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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

ヨハン・クライフ

サッカー

概略

【サッカー界の伝説】ヨハン・クライフ 特徴解説  HD 1080p(海外サッカー)
国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 1947年4月25日
出身地 アムステルダム
没年月日 2016年3月24日(68歳没)
身長 176cm
体重 67kg

 

ポジションはフォワード(セカンドトップ、ウインガー)、ミッドフィルダー(オフェンシブハーフ)。

 

利き足は右。

 

リヌス・ミケルス監督の志向した組織戦術「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手であり、選手時代に在籍したアヤックスではUEFAチャンピオンズカップ3連覇、オランダ代表ではワールドカップ準優勝に導いた実績などからバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。

 

フランツ・ベッケンバウアー(ドイツ)と並ぶ1970年代を代表する選手であり、ペレ(ブラジル)やアルフレッド・ディ・ステファノやディエゴ・マラドーナ(共にアルゼンチン)と並ぶ20世紀を代表する選手と評されている。

 

引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスやFCバルセロナの監督を務めると、バルセロナではリーガ・エスパニョーラ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収めた

 

その後は監督業から退いていたが2009年から2013年までカタルーニャ選抜の監督を務めた。

 

相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、スペイン語で救世主を意味する「エル・サルバドール」など、様々なニックネームを持つ。

 

獲得タイトル

 

アヤックス
  • エールデヴィジ (8) : 1965-66, 1966-67, 1967-68, 1969-70, 1971-72, 1972-73, 1981-82, 1982-83
  • KNVBカップ (5) : 1966-67, 1969-70, 1970-71, 1971-72, 1982-83
  • UEFAチャンピオンズカップ (3) : 1970-71, 1971-72, 1972-73
  • UEFAスーパーカップ (2) : 1972, 1973
  • インターコンチネンタルカップ (1) : 1972
バルセロナ
  • ラ・リーガ (1) : 1973-74
  • コパ・デル・レイ (1) : 1977-78
フェイエノールト
  • エールディヴィジ (1) : 1983-84
  • KNVBカップ (1) : 1983-84

個人タイトル

 

  • バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)(3): 1971, 1973, 1974
  • オランダ年間最優秀選手賞 (3) : 1968, 1972, 1984
  • エールデヴィジ得点王 (2) : 1967, 1972
  • オランダ年間最優秀スポーツ選手賞 (2) : 1973, 1974
  • ドン・バロン・アワード年間最優秀外国人選手 (2) : 1977, 1978
  • 北米サッカーリーグ年間最優秀選手 (1) : 1979
  • ワールドサッカー選定 20世紀の偉大なサッカー選手100人 3位 : 1999
  • 20世紀ワールドチーム : 1998
  • 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀最優秀選手 2位 : 1999
  • 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀欧州最優秀選手 : 1999
  • 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀オランダ最優秀選手 : 1999
  • フランス・フットボール選定20世紀最優秀選手 3位 : 1999
  • UEFAジュビリーアウォーズオランダ最優秀選手 : 2003
  • FIFA100 : 2004

 

その他

  • フランシナ・ブランカース=クン キャリア賞 : 2005
  • ローレウス世界スポーツ賞生涯功労賞 : 2006
  • FIFA功労賞 : 2010
  • UEFA会長賞 : 2013

 

経歴

Johan Cruijff ● Amazing skills and Goals ● HD
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1964-1973 オランダの旗 アヤックス 240 (190)
1973-1978 スペインの旗 バルセロナ 143 (48)
1979-1980 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス・アズテックス 27 (14)
1980-1981 アメリカ合衆国の旗 ワシントン・ディプロマッツ 27 (10)
1981 スペインの旗 レバンテ 10 (2)
1981 アメリカ合衆国の旗 ワシントン・ディプロマッツ 5 (2)
1981-1983 オランダの旗 アヤックス 36 (14)
1983-1984 オランダの旗 フェイエノールト 33 (11)

 

代表歴
1966-1977 オランダの旗 オランダ 48 (33)

 

クラブ

 

16歳の時に1964年にトップチームへの昇格とプロ契約を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500ギルダー(約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ。

 

クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では1954年からプロ契約が認められクライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であったピート・カイザーとする指摘がある。

 

同年11月15日にアウェーで行われたGVAV戦でデビューを果たし、試合は1-3で敗れたものの初得点を挙げ、11月22日にホームで行われたPSVアイントホーフェン戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した。

 

一方、バッキンガムや彼の後任として1965年1月に監督に就任したリヌス・ミケルスの下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された。

 

これはクライフの素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり、精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している。

 

ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ。

 

1965年10月24日に行われたAFC DWS戦でクラース・ヌニンハとの交代で1965-66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献。

 

同シーズンに19試合に出場し16得点をあげエールディヴィジ優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かすことのできない選手となっていた。

 

若い頃のクライフは自身より1歳年上でマンチェスター・ユナイテッドFCに所属していたジョージ・ベストに例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあったが、クライフは1950年代のスター選手であるアルフレッド・ディ・ステファノのファンであり、ベストに例えられることを嫌っていた。

 

才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消したベストではなく、ディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた。

 

国内では1965-66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回 (1965-66, 1966-67, 1967-68, 1969-70, 1971-72, 1972-73)、KNVBカップ優勝4回 (1966-67, 1969-70, 1970-71, 1971-72)。

 

個人としても1966-67シーズンに33得点、1971-72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した。

 

UEFAチャンピオンズカップには1966-67シーズンに初出場を果たし2回戦でビル・シャンクリー監督が率いるイングランドのリヴァプールFCと対戦した。

 

この試合前のアヤックスの評価は低かったが、濃霧の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5-1と大勝した。

 

敵地での第2戦を前に相手のシャンクリー監督は「我々が7-0で勝利する」と記者に対し公言したが、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2-2と引分け、準々決勝進出へ導いた。

 

続くデュクラ・プラハ戦では敵地での第2戦で敗れたため準決勝進出を逃したが、「霧の試合」と称されるリヴァプール戦の勝利を境にミケルス指揮下のアヤックスは国際的な名声を集め、オランダサッカー界の今後を示す試金石となった。

 

また、クライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった。

 

1967-68シーズンには1回戦でスペインのレアル・マドリードに敗退。

 

1968-69シーズンには準々決勝でポルトガルのSLベンフィカ、準決勝でチェコスロバキアのスパルタク・トルナヴァを下すなどオランダ勢として初の決勝進出を果たしたが、決勝ではイタリアのACミランに1-4で敗れた。

 

1970-71シーズンには決勝でギリシャのパナシナイコスFCを下し初優勝に貢献すると、1971年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位のサンドロ・マッツォーラ(57ポイント)、3位のジョージ・ベスト(56ポイント)を抑えて初受賞を果たした。

 

1971-72シーズンにはミケルスが退任しルーマニア人のシュテファン・コヴァチが監督に就任した。

 

コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた。

 

準決勝でポルトガルのSLベンフィカを下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの、決勝でイタリアのインテル・ミラノと対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2-0と下し2連覇を達成した。

 

この大会の勝者として挑んだインターコンチネンタルカップではアルゼンチンのCAインデペンディエンテと対戦し2試合合計4-1のスコアで初優勝した。

 

1972-73シーズンには準々決勝でフランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤーを擁する西ドイツのFCバイエルン・ミュンヘンと対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた。

 

ホームでの第1戦に4-0で完勝するとアウェイでの第2戦を1-2で敗れたものの合計5-2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアのユヴェントスFCを下し3連覇を達成した。

 

1973年のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位のディノ・ゾフ(47ポイント)、3位のゲルト・ミュラー(44ポイント)を抑えて2回目の受賞を果たした。

 

アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年5月26日にスペインの外国人選手規定が改正されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化。

 

この移籍を巡ってヤープ・ファン・プラーフ会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した。

 

また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し、サポーターからも批判を受けるようになったが、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった。

 

1973年夏、600万ギルダーという金額でスペインのFCバルセロナに移籍。

 

なお、この移籍金額は同年7月にイタリアのピエリーノ・プラティがACミランからASローマへ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった。

 

移籍成立後は手続きが遅れたため、リーグ戦デビューは1973-74シーズン開幕後になり、同年10月28日に行われたグラナダCF戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4-0で勝利した。

 

同年12月22日に行われたアトレティコ・マドリード戦ではアクロバティックな得点を決める活躍を見せたが、この得点は1999年にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上最高の得点に選ばれた。

 

1974年2月17日、敵地のサンティアゴ・ベルナベウで行われたレアル・マドリード戦(エル・クラシコ)では5-0と歴史的勝利に貢献し、同年4月17日、敵地でのスポルティング・デ・ヒホン戦で4-2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた。

 

また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した。

 

当時のスペインはフランシスコ・フランコの独裁政治の時代にあったが、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた。

 

クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていったが、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「救世主」と讃えた。

 

1974-75シーズンにはオランダ代表の同僚であるヨハン・ニースケンスの獲得をクラブ首脳陣に推挙したこともありチームに加わったが、ギュンター・ネッツァーとパウル・ブライトナーを擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された。

 

1975-76シーズンには西ドイツのボルシア・メンヒェングラートバッハを指揮して実績のあるヘネス・バイスバイラーが監督に就任したがクライフとの確執が続き、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。

 

6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した。

 

これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが、1976年3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ。

 

なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した。

 

翌1976-77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した。

 

また国際大会においてはUEFAチャンピオンズカップ 1974-75では準決勝進出を果たすもイングランドのリーズ・ユナイテッドに敗退、UEFAカップ1975-76では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、UEFAカップ1976-77では準々決勝でアスレティック・ビルバオに敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973-74シーズンほどの結果を残すことはできなかった。

 

成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている。

 

またクライフ自身は強気な性格が災いし判定を巡って審判とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた。

 

バルセロナでの最後のシーズンとなった1977-78シーズンはコパ・デル・レイ決勝でUDラス・パルマスを3-1で下し優勝を果たしたものの、国際大会ではUEFAカップ1977-78では準決勝でオランダのPSVアイントホーフェンと対戦し2試合合計3-4のスコアで敗れた。

 

リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、1978年5月27日に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した。

 

クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、北米サッカーリーグ (NASL) のニューヨーク・コスモスだった。

 

同クラブのオーナーを務めるスティーヴ・ロスは、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した。

 

一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し、恩師のミケルスが監督を務めるロサンゼルス・アズテックスと契約した。

 

契約内容は年俸70万ドル(約1億5000万円)に、本拠地とするローズボウルで観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された。

 

また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った。

 

1979年5月19日、ロチェスター・ランチャーズ戦でデビューすると、前半10分のうちに2得点をあげ、後半には3点目の得点をアシストし、3-0と勝利した。

 

アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだったヴィム・シュルビア、レオ・ファン・フェーン、フープ・スメーツらといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった。

 

チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝でバンクーバー・ホワイトキャップスに敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた。

 

1980年2月、首都ワシントンD.C.を本拠地とするワシントン・ディプロマッツに移籍した。

 

同年3月29日、タンパベイ・ロウディーズ戦でデビューしたがPK戦の末に2-3で敗れた。

 

ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだったビム・ヤンセンが在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた。

 

1981年、クライフはオランダのDS’79の会長の依頼を受けてロブ・レンセンブリンクと共に招待選手として同クラブに参加。

 

同年2月26日、スペイン・セグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のレバンテUDへ移籍することに合意した。

 

クライフは3月2日に行われたCFパレンシア戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した。

 

一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている。

 

クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した。

 

クライフはレバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた。

 

当時のアヤックスはマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトやジェラルド・ファネンブルグといったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの多くの結果を残すことが出来ずにいた。

 

クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦でAZアルクマールやPSVアイントホーフェンに敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981-82シーズンのリーグ優勝を果たした。

 

2年目の1982-83シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ 1982-83に出場し、1回戦でスコットランドのセルティックFCと対戦。

 

アウェーでの第1戦を2-2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1-1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3-4のスコアで敗退した。

 

この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった。

 

リーグ戦ではフェイエノールトとの間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、1983年5月1日に行われたフェイエノールトとの直接対決を3-3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持。

 

5月1日に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4-1と勝利しリーグ連覇を達成した。

 

1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブのフェイエノールトへ移籍し1年契約を結んだ

 

この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり、8月21日に行われたリーグ戦開幕戦のFCフォレンダム戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した。

 

フェイエノールトでは当時21歳のルート・フリットらとチームメイトとなった。

 

リーグ戦でもPSVアイントホーフェンやアヤックスとの優勝争いを制すると5月6日に行われたヴィレムII戦で5-0と勝利し1973-74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた。

 

クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった。

 

既に引退の意思を表明していたクライフは5月13日に行われたPECズヴォレ戦が最後の公式戦出場となり、この試合の79分にマリオ・ベーンとの交代でピッチを退いた。

 

クライフの現役選手として最後の試合はサウジアラビアで行われた。

 

この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった。

 

クライフは前半をサウジアラビア代表の選手として後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後にはファイサル・ビン=ファハド王子から記念品として24金製の食器が贈呈された。

 

代表

 

オランダ代表としては1966年9月7日に行われたUEFA欧州選手権1968予選のハンガリー戦で代表デビューを飾った。

 

同年7月に行われた1966 FIFAワールドカップでブラジルを下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた。

 

しかし同年11月6日に行われたチェコスロバキアとの親善試合において、主審を務めたルーディー・グロックナーに抗議をした際に退場処分を受けた。

 

グロックナーはクライフを退場させた理由について、「生意気なクライフにお灸をすえるためだった」と説明しており、「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが、オランダサッカー協会 (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下した。

 

1970 FIFAワールドカップ予選ではブルガリアやポーランドに敗れ、UEFA欧州選手権1972予選ではユーゴスラビアに敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。

 

1974 FIFAワールドカップ・予選では隣国のベルギーと同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた。

 

1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0-0の引分け)の結果により、1938年大会以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった。

 

翌1974年に西ドイツで開催される本大会に向けチームの立て直しが求められると、KNVBはチェコスロバキア出身のフランティシェク・ファドルホンツを監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していたリヌス・ミケルスを監督に迎えた。

 

ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから、かつて自身が率いていたアヤックスのメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを選出した。

 

また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた。

 

クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた。

 

1次リーグ初戦のウルグアイ戦を2-0で勝利を収め、第2戦のスウェーデン戦を0-0で引き分けたが、第3戦のブルガリア戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた。

 

2次リーグにおいてもアルゼンチンを4-0、東ドイツを2-0で下し第3戦を迎えた。

 

試合相手は前回大会の優勝国であるブラジルだったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破したルート・クロルのクロスをジャンピングボレーシュートでゴールに決め1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした。

 

このゴールが「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」という異名で呼ばれるきっかけとなった。

 

決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルであるフランツ・ベッケンバウアーらを擁する西ドイツとなった。

 

西ドイツは開幕前にイギリスのブックメーカーが発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていたが、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった。

 

戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった。

 

試合は開始2分にクライフのドリブル突破からPKを獲得し、これをニースケンスが決めて先制した。

 

しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までにパウル・ブライトナーとゲルト・ミュラーの得点により2-1と逆転した。

 

後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツのベルティ・フォクツの徹底したマークを受けて動きを封じられたこともあり得点はならず、1-2で敗れ準優勝に終わった。

 

この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられるが、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。オランダ人に(ドイツ人のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた。

 

選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け、国王への謁見を許されたが、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという。

 

その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームはスタンリー・キューブリックにより映画化された同名小説に準え「時計じかけのオレンジ」と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム」「我々に未来のサッカーを啓示した」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する」と評価された。

 

1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退きジョージ・クノベルが就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まったUEFA欧州選手権1976予選に参加。

 

予選1次グループではポーランドやイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5-0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。

 

1976年にユーゴスラビア連邦で行われた本大会では、準決勝でチェコスロバキアと対戦することになったが、地元のユーゴスラビアやワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた。

 

一方、オランダは優勝候補の筆頭と目されていたが、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した。

 

チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審のクライヴ・トーマスに抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となったが、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1-3で敗れた。

 

なおクライフは予選から通算2枚目の警告を受けたことで次の3位決定戦は出場停止となったため、チームには帯同せず帰国した。

 

3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり、地元のユーゴスラビアを3-2で下して3位となった。

 

同年9月から始まった 1978 FIFAワールドカップ・予選にも引き続き参加し、隣国のベルギーや北アイルランドを退けて2大会連続で本大会出場を果たした。

 

しかし1977年10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌1978年にアルゼンチンで開催される本大会への出場は辞退することになった。

 

クライフに続いてストライカーのルート・ヘールスやキーパーのヤン・ファン・ベフェレン、前回準優勝メンバーのヴィレム・ファン・ハネヘムらも大会への参加を辞退することになった。

 

ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンはホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため」など様々な憶測が囁かれた。

エピソード

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引退後は指導者としても成功した。

 

自分の理想や目標を達成するために周囲を引きこんでいく並外れたカリスマ性のある人物と評されている。

 

「私が思い出すことは、私が一番優れていたということだけだ」「多くの人々から『最高の選手』と賞賛されるが、自分でもそのように考えている。しかし裏返せば多くの低水準な選手達と共に長年プレーをしていたことを意味する」と公言してはばからない自信家であり我が強く、ミスを絶対に認めない頑固さを持ち合わせていた。

 

一方で、こうした自信家としてや感情的な側面は、報道陣や他の選手からの介入や外部の人間からの圧力を避けるための身を守るための人格であり、根底には親切心があり有名人然として振る舞うことを嫌っているともいわれていた。

 

会話好きな性格で一旦話し出すと止まらない側面があった。

 

選手時代には試合中に休むことなく選手に指示を出していたことからドラマの『わんぱくフリッパー』の主人公のイルカになぞらえて「フリッパー」とも呼ばれた。

 

バルセロナの監督を務めていた1990年代にオランダの番組のインタビューに応じたところ予定の時間を上回り30分近く会話を続けたため、番組スタッフが編集作業で取捨選択することが困難となり、改めてクライフのための番組が製作された。

 

また、オランダ国民には兵役が義務付けられているが招集を受けた際にクライフが医師と直接交渉して相手を根負けさせ兵役が免除されたエピソードや、1971年にオランダ君主のユリアナ女王と接見した際に税制についての見直しを直訴したため物議を醸したエピソードもある。

 

選手時代はプーマ社とスポンサー契約を結んでいた。

 

1974 FIFAワールドカップのオランダ代表ではオランダサッカー協会が契約していたアディダス社のサッカーシューズを使用することを拒否し、アディダスのシンボルである3本線が入ったユニフォームをクライフだけは2本線に変更して試合に出場していた。

 

また監督時代には、自らが設立したスポーツブランド『クライフ・スポーツ』以外のジャージやスーツを着用することを拒否した。

 

趣味のゴルフは選手時代にオランダからスペインへと移籍した直後の1973年頃に始めた。

 

その際にプロゴルファーのセベ・バレステロスを紹介され、彼がクライフの所属するバルセロナのファンだったことから交流を続けたという。

 

引退後は数多くのアマチュアトーナメントに出場しているが、2006年6月に専門誌『ゴルフ・ウィークリー』が掲載したオランダゴルフ協会のハンディキャップインデックスによるとクライフのハンディは35,3だった。

 

15歳の頃からヘビースモーカーであり、選手時代にはハーフタイム中に体を休める仲間達を尻目に一服していたとの逸話もあった。

 

引退し監督になった後も喫煙は続けられベンチで頻繁にタバコをふかす姿が確認されていたが、1991年2月26日に心筋梗塞により倒れ、バイパス手術により一命は取り留めた。

 

手術後は医師から禁煙が言い渡され、タバコの代わりにチュッパチャプスを舐めるようになった。

 

またカタルーニャ州政府の依頼により、若者の喫煙防止のためのコマーシャルに出演した。

 

このコマーシャルは背広姿のクライフがボールの代わりにタバコの箱をリフティングし、「サッカーはつねに私の人生だった」と言ったわずかな沈黙の後に箱を蹴り飛ばすと箱は破裂し、最後に若者に向けて「喫煙は危うく私の人生を奪うところだった…」というメッセージが添えられるという内容だった。

プレースタイル

Johan Cruijff- Legendary goals/skills/passing

 

身長176cm、体重67kgという細身の体躯をしていたが、瞬間的な加速力を生かしたドリブル突破を得意とし、急加速急停止を繰り返し相手守備陣を翻弄した。

 

細身の外見であるにも関わらずマークすることが難しく、捕らえ所がなかったことからオランダでは「ウナギ」とも呼ばれていた。

 

利き足の右だけでなく左足でも正確なパスを供給する技術の正確性を持ち合わせていた。

 

両足での高いパス精度を持ち合わせる反面、現役時代を通じてペナルティキックを滅多に蹴ることがなかったことでも知られる。

 

この理由についてクライフは「第一に静止した状態ではなく、試合の流れの中でのキックを得意としていたため。第二にキックの威力の問題があったため」としている。

 

ピッチ上においての全体的な状況を把握する能力に長けており、味方選手がプレーするためのスペースを生み出し、見出す為には「いつどこにポジションを採るのか」「いつどこに走り込むのか」「いつどこでポジションを離れてはいけないのか」について常に思考していたという。

 

試合時にはオーケストラの指揮者の様に仲間達に対して詳細に指示を送り自らの思考を伝えた。

 

ピッチ上での指揮官ぶりは時にドリブルやパス、スペースへの走り込みといった積極的にボールへと関わるプレーよりも印象を残した。

 

名義上はセンターフォワードというポジションだが、試合が始まると最後尾や中盤、タッチライン際という具合に自由にポジションを代えてボールを受け、ドリブルやパスで攻撃を組み立てると共に、得点機に絡んだ。

 

また、他の選手もクライフの動きに連動してポジションを目まぐるしく移動させた。

 

チーム全体がクライフの動きに応じてポジションを修正する様は「渦巻き」「変幻自在」と評され、その中心には常にクライフが存在した。

 

この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながら180度ターンする「クライフターン」と呼ばれるフェイントを考案したことでも知られ、サッカーの基本テクニックの一つとなっている。

 

思想

Johan Cruijff is art

 

選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり、攻撃をせずに守備を固めるような、美しくないサッカーに価値はないという思想を持っていた。

 

そのためカウンターアタックに代表される守備的な戦術、中盤を省略してボールポゼッションと相互のコンビネーションを欠いた戦術、一部のスター選手の個人主義と個人技に頼った戦術、結果のみを重視する風潮に対しては常に批判的だった。

 

こうしたスタイルの実践は退屈なサッカーの横行に繋がるだけでサッカーの為にならないと主張しているが、自らの理想とするサッカーを遂行する上で最も重要な要素は走力ではなく頭脳や技術であるとし次のような言葉を残している。

 

試合の中でのスピードを維持するために、パスは味方の足下ではなく常に味方の1m先に出さなくてはならない。また、選手Aが選手Bにパスを出す際、3人目の選手CはBからパスが出る場所を予測して走りこむように心がける。サッカーとは頭で考えるスポーツなのだ。
近年、試合中に最も多くの距離を走った攻撃陣の選手が賞賛される傾向にあるが、私のサッカー観とは相反している。1試合で10kmも攻撃陣の選手が走るのは間違ったポジションを採っていることに他ならない。守備陣の選手は良いとしても攻撃陣の選手が走り回り体力を浪費することは、重要な局面での瞬間的な閃きや判断力が鈍りチームに悪影響を及ぼすことに繋がる。

この他に、クライフはことある機会に「サッカーとは楽しむものである」という趣旨の言葉を残しているが、現代のサッカー界にはその「楽しさ」が欠けているとして以下の言葉を残している。

 

現代のサッカーには「楽しさ」が欠けている。子供のころから、走ること、闘うこと、結果を求めることばかり追求し、基本的な技術すら身に付けないことは馬鹿げている。
私が現役のころはプレーをすることが楽しくてしかたなかったが、時代が変わったのだろうか。顔を引きつらせ拳を握り締めながらプレーする選手はプレーを楽しんではいないし、サッカー選手というよりは陸上選手である。私は理想主義者だから、サッカー選手がいい。

なお、2002年ワールドカップでブラジルが優勝した際には個々の能力は評価しつつルイス・フィリペ・スコラーリの採用したカウンター戦術について「アンチフットボール」「ボールの出所にプレッシャーを掛け3-5-2フォーメーションの両サイドの選手を守備に忙殺させてしまえば平凡なチーム」と評したが、こうした歯に衣着せぬ発言について「率直に考えを述べているだけであって、優勝したこと自体を非難しているのではない。優勝したブラジルには敬意を表したい。ただし、魅力は感じない」と評している。

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