概略
誕生日 | 1959年8月14日(60歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | ミシガン州ランシング |
出身 | ミシガン州立大学 |
ドラフト | 1979年 1位 |
身長(現役時) | 206cm |
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体重(現役時) | 105kg |
ポジションはポイントガード(PG)
1980年代にラリー・バードやマイケル・ジョーダンらとともにNBAの世界的ブームを牽引したスーパースターであり、そのプレー、実績から歴代最高のポイントガード、ひいてはマイケル・ジョーダンやカリーム・アブドゥル・ジャバー等と並びNBA史上最高のプレイヤーの1人と評される。
選手時代にはNBAでポイントガードとしてプレーし、1980年代にロサンゼルス・レイカーズで5回の優勝に貢献する。
1991年にHIV感染を理由に引退。
1996年にNBA50周年を記念した「歴代の偉大な50人の選手(NBA50周年記念オールタイムチーム)」に選ばれた。
2002年に殿堂入りした。
ポイントガードからセンターまで全てでプレーすることができたため身長によるポジションの概念を覆し、それまで得点の陰に隠れ目立たないプレーであったパスを派手で華やかなものに変え、今では花形プレーの1つとされるノールックパスを世に広めた革命的な存在であった。
また、レギュラーシーズンの通算勝率73.95%(670勝236敗)は18-19シーズン終了時にカワイ・レナードに抜かれるまで歴代1位であった。
生涯通算アシスト数は10,141で、レイカーズ歴代1位、NBAでも歴代4位。プレーオフの通算アシスト記録2,346を保持。1983年、1984年、1986年、1987年と4度リーグのアシスト王。
1試合当たりの生涯平均アシスト数は11.2で歴代1位。
その他アシストに関する多数の記録を持つ。
「史上最高のポイントガード」を決めるランキングでは2位以下はランキングを決める媒体によってオスカー・ロバートソン、アイザイア・トーマス、ジョン・ストックトン、最近ではステフィン・カリー等の順位が入れ替わることがあるがマジック・ジョンソンはありとあらゆるランキングで必ず1位に選ばれていることから分かるように、彼の残したプレーや実績、NBAへの貢献度や偉大さは極めて絶大なものである。
獲得タイトル
・1992年バルセロナオリンピック 金メダル
・シーズンのMVP 1987年、1989年、1990年
・オールNBAファーストチーム 1983年ー1991年
・オールスター 1980年ー1992年
・オールスターMVP 1990年と1992年
・ファイナルMVP 1980年、1982年、1987年
・NBA50年の偉大な50人の選手 1996年
・バスケットボール殿堂 2002年
・歴代最高のポイントガードTOP10で1位 2016年(ESPN)
・生涯功労賞(NBAアウォーズ)2019年
- 5×NBAチャンピオン:1980, 1982, 1985, 1987, 1988
- NBAオールルーキーチーム 1stチーム:1980
- 4×アシスト王:1983, 1984, 1986, 1987
- 2×スティール王:1981, 1982
- No.32 ロサンゼルス・レイカーズ 永久欠番
- No.32 ミシガン州立大学永久欠番
- NCAAチャンピオン:1979
経歴
選手経歴 | |
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1979–1991, 1996 | ロサンゼルス・レイカーズ |
代表歴 | |
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キャップ | ![]() |
NCAAトーナメントで優勝を成し遂げた後、1979年にミシガン州立大学を2年生で中退し、NBA入りすることを表明する。
前年のNBA最低成績だったシカゴ・ブルズとユタ・ジャズがドラフトの一位指名権をかけてコイントスを行うことになったが、ジャズの指名権はロサンゼルス・レイカーズにトレードされており、コイントスに勝ったレイカーズが全体1位でマジック・ジョンソンを指名した。
レイカーズでは少年時代からあこがれていたプレーヤーであるカリーム・アブドゥル=ジャバーやノーム・ニクソン、ジャマール・ウィルクスといった名選手たちと共に先発ガードとしてプレーすることになった。
NBA最初の試合で勝利を決めるシュートを決めたアブドゥル=ジャバーにジョンソンは興奮して抱きつくなど情熱的なプレーでチームを牽引。
前年より13勝も勝ち星を増やし(60勝22敗)、1年目からNBAオールスターゲームにも選ばれ、先発出場するなど人気も抜群で、18得点、7.7リバウンド、7.3アシストという好成績でシーズンを終えるなど評価が高かったが、新人王レースではラリー・バードに敗れた。
ルーキーシーズンを終えてのプレーオフ、フェニックス・サンズとシアトル・スーパーソニックスを退け、ジュリアス・アービング率いるフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦したNBAファイナルで、レイカーズが3勝2敗と優勝に王手をかけていた時、それまで絶好調だったチームの大黒柱、アブドゥル=ジャバーが第5戦で足首を捻挫してしまう。
アブドゥル=ジャバーが欠場した第6戦にポール・ウェストヘッド監督がジョンソンをアブドゥル=ジャバーに代えてセンターとして起用するという奇策を用いたところ、42得点、15リバウンド、7アシストという大活躍によりレイカーズが優勝した。
当時まだ20歳のルーキーだったジョンソンは、こうしてファイナルMVPを受賞した史上唯一のルーキーとなった。
2シーズン目のジョンソンは、試合中の接触で膝に怪我を負い、37試合の出場にとどまった。
プレーオフの1回戦には怪我をおして出場したものの、プレーは散々な出来となり、レイカーズは1勝2敗で敗退した。
翌1981-82シーズンのレイカーズは57勝25敗でウェスタンカンファレンスで1位となった。
ファイナルではセブンティシクサーズを4勝2敗で下して優勝した。
ジョンソンは再びMVPに選ばれたが、ジョンソンにとっては辛い1年となった。
そして翌1982-83シーズンにはやはりトレードでレイカーズが得た1位指名権でジェームズ・ウォージーがチームに入団。
この時代に一世を風靡する「ショータイム」と呼ばれたオフェンスの中核となるメンバーが集まっていた。
ただし、このシーズンのファイナルでは主力を怪我で欠き、レイカーズはセブンティシクサーズに優勝を譲ることになった。
レイカーズのオフェンスはジョンソンのパスの技術に負うところが大きかった。
前シーズンにチーム入りしたウォージーは俊敏な選手で、ジョンソンのアシストからウォージーがダンクシュートで締めるレイカーズの速攻は人気を集めた。
この「ショータイム」と呼ばれたオフェンスはこの時代のレイカーズの象徴となった。
また、敵の選手を自分に引きつけておき、顔の向きの反対側や背面にいきなりパスを出す「ノールック・パス」もジョンソンの十八番だった。
ライリー監督の指導のもと、レイカーズはリーグ屈指の強豪となった。
一方、東海岸ではボストン・セルティックスが強豪としての地位を確立していた。
ジョンソンはセルティックスのエースだったラリー・バードとしばしば比較され、二人はライバルとしてとらえられていた。
1983-84シーズン、マジックは46試合連続2桁アシストというNBA記録を達成した。
レイカーズは54勝28敗でリーグ第2位の成績。
1位は62勝20敗のセルティックスで、バードはMVPに選ばれていた。
両チームはプレーオフを勝ち上がり、ファイナルで対戦することになった。
二人は大学時代にも優勝を競っていた因縁のライバルということもあり、ファイナルは全国的な注目を集めた。
NBAファイナルの第1戦は、予想に反してアブドゥル=ジャバーの大活躍もあり、レイカーズがアウェイとなるボストン・ガーデンで勝利。
続く第2戦、レイカーズがリードし、試合の終了間際となったが、ウォージーが投げたパスをセルティックスのジェラルド・ヘンダーソンがスティールし、同点とされる。
延長時間の残り数秒でジョンソンは残り時間の計算を間違え、そのままセルティックスの勝利となった。
本拠地ロサンゼルスに戻ってきた第3戦ではジョンソンが21アシストとNBAファイナル記録となる活躍でチームをリードし大勝した。
セルティックスのケビン・マクヘイルがレイカーズのカート・ランビスを床に叩き付けて乱闘寸前となるなど荒れた試合となった第4戦、残り時間1分を切ったところでジョンソンはボールを失い、最後の局面でフリースローを2本ミス。
延長になった試合をレイカーズが落とし、シリーズは2勝2敗のタイとされてしまう。
会場をボストンに再度移しての第5戦、異常気象による熱波で会場内が40度以上になるという事態にペースを狂わされ、レイカーズは敗戦。
第6戦はバイロン・スコットの活躍などでレイカーズが制した。
最終戦の第7戦では終盤にジョンソンがミスを重ね、僅差の試合だったがついにレイカーズは追いつけず、セルティックスが優勝した。
両チームは60年代からNBAファイナルで対戦を続け、レイカーズは一度もセルティックスを破ることができないという因縁の関係だった。
敗戦の後もレイカーズの面々とジョンソンは、マスコミやセルティックスの選手たちから非難や中傷を浴び続ける。
レイカーズは楽に優勝できたはずなのに勝てる試合を自分の失敗で落としたと言われ続けた。
翌1984-85シーズン、レイカーズは62勝20敗で、セルティックスの63勝19敗に次ぎリーグ2位の成績だった。
ジョンソンは前シーズンに続いてリーグ最多の平均アシスト数をマークし、オールNBAファーストチームに選出された。
このシーズン再びレイカーズはプレーオフを勝ち上がり、再びNBAファイナルでセルティックスと対戦することになった。
前年の復讐を狙うレイカーズだったが、ボストンで行われた初戦はアブドゥル=ジャバーの不調とセルティックスの控え選手の予想外の大活躍でセルティックスに33点差をつけられて大敗してしまう。
続く第2戦はレイカーズの監督パット・ライリーが試合前に初戦の失敗をビデオで何度も選手たちに見せて奮起を促し、レイカーズが勝利。
ロサンゼルスに移った第3戦はレイカーズが大差で勝ち、第4戦はセルティックスが辛勝。
5戦目はレイカーズが勝利をものにし、3勝2敗でボストンに試合の場を移すことになった。
6戦目のセルティックスは終盤に差を詰められず、ジョンソンとアブドゥル=ジャバーの活躍もあってレイカーズが勝ちを収めた。
レイカーズが歴史上初めてセルティックスに勝って優勝したばかりでなく、セルティックスがホームで優勝を奪われたのもNBA史上初めてのことだった。
レイカーズはこの翌シーズンもリーグ2位の62勝20敗という成績だった。
プレーオフのウェスタンカンファレンス決勝まで勝ち上がったレイカーズは、ヒューストン・ロケッツを相手に1勝4敗の番狂わせを演じられてファイナル出場を逃した。
アキーム・オラジュワンとラルフ・サンプソンという「ツインタワー」の高さにやられたこともあるが、長年アブドゥル=ジャバーを中心としてきたオフェンスが相手チームから研究し尽くされ、予測され限界を露呈してきていたことが敗戦の原因だった。
続く1986-87シーズンはレイカーズとジョンソンにとって転機となった。
レイカーズのライリー監督は、アブドゥル=ジャバーに代わりジョンソンがチームリーダーの役割を果たすよう求めた。
前シーズンまでと変わり、ジョンソンがチームトップの得点を上げるようになった。
このシーズンは、ジョンソンがアブドゥル=ジャバーに学び、彼が得意としたフックシュートを習得した時期でもあった。
アブドゥル=ジャバーの放つフックシュートは打点が高いことで有名だったが、ジョンソンが会得したものはより動きの小さいベビーフックと呼ばれるシュートだった。
1986-87シーズン、レイカーズはセルティックスを上回る65勝17敗を上げ、リーグ1位となった。
5年間で4度目のアシスト王になったジョンソンは、プロ入り以来初めてレギュラーシーズンのMVPに選ばれた。
プレーオフでは、レイカーズは11勝1敗の強さで再びNBAファイナルに進出した。
イースタンカンファレンスでは、またもセルティックスがファイナルまで勝ち上がった。
レイカーズはホームでの最初の2戦に勝利。
ボストンに舞台を移した第3戦では、セルティックスが勝ちを上げた。
第4戦は競った展開になった。試合時間残り2秒でジョンソンはベビーフックを放ち、レイカーズが逆転した。
最後にバードがシュートを放ったがリングに弾かれ、レイカーズは3勝1敗と優勝に王手をかけた。
このシュートはジョンソンの生涯最高のシュートとして挙げられることが多い。
残りの2戦を1勝1敗で終え、レイカーズは1980年代で4度目の優勝を果たした。
ジョンソンはファイナルのMVPに選ばれた。
前年にセルティックスを倒して優勝した後、祝賀会で監督のライリーが来年も絶対に優勝すると前代未聞の連覇宣言をおこなった。
そのプレッシャーがかかるなか、1987-88シーズンのレイカーズは、リーグ最高の62勝20敗の成績を残した。
しかしプレーオフでは苦戦続きで2回戦のユタ・ジャズ、3回戦のダラス・マーベリックス共に最終戦までもつれる激戦となり、やっとのことでNBAファイナルに進出した。
一方東地区で台頭したデトロイト・ピストンズがプレーオフではセルティックスを破り、NBAファイナルでレイカーズと対戦することとなった。
ファイナルでもピストンズは奮戦し、ジョンソンがインフルエンザで倒れたりしたこともありレイカーズを第7戦まで追い込む。
しかし体調不良を押して出場したジョンソンの活躍やピストンズのエース、アイザイア・トーマスが足を捻挫したこともあってピストンズは一歩及ばず、レイカーズは1980年代で5度目、前シーズンから2年連続の優勝を手にした。
翌1988-89シーズンをレイカーズは57勝25敗で終え、試合平均22.5得点、12.8アシスト、7.9リバウンドとオールラウンドに活躍したジョンソンはMVPに選ばれた。
プレーオフでも西地区は全勝で通過する。しかしNBAファイナルではジョンソンはふくらはぎを負傷して欠場を余儀なくされ、レイカーズはデトロイト・ピストンズと戦ったファイナルを0勝4敗で落とした。
続く1989-90シーズンのレイカーズは63勝19敗でリーグ首位、前シーズン同様の成績を残したジョンソンは再びMVPを獲得した。
レギュラーシーズンのMVP受賞回数において、ジョンソンはラリー・バードに並ぶ3回に達した。
しかしプレーオフではこの年もサンズに敗れ、ファイナル進出はならなかった。
この時期になるとレイカーズの主要メンバーは年齢が高くなり、走る攻撃よりも一層堅実な戦術を重視するようになっていた。
アブドゥル=ジャバーは1989年に引退しており、ライリー監督は1990年にチームを去った。
次の1990-91シーズン、レイカーズはポートランド・トレイルブレイザーズ、シカゴ・ブルズに次いで58勝24敗でリーグ3位の成績。
プレーオフではブレイザーズを下し、ジョンソンのデビュー以来9度目のNBAファイナル進出を果たした。
しかしファイナルではシカゴ・ブルズに1勝4敗で敗れ、ジョンソンはリーグを牽引する役割をマイケル・ジョーダンに譲ることになった。
翌シーズン開幕直後、生命保険の健康診断を受けたジョンソンはHIVウイルスの感染が判明し、突如引退を発表する。
しかし、オールスターゲームのファン投票では、そのシーズン1試合も出場していないにも関わらず最多得票を獲得し出場。
試合終盤にはアイザイア・トーマスとジョーダンに1on1の真っ向勝負を挑まれ、会場は大興奮、大歓声に包まれた。
さらにスタッツでは得点とアシストで両チーム最多を記録するなど大活躍でMVPを獲得している。
HIVの感染発覚後、しばらくは運動や練習も控える生活をしていたが、その後の健康状態は非常に良好で、プレーをしても生命に支障がないことがわかってからはオリンピックのドリームチームで活躍し、金メダルを獲得した。
そしてNBAにも復帰を果たそうとしたが、当時のNBA選手たちはHIVやエイズに対して無知であり、『ジョンソンとの接触プレーで感染するのではないか?』という非難を受けることになり、復帰を断念せざるを得なくなった。
エピソード
1991-92シーズン開幕直前の1991年10月に、ジョンソンは生命保険の健康診断を受けた。
その診断の結果、ジョンソンがHIVに感染していることが判明した。
さらなる精密検査を受けたが結果は同様だった。
同時に検査を受けたジョンソンの妻は感染していなかった。
プロスポーツのスター選手がHIV感染者となるのは初めての事例であり、医師の勧めにより、ジョンソンは現役引退を決断。
11月7日、ジョンソンは記者会見を開き自らのHIV感染とバスケットボールからの引退を発表した。
発表会見の現場には、NBAのコミッショナーデビッド・スターンやレイカーズの選手・元選手、ゼネラルマネージャーのジェリー・ウェストやオーナーのジェリー・バスなども同席した。
この記者会見は全米で放映されたのみならず、CNNなどを通じて全世界がジョンソンのHIV感染と引退をほぼ同時に知ることとなった。
当時はまだエイズに関する大衆の意識が低かったこともあり、ジョンソンのような著名人のHIV感染の公表は世界に衝撃を与え、エイズに関する関心を高めることになった。
その後ジョンソンは、ブッシュ大統領の招請によりエイズ問題を扱う委員会への参加や、機会があるごとにエイズに関する啓蒙活動に務めていくこととなった。
ジョンソンは多数の女性と肉体関係を持ったことを認めた。
また心当たりのある女性には自分がHIVに感染している事実を伝えたが、感染源が誰なのかは特定できないと述べた。
またジョンソンが同性愛者なのではないかという疑いを完全に否定した。
プレースタイル
マジック・ジョンソンに関しては、パスの技術についての評価が高い。
彼のパスは多彩であり、誰もが予想しないパスをしばしば見せた。
全く見ていない方向に繰り出す、いわゆる「ノールックパス」を得意とした。
更にノールックパスをする選手の中でも、パスの前に2度3度とフェイクを入れたり、レッグスルーやハンドリングなどの複雑な動きを絡めたりするノールックパスは彼独自のものである。
特にパスの前のフェイクの巧さ、複雑さは凄まじく、めまいを誘うような連続シュートフェイク、パスフェイクに相手選手はわけが分からなくなりその場に棒立ちになってしまうことが多く、また相手選手のみならずカメラマンまで引っかかってしまい、まだボールを持っているマジックを画面から消してしまうこともあった。
ジョンソンのアシストからウォージーがダンクシュートで締めるレイカーズの速攻は人気を集めた。
この「ショータイム」と呼ばれたオフェンスはこの時代のレイカーズの象徴となった。
ジョン・ストックトンやジェイソン・キッドなどパスの名手と比較しての彼の特徴は、先述のノールックパスを生かしたファストブレイクでのパスの裁き方で、早い展開でのとっさの視野の広いプレーをした。
ジョンソンのように206cmの高身長ながらポイントガードを務める選手は、当時珍しかっただけでなくNBAの歴史上でも稀である。
それほどの長身にもかかわらずポイントガードでプレーし続けることができたのは高校・大学のコーチの理解によるところや、NBA入りしてからも218cmのセンター・カリーム・アブドゥル=ジャバーがチームメイトにいたことなど、環境に恵まれたこともあるが、ジョンソン自身がガードの中においても高い身体能力とボールハンドリングを備えていた事が大きい。
ジョンソンはパス・アシストに才能を持っていたのみならず、オールラウンドな選手であった。
1試合で得点、リバウンド、アシスト、スティール、ブロックショットのうち3つの部門で2桁を上げるトリプル・ダブルを生涯で138回記録しており、NBA歴代2位である。
歴代1位は1960年代を中心に活躍したオスカー・ロバートソンで、181回である。
ジョンソンがNBA入りしてからトリプル・ダブルの成績を上げることが多いため、記録として認定されるようになった。
ジョンソンは長らくNBAで最多のトリプル・ダブル達成者と言われてきたが、最近やっとロバートソンの時代の記録が詳しく調べられるようになり、ジョンソンよりもかなり多い達成回数であることが判明した。
他にウィルト・チェンバレンもかなり多くの達成回数があると見られているが、記録が詳しくわかっていない試合も多い。
キャリア末期にはフリースローを非常に高い成功率で打っており、1988-89シーズンは成功率91.1%でリーグ首位を記録した。
ラリー・バードも何度かこの部門でリーグ首位に立っており、翌1989-90シーズンには再びバードがフリースロー成功率でリーグ1位になった。