概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1972年6月23日(47歳) | ||
出身地 | マルセイユ | ||
身長 | 185cm | ||
体重 | 80kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、サイドハーフ)。
利き足は右。
愛称はジズー(Zizou)。
選手としては1989年から2006年まで攻撃的ミッドフィールダーとして司令塔の役割だった。
現在はレアル・マドリードの監督を務めている。
FIFA最優秀選手賞、バロンドール、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、所属チームではワールドカップ、欧州選手権、トヨタカップ、チャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて獲得した。
UEFAゴールデンジュビリーポールでは、過去50年(1954年〜2003年)の欧州のサッカー選手として、フランツ・ベッケンバウアーやヨハン・クライフらを抑えて最も優れた選手に選ばれた。
FIFA100選にも名を連ねている。
監督としてもレアル・マドリードの助監督やBチームの監督を務めた後にトップチームの監督に就任。
2016年1月4日トップチームに就任すると、1年目でクラブをチャンピオンズリーグ制覇に導いた。
2017年には、史上初めてとなるチャンピオンズリーグ連覇を達成し、選手、監督双方でオンズドール、FIFA最優秀賞を受賞した初めての人物となった。
レアル・マドリードでは史上初となるチャンピオンズリーグ3連覇など数々のタイトルをもたらし2018年5月31日に自ら辞任した。
しかし、成績不振のチームをたてなおすため再び2019年3月11日トップチームの監督に就任した。
アルジェリアの少数民族カビール人(ベルベル人)の両親の元に生まれたため、フランスでは「北アフリカ移民の星」としての象徴的な人気もある。
獲得タイトル
チーム
- FCジロンダン・ボルドー
- UEFAインタートトカップ:1995
- ユヴェントス
- セリエA:1996-97, 1997-98
- スーペルコッパ・イタリアーナ:1997
- UEFAスーパーカップ:1996
- インターコンチネンタルカップ:1996
- UEFAインタートトカップ:1999
- レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ:2002-03
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:2001, 2003
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2001-2002
- UEFAスーパーカップ:2002
- インターコンチネンタルカップ:2002
- フランス代表
- FIFAワールドカップ:1998
- UEFA欧州選手権:2000
個人
- リーグ・アン年間最優秀若手選手:1994
- リーグ・アン年間最優秀選手:1996
- セリエA最優秀外国人選手:1996-97, 2000-01
- UEFA年間最優秀MF賞:1997-98
- 世界年間最優秀選手賞(ワールドサッカー誌): 1998
- フランス最優秀選手(フランス・フットボール誌): 1998, 2002
- ESMベストイレブン:1998, 2002, 2003, 2004
- FIFAワールドカップベストイレブン 1998, 2006
- FIFA最優秀選手賞:1998, 2000, 2003
- バロンドール:1998
- オンズドール:1998, 2000, 2001
- UEFA欧州選手権ベストイレブン:2000, 2004
- UEFA欧州選手権大会最優秀選手:2000
- セリエA最優秀選手:2000-01
- UEFA年間最優秀選手:2001-02
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー:2001, 2002, 2003
- リーガ・エスパニョーラ最優秀外国人選手:2002
- FIFProワールドイレブン:2005, 2006
- FIFAワールドカップ最優秀選手:2006
- IFFHS Worids Best Playmaker:2006
経歴
クラブ
家族の元を離れてカンヌのユースに加入し、1988年にトップチームとプロ契約した。
しかし1988-89シーズンのカンヌに当時16歳のジダンを出場させる余裕はなく、経験豊富な選手を重宝した。
残留を確保し、リーグ戦残り2試合で迎えたFCナント戦で初招集を受け、試合時間残り12分のところで初出場を果たした。
ジダンはゴールポストに直撃するシュートを放ち、資質の片鱗を見せた。
翌シーズン、ジダンはリザーブチームと共に4部リーグでプレーするよう命じられた。
3年目の第3節AJオセール戦で先発出場したが、ジダンはパスミスによって観客からブーイングを受けるなどし、0-3で敗戦した。
その後4試合先発から外された後にFCナント戦で復帰。
1990年9月23日、地元クラブでありサポーターもしていたオリンピック・マルセイユとの試合でも活躍を見せ、この試合をきっかけにジダンは輝きを取り戻した。
オセールとの2試合目では3-0で勝利して雪辱を果たし、11月24日から3月23日まで14連勝した。
1991年2月10日のナント戦でプロ初得点を挙げ、それに対する特別ボーナスとして会長からルノー・クリオをプレゼントされた。
3月24日のオリンピック・マルセイユ戦では試合にこそ敗れたものの、フランス・フットボールから「ディビジョン1で最も才能に恵まれた選手」と評された。
1991-92シーズンは、UEFAカップでの躓きがきっかけでチームは勢いを失い、リーグの前半戦終了時で17位と低迷。
パリで兵役に参加していたジダンの疲労も深刻であったが、それでも試合によっては輝きを放った。
シーズン終了後、350万フラン+4選手でFCジロンダン・ボルドーへ移籍。
移籍初シーズンは、左の守備的MFとしてプレー。
35試合に出場して10得点を挙げ、UEFAカップ出場権を得た。
1994年にはリーグ・アンの最優秀若手選手に選ばれた。
1995年、ブラックバーン・ローヴァーズFCの監督をしていたケニー・ダルグリッシュがジダンとクリストフ・デュガリーの獲得に興味を示すも、会長は「ティム・シャーウッドがいるのに何故ジダンを欲しがるのか?」と語り、獲得することはなかった。
1996年にはインタートトカップを勝ち上がり出場したUEFAカップで決勝まで進出。
4回戦レアル・ベティス戦での35メートルのシュートや3-0で勝利を収めた準々決勝ACミラン戦2nd legなど好調なプレーを披露。
決勝では敗れたものの、ユヴェントスの首脳陣をして「ミシェル・プラティニの後継者をみつけた」と言わしめた。
1996年7月、移籍金3,500万フランでユヴェントスへ移籍。
「海兵隊長」のニックネームで呼ばれるフィジカルコーチのジャンピエロ・ヴェントローネのフィジカルトレーニングとメディカルスタッフのケアによって強靭な肉体を手に入れた。
移籍当初は低調であり多くの批判を受けたものの、当時監督だったマルチェロ・リッピはジダンを起用し続けた。
リッピはジダンの最も適したポジションを試行錯誤し、当初のセントラルMFから2トップの下の攻撃的なポジションに置いた。
そのことから徐々にチームに順応し、10月20日のインテル戦をきっかけにユヴェントスのファンから認められ始めた。
試合前にチームメイトのラファエレ・アメトラーノから「今日、お前はゴールを決めて俺達を勝たせる」と言われていたジダンは、得点を決めた後ベンチのアメトラーノを指さして駆け寄り抱擁を交わした。
このシーズン、ユヴェントスはセリエA、インターコンチネンタルカップ優勝を飾り、ジダンはキャリア初のメジャータイトルを獲得した。
その後、ユヴェントスには5シーズン在籍し、デルピッポと称されたアレッサンドロ・デル・ピエロとフィリッポ・インザーギの2トップを操るトップ下の位置でプレー。
2度のリーグ優勝に貢献したほか、UEFAチャンピオンズリーグにも1996-97、1997-98シーズンと2年連続で決勝進出を果たした。
しかし、ジダンが移籍する前の1995-96シーズンでユヴェントスはUEFAチャンピオンズリーグを優勝しており、レキップ紙はジダンを不吉の象徴として黒猫と呼んだ。
1999-00シーズン、ジダンは好調を維持し、クラブも第26節終了時点で17勝8分1敗の成績でシーズンのほとんどで1位をキープ。
しかし最終8試合で4敗を喫し、最終節のペルージャ戦でも0-1で敗戦。2位のSSラツィオが勝利したため、勝ち点1差で優勝を逃した。
ジダンは「私たちは1年間こつこつとつらい仕事をしてきたが、最終節ですべてを失った。こんなことならもっと早く負けていればよかった」と無念さを滲ませた。
翌シーズン、カルロ・アンチェロッティは3ボランチを置くフランス代表に近いフォーメーションを敷き、同郷のダビド・トレゼゲも加入した。
ユヴェントスは上々のスタートであったが、2000年10月25日、UEFAチャンピオンズリーグのハンブルガーSV戦でジダンはヨヘン・キーンツのファウルに対して頭突きの報復行為を行ったことによって5試合の出場停止処分を受けた。
この試合ではエドガー・ダーヴィッツもレッドカードを受けて9人での戦いを強いられ、1-3で敗北した。
その翌日のガゼッタ・デロ・スポルトでは「ジダンとダーヴィッツがユーヴェを沈ませた」との見出しで批判された。
2週間後のパナシナイコスFC戦でもユヴェントスは負け、UEFAチャンピオンズリーグを予選敗退した。
また、より開放的でテクニカルなスペインリーグでのプレーを望んだことやスペイン人の夫人が母国で暮らすためにイタリアを離れたがっていたことなどから、クラブに何度も移籍を訴えた。
ユヴェントスのオーナーであったジャンニ・アニェッリは、「問題はジダンじゃなくて奥方にある。私には彼女をどうすることもできない」と語っていた。
2000年8月23日、モナコで行われた欧州サッカー連盟のレセプションで偶然レアル・マドリード会長のフロレンティーノ・ペレスが同じテーブルとなった。
その際にペレスは「レアル・マドリードに来たいか?」と英語で書いた紙ナプキンをジダンに見せて問い、ジダンはそれに「イエス」となぐり書きして答えた。
2001年7月、当時史上最高額となる9000万ユーロの移籍金でレアル・マドリードに移籍。
ジダンはユヴェントス時代と同じ背番号21を望んでいたが、サンティアゴ・ソラーリがすでに使用していたため、前年に引退したキャプテンであるマヌエル・サンチスの5番を継いだ。
当時のクラブと代表双方でキャプテンを務めていたフェルナンド・イエロやツートップを組んでいたラウル・ゴンサレスとフェルナンド・モリエンテス、また超攻撃的左サイドバックのロベルト・カルロスや自身と同じくバロンドール受賞経験者のルイス・フィーゴら豪華なタレントを擁し、銀河系軍団と称されたチームの攻撃陣の中心として活躍した。
また、当時のレアル・マドリードの補強、チーム作りの方針は「ジダネス&パボネス」(ジダンなどのスター選手とフランシスコ・パボンなどのカンテラ選手の共存)と呼ばれた。
加入当初は親しい友人に「こんなことなら引退してしまいたい」とこぼしたほどマスコミからのプレッシャーに追い詰められ、スペインでの生活への順応にも苦戦していたが徐々にチームに馴染み、特に2001-02シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦、バイエル・レバークーゼン戦での決勝点となったボレーシュートは、CNNなどのメディアでサッカー史上最も素晴らしいゴールの一つと評価され、「永遠に伝説として語られることになるゴール」(レキップ)、「ジダンは神に祝福されている」(フランス・フットボール)と賞賛された。
1対1の同点で迎えた前半44分、ロベルト・カルロスが左サイドから送った山なりのボールを、ペナルティエリアの外から左足でダイレクトボレーシュート。
ボールは綺麗な弧を描きゴール左上隅に突き刺さった。
このゴールが決勝点となり、ジダンはキャリア初のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた。
2002-03シーズンは自身と同じくバロンドール受賞経験者のロナウドが加入し、リーガ・エスパニョーラ、UEFAスーパーカップ、インターコンチネンタルカップ制覇の3冠を達成。
2003年は自身3度目となるFIFA最優秀選手賞を受賞した。
2003-04シーズンは2試合合計4-2でRCDマヨルカを下しスーペルコパ・デ・エスパーニャを手にしたが、それがレアル・マドリードにおいてジダンの最後のタイトルとなった。
ジダンの最終シーズン、セビージャFCを相手にキャリア初のハットトリックを達成した。
2005-06シーズンの途中に、2006 FIFAワールドカップでの引退を発表。
2006年5月7日、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでの最終戦となるビジャレアルCF戦前に行われた引退式では8万人を超えるファンが集まり、クラブもその日のために「Zidane 2001-2006」と刺繍されたユニフォームを用意した。
その試合ではデビッド・ベッカムのクロスから得点も決めた。
試合終了1分前にフアン・ラモン・ロペス・カロはジダンを交代させ、花道を提供した。
その後、スタンド下の通路でフアン・ロマン・リケルメと抱擁し、ユニフォーム交換を行った。
ジダンの最終シーズンは、リーグ28試合でチームトップであるロナウドに次ぐ9得点、デビッド・ベッカムと並んでチームトップタイの10アシストを記録した。
ワールドカップ後に現役を引退した。
代表
1988年、スペインのマラガで行われたU-16欧州選手権で、初めてフランス代表としてプレーした。
しかし、フランスは予選落ちしてしまい、ジダン自身も良い結果を残すことができなかった。
その後も様々なカテゴリでフランス代表に選ばれた。
1994年8月17日、チェコ戦でA代表デビュー。
ユーリ・ジョルカエフの負傷によって追加招集されたジダンは、2点ビハインドの状態でコランタン・マルタンに代わり後半18分から出場。
途中出場ながら2得点を挙げ、この試合をきっかけに代表に定着した。
UEFA EURO ’96予選、ジダンは最初の2試合に途中出場したが、2試合とも引き分けに終わり、その後の数試合は出場機会を与えられなかった。
1995年4月26日のスロバキア戦で再び招集されると、「キャリアの中で最も重要な試合になる」と語ったこの試合で正ポジションを得たジダンは、フランスの4得点のうち2得点に絡んだ。
10月11日にブカレストでのルーマニア戦では、ジダンのハーフボレーでのゴールなどで3-1とホームで5年間無敗を誇ったルーマニアを破った。
最終戦サッカーイスラエル代表戦でも2-0で勝利し、UEFA EURO ’96出場権を得た。
これらの活躍によってジダンは代表での地位を磐石のものとした。
1996年のEURO1996直前、ジダンはBMWを運転中に時速100kmでガードレールにぶつかる事故を起こしてしまった。
大会までに怪我は回復したもののコンディションは悪かったが、エメ・ジャケ監督はエリック・カントナを代表から外してジダンに背番号10に据える決断をした。
チームはベスト4に進んだが、自身は「ずっと痛みを抱えながらプレーしており、準決勝では出場を自ら辞退しようとした」と語っている。
1998年、1月28日にスタッド・ド・フランスのこけら落としとなるスペイン戦ではその日唯一の得点を挙げた。
同年地元フランスで開催されたワールドカップに出場。
グループステージ初戦南アフリカ戦は勝利を収めたが、ジダンは2戦目サウジアラビア戦で相手キャプテンのフアド・アミンを踏みつけ、一発退場となってしまう。
ジダンを欠いたフランス代表であったがグループリーグ最終戦でデンマークを2-1で下し、3戦全勝でグループリーグ突破。
その後もフランス代表は勝ち進み、決勝戦でジダンはヘディングで2得点をあげるなどの活躍をし、フランスの初優勝に大きく貢献した。
その後、優勝のお祝いの際にエッフェル塔にジダンの顔が掲げられた。
この活躍で名を上げたジダンは、この年のバロンドール、FIFA最優秀選手賞を受賞。
W杯で優勝した22人のメンバー、監督はレジオンドヌール勲章のシュヴァリエ(Chevalier、騎士)の階級を与えられた。
UEFA EURO 2000でも優勝し、大会最優秀選手、そして2度目のFIFA最優秀選手賞を受賞した。
前回王者として臨んだ2002年、FIFAワールドカップ・日韓大会では大会直前の韓国との親善試合で左太もも肉離れを起こし、さらにその試合で受けたタックルによって膝も痛めてしまった。
その影響でワールドカップ本戦には包帯を巻いて強行出場したデンマーク戦1試合の出場にとどまり、フランス代表も2敗1分の成績でグループリーグで敗退した。
2004年に行われたEURO2004初戦のイングランド戦では、1点をリードされて迎えた後半90分にジダンのフリーキックから同点にすると、その2分後にティエリ・アンリの得たPKをジダンが決めて劇的な逆転勝利を果たした。
しかしその後のフランスは精彩を欠き、ジダンは大会3得点を挙げるも、代表はベスト8で敗退。
大会終了後の8月、自身のホームページでのインタビューにて、有望な若手選手に道を譲るために代表引退を発表した。
2005年、フランスがFIFAワールドカップ・ドイツ大会予選敗退の危機に陥るとレイモン・ドメネク監督やキャプテンのパトリック・ヴィエラの説得を受け、ジダンを代表デビューさせたジャケが公式の場で引退を悔やみ、更にはジャック・シラク大統領やスポーツ大臣のジャン=フランソワ・ラムールが代表復帰のために尽力すると言った。
そうした後押しの中でクロード・マケレレ、リリアン・テュラムと共にフランス代表に復帰することをオフィシャルサイトで表明。
携帯電話会社のオレンジグループは、代表復帰発表の翌日に、フランスの新聞各紙に「Tu nous as tellement manque! (あなたがいなくてどれだけ寂しかったか!)」という広告と共にジダンのインタビューが有料で聞くことができる電話番号を掲載。
レキップ紙は「彼が戻ってくる!」と見出しを掲げ、国家的な大事件として扱われた。
復帰発表の2週間後に行われたフランス世論研究所の調査では、73%の人がワールドカップ本大会に出場できると答えた。
復帰後初戦のコートジボワール戦では3-0での勝利に貢献。
アンリは「神が帰ってきた」とコメントした。
ヴィエラからキャプテンマークを譲り受け、予選敗退危機にあったフランスを本大会出場へ導いた。
大会後の引退を公言して臨んだ本大会では、グループリーグ序盤では低調だったものの、試合を重ねるごとに復調し、フランスも決勝戦まで進出した。
準々決勝ブラジル戦ではアンリの決勝ゴールをアシストし、この試合のMVPに選ばれた。
これまでジダンのアシストからアンリがゴールを決める場面は、共に出場したフランス代表55試合で1つもなく、メディアからの批判を受けていたが、これが初めてにして唯一のアシストとなった。試合後、ペレはジダンについて「魔法使いだった」と賞賛した。
準決勝はリカルド・カルヴァーリョがアンリを倒したことによって得たPKを決め、その得点が決勝点となってポルトガル代表を下した。
これによりポルトガル代表の19連勝及び前回大会でブラジル代表を率いていたルイス・フェリペ・スコラーリのワールドカップ12試合負けなしの記録をストップさせた。
試合後は、レアル・マドリード時代のチームメイトであり共にキャプテンを務めていたルイス・フィーゴとユニフォーム交換を行った。
決勝のイタリア戦ではジャンルイジ・ブッフォンに対してパネンカと呼ばれるチップキックでPKを決め、キャリア最後となる得点で先制点を挙げた。
延長戦後半、マルコ・マテラッツィから何事か挑発された際に頭突きを食らわせ、一発退場となって、現役最後の試合を終えた。
試合はPK戦になりフランス代表は負けて準優勝に終わったが、大会中の活躍が評価されMVPを受賞した。
この2006年ワールドカップ後の一連の騒動では、マテラッツィがジダンの人種や家族を侮辱した発言をしたという疑惑が上がり、ジダンの人種問題が取り上げられた。
エピソード
試合に関しては気性の激しさで知られ、2006年ワールドカップグループリーグの第二戦の韓国戦ではチームが同点ゴールを決められ、本人もイエローカードを受けて累積警告によって次戦の出場停止が決まり、同点のままロスタイムにトレゼゲと交代させられると、ロッカールームのドアを蹴って壊したこともある。(なお、その扉は「ジダンに壊された扉」としてスタジアムに保存されている。)
一方で、普段の性格は寡黙で内気と言われる。
引退後に競技テニスをしたいと言っていた頃、ホテルに宿泊した際に、アンドレ・アガシとたまたま隣の部屋になった事があったが、内気さゆえに会いに行けなかったというエピソードや、2010年にフランス代表の一日コーチを引き受けて1998年ワールドカップ、UEFA EURO200のビデオを観賞してスピーチを行った際に、ガエウ・クリシーに「自分のビデオを見せながら照れていた」と明かされるといったエピソードがある。
ジダンとは対照的におしゃべりで気さくなクリストフ・デュガリーとは親友である。
2003年からはダノンネーションズカップの公式アンバサダーを務めるなど多くのチャリティーイベントに参加し、慈善活動にも熱心である。
マルセイユ出身のジダンはオリンピック・マルセイユのファンだが、父親がフランスに移住して初めて生活した場所であり、スタッド・ド・フランスもあるパリ郊外のサン=ドニには第2の故郷と語るほど愛着を感じている。
世界的な人気、知名度から、アディダス、フランステレコム、アウディ、ボルヴィック、クリスチャン・ディオールなど多くの企業と広告契約を結び、日本でも2002年に日清食品のCMへ、2003年と2009年にACジャパンのCMに出演している。
また、2005年のビジャレアルCF戦におけるジダンを捉えたフランスのドキュメンタリー映画『ジダン 神が愛した男』が制作され、第59回カンヌ国際映画祭で招待上映された。
ユヴェントス時代に禁止薬物エリスロポチレン(EPO)摂取のドーピング疑惑をかけられ、ジダンの頭を悩ませた。
ユヴェントスの医師の裁判中、血液学者はアントニオ・コンテ、アレッシオ・タッキナルディのEPO使用痕跡の可否を行なったが、ジダンには「特別なことは何もなかった。大きな変化も認められなかった」とし、引退後に放送されたフランス3での検証番組でミシェル・オードラン教授も同様の内容を語った。
アルジェリア系フランス人であるジダンは、代表戦前の国歌斉唱を行わなかった。
フランス国歌であるラ・マルセイエーズはフランス革命時に制作された軍歌であり、その中の「穢れた血」というフレーズは人種差別を連想されるという声が挙がっている。
同様にミシェル・プラティニ(イタリア系)、パトリック・ヴィエラ(セネガル出身)、クリスティアン・カランブー(ニューカレドニア出身)らも国歌を歌わなかった。
プレースタイル
攻撃的なミッドフィルダーであり、味方の選手に的確なパスを出すなどの攻撃の中心的な役割を果たすとともに、チャンスと見ると自らもシュートを決める得点力を兼ね備えた。
高いボディバランスと複数のアクションを組み合わせる能力を持ち、同時に非常に高度なテクニックを持ち合わせている。
その非常に正確なボールタッチ、パス、シュート、コントロール、ドリブルなどのプレーはバレエの優雅さに例えられる。
当時、イタリアではアリーゴ・サッキのゾーンプレスが浸透してトップ下のポジションは絶滅の危機を迎え、ロベルト・バッジョやアレッサンドロ・デル・ピエロらファンタジスタが激しいプレッシャーを受けるミッドフィールダーからセカンドトップにポジションを変更していた。
しかし、鮮やかなテクニックを持ちながら185センチの強靭な体躯を持つジダンは相手のプレッシングを受けてもボールをキープして時間を作り出し、また守備時にはセントラルハーフとして戦うこともできたためトップ下のポジションでユヴェントスの中心に君臨した。
2000年代後半から2010年代前半にかけて、シャビやアンドレス・イニエスタらを中心としたスペイン代表やFCバルセロナはグループでプレッシングを崩壊させたが、ジダンは1人でそれを実現することができた。
ジダンの得意技「ルーレット」とは、ドリブルの途中、両足の裏でボールを転がしながら一回転をし、プレスに来た相手選手をかわす技である。
彼が考案した技ではないが、トッププレーヤーでこの技を試合中に頻発させるのは彼以外にいないため、ジダンの代名詞ともなっている。
日本においては、ジダンの出身地がマルセイユであることから、「マルセイユ・ルーレット」とも呼ばれ、少年サッカーのための指導材料としても使われている。