概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | カリフォルニア州サンディエゴ |
生年月日 | 1918年8月30日 |
没年月日 | 2002年7月5日(83歳没) |
身長 体重 |
190.5 cm 93 kg |
ポジションは左翼手(レフト)。
右投左打。
ニックネームは“The Kid”, “Teddy Ballgame”, “Splendid Splinter”, “Thumper”。
MLB史上最高の左翼手とも称され、ロジャース・ホーンスビーと並び、メジャーリーグベースボール(MLB)で三冠王を2度獲得した。
通算出塁率.482はメジャー歴代1位。
1941年に打率.406を記録。
2019年時点でMLB最後の規定4割打者である。
タイトル
- 首位打者:6回 (1941年、1942年、1947年、1948年、1957年、1958年)
- 本塁打王:4回 (1941年、1942年、1947年、1949年)
- 打点王:4回 (1939年、1942年、1947年、1949年)
表彰
- シーズンMVP:2回 (1946年、1949年)
- 三冠王:2回 (1942年、1947年)
- オールスターゲーム選出:17回 (1940年 – 1942年、1946年 – 1951年、1953年 – 1960年)
- DHLホークタウン・ヒーローズ選出 (2006年)
- フランチャイズフォー選出 (2015年)
- 殿堂入り (1966年)
記録
- 通算出塁率:.482 (MLB歴代1位)
- 通算打率:.344 (歴代8位)
- 通算長打率:.634 (歴代2位)
- 通算OPS:1.116 (歴代2位)
- 通算四球:2021 (歴代4位)
- シーズン最多連続試合出塁:84 (1949年)
- 連続打席出塁:16 (1957年)
レッドソックス球団記録
- 歴代1位 (通算打率・出塁率・長打率・OPS・本塁打・四球)
- 歴代2位 (通算得点・安打・塁打数・二塁打・打点)
- 歴代3位 (通算試合・打席)
経歴
経歴 | |
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1939年にメジャーデビュー。
1年目から活躍し、打率.327、本塁打31本、145打点の活躍で打点王のタイトルを獲得した。
1941年には打率4割の期待がかかり、シーズン最終日にフィラデルフィア・アスレチックスとのダブルヘッダーを残して打率.3995。
打率は毛を四捨五入して厘の値までとなり、規定打数に達しており、この時点でも記録上は打率4割となるため、周囲からは欠場を勧められた。
しかしウィリアムズはダブルヘッダーに出場。
最初の打席で、球審のビル・マゴワンがホームプレートを掃きながら、「4割を達成したいなら、力を抜くんだぞ」と言ったという。
ウィリアムズは同2試合で8打数6安打を記録し、打率4割を6厘上回り、23歳1か月で、1911年にジョー・ジャクソンが打率4割を記録した24歳2か月という4割打者の最年少記録を塗り替え、首位打者・本塁打王のタイトルを獲得した。
これ以降、メジャーで打率4割を記録した者はいないため、最年少記録を出した選手が最後の打率4割達成者となっている。
また、試合に出場した理由として、四捨五入で4割となるため実際は4割ではなかったと言われるのが嫌だったと語っている。
同年シーズンは打点が120で、あと5打点稼いでいれば125打点のジョー・ディマジオに並び三冠王だった。
1942年には自身初の三冠王を記録。
1947年にはメジャー最多タイ記録の2度目の三冠王を記録している。
1949年にも三冠王のチャンスがあったが、最終戦に1毛差で打率を逆転されて首位打者を獲得できず、三冠王を逃した。
1954年には打率がリーグトップであるが当時の首位打者の規定である400打数に136四球が影響して386打数で届かず、逃している。
このため、1957年シーズン前に打数ではなく、打席を採用することが決定している。
第二次世界大戦と朝鮮戦争による2度の従軍があったものの、1960年の引退までレッドソックスの主軸として活躍した。
通算打率.344、521本塁打はレッドソックスの球団記録である。
“Untouchable”と言われる出塁率5割を3度も達成し、通算出塁率.482はメジャー歴代1位。
また、通算OPS1.116はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位である。
また、引退当時、通算本塁打521本はベーブ・ルース、ジミー・フォックスに次ぐ歴代3位の記録だった。
エピソード
生涯を通じて釣り、とくに海釣りを趣味とし、シーズンが終わるとそのままフロリダ州まで行って海釣りに興じていたこともある。
また、釣りの雑誌の表紙に出たこともあった。
彼は頑固な性格であった。
堅苦しいことを嫌い、服装においてもネクタイの着用を拒否し続けた。
ファンやメディアとの関係も友好的とは言えず、その圧倒的な実力を認められながらジョー・ディマジオのような大衆の人気を得ることはなかった。
ウィリアムズはルーキーの頃は快くサインに応じていたが、狭いフェンウェイ・パークの外野の野次などがファンやメディアとの関係を悪くしたと云われている。
引退試合においても通常通りプレーし、試合終了後にもセレモニーどころか帽子を取って観客に応える仕草ひとつ見せず、グラウンドを去った。
ファンやメディアからは当然不満の声が上がったが、『ザ・ニューヨーカー』誌記者で、後に作家となるジョン・アップダイクはこの一件について「神々はいちいち、手紙の返事など書かないものだ」と記している。
しかし、最後の打率4割到達から50年後の1991年5月、フェンウェイ・パークにおける記念式典に招かれた際には、「新聞記者達は、ウィリアムズは偏屈で帽子を取ってあいさつもしないと書き続けたが、2度とそんなことは書けないだろう」とスピーチした後、レッドソックスの帽子を振って客席に向かってあいさつした。
人種問題について、進歩的思想の持ち主であった。
黒人であるウィリー・メイズが通算本塁打記録でウィリアムズを追い越しかけた頃、ウィリアムズはメイズに対し「レッツゴー、ウィリー」と激励したという。
野球殿堂入りを果たした際の式典でのスピーチにおいて、サチェル・ペイジやジョシュ・ギブソンなどニグロリーグで活躍した名選手たちの殿堂入りを訴えた。
また故郷のサンディエゴつながりで、トニー・グウィンと親交が深かったことでも知られ、グウィンを釣りに誘ったこともある。
プレースタイル
並外れた動体視力を持ち、78回転のレコードのラベルを読むことができた。
さらに空軍時代は、その目を生かして敵機を多数撃墜していたという。
また、動体視力に加えて記憶力にも優れており、その日の試合で自分に投じられたボールのコース・球種をすべて記憶し、ノートに記録していたとされる。
ウィリアムズの著作『バッティングの科学』は、この日々の記録を元に著された。
ウィリアムズには野球人生で3つの悔いがあった。
1つ目はワールドシリーズのひのき舞台を踏んだのが1度だけで、カージナルスに敗れてチャンピオンズリングを手にできなかったこと。
2つ目は第二次世界大戦と朝鮮戦争での兵役で選手生活を5年近く中断されたこと。
そして3つ目は「俊足」に恵まれなかったことである。
1957年、打率3割8分8厘で史上最年長39歳で5度目の首位打者を獲得したが、ウィリアムズは「もし自分にもう少しスピードがあって、あと5本のヒットを内野安打で稼いでいたら、2度目の打率4割を記録できていた」と終生悔しがっていたという。
プルヒッターであり、この特徴からクリーブランド・インディアンスの監督ルー・ブードローは、内野手を右に寄せるブードローシフトと呼ばれる作戦をあみ出した。
この作戦は、後年に日本プロ野球で王貞治に対して組まれた王シフトの原型となった。
引退後にウィリアムズは、「特に第一ストライクを狙う事が強打者になる第一の秘訣。と言うのはストライクを逃せば、それだけ打者に不利なカウントになる。そうすると投手も思い切ってドンドン投げてくる。こんな簡単な事が分からない打者が今の野球には多過ぎるんじゃないかな。第一ストライクを打つ打者が沢山いるチームは必ず好成績をおさめる。また、それこそがプロ野球だ」と述べている(ただし、ウィリアムズ自身は四球が多い打者だった)。