概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | アラバマ州ウェストフィールド |
生年月日 | 1931年5月6日(89歳) |
身長 体重 |
180.3 cm 81.6 kg |
ポジションは外野手、主に中堅手(センター)。
右投右打。
ニックネームは「セイ・ヘイ・キッド(The Say Hey Kid)」。
通算3283安打660本塁打338盗塁。
首位打者1回本塁打王4回盗塁王4回MVP2回。
メジャーリーグ史上最高の「コンプリート・プレイヤー」と称され、史上最高の中堅手と評価されることが多い。
タイトル
- 首位打者 1回:1954年(.345)
- 本塁打王 4回:1955年(51)、1962年(49)、1964年(47)、1965年(52)
- 盗塁王 4回:1956年(40)、1957年(38)、1958年(31)、1959年(27)
表彰
- シーズンMVP 2回:1954年、1965年
- 新人王:1951年
- ゴールデングラブ賞 12回:1957年 – 1968年
- ロベルト・クレメンテ賞 1回:1971年
- 野球殿堂入り:1979年
- MLBオールセンチュリーチーム選出(外野手):1999年
記録
- MLBオールスターゲーム選出 20回:1954年 – 1973年
- オールスターMVP 2回:1963年、1968年
- 30本塁打30盗塁 2回:1956年、1957年
- 史上初の300本塁打300盗塁達成:1969年
- 史上4人目(当時)の20二塁打20三塁20本塁打:1957年
- 通算刺殺数(外野手):7095(歴代1位)
経歴
経歴 | |
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ニグロリーグでのプレーを経て、1950年、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と契約。
1951年にAAA級のミネアポリス・ミラーズで35試合に出場して打率.477を記録し、同年の5月25日にメジャーデビューを果たした。
当初は12打数連続で安打を放てずにいたが、13打数目でウォーレン・スパーンからメジャー初安打・初本塁打を記録。
このシーズンは121試合に出場し、打率.274・20本塁打・68打点を記録し、新人王に選出された。
1952年に34試合に出場した後、朝鮮戦争に従軍し、一時的に野球を離れる。
1954年に復帰。
打率.345で首位打者のタイトルを獲得し、41本塁打・110打点の活躍でMVPに選出された。
ジャイアンツはナリーグのペナントを制し、ワールドシリーズではクリーブランド・インディアンスを4連勝で下してワールドチャンピオンとなる。
このワールドシリーズの第1戦で、メイズは「ザ・キャッチ」として語り継がれる伝説的ファインプレーを披露している。
1955年には51本塁打を放ち、最多本塁打のタイトルを獲得。
また、24歳137日で達成したシーズン50本塁打は2007年にプリンス・フィルダー(23歳139日)に更新されるまでメジャー最年少記録だった。
1956年は36本塁打・40盗塁を記録。
1957年は35本塁打・36盗塁で2年連続して30本塁打・30盗塁を達成。
1957年シーズン終了後ジャイアンツは本拠地をニューヨークからサンフランシスコへ移転。
新しいホームグラウンドのキャンドルスティック・パークはレフトからホームへ海からの強風が吹きこみ、メイズの引っ張った打球も強風で押し戻されることが多かったが20-20-20を達成。
1962年にはシーズン49本塁打で2回目の最多本塁打のタイトルを獲得。
1965年には2回目のMVPに選出され、同時に自己最多の52本塁打を記録した。
このシーズンの8月には17本塁打を放ち、月間本塁打のナ・リーグ新記録を樹立し、9月13日に通算500本塁打を達成した。
1966年5月4日に通算512本目の本塁打を放ち、メル・オットのナ・リーグ通算最多本塁打記録を更新。
しかし、1966年以降はシーズン30本塁打や100打点を記録することはできず、成績は徐々に下降線をたどる。
1967年は不調が続き、スポーツ・イラストレイテッド誌は「メイズの両目の下にはクマができている。おそらく不振で眠れないのだろう。すでに36歳。エネルギッシュで颯爽としていたプレーは、過去のものとなってしまった」との記事を掲載した。
これに対し、メイズは反論をせず、記事を認めるコメントをしている。
その一方で1970年1月17日に「スポーティング・ニュース」はメイズを1960年代最高の選手に選出した。
1972年5月12日にチャーリー・ウィリアムズと金銭50,000ドルでニューヨーク・メッツへトレード移籍。
1973年に現役を引退した。
エピソード
1954年のワールドシリーズはメイズ擁するニューヨーク・ジャイアンツとクリーブランド・インディアンスとの対戦で、第1戦は9月29日、ジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズで行われた。
2対2の同点で迎えた8回表、インディアンスは先頭のラリー・ドビーがフォアボールで出塁、続くアル・ローゼンのヒットでノーアウト一、二塁とチャンスを作る。
ここで打席に立ったヒグ・ワーツが打った打球はセンターのメイズの後方への大飛球となる。
この瞬間、誰もがインディアンスの勝ち越しを予期し、試合が決まったと思った。
しかし、この打球を懸命の背走で追ったメイズは、ほとんど振り向くことなく、全速力のままボールの落下点に到達。
グラブを大きく開いたメイズは肩越しに捕球すると同時に反転、内野に送球すると勢いで前方に倒れこんだ。
固唾を飲んで打球の行方を追っていた大観衆は、ヒット性の当たりがアウトになったことを悟り、大歓声をあげた。
ジャイアンツが絶体絶命のピンチを脱した一方で、インディアンスは試合を決めるチャンスを逃した。
結局この試合は延長戦にもつれ込み、最後はジャイアンツがサヨナラ勝ちを収めた。
そのまま勢いに乗ったジャイアンツは、下馬評で有利と見られていたインディアンスに4連勝(スウィープ)しワールドチャンピオンに輝いた。
このメイズのファイン・プレーはシリーズの流れを決し、メイズがボールをグラブに収める瞬間を見事にとらえた写真が広まったこともあり、「ザ・キャッチ」として今も語り継がれている。
また、この打球を放ったワーツは後に、「あの打球が三塁打かホームランになったら、みな私の事など忘れているだろう」と語っていたという。
プレースタイル
通算660本塁打を放ち、引退当時はベーブ・ルース、ハンク・アーロンに次ぐ3位だったことからもわかるように超打を武器にするホームランバッターだった。
バッティングだけではなく走攻守すべてにおいてトップクラスの能力を有していた。
守備能力も突出しており、「ザ・キャッチ」の話でもわかるように捕球や守備範囲の広さは秀でていた。
「ライフルアーム」と呼ばれた強肩の持ち主であった。
22年の現役生活で通算打率.302を記録した高打率を誇り、1951年新人王、ゴールデングラブ賞12回・本塁打王4回・盗塁王4回を獲得している。
まさに史上最高の「コンプリート・プレイヤー」万能プレイヤーである。