概略
誕生日 | 1978年8月23日 |
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没年月日 | 2020年1月26日(41歳没) |
国 | ![]() |
出身地 | ペンシルベニア州フィラデルフィア |
出身 | ローワー・メリオン高校 (ペンシルベニア州) |
ドラフト | 1996年 13位 |
永久欠番 | レイカーズ 8 レイカーズ 24 マーベリックス 24 |
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身長(現役時) | 198cm |
体重(現役時) | 96.2kg |
シューズ | ナイキ |
ポジションはシューティングガード(SG)。
右利き。
NBAのロサンゼルス・レイカーズ一筋で活躍した。
極めて高い確実性から、狙った獲物は99.9%の確率で仕留めると言われている世界で最も危険な猛毒蛇の一種「ブラックマンバ」の愛称を持つ。
17歳でNBA入りして以降は20年間にわたって名門ロサンゼルス・レイカーズ一筋でキャリアを過ごし、NBAチャンピオン5回、シーズンMVP1回、ファイナルMVP2回、NBA記録となる18年連続オールスターゲーム選出並びに、歴代最多のオールスターMVP4回に輝くほか、NBA歴代2位の1試合81得点の記録を持つなど、キャリア初期から大ベテランの域に入るまで、長年に渡ってリーグ最高の選手の一人として君臨し続けた、NBAを代表するスーパースターである。
そのキャリアや「マンバメンタリティ」と称される様々な逸話から、バスケットボール界のみならず、各界の著名人からも慕われるなどカリスマ的な人気を誇った。
現役時代の背番号はシャキール・オニールのコンビで若くして三連覇を達成した「8」と、成熟しチームリーダーとして二連覇を達成した「24」の2つの時代に分けられる。
引退後にはロサンゼルス市がコービーに敬意を表し、現役時代の背番号を組み合わせた8月24日を「Kobe Bryant Day (コービー・ブライアントの日)」としてロサンゼルス市の記念日に制定した。
またレイカーズは、同一選手に於いてNBA史上初となる二種類の背番号の永久欠番を発表した。
現役引退した2016-17シーズン現在、レギュラーシーズン通算33,643得点を挙げNBA歴代第4位。
プレーオフ通算5,640得点を挙げNBA歴代第4位。
また、オールスターでは通算290得点を挙げNBA歴代第3位に位置している。
父親は元NBA選手のジョー・ブライアントで、母親は元NBA選手ジョン・コックスの妹であるパミラ・コックス。
彼の名前“Kobe”は、父ジョーのお気に入りだったアメリカの鉄板焼きレストラン「Kobe Steak House(神戸ステーキハウス)」に妻と行った際、“KOBE” (神戸)の名前の由来を店主に聞いた事をきっかけに、両親が名前を気に入って付けたものである。
コービー本人は1998年に初来日した際に、生まれて初めて自身の名前の由来となった神戸を訪れている。
その際、東京で開催されたアディダス・ABCバスケットボールキャンプでの募金を市民福祉に役立てるため神戸市に寄付した。
また、2001年12月13日には神戸大使に委嘱され、2011年まで続けた。
受賞歴 | |
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記録
NBA記録
- レギュラーシーズン通算30,000得点+6,000アシスト達成
- 最多オールNBAディフェンシブ1stチーム選出:9(他3名と並ぶタイ記録)
- 1クォーター最多フリースロー成功:14(他5名と並ぶタイ記録)
- プレーオフで年間600得点以上記録した連続シーズン数:3
- 最多クリスマスゲーム出場:16
- クリスマスゲーム通算最多得点:395
- オールスター連続選出回数:18
- オールスター先発出場回数:15
- 最多オールスターMVP受賞:4(ボブ・ペティットと並ぶタイ記録)
- オールスター通算最多フィールドゴール成功:119
- オールスター1試合最多オフェンスリバウンド獲得:10
- オールスター通算最多スティール数:38
- 自軍の1試合総得点における自身の得点の割合※:66.4%(122得点中81得点)
- 両軍の1試合総得点における自身の得点の割合※:35.8%(226得点中81得点)
- ※ショットクロック導入後
NBA史上最年少記録
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- 史上最年少スラムダンクコンテスト優勝:18歳と175日
- 史上最年少オールスター先発出場:19歳と175日
- 史上最年少オールNBAディフェンシブチーム選出:21歳と251日
- 史上最年少通算得点到達
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- 32,000:36歳と87日
- 33,000:37歳
NBA史上最年長記録
- 34歳以上で40得点10アシスト以上を記録した連続試合数:2
- 34歳以上で30得点以上を記録した連続試合数:10
- 36歳以上で1試合30得点10アシスト10リバウンド以上を記録
- 37歳以上で1試合60得点以上を記録
レイカーズ記録
- 最多得点記録(レギュラーシーズン)
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- 通算:33,643
- 年間:2,832
- 1試合:81
- ハーフ:55
- クォーター:30
- 月間1試合平均:43.4
- 最多得点記録(プレーオフ)
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- 通算:5,640
- 年間:695
- オーバータイム:12
- キャリア通算60得点以上を記録した回数(レギュラーシーズン):6
- キャリア通算50得点以上を記録した回数(レギュラーシーズン):27
- キャリア通算40得点以上を記録した回数(レギュラーシーズン):125
- キャリア通算40得点以上を記録した回数(プレーオフ):13
- キャリア通算30得点以上を記録した回数(プレーオフ):88
- 1シーズンで50得点以上を記録した回数:10
- 1シーズンで40得点以上を記録した回数:27
- 50得点以上を記録した連続試合数:4
- 40得点以上を記録した連続試合数:9
- 35得点以上を記録した連続試合数:13
- 20得点以上を記録した連続試合数:62
- 月間1試合平均得点で平均40得点以上を記録した回数:3
- チーム最長在籍年数(1996-97シーズン〜2015-16シーズンまで在籍20年)
(その他のレイカーズ記録)
- 最多通算試合出場
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- レギュラーシーズン:1,239
- プレーオフ:220
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- 最多フィールドゴール成功
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- レギュラーシーズン
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- 通算:11,024
- ハーフ:18、クォーター:11
- プレーオフ
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- 通算:2,014
- 最多3Pシュート成功
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- レギュラーシーズン
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- 通算:1,637
- 1試合:12、ハーフ:8、クォーター:6、連続:9
- プレーオフ
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- 通算:292
- 最多フリースロー成功
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- レギュラーシーズン
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- 通算:7,932
- ハーフ:16、クォーター:14、連続:62
- プレーオフ
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- 通算:1,320
- 1試合:21、クォーター:11
- 最多スティール
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- レギュラーシーズン
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- 通算:1,828
- ハーフ:6
- プレーオフ
-
- クォーター:3
経歴
選手経歴 | |
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1996-2016 | ロサンゼル・レイカーズ |
代表歴 | |
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キャップ | ![]() |
1996年のNBAドラフトへのアーリーエントリーを宣言した。
コービーは「レイカーズに入団できなかったら、デューク大学に進学する」と譲らなかった。そこでウェストはホーネッツとトレードを行い、生え抜きのベテランセンターブラデ・ディバッツを放出し、かわりにコービーを獲得(このトレードはシャキール・オニール獲得のためのサラリーキャップ調整のためでもあった)。
コービーは名門レイカーズの一員としてNBAのキャリアをスタートさせることになったのである。
ルーキーイヤーとなった1996-1997シーズンはシューティングガードの他にスモールフォワード、ポイントガードもこなしたが出場時間は約15分とまだ少なく、このシーズンは平均7.6得点の成績に終わった。
それでも随所で才能の片鱗は見せており、1月28日のダラス・マーベリックス戦では故障者が続出したことも手伝って初めて先発に抜擢され、18歳と158日で当時のNBA先発出場最年少記録を塗り替えた。
2年目の1997-1998シーズンになると出場時間も増え、その才能を発揮し始める。そのプレーはファンの心を掴み、ベンチスタートであったが、試合途中に交代で出場すると大きな歓声が起こり、多くのファンがいたことがうかがえた。
その人気を象徴する出来事がこの年のNBAオールスターゲームだった。コービーはレイカーズでは控えにもかかわらずファン投票によりNBA史上最年少でオールスターに選出され、しかも先発出場という異例の出来事となった。
ロックアウトで50試合に短縮された1998-1999シーズンにはリック・フォックスから完全に先発を奪い、成績を19.9得点5.3リバウンドまで伸ばして初のオールNBA3rdチームに選出される。
名実共にリーグトップレベルの選手に成長したコービーだったが、彼の活躍、人気が増すごとに、レイカーズの大黒柱、シャキール・オニール(以後シャック)との摩擦も大きくなり、2人の“不仲説”が公に報じられるようになった。
1999-00シーズンが始まるとレイカーズは快進撃を開始。終わってみれば史上でも屈指の勝率となる67勝15敗の成績だった。
コービー自身も初のアベレージ20得点越えとなる22.5得点6.3リバウンド4.9アシストを記録し、オールNBA2ndチームに選出された(シャックはシーズンMVPを受賞)。
またディフェンス面での大幅な改善も見られ、NBA史上最年少でオールディフェンシブ1stチームにも選ばれるなど、攻守共にハイレベルなスーパースターへと成長した。
プレーオフではライバルチームのサクラメント・キングスやポートランド・トレイルブレイザーズの前に思わぬ苦戦を強いられるも、カンファレンス決勝は第7戦でのコービーの25得点11リバウンド7アシスト4ブロックという活躍もあってブレイザーズを4勝3敗の末に降し、念願のNBAファイナル進出を果たす。
ファイナルではレジー・ミラー擁するインディアナ・ペイサーズと対戦。
コービーにとっては夢にまで見た大舞台だったが、第2戦で足首を捻挫してしまい、第3戦はベンチから試合を見守るという屈辱を強いられた。
レイカーズはコービー不在でもシャックがコートで大いに暴れ回り、最初の3試合を2勝1敗とシリーズを優位に進めた。
最高の舞台を目の前に居ても立っても居られなくなったコービーは、怪我も癒えぬうちに第4戦に強行出場した。
試合は接戦となり、延長に突入。
オーバータイムではこの日ファウルトラブルに陥っていたシャックがついにファウルアウトに追いやられたが、足を引き摺ったままプレイを続けるコービーがオーバータイムのチームの得点のほとんどをあげるという活躍を見せ、レイカーズを勝利に導いた。
レイカーズはその後4勝2敗でペイサーズを降し、レイカーズにとっては1988年以来の優勝を決めた。
コービーにとっては4年目にして初の優勝となった。
チャンピオンチームとして迎えた新シーズンもコービーは平均28.5得点をあげるなど絶好調で、私生活ではプレーオフを前にした4月に電撃結婚するなど嬉しい話題もあった。
チームは56勝26敗と前年ほどではなかったが、プレーオフに入れば1回戦からカンファレンス決勝までの全シリーズを全勝で勝ち抜くという圧倒的な強さでファイナルに進出。
ファイナルではコービーとは同期であるアレン・アイバーソンのフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対決し、4勝1敗で降して連覇を達成した。
連覇を果たし、オールNBAチームなどにももはや常連となっていたコービーだが、過去2年は故障にも苦しみ、1999-00シーズン、2000-01シーズンは2年連続で出場回数は60試合代に留まっていた。
しかしこのシーズンにはキャリアで初めて80試合に出場し、成績も25.2得点5.5アシストと高水準を維持。
オールNBAチームでは初の1stチームに名を連ねた。
出身地であるフィラデルフィアで開催されたオールスターでは自身初のMVPを受賞。
しかし前季のファイナルで地元のチームフィラデルフィア・セブンティシクサーズをレイカーズが破っているため、オールスターにファイナルの感情を持ち込んだ観客から心無いブーイングを食らってしまい、コービーにとって地元でのオールスターは傷心のMVPとなってしまった。
プレーオフでは3年連続でファイナルに進出し、ジェイソン・キッド率いるニュージャージー・ネッツと対決。
4戦全勝という最高の形でシリーズを制し、ついに三連覇を達成した。
当時23歳だったコービーは、3回の優勝を経験した史上最も若い選手となった。
三連覇を達成して無敵の名をほしいままにしていたレイカーズだが、コービーとシャックの反目は優勝の美酒に和らぐどころかむしろ年々強まっており、彼らのロッカールームは冷め切っていた。
2002-2003シーズンはシャックが開幕から欠場。
シャックの不在で伸び伸びとプレイしたコービーは持ち前の得点力が爆発。40得点以上を19回、50得点以上を3回、さらに9試合連続40得点以上を記録、そして当時のNBA新記録となる1試合12本の3ポイントを成功させる(その試合は僅か5分間で6本の3ポイント決めた)等思う存分得点を獲りまくり、このシーズン初のアベレージ30得点越えとなる30.0得点6.9リバウンド5.9アシストを記録し、得点王レースでは2位につけるなど個人としては過去最高のシーズンを送っていたが、チームはコービーとシャックの不仲による影響や、三連覇したことでのモチベーションの低下などが響き、50勝32敗と波に乗り切れないシーズンだった。
プレーオフではカンファレンス準決勝でスパーズと対戦し、2勝4敗で敗戦。
レイカーズの連覇記録もこの年に途絶えた。
王座奪回を目指すレイカーズはオフにカール・マローンとゲイリー・ペイトン、2人のビッグネームを獲得するという大型補強を敢行。
シャックにコービー、マローン、ペイトンと史上類を見ない豪華な陣容に、新シーズンのレイカーズへの期待はいやが上にも高まった。
しかし再び頂点に返り咲くはずだったシーズンを、コービーはコート外のスキャンダルで台無しにしてしまう。
オフの6月に19歳の女性からレイプされたと訴えられたのである。
このスキャンダルでコービーは観客のブーイングや裁判所とアリーナを行き来する生活に悩まされるシーズンを送る羽目となった。
また期待の補強組もマローンがシーズンの半分近くを欠場、全ての栄誉を手に入れてしまったオニールのモチベーションは益々下がっており、さらに今度はコービー自身も膝や肩の故障に襲われるなど、このシーズンのレイカーズは受難続きだった。
それでもプレーオフでは勝ち抜いて、ファイナルに進出。
デトロイト・ピストンズと対戦するが、1勝4敗と完敗を喫してしまい、王座奪回は失敗に終わった。
この頃になるとコービーとシャックの関係は危険水域に達していた。シャックはコービーの独りよがりなプレイが気に入らず、コービーとしては完璧主義な自分と対照的に、練習嫌いで知られるシャックがコンディショニング不足により、度々チーム練習やレギュラーシーズンの試合を欠席していたという状況、そして三連覇を達成しても評価が上がるのはシャックばかりという状況(3回の優勝でファイナルMVPを獲得したのは全てシャック)は受け入れ難いものだった。
また、コービーは常にシャックの機嫌を伺いながら指揮するジャクソンHCにも不信感を抱いており、21世紀最初の王朝を築いたチームはすでに内部崩壊していた。
2004年のオフシーズン、ついにレイカーズ王朝に幕が降ろされる。
この年、フリーエージェントとなったコービーは再契約を望むレイカーズに対し、この先もシャックをチームの中心に据えるなら、そしてジャクソンの下でプレーしなければいけないのならば自分は移籍する、という意志をちらつかせチームにエースの座を要求した。
レイカーズは結局コービーを選択し、シャックとジャクソンはレイカーズを退団、夢のチャンピオンリングを求めてレイカーズにやってきたマローン、ペイトンもレイカーズを去り、同期のフィッシャーも移籍するなどして、王朝チームは完全に崩壊した。
晴れてエースの座に座ったコービーは2005-2006シーズン、1月と3月は40得点以上の試合を7試合記録していた。
さらに4月は8試合全てで30得点以上、40得点以上が5回で月間平均40得点を記録している。
そして極めつけは1月26日のトロント・ラプターズ戦で達成した81得点である。
結局シリーズはレイカーズは1回戦で敗退したものの、この年はコービーを“現役屈指のスコアラーの一人”から“歴代屈指のスコアラーの一人”と、その評価を一段階押し上げたシーズンだった。
そして迎えた2008-09シーズン、レイカーズは優勝候補筆頭として開幕から快進撃を続け、65勝17敗で2年連続カンファレンストップに立った。
コービー自身は靭帯が断裂した右手小指の手術が出来ずに開幕を迎えていたことが不安視されていたが、それは杞憂に過ぎなかった。
チームの戦力が大幅に改善されたことで、これまでのように毎試合フル出場する必要はなくなったため、このシーズンは平均36.1分と先発に定着してからでは最も少ない数字となり、出場時間の減少で成績は26.8得点5.2リバウンド4.9アシストだったが、それでもコービーがリーグ最高峰の選手であることは変わりなく、2月2日にはニューヨーク・ニックスのホーム、マディソン・スクエア・ガーデンで当時のアリーナ新記録となる61得点を記録するなど、話題を振りまくことも忘れなかった。
オールスターでは自身3度目のMVPを獲得している。
プレーオフではカンファレンス準決勝でトレイシー・マグレディとヤオ・ミンという主力が飛車角落ちしたヒューストン・ロケッツ相手に第7戦に持ち込まれるなど苦戦する場面もあったが、期待通りに2年連続でファイナルに進出。
王座奪還に燃えるコービーは対戦相手のオーランド・マジックに対し、第1戦で40得点を記録して先制パンチを浴びせると、その後もコンスタントに高得点をあげ続け、マジックにほとんど付け入る隙を与えず、4勝1敗でファイナルを制した。
コービーにとっては7年ぶりの優勝となった。
シャックがレイカーズを退団してからのコービーの5年間は、「シャックが居なくても優勝できる」ことを証明するための5年間でもあった。
そしてようやく成果を収めたこのファイナルでシリーズ平均32.4得点7.4アシスト5.6リバウンドを記録したコービーは、念願のファイナルMVPを獲得した。
そして、シャックもコービーの実力をついに認め、祝福の言葉を送った。
コービー自身キャリア2度目の連覇へ向けての挑戦となったこの2009-2010シーズン、NBAで2年連続優勝したチームはコービーがシャックとのコンビで三連覇を達成した2002年のレイカーズが最後で、それ以来どのチームも達成出来ていない。
このシーズン、レイカーズは3年連続のファイナル進出となった。
ファイナルでレイカーズを待っていたのは、2年前破れた宿敵ボストン・セルティックスであった。
リーグ屈指のディフェンス力を誇るセルティックス相手に互いに一進一退となった攻防は、伝統の一戦に相応しく第7戦までもつれこむ事となった。
激しい試合となった第7戦は序盤からセルティックスが有利に試合を進めて行くも、ホームの後押しを受けたレイカーズが徐々に追い上げ第4Qついに同点に追いつく。
この試合ここまで堅い守りに苦しめられてきたコービーだったがこの状況でついに目覚め、逆転フリースロー、さらに続けざまにジャンプシュートを沈め連続4得点を奪い一気に流れを引き寄せた。
結局このリードを守りきり追いすがるセルティックスを83-79で振り切ったレイカーズが2年前のリベンジを果たし連覇を達成した。
満身創痍でシーズンを戦い抜いたコービーは自身5度目の優勝、そしてシリーズ平均28.6得点8.0リバウンドを記録し2年連続となるファイナルMVPを受賞した。
その後もレイカーズの絶対的エースとして活躍し迎えた2012-2013シーズンはオフシーズンにドワイト・ハワードとスティーブ・ナッシュが加入し、コービー、ガソルと共に「プレミアム4」として注目が集まったこのシーズン、キャリア通して相方にオールスタークラスのポイントガードがいなかったコービーにとって、ナッシュの加入は本来の役割である得点に専念出来ると同時に、自身の負担を軽減する事にもなるという大きな期待を受けての加入だった。
しかし、レイカーズは序盤から連敗を重ねるなど攻守において噛み合わず、シーズン開幕から、わずか5試合でHCのマイク・ブラウンが解任され、後任には全くスタイルの異なるマイク・ダントーニが就任するなどチームは迷走していった。
プレミアム4の一人として期待されたガソルはプレーエリアが極端に狭いハワードと共存出来ず、成績を大きく落とした。
また、ゲームメイクを期待されて加入した38歳のナッシュも衰えを隠せず、シーズンが進むにつれコービーは得点とゲームメイクの両方を担うようになるなど試合毎に負担は増していった。
コービー自身も34歳という年齢であり、オフェンスでの負担の大きさから、ディフェンスまで力を注ぐスタミナは以前のように残っていなかった。
その後は怪我と戦いながら現役を続け2016年現役を引退した。
エピソード
コービーはデビュー時よりバスケットボール界の若きスーパースターとして活躍し、NBAで最も人気のある選手の一人であったがコロラド州のリゾート・ホテルにおけるレイプ・スキャンダルにより、彼の人気は著しく下がり大きな批判を招いた。
コービーはスキャンダルの結果マクドナルドとイタリアの菓子メーカー、フェレーロとの契約を失った。 2003年6月30日にコロラド州イーグル郡エドワーズのコロラド・ホテルでフロントデスクとして勤めていた19歳の女性が、同州に膝の治療の為に訪れ、同ホテルに滞在していたコービーにレイプされたと訴えた。
コービーは7月17日に逮捕されたが、直ちに保釈された。
彼は女性との関係を認めたが、合意の元であると主張した。
音楽でも天才的なセンスを発揮した彼は、2000年にファッションモデルのタイラ・バンクスとのコラボレーションでアルバム『Visions』とシングル「K.O.B.E」を発売し、ラッパーとしてCDデビューした。
コービーはデビュー当時からことあるごとにマイケル・ジョーダンと比較される。
これまで、同世代のアレン・アイバーソン、トレイシー・マグレディ、ビンス・カーター、一つ下の世代のレブロン・ジェームズ、ドウェイン・ウェイドら、多くのスター選手が若手時代にネクスト・ジョーダンと期待されてきたが、コービーほどキャリアを通して極端に比較され続けてきた選手は他にはいない。
それは実績とカリスマ性に加え、ポジション、プレースタイル、体格、ともに闘争心旺盛で筋金入りの負けず嫌いであることなど、類似点が非常に多いことも理由の一つとして挙げられる。
またコービー自身も、全盛期のジョーダンのプレーを見て育った世代のため、他の選手たちと同じように影響を受けたものは多いと語っている。
ジョーダンの後継者と呼ぶに相応しいと謳われ、ジョーダン自身も、1998年のオールスターゲーム終了後に後継者としてコービーを指名しており、現役最後となった2003年のオールスターゲームの際にも、次代を託した若手スター選手の一人としてコービーの名を挙げていた。
また、引退して月日が経った2012年には「自分の引退後のプレイヤーの中で、自分と比較されるにふさわしい選手はコービーだけだ。」と語っている。
さらにジョーダンは「自身の全盛期にマッチアップをしてみたい相手は誰ですか?」との問いに「ジェリー・ウェスト、エルジン・ベイラー、レブロン、ウェイド、メロ………誰にも負ける気はしないよ、コービー以外には。彼は私の動きを全て盗んだからね。」と答えている。
コービー自身も「1on1では誰も俺には勝てない。もし俺に勝てる選手がいるとすれば、彼は98年にユタでラストショットを決めて引退したよ。」と答えた。
もちろんラストショットを決めて引退した選手というのはジョーダンであり、このように互いに実力を認め合い、リスペクトし合う関係である。
2020年1月26日10時(日本時間27日午前3時)頃、アメリカ合衆国西部ロサンゼルス近郊のカラバサスで、コービーと次女ジアナら9人が乗ったヘリコプターが墜落し、コービーを含む搭乗していた全員が死亡した。41歳没。
その死は多くの人々に衝撃を持って伝えられ、同日行われたNBAの8試合では試合前に追悼セレモニーを行うと共に、試合開始後のティップオフから両チームが(コービーの現役時代の背番号に因んだ)24秒(ショットクロック)ヴァイオレーションや8秒ヴァイオレーションを意図的に犯してコービーに哀悼の意を捧げ、また、アトランタ・ホークスのトレイ・ヤングは、彼の過去の背番号8を着用して登場した。
またデトロイト・ピストンズは試合前に選手全員が「24」「8」「Bryant」文字がプリントされたユニフォームを着用して登場した。
コービーの訃報にマジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダンといったNBAのレジェンドだけではなく、ドナルド・トランプ、バラク・オバマ、ノバク・ジョコビッチ、ラファエル・ナダル、リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウド、トム・ブレイディ、ネイマール、ジネディーヌ・ジダン、アンドレス・イニエスタ、ジャスティン・ビーバーなど世界各国のアスリートや著名人が追悼のコメントを発している。
またコービーと親交が深く共にトレーニングをしたことのあるタイガー・ウッズは「人生がとても儚い。生きている瞬間に感謝しなければならない」と、コービーへの思いを語った。
コービーとともに3連覇を成し遂げたシャキール・オニールは「俺には弟がいるが、その弟を失ってしまった」と追悼コメントを発表した。
プレースタイル
スコアラー型のシューティングガードで、得点することが主な役割です。
コービーはオフェンス能力、ディフェンス能力がハイレベルなオールラウンダーです。
オフェンスだけに目がいきがちですが、ディフェンスも抜群に上手です。
オールディフェンシブチームには1stチームに9回、2ndチームに3回選ばれています。
しかし、オンボールの対人ディフェンスは良かったですが、オフボールのチームディフェンスはあまり貢献しなかったようなことを元ヘッドコーチのフィル・ジャクソンが言っていました。
そしてオフェンスは言うまでもないぐらい驚異的です。
1on1が異様に強く、ペネトレイトやミドルレンジジャンパー、ポストプレーやフェイダウェイなど攻撃パターンが豊富でした。
唯一スリーポイントが得意ではないことが弱点でしょうか。
また、若い時は派手なダンクやムーブなど、ペネトレイト中心のプレースタイルでしたが、キャリア中盤頃からはジャンプシュート中心にシフトしていきました。
年齢に応じて身体能力頼みのプレーからスキル重視に変えたわけです。
コービーのプレイスタイルを語る上で欠かせないのはマイケル・ジョーダンでしょう。
コービーはジョーダンのプレーを研究してスタイルを確立させていきました。
2人のプレーは何から何まで似ていて、とくにポストプレーからオフェンスを展開させていくあたりがそっくりです。
余談ですが、最初コービーは登録身長が201センチでしたが、途中からジョーダンと一緒の198センチに変更しました。
あとは話し方の癖など、プレイスタイル以外でもジョーダンに憧れているのでしょうね。
また、クラッチタイムにも強く、勝負強さは歴代でみてもトップクラスでしょう。
プレーオフでも数々のビッグショットを決めてきました。
重要な時間はコービーにボールを託す場面が多かったです。
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