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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

マイケル・ジョーダン

バスケ

概略

【NBA】 マイケルジョーダンの必殺技 5選
誕生日 1963年2月17日(57歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市
ブルックリン区
出身 ノースカロライナ大学
ドラフト 1984年 3位
身長(現役時) 198cm (6 ft 6 in)
体重(現役時) 98kg (216 lb)
シューズ エア・ジョーダン

 

ポジションはシューティングガード(SG)。

 

右利き。

 

バスケットボールの神様とも評される。

 

15年間の選手生活で得点王10回、年間最多得点11回、平均得点は30.12点でNBA歴代1位、通算得点は32,292点で歴代5位。

 

1990年代にシカゴ・ブルズを6度の優勝に導き、5度のシーズンMVP、6度のNBAファイナルMVP受賞。

 

また、1984年のロサンゼルスオリンピックと、1992年のバルセロナオリンピックにおいてアメリカ代表(ドリームチーム)の一員として2度にわたり金メダルを獲得した。

 

現役時代の背番号23はシカゴ・ブルズ、マイアミ・ヒート、ノースカロライナ大学の永久欠番。

 

1996年、NBA50周年を記念したNBA50周年記念オールタイムチームの一人に選出。

 

2009年にはバスケットボール殿堂入りした。

 

現役引退後、2010年にシャーロット・ボブキャッツ(現・シャーロット・ホーネッツ)を買収し、現在は実業家として同チームの筆頭オーナーを務めている。

 

フォーブスの「アメリカで最も裕福なセレブリティ」にて4位であり、「世界で最も裕福な元スポーツ選手」である。

 

NBA記録

レギュラーシーズン

シーズン得点王: 10 (1986-87 -1992-93 , 1995-96 -1997-98 )

シーズン得点王連続記録: 7 (1986-87 -1992-93 )

通算平均得点: 30.12 (32,292/1,072)

シーズン1試合平均30得点以上: 8 (1986-87 -1992-93 , 1995-96 )

30得点以上通算試合数: 562

シーズン得点王最年長記録: 35歳 + 61日 (1997-98 )

1試合50得点最年長記録: 38歳 + 315日 (51得点, vs. ホーネッツ, 2001年12月29日)

1試合40得点最年長記録: 40歳 + 4日 (43得点, vs. メッツ, 2003年2月21日)

プレーオフ

  • 通算1試合平均得点: 33.4 (5,987/179)
  • 50得点以上通算試合数: 8
  • 40得点以上通算試合数: 38
  • 1ポストシーズンでの得点: 759 (1992)
  • プレーオフシリーズ全試合で35得点以上: 2回
  • プレーオフシリーズ全試合30得点以上: 7回
  • 1試合得点: 63, セルティックス, 1986年4月20日 (2 OT)

レギュレーション

オールディフェンシブ1stチーム: 9

通算ガードブロックショット数: 893

シーズンガードブロックショット数: 131 (1987-88 )

史上唯一の1シーズン200スティール・100ブロックショット: 259スティール, 131ブロック (1987-88)

史上唯一の同じ年に得点王と最優秀守備選手賞受賞 (1987-88 )

史上初の通算で新人王、最優秀守備選手賞、MVP受賞

史上初の通算で得点王・NBA最優秀守備選手賞受賞

史上唯一の同じシーズンで得点王・MVP・最優秀守備選手賞受賞 (1987-88 )

史上初の同じシーズンでMVP・最優秀守備選手賞受賞 (1987-88 )

史上初の同じシーズンで得点王・スティール王 (1987-88 , 1989-90 , 1992-93 )

史上4人目の同じシーズンで得点王・NBAチャンピオン(1990-91 , 1991-92 , 1992-93 , 1995-96, 1996-97 , 1997-98 )

史上6人目のオリンピック金メダル・NCAAチャンピオン・NBAチャンピオン

史上唯一の新人王、最優秀守備選手賞、シーズンMVP、オールスターMVP、ファイナルMVP

ファイナル

  • MVP受賞: 6 (1991, 1992, 1993, 1996, 1997, 1998)

オールスター

  • MVP受賞: 3 (1988, 1996, 1998)
  • 史上初のトリプル・ダブル: 14得点, 11リバウンド, 11アシスト (1997)

 

受賞歴
  • 6×NBAチャンピオン : 1991~1993, 1996~1998
  • 6×NBAファイナルMVP : 1991~1993, 1996~1998
  • 5×MVP : 1988, 1991, 1992, 1996, 1998
  • NBA最優秀守備選手賞 : 1988
  • 10×得点王 : 1987~1993, 1996~1998
  • 3×スティール王 : 1988, 1990, 1993
  • 14×NBAオールスターゲーム出場 : 1985~1993, 1996~1998, 2002, 2003
  • 3×NBAオールスターゲームMVP : 1988, 1996, 1998
  • 2×NBAスラムダンクコンテスト優勝 : 1987, 1988
  • オールNBAチーム
    • 10×1stチーム : 1987~1993, 1996~1998
    • 2ndチーム : 1985
  • NBAオールディフェンシブチーム
    • 9×1stチーム : 1988~1993, 1996~1998
  • 新人王 : 1985
  • NBAオールルーキーチーム 1stチーム : 1985
  • NBA50周年記念オールタイムチーム : 1996
  • No.23 シカゴ・ブルズ永久欠番
  • No.23 マイアミ・ヒート永久欠番
  • No.23 ノースカロライナ大学永久欠番
  • 2×USAバスケットボール男子年間最優秀選手:1983, 1984
  • NCAAチャンピオン : 1982

 

経歴

神と呼ばれた男 マイケル・ジョーダン(Part 1)『Legend Story』2020.04.10 NBA情報局 DAILY9 曜日別特集(金曜日) NBA Rakuten
選手経歴
1984-1993
1995-1998
2001-2003
シカゴ・ブルズ
マイアミ・ヒート
ワシントン・ウィザーズ

 

代表歴
キャップ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 1984, 1992

 

1984年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズに全体3位で指名された(当時の全体1位はヒューストン・ロケッツのアキーム・オラジュワンであった)。

 

大学を休学した後の夏にアメリカ代表としてロサンゼルスオリンピックに参加、中心選手の一人として金メダル獲得に貢献した。

 

ジョーダンは早くも入団1年目からレギュラーの座をつかみ、平均得点はリーグ上位の28.2点を記録。2年目は怪我によりシーズンの多くを欠場したものの22.7点。

 

そして3年目にはその才能を完全に開花させ、リーグトップの一試合平均37.1点、シーズン総得点は3,000点を超えウィルト・チェンバレン以来の数字を残した。

 

得点能力のみならず運動能力、特に空中でのボディコントロールには抜群のセンスを見せることで若手ながらリーグ屈指の人気選手となり、シカゴ・ブルズが遠征で訪れる試合は多くの観客を集め、ホームの試合のチケットは入手が困難になった。

 

しかし、チーム自体は強豪とはほど遠く、ブルズを「ジョーダンとその他4名」とさえ揶揄する記者やファンもいた。

 

ジョーダンはその能力の高さゆえに必然的にボールを持つ機会とシュートの本数が多く、それを独りよがりなプレーだと批判する声もあった。

 

入団当初のジョーダンは高価なアクセサリーを身に付けて試合することがあり、先輩選手たちには生意気な新人と見られることがあった。

 

1985年には新人ながらオールスター戦出場を果たすが、この試合でジョーダンは味方選手からパスを回してもらえない「フリーズ・アウト」という仕打ちを受ける。

 

のちにジョーダンはこの経験に深く傷ついたと語っている。

 

この事件の首謀者と言われたアイザイア・トーマス(当時デトロイト・ピストンズ)とはしばらく良くない関係が続いた。

 

しかし、トーマスがヘッドコーチを務めた2003年のオールスターゲームで、ファン選出から漏れてしまったジョーダンを最後のオールスターに先発出場させるために、トーマス自らヴィンス・カーターを説得。

 

カーターはジョーダンに先発の座を譲った。

 

1980年代が終盤に近づくと、この時代イースタン・カンファレンスを支配していたボストン・セルティックスが徐々に衰退し始め、代わってデトロイト・ピストンズが台頭するようになる。

 

一方のシカゴ・ブルズもまた、若手のダグ・コリンズ監督の下で力を付け始め、ブルズは年間50勝できるチームにまで成長していた。

 

1987年にセルティックスに敗れた次のシーズンから、ブルズは毎年プレーオフでピストンズと対戦するようになる。

 

この時期、荒いディフェンスでバッドボーイズと呼ばれていたピストンズは、対戦する度にブルズとジョーダンを痛めつけ敗退させた。

 

ピストンズはジョーダン・ルールと呼ばれる方法でジョーダンのオフェンスを封じようとした。

 

これはインサイドに切り込んだジョーダンを数人がかりで抑え込むもので、精神的・肉体的にジョーダンを苦しめた。

 

1988年に続き1989年もプレーオフでピストンズに敗退すると、コリンズはブルズの監督を解雇され、アシスタント・コーチだったフィル・ジャクソンが監督に昇格した。

 

ジャクソンは新システムトライアングル・オフェンスの導入に取り組むなどチーム強化に努めた。

 

若手のスコッティ・ピッペンとホーレス・グラントも次第に成長していき、ついにはレギュラーシーズンの勝ち星を55勝にまで増やした。

 

チームメートの信望が厚いビル・カートライトはキャプテンとしてチームをまとめ、ロールプレーヤーのジョン・パクソンはバックコートでジョーダンと組む選手として定着し、ブルズはジョーダンのワンマンチームからジャクソン監督のシステム下で役割分担のチームワークを持った手堅いチームとなっていた。

 

しかしプレーオフでは、ピッペンの変調などもあり、3勝4敗でまたしてもピストンズに惜敗。

 

このシーズンと前シーズン、ピストンズは連覇を果たしており、チーム史上の絶頂期にあった。

 

翌1990-91シーズン、ブルズはチーム史上最多の61勝を挙げる。

 

ジョーダン自身もそれまでのスタイルを変え、ジャクソン監督の方針通りボールを他のチームメートと分かち合う場面が以前より見られるようになった。

 

このシーズン、チームの勝ち数は過去最高だったにもかかわらず、ジョーダンの平均得点は過去数年で最低の31.5点だった(ただし、それでも得点王となっていた)。

 

プレーオフでは、カンファレンス・ファイナルでピストンズと4年連続の対戦。

 

この年は4勝0敗でこれまでの雪辱を果たし、NBAファイナルではマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズが相手となった。

 

新旧スーパースター対決となったこのシリーズを、シカゴ・ブルズは4勝1敗で勝利し、初優勝を決めた。

 

ジョーダンはファイナルMVPを受賞した。

 

翌シーズン、ブルズはリーグ史上屈指の67勝を挙げ、再びNBAファイナルに進出したブルズは、クライド・ドレクスラーを擁するポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。

 

ジョーダンに似たタイプで得点力のあるシューティングガードのドレクスラーを相手に、ジョーダンは目覚ましいパフォーマンスを見せ、4勝2敗で2年連続の優勝を実現した。

 

ブレイザーズは、1984年のドラフトで全体2位指名権を持ちながらジョーダンを指名しなかった。

 

後にジョーダンは「あの時ブレイザーズに指名されないで本当によかった」と冗談交じりに語っている。

 

次の1992-93シーズンは、ブルズは57勝と前シーズンより10勝減らしたが、プレーオフでは再びNBAファイナルに進出した。

 

ウェスタン・カンファレンスを制したのはフェニックス・サンズで、ジョーダンの親友でもありチームのエース、チャールズ・バークレーはこのシーズンMVPに選ばれた。

 

レギュラーシーズンの勝ち数がリーグ最多だったサンズはホームコートアドバンテージを持っており、ブルズはホームでの試合数が一つ少ない不利を抱えていた。

 

シリーズは敵地での6試合目を制したブルズが勝利し、3度目の優勝を決めた。

 

このシリーズで平均41得点(NBAファイナル歴代最高)をあげたジョーダンはMVPに選ばれた。

 

1980年代末より「3連覇」を意味する「スリーピート」という言葉が使われていたが、NBAのチームがこれを実現するのは1960年代のボストン・セルティックス以来のことだった。

 

3連覇達成後シーズンオフの1993年7月23日、不慮の事件によって父親を失ったジョーダンは、突如引退を表明した。

 

全盛期にあっての引退はNBAとメディアに衝撃を与えた。

 

1993年10月の引退表明の会見でジョーダンは「もはや証明するものはない」と述べたが、以前より続いていたバッシング、3連覇達成によるモチベーションの低下、父を失った衝撃が引退の動機になったとマスコミは推測した。

 

ジョーダンは引退後、突如として野球への転向を表明。家族が住む地元シカゴのシカゴ・ホワイトソックスのキャンプに参加した。

 

多くのファンはマイケルが父親を殺害された悲しみを紛らわせるため子供の頃のもう一つの夢を追求したのだと解釈し、ジョーダン自身も「最初の優勝の後に父親と約束した夢」だと述べている

 

一方で、ホワイトソックスのオーナーはシカゴ・ブルズのオーナーでもあるジェリー・ラインズドーフであるため、実力ではなくコネで入団したのだと反感を持つ野球の選手やファンもいた。

 

ジョーダンは1993-94年のNBAシーズン開幕2日前にMLBのシカゴ・ホワイトソックス傘下AA級バーミングハム・バロンズに入団した。

 

専門家はプロレベルの変化球を打つのは困難だろうと予測し、権威あるスポーツ誌のなかには「ジョーダン、諦めろ」と言う記事を掲載することもあった。

 

18歳以来10年以上ぶりの野球、しかも当時はピッチャーであった彼はほとんどバッティング経験がないと言うに等しく、その成績は特に春のうちは惨憺たるもので、最終的にも127試合の出場で打率2割0分2厘・11エラーとメジャーリーグに昇格することは出来ない成績だった。

 

しかしジョーダンは一回り年下の選手たちに混じりバスで遠征先を周り、朝からバッティング練習を行う、1日1000スイングを行うなど懸命に練習を重ねた。

 

夏頃には初期に苦労した直球に対応し、続けて投げられるようになった変化球にも対応を見せ、ホームランを打つなど徐々に成績が上向いていた。

 

1995年3月に再びブルズに復帰。

 

メディアは大々的にジョーダンの復帰を報じた。シーズン末の17試合に参加し、チームはプレーオフに臨んだ。

 

プレーオフでは、1回戦でシャーロット・ホーネッツを3勝1敗で下し、続くカンファレンス・セミファイナルではオーランド・マジックと対戦した。

 

オーランドはシャキール・オニールとアンファニー・ハーダウェイという二人の才能ある若手を擁した新進気鋭のチームだった。

 

このシリーズ、ジョーダンは重要な場面で些細なミスを繰り返し、2勝4敗でブルズが敗退する原因の一つとなった。

 

1994-95シーズン終了後のオフ、ジョーダンはバスケットボールの体型を取り戻すべく、そして再び優勝を狙うために懸命にトレーニングを行った。

 

オフにはジョーダン主演の映画撮影も行われたが、映画撮影の場所付近にジョーダン専用のバスケットボールゴールを設置。

 

ジョーダンの呼びかけに、ピッペン、オニール、レジー・ミラーなどNBAの主力選手が集まり、ジョーダンと共に練習をした。

 

後にジョーダンは、このオフの練習で従来のバスケットボールの感覚を取り戻し、相手選手の動きを把握できるようになったといった。

 

1995-96シーズンが始まると、ブルズは快進撃を続け、NBA史上最高の勝利数を狙えるほどの勢いだった。

 

ジョーダン、ピッペン、そしてかつての宿敵デトロイト・ピストンズでプレーしていたデニス・ロッドマンがサンアントニオ・スパーズから移籍してきてリーグ最強の3人組として注目を集めた。

 

また、欧州出身の長身シューターであるトニー・クーコッチ、優秀なディフェンダーであるロン・ハーパーも陰からチームを支えた。

 

ジョーダン自身は、1993年以前の強烈なスラムダンカーというよりは、技巧的なジャンプシューターとしてプレーしていたが、平均得点30.4で8度目の得点王に輝くことになる。

 

シカゴ・ブルズは72勝10敗でレギュラーシーズンを終えた。

 

この勝ち数はゴールデンステート・ウォリアーズが2015-16シーズンに記録するまでのレギュラーシーズン最多勝利記録(ウォリアーズが73勝9敗で新記録)であり、70勝を超えたチームも歴史上初だった。

 

ブルズは数字上史上最強のチームとしてプレーオフに臨み、NBAファイナルでシアトル・スーパーソニックスと対戦。

 

敵地のシアトルで2試合を落としたものの、6試合目にシカゴに戻り4度目の優勝を決めた。

 

ジョーダンは再びファイナルMVPを受賞した。

 

続く1996-97シーズン、ブルズは前シーズンより3勝少ない69勝でレギュラーシーズンを終える。

 

プレーオフでは、このシーズンもブルズはファイナルに進出。

 

ウェスタン・カンファレンスからは、ユタ・ジャズが勝ち上がってきた。

 

史上屈指の名コンビと言われるジョン・ストックトンとレギュラーシーズンのMVPカール・マローンを相手に、シリーズは4勝2敗でブルズがものにする。

 

初戦のブザービーターや敵地ソルトレイクシティでの病気を押してのパフォーマンスが注目されたジョーダンが再びMVPに選ばれた。

 

ブルズとジョーダンの優勝回数は5回となっていた。

 

続く1997-98シーズンは、フィル・ジャクソン監督がシーズン後の退任を早い時期から仄めかしており、ピッペンはチーム経営陣との関係を悪化させていた。

 

強豪ブルズは今年で最後かという観測を、マスコミはジャクソンの表現を借りラストダンスという言葉で表した。

 

復帰以降、マスコミやファンはしばしばジョーダンの年齢を話題にするようになっており、「いつまでプレーするか」が関心の的になっていた。

 

ジョーダンは「ジャクソン監督とピッペンが辞めれば自分も辞める」と発言していたが、自身の進退については明言を避けていた。

 

このシーズンはブルズの2度目の「スリーピート」がかかっており、様々な意味で注目を集めることになった。

 

ブルズはNBAファイナルに進出し、対戦相手はこの年もユタ・ジャズだった。

 

両チームともレギュラーシーズンは62勝20敗だったが、シーズン中の対戦成績に勝っていたユタ・ジャズがホームコートアドバンテージを得ていた。

 

5戦目までで3勝2敗でシリーズの舞台をユタに戻し、臨んだ第6戦、ジョーダンは残り5.2秒で決勝シュートを決め、ブルズに6度目の優勝と2回目のスリーピートをもたらした。

 

この時、解説者のアイザイア・トーマスは「第4クウォーターのマイケルは殺し屋 (killer) だ」と述べた。

 

ジョーダンはシーズン終了後の1999年1月13日に2度目の引退を発表した。

 

NHL選手のマリオ・ルミューの活躍に触発されたジョーダンは、2001年に低迷を続けるウィザーズのために2度目の復帰を果たす。

 

以前はガードのポジションだったが、チーム事情によりスモールフォワードでプレーすることとなった。

 

彼の運動能力は年相応に衰えてはいたが、2001-02年シーズンはケガに悩まされながらも一試合平均23点の記録を上げた。

 

2002-03年シーズンは1試合平均20点を上げる。

 

ラストシーズンにはリーグ史上唯一の40歳で40得点という記録も樹立した。

 

復帰当初、ジョーダンはチームをプレーオフに進出させることを目標にすると明言していたが、2001-02シーズンは37勝45敗でイースタン・カンファレンス10位、2002-03シーズンは同じく37勝45敗でカンファレンス9位と目標を果たせずに終わった。

 

2002年NBAオールスターゲームにおいて、以前は彼の象徴であったスラムダンクを失敗し、視聴者は茫然とした。

 

しかし、2003年のオールスターゲームでは、試合終了間際に逆転フェイダウェイショットを決めた。

 

直後に同点にされたが、既にシーズン終了後の引退を表明していたジョーダンに対し会場からはジョーダンコールが繰り返された。

エピソード

Best of Michael Jordan’s Playoff Games | The Jordan Vault

 

ジョーダンは最も早い時期に頭をスキンヘッドにしたNBA選手の一人だった。

 

彼が年齢のわりに早く禿げあがり始めたことが理由の一つだったが、1990年代初頭以降スキンヘッドは北米の若者、特に黒人男性の間ではファッションとして受け入れられるようになった。

 

同じ時期、ジョーダンは大きめのショーツ(バギー・ショーツ)を穿いて試合に出るようになった。

 

これはユニフォームの下にノースカロライナ大の練習用ショーツを履く為。

 

この頃にはミシガン大学のファブ・ファイブと呼ばれた選手たちも同様のスタイルで話題を集めており、90年代のNBAではバギー・ショーツが主流になった。

 

プロ入り後もユニフォームの下に、母校のノースカロライナ大の練習用ショーツを常に履いていた。

 

主演した映画「スペース・ジャム」でも、これに言及する台詞がある。

 

毎試合新品のシューズを履いていた。

 

引退後のナイキのCM「What Is Love?」でも自分のバスケットに対する愛情の一つとして挙げている。

 

ジョーダンは商業的に最も成功を収めたアスリートの一人である。

 

1998年の時点でFoutune誌はジョーダンがプロフェッショナル入り以降100億ドルの経済効果を上げたと述べている。

 

これは本業のバスケットボールだけでなく、ナイキ、マクドナルド、コカ・コーラ、ゲータレードなどとのスポンサーシップなしには果たし得ない。

 

特に1980年代に、当時新進気鋭の映画監督だったスパイク・リー指揮によるナイキの一連のCMが成功したことが大きい。

 

ジョーダンが最初期にかかわり、以後も最も重要になったのはスポーツ用品メーカーナイキとの関係だった。

 

ジョーダンは新人のシーズンよりナイキとの契約を結び、自身の名前をブランドに取り入れたバスケットボールシューズ「エア・ジョーダン」シリーズの生産・発売が開始された。

 

ジョーダンは引退後、突如として野球への転向を表明。

 

家族が住む地元シカゴのシカゴ・ホワイトソックスのキャンプに参加した

 

多くのファンはマイケルが父親を殺害された悲しみを紛らわせるため子供の頃のもう一つの夢を追求したのだと解釈し、ジョーダン自身も「最初の優勝の後に父親と約束した夢」だと述べている。

 

日常生活ではゴルフを愛好しており、試合のある日に数ホール回ることもしばしばあった。

 

ゴルフ好きが行きすぎ、1990年代前半には賭けゴルフが社会の批判を浴びたこともあった。

 

ジョーダンは食品関係の広告も幅広く行った。

 

マクドナルドのCMに出演し、地元のシカゴでは「マクジョーダン・スペシャル」というメニューが出された。

 

ゲータレードのCMで採用された「Be Like Mike」「マイク(マイケル)みたいになりたい」という歌は広く知られた。

 

他にコカ・コーラのキャラクターになったほか、シリアル食品「ウィーティーズ (Wheaties)」でもジョーダンの姿がパッケージに登場した。

 

ジョーダンは下着メーカーヘインズとも広告契約を結び、香水・装飾品メーカーのビジャンからは「マイケル・ジョーダン・コロン」が発売された。

 

1996年には映画『スペース・ジャム』に出演し、アニメのキャラクターバッグス・バニーやラリー・バード、チャールズ・バークレー、俳優のビル・マレイらと共演した。

 

ジョーダンはシカゴやニューヨーク、故郷のノースカロライナ州にレストランを持っている。

 

また、AMAスーパーバイクシリーズにチームを持っており、Moto-GPを観戦する姿が度々報道されるなど、かなりのバイク好きでもある。

 

2004年のバレンシアGPでは自らの手でMotoGPマシン(ドゥカティ・デスモセディチ)を試乗した。

 

2018年10月Eスポーツのフランチャイズ、TeamLiquidを所有するaXiomaticへジョーダン、Declaration Capital、およびCurtis Polkが投資したことを同社より発表された。

 

「aXiomaticへの投資によって私のスポーツ株式投資の幅が広がることを楽しみにしている。

 

Eスポーツは急成長中の国際産業であり、このすばらしい投資家グループと共に参加できることを嬉しく思っている」とジョーダンが声明で語ったとされる

プレースタイル

Michael Jordan Top 10 Plays of Career

 

ポジションはシューティングガード(SG)を務めていたが、ポイントガードやスモールフォワードでも難なくプレイできるオールラウンダーであった。

 

  • シーズン得点王‐‐通算10回
  • 通算29,292得点‐‐歴代第4位
  • 一試合平均31.5得点‐‐歴代第1位

 

二度目の引退を表明した1997‐98シーズン終了時点で上述の輝かしい記録を保持していた。

 

得点パターン

インサイドでは華麗なムーヴから生み出すダンク、独創的なステップから繰り出すレイアップを多用。

 

アウトサイドでは長い滞空時間を活かして流麗なフォームからジャンパーを放つなど、幅広いオフェンススキルを駆使して得点を量産した。

 

初期のジョーダンのトレードマークは“Air”と形容される豪快なダンク、空中で体勢を変えてディフェンダーをかわすダブルクラッチなど、ほかの選手が決して真似できない空中でのプレイであった。

 

加齢に伴い、運動能力が低下したキャリア後期にはプレイスタイルを変え、ディフェンダーから遠ざかりつつ放つフェイドアウェイを必殺武器にしてミドルレンジから多くの得点を奪うなど、臨機応変にキャリアを通じて得点能力の高さは維持された。

 

一方で長距離シュートを担うSGでありながら、スリーポイント試投数・成功数は多くなかった。

 

成功数が100本を超えたのは2シーズンのみ。

 

名シューターと謳われる選手のほとんどがキャリアで1,000本以上を記録する昨今において、ジョーダンの通算成功数は581本と決して多くない。

 

また1990年のオールスター前夜祭のスルーポイントコンテスト出場時には、歴代最小の5本に終わる。

 

ディフェンス

 

オフェンス面で卓越していただけでなく、リーグ屈指のディフェンダーでもあった。

 

1988年以降は、引退していたシーズンを除いて1998年まで9回オールNBAディフェンシブ1stチームに選出されている。

 

1988年にはシーズンMVPと最優秀守備選手を同時受賞した。

 

最も目立つのはキャリア通算2514スティールで、これはジョン・ストックトン、ジェイソン・キッドに次ぐ歴代3位、1試合平均で2.35スティールは歴代4位の記録。

 

キャリア初期は、その跳躍力に物を言わせてガードとしては異例の1試合平均1本以上のブロックショットを記録していた。

 

NBAの重鎮ジェリー・ウェストをして、「ジョーダンのディフェンス能力はオフェンス以上に強烈だった」と言わしめるほどであった。

 

1998年のNBAファイナル第6戦のウィニングショットも、ユタ・ジャズのカール・マローンからのスティールから生まれた。

 

リバウンドでも1試合平均で6.2本と、同ポジションとしては非常に高い数字を残している。

 

大舞台での実績

 

大舞台での驚異的な勝負強さもジョーダンの特徴のひとつである。

 

プレイオフの緊迫した状況での活躍は数々の名場面を生み出し、その度に勝利を勝ち取る姿はファンの記憶に残ることとなった。

 

体調不良の中でも、フラフラになりながらチームを勝利に導いたり、相手チームから徹底マークされても闘志をむき出して闘ったり、まさに勝負の鬼とも言える活躍であった。

 

ゲーム自体を俯瞰できるのではないかと思わせるほど勝負所を見据えて、特に終盤になるほど得点を重ねる姿は圧巻の一言で、歴代でも並ぶものがいないほどのクラッチシューターである。

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