする選手もいた。
所属するサントスFCはリベルタドーレス杯とインターコンチネンタル杯で2連覇を達成した当時の選手達が去り、長期的な展望もなく監督が短期間のうちに次々と入れ代わるなど徐々に衰退を始めていた。
このような状況もあって、かつてほどサッカーを楽しめなくなり、引退後の生活を考えるようになった。
1975年、北米サッカーリーグ (NASL) に所属するニューヨーク・コスモスに移籍。
これはアトランティック・レコードの創設者であるアーティガン兄弟やワーナー・ブラザース社長でニューヨーク・コスモスのチェアマンを務めていたスティーヴ・ロスからの勧誘を受けてのもので、2年契約で移籍金は900万ドル。
この契約の背後にはアメリカ合衆国国務長官で熱狂的なサッカーファンのヘンリー・キッシンジャーの存在があった。
1970年代当時、サッカー不毛の地と呼ばれたアメリカにサッカーを普及させ、いずれワールドカップを招致したいという思惑があり、ペレのニューヨーク・コスモスへの移籍についても「わが国でプレーする事で発展に協力して欲しい」との旨を記した公文書を発行し移籍を支援した。
同年6月15日に行われたトロント・メトロス戦には2万5千人の観客が集まり、この後も北米リーグの平均観客数は2万人台を維持した。
2年後には西ドイツからフランツ・ベッケンバウアー、ブラジルからカルロス・アウベルトが加わりオールスターチームの陣容を呈し、1977年には同チームの北米選手権のタイトルを獲得。
サッカー不毛の地と言われたアメリカでサッカーの伝道師としての役割を果たし人気選手となり活躍したことで、ニューヨーク市の名誉市民に選ばれた。
同年10月1日にジャイアンツ・スタジアムで行われた引退試合のコスモス対サントスFC戦には7万5千人の観衆が詰掛けた。
ペレは前半はコスモスの選手として後半はサントスの選手としてプレーし前半に1得点をあげ自らの引退の花道を飾った。
試合後のセレモニーでは「愛を!皆に愛を!世界に愛を!」の言葉で締めくくった。
代表
ブラジル代表デビューは1957年7月7日のアルゼンチン戦。
16歳9ヶ月での代表デビューは当時の史上最年少出場記録であった。試合は1-2で敗れたが、ペレ自身は唯一の得点を決める活躍を見せた。
その後は所属クラブでも代表でも活躍を続け、代表チームに定着していった。
サンパウロ州選手権2年連続得点王の実績もあり1958年のスウェーデン大会の代表メンバーに選出され、背番号は10番を与えられた。
大会直前のテストマッチで膝の故障の影響でグループリーグの2試合を欠場したが、第3戦のソビエト連邦戦でワールドカップ初出場を果たした。
なお17歳でのワールドカップ出場は1982年のワールドカップ・スペイン大会で北アイルランドのノーマン・ホワイトサイドによって塗り替えられるまで史上最年少記録であった。
準々決勝のウェールズ戦にも先発出場を果たすと、66分にペナルティエリア内からシュートを決め、ワールドカップ史上最年少となる17歳と239日での得点を記録。
続く準決勝のフランス戦では52分、64分、75分と立て続けに得点を決めハットトリックの活躍を見せた。
決勝のスウェーデン戦では、55分に浮き球で相手DFを交わしてからボレーシュート決めて追加点、終了間際にはマリオ・ザガロとのパス交換から駄目押しとなるヘディングシュートを決め5-2の勝利に貢献。
大会通算6得点の活躍で同国にワールドカップ初優勝をもたらした。
なお、この試合の55分にペナルティエリア内で相手選手のベングト・グスタフソンの頭上にボールを浮かして置き去りにしてから決めたボレーシュートは全キャリアの中でもベストゴールのひとつだったと語っている。
この優勝の後、ペレは世界中の新聞や雑誌の表紙を飾り「新たなキングの誕生」と称された。
なおこの大会でペレは「背番号10」でプレーし、以降のサッカー界で背番号10番はエースナンバーと見なされるようになったが、これは大会当時、チーム内の抽選で割り振られたという全くの偶然から生まれたものであった。
1962年のワールドカップ・チリ大会では1次リーグ初戦のメキシコ戦で1得点1アシストと好調を維持していたが、続く第2戦のチェコスロバキア戦の25分にドリブル突破からミドルシュートを放った直後に太股の筋肉を痛めた。
当時の規定で交代出場は認められておらずピッチに留まったが、負傷したことを知ったチェコスロバキアのヨゼフ・マソプストとヤーン・ポプルハールらはペレを故意に痛めつけようとはしなかった。
ペレはチェコスロバキアの選手達の行為を「真のスポーツマンシップ」と賞賛したが、後の試合に出場することは難しくなった。
ブラジルはペレを欠いたもののガリンシャらの活躍で大会2連覇を成し遂げた。
一方でブラジル代表チームは2度目のワールドカップ優勝を成し遂げたことで国民と国家のシンボル的存在となった。
1966年のワールドカップ・イングランド大会では25歳と選手としてピークを迎えていたが、大会前から怪我を抱えていた。
初戦のブルガリア戦で1得点を決めたものの相手DFのドブロミル・ジェチェフらによる激しいマークを受けて負傷し、第2戦のハンガリー戦は首脳陣の判断でペレを温存する事となった。
ペレを欠いたブラジルは1-3で敗れ、決勝トーナメント進出が厳しくなると最終戦のポルトガル戦では怪我をおして出場することになった。
この試合でペレは相手DFのジョアン・ペドロ・モライスの執拗なマークに苦しみ前半途中に膝を負傷したが、その後もモライスのペレに対するラフプレーは続き、負傷退場せざるをえなくなった。
当時のルールで選手交代は認められておらずペレを欠いたブラジルは10人で試合を進めたが、1-2で敗れ大会3連覇を逃した。
メディアからは「ブラジルの世界支配は終わりを告げた」と酷評され、選手や監督の自宅は暴徒化したファンの襲撃を受けた。
またギリシャではブラジル人女子留学生がブラジルの敗退を苦に船から身投げをする事態まで起こった。
ペレは度重なるラフプレーの横行や、それを見逃す審判員たちに嫌気が差し失意のあまり「ワールドカップには二度と出場しない」と宣言するほどだった。
2年間のブランクの後、再び頂点に立ちたいとの意識が芽生え代表に復帰を決意。
3度目の優勝を果たせばジュール・リメ杯を永久保持する権限が与えられる事も重要な動機の一つとなった。
1970年のワールドカップ・メキシコ大会ではペレを筆頭にリベリーノ、ジェルソン、トスタン、ジャイルジーニョ、クロドアウドという攻撃陣を擁して雪辱を賭ける。
1次リーグ初戦でチェコスロバキアに4-1と大勝すると、第2戦では前回優勝国のイングランドを1-0で退けて決勝トーナメント進出を決める。
準々決勝ではペルー、準決勝ではウルグアイを下し2大会ぶりの決勝進出を果たした。
ペレ自身は決勝まで3得点に終わったが、周囲のタレントを生かすゲームメーカー役を務めていた。
決勝のイタリア戦では18分にヘディングで先制点を決めると、71分のジャイルジーニョの得点をアシスト、88分のカルロス・アウベルトの得点をアシストする活躍で3度目のワールドカップ制覇に貢献。
試合終了後には興奮した観客がピッチに乱入し選手達を担いでウイニングランを行い優勝を祝福した。
ワールドカップで3度目の優勝を果たしたことは、「ブラジルの奇跡」と評された高度経済成長期と重なったこともあり熱狂的に受け入れられ、ブラジルの国威高揚に大きな役割を果たした。
その後、1971年7月18日にマラカナン・スタジアムで行われたユーゴスラビア戦を最後にブラジル代表からの引退を表明した。
ブラジル代表としては国際Aマッチ92試合に出場し77得点を記録。
通算成績は67勝14引分け11敗。
ブラジル代表はペレが去った後、24年間ワールドカップの優勝から遠ざかることになった。
エピソード
1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルでワールドカップが開催された。
優勝候補の本命と目されていた同国は1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。
同年7月16日のウルグアイ戦当日はペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れパーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた。
そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇)家中が深い悲しみに包まれ、ペレが住むパウルの街全体も静まりかえった。
ペレはこの光景にショックを受けたものの、悲しみにくれる父を励まそうと、
悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから。— ペレ
と約束したという。
テレビやインターネットが普及していない情報伝達の遅い時代に、様々なプレーを考案し実行した先駆的存在である。
一方、ペレのプレーを止める為にラフプレーが横行し蔓延する結果となり、その対策として選手交代やイエローカードとレッドカードの制度が導入されるなど、その存在がサッカー競技に変化をもたらした。
ブラジル代表ではペレ以降背番号10がエースナンバーとなったが、後に引き継いだ選手には相当のプレッシャーとなったという。
当時の選手では殆ど前例がない中、引退後の生活を考えて企業の広告塔として活動したこともあって、1970年代に欧州で行われたブランドとしての知名度の調査では、ペレの名前はコカ・コーラに次いで第2位にランクされた。
1973年にブラジル国内で行われた知名度の調査ではエミリオ・ガラスタズ・メディチやリチャード・ニクソンを上回りペレが1位を獲得。
引退後の1993年に、世界109か国991人のスポーツ記者を対象に行われたワールドカップ史上最も偉大な選手の投票において、第1位に選ばれた。
知名度の高さについて、自ら「イエス・キリストより有名かもしれない」と発言したこともある。
かつて、ビアフラとナイジェリアの内戦を一時的に停止させるなど、政治家以上の影響力を持ち、引退後はブラジル大統領に就くことを公言してきた。
1990年代にはブラジルのスポーツ大臣として利権者たちと対決して腐敗を告発し、一時期ブラジルサッカー界の近代化のための旗手となった。
1999年には、タイム誌の選ぶ「20世紀の最も影響力のある100人」の一人に選ばれるなど、サッカーの枠を超えた影響力のある人物と評価されている。
また、バスケットボールのマイケル・ジョーダンやボクシングのモハメド・アリと匹敵する存在であると評する者もいる。
選手時代から病院や公共施設に多額の寄付を行い、孤児のための基金を設立するなどの功績により、人徳者として紹介される一方で、前述のようにブラジルサッカー界の腐敗を正す立場にありながらあっさりと権力者と手を結んでしまった姿勢や、ブラジル代表や現役としてプレーする選手たちへの辛辣な発言が物議を醸すことがあり、一部で人間性に疑問の声も出ている。
ペレについてはかつてのチームメイトや対戦相手だけでなく政治家や芸術家など様々な分野の人間がそれぞれの立場からコメントを残している。
プレースタイル
身体能力が高くバランス感覚に優れ、自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けしなかった。
身長171センチと小柄な体躯であったが、跳躍力を生かした打点の高いヘディングも得意としていた。
ペレは100m走を10秒台で走る俊足とアフリカ系黒人選手特有の瞬発力や脚の筋力を生かし、リズムを急激に変えることでDFのマークを外すドリブル突破を得意としていたが、ドリブルの際には大きなスライドでなく常に足下にボールを置きながら細かなステップでコントロールしていた。
打点の高いヘディングや足下に吸い付くようなドリブル、左右両足から放つ正確なキックといったフォワードとしての基本技術は、ペレと同じく現役時代にセンターフォワードを務めていた父親のドンジーニョの教えによるものだった。
身体能力や得点能力が際立つが、背番号9タイプの古典的センターフォワードのように前線で孤立してチャンスを待つのではなく、下がり目の位置から前線に飛び出すプレーを好んだ。
ペレは自著の中で、
得点数だけを見て純粋なセンターフォワードと評するものもいるが、そうではない。私は攻撃的MFであり、守備範囲の広いセンターフォワードだった。— ペレ
とプレースタイルについて語っている。
一方で
サッカーで一番大事なことはインスピレーション。— ペレ
と語るように独創的なプレーの持ち主でもあった。
1958年ワールドカップのスウェーデン戦でみせた、突進するDFの頭上にボールを浮かせてから相手の背後に回りこむ「シャペウ」(ポルトガル語で帽子の意)あるいは「レンソウ」(ポルトガル語でハンカチの意)とも言われるプレー、1970年ワールドカップ準決勝のウルグアイ戦で相手GKのラディスラオ・マズルケビッチと1対1になった場面で、ボールを意図的にスルーしてGKの予測の裏を突き、反対側をすり抜けてシュートを放った「ドリブレ・ダ・バッカ」(ポルトガル語で牛のドリブルの意)の変形ともいえるプレーなど、予測のつかないプレーを一瞬で判断して実行した。
ペレはトップスピードで走る複数の選手が壁パスを繋ぎながらゴール前に迫る「タベリーニャ」と呼ばれるコンビネーションプレーを考案したと言われる。
ブラジル代表時代の同僚だったガリンシャとの比較においては、「ドリブルの技術ではガリンシャの方が上」との声もあるが、自由奔放にプレーをしていたガリンシャとは異なり年齢と共にポジションを下げチームプレーに徹し、状況に応じて積極的な守備を行う知性を持ち合わせていた。
恵まれた反射神経を生かしてゴールキーパーを務めたこともあり、サントスFCでは4試合、ブラジル代表では1試合に出場した。
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