概略
誕生日 | 1963年1月21日(57歳) |
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国 | ![]() ![]() (二重国籍) |
出身地 | ![]() |
出身 | ヒューストン大学 |
ドラフト | 1984年 1位 |
身長(現役時) | 213cm (7 ft 0 in) |
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体重(現役時) | 115.5kg (255 lb) |
足のサイズ | 37.0cm |
ポジションはセンター(C)。
右利き。
身長213cm(実際は208cm程度と自認しており、公言している)の体格に似つかわしくない、俊敏な動きと繊細な技術をもち、歴代屈指のセンタープレイヤーと評されている。
そのプレースタイルから、『ドリーム(Dream)』というニックネームを持っていた。
ナイジェリア人であったが1993年にアメリカ合衆国の国籍を取得、1996年アトランタオリンピックでは米国代表として金メダルを獲得。
同じ年に「NBA50年の歴史の偉大な50人の選手」の一人に選ばれている。
2008年には殿堂入りを果たした。
記録
- レギュラーシーズン通算得点:26946
- レギュラーシーズン通算リバウンド:13748
- レギュラーシーズン通算アシスト:3058
- レギュラーシーズン通算スティール:2162
- レギュラーシーズン通算ブロック:3830(歴代1位)
- クアドルプル・ダブル:1990年3月29日、史上3人目
経歴
選手経歴 | |
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1984-2001 2001-2002 |
ヒューストン・ロケッツ トロント・ラプターズ |
代表歴 | |
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代表キャップ | ![]() |
大学での4年間を終了後、1984年のNBAドラフトにアーリーエントリーを宣言。
全体1位で念願のヒューストン・ロケッツから指名を受けた。
ドラフト同期にはマイケル・ジョーダンやチャールズ・バークレーなど錚々たる選手がいた。
当時ロケッツには身長223cmのラルフ・サンプソンがおり、オラジュワンと合わせて「ツインタワー」と呼ばれるようになった。
オラジュワンのルーキーシーズン、ロケッツは前シーズンの29勝53敗から持ち直し、48勝34敗とミッドウェスト・ディビジョン2位まで成績を上げた。
翌1985-86シーズンには勝ち数を51まで延ばし、当時ウェスタン・カンファレンスの強豪だったロサンゼルス・レイカーズとプレイオフのカンファレンスファイナルで対戦、4勝1敗で退けた。
臨んだNBAファイナルでは当時史上最強と呼ばれたボストン・セルティックスと戦い、2勝4敗で敗れている。
オラジュワンはリーグ入りしてわずか2年でNBAファイナル出場を経験するものの、翌シーズンはサンプソンの怪我により「ツインタワー」は有効に機能せず、続く1987-88シーズン中にサンプソンはトレードに出される。
以降ロケッツは勝ち数が50に届くこともままならず、優勝に絡むこともなく1980年代が過ぎていった。
オラジュワン自身はリーグを代表する好選手の一人と言った位置づけで、1987年以降3年連続でオールNBAファーストチーム入りしている。
この時期を前後してリバウンドやブロックでリーグ首位になっており、ディフェンス面でも評価を得ていた。
それにもかかわらずチームはプレイオフではかばかしい成果を上げられず、90年代に入る頃にはファンやマスコミの批判が聞かれるようになり、オラジュワン自身の個人成績にも若干の低下が見られた。
他チームへのトレードが成立直前の段階にまで至ったこともあった。
この時期にオラジュワンは怪我や不整脈で試合を欠場したこともあった。
自身をトレードしようとしていた球団に不信感を募らせていたオラジュワンであったが、92年、日本での開幕戦のために移動中だった飛行機機内で球団と和解、吹っ切れたオラジュワンはリーグでもトップクラスの選手になっていた。
1993年には26.1得点13リバウンドでオールNBAファーストチーム入りし、ブロックはリーグ最高の平均4.17本を上げた。
このシーズンは年間最優秀守備選手にも選ばれた。
翌1993-94シーズンはレギュラーシーズンのMVPとNBA最優秀守備選手賞を同時に受賞。
オラジュワンはキャリアの全盛期に入り始める。
この時期のオラジュワンは、持ち前のセンスと運動能力を活かしたドリームシェイクという動きを見せるようになる。
これは俊敏な動きと多彩なステップワークでディフェンダーを翻弄するもので、センターを務める選手としては規格外と言える多彩なムーブであった。
このシーズンのプレイオフ、ヒューストン・ロケッツはウェスタン・カンファレンスのセミファイナルでフェニックス・サンズを4勝3敗で退け、カンファレンスファイナルではユタ・ジャズを4勝1敗で下し、ついにNBAファイナル進出を決めた。
イースタン・カンファレンスを勝ち上がってきたのは、パトリック・ユーイングのいるニューヨーク・ニックスだった。
ニックスはパット・ライリー監督の指導のもと、ディフェンスの強い強豪に成長していた。
オラジュワンにとって、ユーイングとは大学の決勝で敗れて以来の因縁の対決となった。
ライリーはオラジュワンを封じようと、彼に対してユーイング、チャールズ・オークレー、チャールズ・スミス、アンソニー・メイソンという面々を次々にぶつけるが、最後はロケッツが第7戦までもつれたシリーズを制し、オラジュワンはファイナルMVPに選ばれた。
翌1994-95シーズン、トレード期限間際の2月に、オラジュワンの大学時代のチームメートクライド・ドレクスラーがヒューストンに電撃的に移籍。
一方でロケッツの成績は47勝35敗で、優勝した前シーズンよりも勝ち星を10以上減らしていた。
第6シードでプレイオフに臨んだロケッツは、1回戦でユタ・ジャズと対戦し、3勝2敗で番狂わせを演じる。
続くセミファイナルではフェニックス・サンズを7試合の末に際どい勝利をおさめ、カンファレンス・ファイナルではサンアントニオ・スパーズと対戦。
優秀なセンターデビッド・ロビンソンを退け、4勝2敗でスパーズを下す。
シーズン成績が自分たちより上だった3チームを倒し、ロケッツは2年連続でNBAファイナルに進む。
相手は新世代のスター選手、シャキール・オニールとアンファニー・ハーダウェイを擁するオーランド・マジックだった。
戦前、「シャック・アタックvsドリーム・シェイク」と話題になったシリーズだったが、マジック優位との声が高かった。
シリーズはオラジュワンがシャックにベテランの上手さを見せて、攻めてはドリーム・シェイクで翻弄、ロケッツはマジックを4勝0敗で一蹴して2連覇を達成、オラジュワンは2年連続でファイナルMVPに選ばれた。
続く2シーズン、オラジュワンの個人成績は相変わらず素晴らしい水準だったが、1996年のプレイオフではカンファレンス・セミファイナルでシアトル・スーパーソニックスに0勝4敗で敗れ、1997年にはカンファレンス・ファイナルでユタ・ジャズに2勝4敗で敗退する。
翌1997-98シーズン、オラジュワンは怪我によりシーズンの大半を欠場し、平均得点16.4でデビュー以来初めて20点を割った。
その後も怪我に悩まされ、再び不整脈に襲われたこともあった。
オラジュワンの個人成績は徐々に低下していき、ついにロケッツを退団。
2001-02シーズンにトロント・ラプターズと契約して、大学時代から20年以上を過ごしたヒューストンを後にした。
このシーズンが終わると、オラジュワンは引退した。
エピソード
1990年代初めに低迷期があり、バッシングを受けて精神的に落ち込んでいた時期があった。
この頃にオラジュワンはイスラム教の教えを見つめ直すようになり、敬虔なイスラム教徒となっている。
ラマダーン月間の断食の時期には、試合のある日でも日中は飲食物をいっさい口にしなかった。
引退後は現役選手を対象としたスキルトレーナーとしても活動している。
きっかけはコービー・ブライアントにポストでの支配力、そしてゲーム全体の支配力を高めたいとコーチを依頼されたためで、その後もドワイト・ハワード、レブロン・ジェームズ、アマーレ・スタウダマイアー、カーメロ・アンソニー、ジャベール・マギーといった選手たちを指導している。
そうそうたる面子である。
プレースタイル
オラジュワンはセンターとして異彩を放っていました。
センターのサイズがありながらボールハンドリングが非常によくガード並の軽やかなステップワークを持っていました。
ポストプレイだけではなく、ミドルレンジでボールを貰ってクロスオーバーからペネトレイトしてダンクなんてシーンも良くありました。
歴代センターナンバーワンと言われるオフェンススキルはもちろん、オラジュワンはディフェンダーとしても突出した能力を持っていました。
特にブロックは強力でした。
オラジュワンはNBA歴代最多ブロック数の保持者(キャリア通算ブロック数は3,830本)でシーズン平均4本以上のブロックをマークしたシーズンもありました。
オラジュワンの身体能力はナイジェリアでサッカー(ゴールキーパー)やハンドボールをしていた頃に養われたということです。
ハンドボールではナイジェリアの全国大会でプレイするほどのレベルだったそうです。
オラジュワンといえばドリームシェイクと呼ばれるバラエティー豊富で華麗なステップ&ムーブで相手センターをキリキリ舞いにさせました。
オラジュワンといえばドリームシェイクといわれるくらい有名です。
オラジュワンの凄さはその多彩なムーブ、ステップだけではなくきちんとディフェンスの動きを察知し、瞬時に次のムーブを選択し組み合わせて使っていたことじゃないでしょうか。
さらにシュートのバリエーションも数多く持っていたので組み合わせは無限じゃないかというくらい豊富でした。