バリー・ボンズ

概略

国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州リバーサイド
生年月日 1964年7月24日(55歳)
身長
体重
188 cm
108.9 kg

 

ポジションは外野手。

 

左投左打。

 

MLB歴代1位記録となる通算762本塁打、シーズン73本塁打、長打率.863、出塁率.609、OPS1.422、史上唯一の500本塁打500盗塁など、そのキャリアを通じて数々の記録を残し、史上最も偉大な野球選手の一人とされる

 

栄養補助食品会社バルコの薬物醜聞(バルコ・スキャンダル)の捜査に関連して司法妨害罪と自身の薬物使用について嘘の証言をしたとして偽証罪で起訴され、2011年4月13日に司法妨害罪の有罪判決を受けたが、2015年4月にサンフランシスコ高裁が司法妨害罪の無罪判決を言い渡し、同年7月に無罪が確定した

 

MLBにおける通算及びシーズン本塁打記録保持者という実績を誇りながらも、上記の薬物使用疑惑における負のイメージの影響を受け、同じく薬物使用疑惑の付きまとうロジャー・クレメンス同様、有資格を得ながらもアメリカ野球殿堂入りは果たされていない。

 

父のボビー・ボンズも元MLB選手で300本塁打300盗塁達成しており、史上初の親子で達成した選手である。

 

MVP1回本塁打王4回のレジー・ジャクソンは従兄にあたる。

 

名付け親は本塁打王4回盗塁王4回のウィリー・メイズ。

 

タイトル

  • 首位打者 2回:2002年、2004年
  • 本塁打王 2回:1993年、2001年
  • 打点王 1回:1993年

表彰

  • シーズンMVP 7回:1990年、1992年 – 1993年、2001年 – 2004年
  • シルバースラッガー賞 12回:1990年 – 1994年、1996年 – 1997年、2000年 – 2004年
  • ゴールドグラブ賞 8回:1990年 – 1994年、1996年 – 1998年
  • ハンク・アーロン賞 3回:2001年 – 2002年、2004年
  • コミッショナー特別表彰:2004年
  • ナ・リーグ月間MVP 13回:1990年7月、1991年7月、1992年4月・9月、1993年4月、1996年4月、1997年7月、2001年5月・9月、2002年8月、2003年7月、2004年4月・8月
  • ナ・リーグ週間MVP 13回
  • プレイヤーズ・チョイス・アワーズ
    • Player of the Year 2回:2001年、2004年
    • NL Outstanding Player 4回:1993年、2001年 – 2002年、2004年
    • NL Comeback Player 1回:1992年
  • The Sporting News
    • Major League Players of the Year 3回:1990年、2001年、2004年
    • NL Players of the Year 2回:1990年 – 1991年
    • NL All-Star Teams12回:1990年 – 1994年、1996年 – 1997年、2000年 – 2004年
    • Player of the Decade:1990年代
    • All-Decade Team:2000年代
  • Baseball America
    • MLB Player of the Year 3回:2001年、2003年 – 2004年
    • First-Team Major League All-Star OF 7回:1993年 – 1994年、2000年 – 2004年
  • Baseball Digest
    • Player of the Year 3回:1993年、2001年 – 2002年
  • Sports Illustrated
    • All-Decade Team:2000年代
  • ESPN
    • All-Decade Team:2000年代
  • Yahoo! Sports
    • All-Decade team:2000年代
  • AP通信
    • Athlete of the Year 1回:2001年
    • Player of the Year 2回:1992年 – 1993年
    • All-Star Award 5回:1990年 – 1993年、2000年
  • DHLホークタウン・ヒーローズノミネート:2006年

記録

  • MLBオールスターゲーム選出 13回:1990年、1992年 – 1998年、2000年 – 2004年、2007年

保持記録

  • 通算本塁打数 762:2013年終了時点(歴代1位、ギネス世界記録に認定)。
  • シーズン本塁打数 73:2001年
  • 異なる投手からホームラン 449
  • 40歳以上でのホームラン 74
  • 43歳でのホームラン 28
  • シーズン30本塁打以上 13年連続:1992年 – 2004年
  • シーズン長打率 .863:2001年
  • ワールドシリーズでの長打率 1.294, 2002
  • シーズン長打率.600以上 8年連続, 1998–2005
  • シーズン出塁率 .609:2004年
  • シーズン四球数 232:2004年
  • シーズン敬遠数 120:2004年
  • 連続四球数 18試合
  • MVP受賞 7回:1990, 1992–93, 2001–04
  • MVP受賞 4年連続 2001–04
  • ナ・リーグ月間MVP選出 13回
  • 最年長首位打者初獲得 38歳 2002
  • シーズンOPS 1.422:2004年
  • 4年連続で出塁率5割以上:2001年 – 2004年
  • 4年連続で長打率7割以上:2001年 – 2004年
  • 40-40(40本塁打40盗塁):1996年(史上4人)
  • 史上初となる500-500(500本塁打500盗塁)を達成
  • 40歳での首位打者、MVP獲得はともにメジャー最高齢記録:2004年
  • 通算四球数 2558
  • 通算敬遠数 688

合同記録

  • 連続四球:7
  • 連続出塁:15
  • 30-30(30本塁打30盗塁)5回:1990年、1992年、1995年 – 1997年(父ボビー・ボンズと並び大リーグ最多記録)
  • 同一ポストシーズン本塁打数 8:2002年

 

経歴

選手歴
  • アリゾナ州立大学
  • ピッツバーク・パイレーツ (1986 – 1992)
  • サンフランシスコ・ジャイアンツ (1993 – 2007)

 

1985年のMLBドラフトでピッツバーグ・パイレーツから1巡目(全体6位)に指名を受け入団。

 

同年はA級で7月の月間MVPに選出されるなど打率.299・13本塁打を記録。

 

1986年はAAA級で打率.311・7本塁打・出塁率.435の好成績を挙げ、メジャー昇格を果たす。

 

5月30日のロサンゼルス・ドジャース戦に「1番・センター」として先発出場しメジャーデビュー。

 

16本塁打・48打点・36盗塁・65四球はいずれもリーグの新人選手で最高だったが、キャリアワーストの打率.223・102三振に終わる。

 

2年目での慌ただしい昇格と、与えられた背番号が敬愛するメイズと同じ24でなかったことが成績の低下を招いたとして、球団に不満を訴えた。

 

ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では6位に入る。

 

1987年は希望通り背番号を24に変更。

 

開幕直前にアンディ・バンスライクの移籍に伴いレフトへコンバートされる。

 

バンスライクとの左中間コンビはフィールドの外では良好な関係を築くことはなかったが、試合では連携を見せ広い守備範囲をカバーした。

 

同年は25本塁打・59打点・32盗塁の成績。

 

1988年は打率.283・24本塁打を記録。

 

1989年は打率.248・19本塁打・58打点とやや不本意だったが、リーグ2位の14補殺を記録した。

 

シーズン終了後にドジャースのジェフ・ハミルトン、ジョン・ウェッテランドとの1対2の交換トレードの噂が流れるが球団は否定し、結局トレードが行われることはなかった。

 

1990年は前半戦で打率.340・15本塁打・24盗塁の好成績で、オールスターゲームに初選出される。後半戦は打率.261ながら18本塁打・28盗塁を記録し、シーズン通算で打率.301・33本塁打・114打点、リーグ3位の52盗塁、リーグトップの長打率.565の成績で史上2人目の30本塁打50盗塁を達成するなどチームの11年ぶりの地区優勝に大きく貢献。

 

シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.167と振るわず、チームは2勝4敗で敗退した。

 

MVPの投票ではチームメイトのボビー・ボニーヤを抑えて初受賞し、シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞も獲得した。

 

1991年は打率.292・25本塁打・116打点・107四球、リーグトップの出塁率.410を記録し、チームは地区連覇を果たす。

 

アトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.148、本塁打・打点共に0とまたも振るわず、チームは3勝4敗で敗退した。

 

MVPの投票では首位打者を獲得したテリー・ペンドルトンに次ぐ2位に入り、2年連続でシルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を受賞した。

 

1992年は打率.311・34本塁打・103打点・39盗塁、いずれもリーグトップの109得点・127四球・出塁率.456・長打率.624・OPS.1.080・32敬遠を記録して2度目の30本塁打30盗塁を達成し、チームは地区3連覇。

 

前年に続きブレーブスと対戦したリーグチャンピオンシップシリーズでは第6戦でポストシーズン初本塁打を放ち3勝3敗のタイに戻す。

 

最終第7戦は2-0とリードして9回裏を迎えたが、1点差に迫られた後の2死満塁からフランシスコ・カブレラ(後オリックス)に逆転サヨナラタイムリーを打たれて敗退。

 

打球を処理しサヨナラのホームインを阻止しようとレフトから本塁へ送球するが及ばず、試合終了後に呆然としている姿をテレビカメラに写されている。

 

2度目のMVPを受賞するが、ボンズ以外にもダグ・ドレイベック等主力選手の年俸が高騰し、再契約は難しいとの見方が出ていた。

 

オフにフリーエージェントとなった。

 

1992年12月8日にジャイアンツと総額・年俸共に当時史上最高額となる6年4,375万ドルの契約を結んだ。

 

翌年以降パイレーツはポストシーズンどころか2012年まで20年間にわたり勝率5割にすら届かないシーズンが続き、ボンズの呪いではないかと言われていた。

 

1993年は10月1日のドジャース戦でキャリアハイの7打点を記録。

 

打率.336、いずれもリーグトップの46本塁打・123打点・出塁率.458・長打率.677・OPS1.136の成績で、最多本塁打・最多打点の二冠を獲得。

 

チームは2位ブレーブスに最大10ゲーム差を付けるなど地区首位を独走していたが、9月7日から8連敗を喫して逆転を許す。

 

シーズン最終戦を前に同率で並ぶが、宿敵ドジャースに大敗して1ゲーム差で地区優勝を逃した。

 

2年連続3度目のMVPを受賞し、ジョー・ディマジオやミッキー・マントルなど往年の名選手と肩を並べた。

 

1994年は8月2日のレッズ戦で自身初の1試合3本塁打を記録。

 

MLB選手会の1994年から1995年のMLBストライキでシーズンが打ち切られたが、打率.312・37本塁打・81打点、リーグトップの74四球を記録し、MVPの投票で4位に入った。

 

同年、ジェームズ・ウッズとアン・アーチャー主演の映画ジェーンズ・ハウスに父ボビーと共に本人役で出演した。

 

1995年はキャリア唯一の全試合出場を果たし、打率.294・33本塁打・104打点・31盗塁、共にリーグトップの120四球・出塁率.431・OPS1.009を記録し、自身3度目の30本塁打30盗塁を達成。

 

1996年は4月27日のフロリダ・マーリンズ戦でジョン・バーケットから通算300号本塁打を放ち、メイズ、アンドレ・ドーソン、父ボビーに次いで史上4人目となる300本塁打300盗塁を達成。

 

打率.308・42本塁打・129打点・40盗塁、リーグ記録を更新する151四球の成績で、1988年のホゼ・カンセコに次ぐ史上2人目の40本塁打40盗塁を達成し、MVPの投票で5位に入る。

 

1997年は打率.291・40本塁打・101打点・37盗塁、4年連続リーグトップの145四球を記録して父と並ぶ通算5回目の30本塁打30盗塁を達成し、チームの地区優勝に貢献。

 

フロリダ・マーリンズとのディビジョンシリーズでは打率.250・本塁打0に終わり、チームは3連敗で敗退した。

 

MVPの投票では前年と同じく5位に入った。

 

1998年は5月28日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で、2点ビハインドの9回表2死満塁の場面で敬遠四球。

 

8月23日のマーリンズ戦で通算400号本塁打を放ち、史上初の400本塁打400盗塁を達成した。

 

打率.303・37本塁打・122打点・28盗塁を記録し、さらに通算8度目となるゴールドグラブ賞を受賞し、MVP投票では8位に入った。

 

1999年のスプリングトレーニング時に例年より体重を増やした状態で登場。

 

同年は好調なスタートを切ったものの、故障で2ヶ月近く離脱した影響で102試合の出場に留まり、打率.262・34本塁打・83打点と不本意な成績に終わる。

 

ピークは過ぎたと見られることもあったが、355打数で34本塁打を放っており、本塁打率は自己最高を記録している。

 

2000年は打率.306・49本塁打・106打点・長打率.688、リーグトップの117四球を記録し、チームの3年ぶりの地区優勝に貢献。

 

ニューヨーク・メッツとのディビジョンシリーズでは打率.176とまたも振るわず、チームは1勝3敗で敗退した。

 

MVP投票ではチームメイトのジェフ・ケントに次ぐ2位に入った。

 

2001年は4月12日から6試合連続本塁打、その間4月17日のドジャース戦で通算500本塁打を達成。5月17日から再び6試合連続本塁打、5月19日のブレーブス戦、9月9日のコロラド・ロッキーズ戦で1試合3本塁打を記録。

 

10月5日のドジャース戦で朴賛浩から71号本塁打を放ち、マーク・マグワイアの70本塁打を更新するメジャー記録を樹立。

 

打率.328・73本塁打・137打点、共にベーブ・ルースのメジャー記録を更新する177四球・長打率.863の成績を残す。

 

しかし打点王は取れなかった。

 

シーズン最終戦の日の朝、アメリカはアフガン侵攻を開始したが、テレビ局ニュース記者によれば、アメリカ国民は「誰もアフガンなんて興味もない。ボンズのホームランに夢中」だった。

 

チームは地区優勝を逃したが、史上初となる4度目のMVPを受賞した。

 

2002年は開幕から2試合で4本塁打・9打点を記録。

 

その後も8月27日のロッキーズ戦で3本塁打を放つなど好調を維持し、打率.370・46本塁打・110打点、いずれもメジャー記録を更新する198四球・出塁率.582・68敬遠四球を記録して自身初の首位打者を獲得し、チームのワイルドカード獲得の原動力となる。

 

ブレーブスとのディビジョンシリーズ、セントルイス・カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは計4本塁打を放ち、チームは13年ぶりのリーグ優勝。

 

自身初出場となったアナハイム・エンゼルスとのワールドシリーズでは打率.471・4本塁打を記録する活躍を見せるが、シリーズ記録の13四球(内敬遠7)と勝負を避けられ、チームは3勝4敗で敗退し移転後初のワールドチャンピオンはならなかった。

 

2003年は父ボビーの死去もあり、若干パフォーマンスが落ちたものの、打率.341、45本塁打、90打点を記録。

 

ケントが移籍したこともあり相変わらず勝負を避けられることは多く、61敬遠は前年に自身が記録したものに次いで歴代2位だった。

 

また6月23日のドジャース戦で通算500盗塁を達成したことで、同時に史上初の「500-500」を記録した選手となった。

 

2004年は打率.362、45本塁打、101打点を記録。

 

40歳で2度目の首位打者を獲得した。

 

また以前にも増して徹底的な四球攻めに遭い、120敬遠を含む232の四球を記録。

 

出塁率は6割を超え、OPSは1.422を記録し、4つのMLB記録を更新。

 

9月には史上3人目となる通算700号本塁打を達成した。

 

2005年は故障でシーズンの大半を欠場。

 

9月になってようやく復帰したが、わずか14試合の出場に終わる。

 

これはジャイアンツにとって大きな誤算となり、1996年以来9年ぶりの負け越しを記録することとなった。

 

2006年には5月28日のロッキーズ戦で715号を放ち、ベーブ・ルースの記録を更新。

 

シーズン全体では130試合に出場し打率.270、26本塁打、77打点に終わり、更なる体重増加により守備・走塁能力にも衰えは明らかであったが、115四球はリーグトップ、38敬遠、出塁率.454はMLB全体トップを記録するなど、打撃技術は健在であることを示して見せた。

 

2007年は通算本塁打の記録更新が近付いていたため開幕から注目されていたが、メジャーデビューから22年目の2007年8月4日、ペトコ・パークのパドレス戦でハンク・アーロンの持つ755本のメジャー通算本塁打記録に並ぶ。

 

それから三日後の8月7日、AT&Tパークのワシントン・ナショナルズ戦でマイク・バシック投手から756本目となる本塁打をライトスタンドに打ち込み、MLB通算本塁打記録を塗り変えた。

 

ゲーム中にもかかわらず10分に及ぶセレモニーで新記録を祝い、自らマイクを握って挨拶を行い、「父さん、皆さん、ありがとう!」と締めくくった。

 

チームメイトとの不和が盛んに囁かれていたが、この時はベンチ総出で祝福されている。

 

9月21日に、年俸の高さ、チームの低迷、チームの若返りの方針、薬物問題によるイメージダウンなどにより、サンフランシスコ・ジャイアンツは来期以降の契約を延長しない意思を伝え、シーズン中にも関わらず退団が決定した。

 

その頃怪我で出場を見送っていたボンズは、26日のパドレス戦にスタメン出場し、3打数無安打に終わった。

 

結果的にこの日が現役最後の出場となっている。

 

シーズン全体では打率.276・28本塁打・66打点を記録。132四球、43敬遠、出塁率.480は2006年に続いてMLBトップの記録だった。

 

代理人は「ボンズはプレーする用意がある」との声明を発表し、本人も「まだ引退したつもりは無い」と語ったが、公に獲得を表明する球団は出なかった。

エピソード

大学時代からチームメイトを選り好みし、1A時代のルームメイトは彼の不遜な態度に業を煮やして同居を拒否し、また他のチームメイトも陰口を叩いていたという。

 

マイナー時代、パイレーツにドラフト1巡指名(全米6位)を受け、ルーキーイヤーに1Aのチームに合流した初日、監督室にノックもせずに勢い良くやってきて「俺はバリー・ボンズ。ドラフト1位選手だ」と不躾な自己紹介をした。

 

当時の1A監督であったエド・オットーはそんなボンズの顔を睨み付け、「私はエド・オットーでお前さんの監督だ。それが分かったなら、とっととこの部屋から出て行きやがれ。それにノックする気がないのなら、二度とここには入ってくるな!」と怒鳴りつけたという。

 

パイレーツ時代に左中間コンビを組んでいたバンスライク、更にジャイアンツ移籍当時の三塁手マット・ウィリアムスはベテラン選手にも軽口をたたくボンズをチームメイトの前で怒鳴りつけたこともある。

 

1997年から2002年までの間3・4番コンビを組んでいたケントとは犬猿の仲で、お互いに試合におけるパフォーマンスは認めていたものの、しばしば口論する姿が見られており、2001年にはベンチで掴み合いの乱闘をする姿を公に晒している。

 

また、現在では、ロッカールームでは隣り合うロッカーの他、専属トレーナーにもロッカーを割当ててシャワールームに一番近い壁際のロッカー全てを自分で占めており、自分専用のソファーと大型テレビも置いているという。

 

この専用ソファーにチームメイトが勝手に座った時、そのチームメイトを怒鳴りつけたことがある。

 

 

「投手がMVPになるということは野手に対する侮辱である。ワールドシリーズでMVPを取れば良いじゃないか」、「ルースの頃は白人しかいなかったんだから基本的に認めていない。MLB史上最強の打者は俺だ」などの発言もある。

 

2000年代以降に体格が突然巨大化したこと、30歳代後半の年齢でパフォーマンスが一気に向上したことなどから、筋肉増強剤のアナボリックステロイドやヒト成長ホルモン(HGH)等の運動能力向上薬物を使用しているとの噂が絶えなかった。

 

ボンズが薬物に手をだすきっかけとなったのは、1998年のマグワイアとソーサの本塁打量産対決であるというのが通説である。

 

1998年、従来の記録であったロジャー・マリスのシーズン61本塁打を大きく超えるハイレベルな二人の争いに全米中が熱狂した。

 

その一方でこの年に打率.303・本塁打37・打点122・盗塁28という成績を残し、史上初の「400本塁打‐400盗塁」を達成していたボンズはこの二人の影に完全に隠れてしまった。

 

人一倍プライドの高いボンズは、「このままでは一番でいられない、ホームランを打たないと誰からも注目してもらえない」と今までのスピードを捨てて本塁打を打つためのパワーを手に入れようとした、というのである。

 

1998年のオフ、友人のケン・グリフィー・ジュニアと食事をした際に、ボンズはそのように語り、ステロイドの使用を開始したことを示唆したとグリフィーが証言している。

 

こうして、このあと数々の記録を打ち立てることになる凄まじい打棒と引き換えに「疑惑」はどんどん強くなっていくのである。

 

2007年5月にUSAトゥデイ紙が493人の現役大リーガーと469人のファンを対象に行ったアンケート調査の「史上最も偉大なホームラン打者は誰か」という項目において、ファンの回答で最も多かったのがハンク・アーロンの36%、次いでベーブ・ルースの33%、ボンズは8%にしか過ぎなかった。

 

だが現役選手の72%がボンズと回答している。

 

ここにその現役選手たちのコメントを一部列挙する。

 

  • 「彼は凄く簡単そうにボールを打っているけど、実際は難しいんだ。どうやったらあれだけ安定したスイングを出来るのか俺には分からない。ステロイドを使った選手は他にもいるけど、ボンズに匹敵する奴は誰もいない」「ステロイドを使っている他の選手のスイングに比べたら、ボンズがステロイドのおかげだけでホームランを打っているとは思えない。仮に彼がステロイドをやっていたと認めても、ホームランの価値が損なわれるとは思わない」‐デビッド・オルティーズ

 

  • 「度重なる薬物検査の下、人間離れしたスウィングで僕らを驚かせるんだから、彼は本物だよ。素晴らしい動体視力とタイミングでボールを捉え続ける。単純に、彼は他の打者よりも優れているんだ」‐バリー・ジト

 

  • 「皆と同じようにステロイドの使用については疑っている。だが、それと彼の打者としての偉大さは別さ」「打てる球が1試合に2球くらいしかないのにそれを本塁打にする。自分が対戦した時も2球だけだったのに、そのうちの1球を柵越えにした」‐トム・グラビン

 

これらコメントに代表されるように、選手たちの間では“ステロイドを使ったからといって簡単にホームランを打てるわけではない”とボンズを擁護する意見が多い。

 

引退後5シーズンが経過し、2013年にアメリカ野球殿堂入り資格を得た。

 

しかし、ステロイド使用が確定しているボンズに対して、殿堂入りを認めるかどうかの議論が投票前から盛んに行われた。

 

ロジャー・クレメンス、サミー・ソーサといった薬物使用者も同時に殿堂入り資格を得たため、「“ステロイド時代”をどう評価するか」という個人の問題に留まらない重要な論争となった。

 

2012年12月にAP通信が投票有資格者100人以上に対して行った事前調査では、殿堂入りを認めると回答した記者は45%に留まり、殿堂入りに必要な75%には届かなかった。

プレースタイル

 

MLB史上最高のホームランバッターとの声も大きい。

 

走攻守全てに際立った力を持つ5ツールプレイヤーであった。

 

30本塁打30盗塁を5度、3割30本塁打30盗塁を3度、3割40本塁打40盗塁を1度記録している。

 

このうち40本塁打40盗塁はホセ・カンセコ、アレックス・ロドリゲス、アルフォンソ・ソリアーノ、そしてボンズの4名しか達成者がいない。

 

守備ではゴールドグラブ賞を8度獲得した。

 

とりわけ、1997年のオールスターでデビッド・コーンとイバン・ロドリゲスの黄金バッテリーから盗塁を奪った事でボンズの高い走力を再確認したファンも多い。

 

2001年のシーズン73本塁打を筆頭に、2001年からは出塁率.500以上、長打率.700以上を4年連続で記録した。

 

この二つの数字を足したものであるOPSにおいても1.200以上を記録、2004年には出塁率.609、長打率.812を記録しOPSはMLB記録の1.422を記録。

 

四球記録は自身が3度更新、敬遠数は2度更新、出塁率も2度更新した。

 

年間100三振に達したのはキャリア一年目の102三振だけで、2001年に73本塁打を記録して以降は本塁打率が大きく上昇したが、2004年には三振よりも本塁打の方が多い(45本塁打41三振)という記録を残した。

 

無走者での敬遠が41度(うち無死無走者の場面での敬遠が5度)、2ストライクを取られてから敬遠されたことが5度(うち0ボール2ストライクからフルカウントになり敬遠されたのが3度)ある。

 

また前述の通り、1998年5月28日のダイヤモンドバックス戦では、9回ツーアウト満塁から敬遠された。

 

打力を物語る話として、新人時代にこんな挿話がある。パイレーツにドラフト1位指名(全米6位)を受けたその週に、ピッツバーグに招かれ当時の本拠地、スリー・リバーススタジアムで打撃練習を行った。

 

その際、引っ張って15球中11球をスタンドに放り込んだところ、それを見ていたコーチの一人が、「そんなのは左打者ならみんなできる」と言った。

 

すると「じゃ、これを見てみな」とレフトへ柵越えを連発した。

 

野球における勘もずば抜けており、ある試合でジャイアンツ打線が相手投手に手玉に取られていたとき、ぽつりと「グラブの角度が変わったらスライダー、まっすぐなら速球だよ」と言った。

 

チームメイトは違いが分からなかったがボンズはその後の数球の球種を的確に言い当てた。

 

ボンズの象徴とも言えるAT&Tパークのライト場外の海(サンフランシスコ湾、ジャイアンツの名選手ウィリー・マッコビーにちなんでマッコビー・コーブとも呼ばれる)へ直接打ち込まれる本塁打は”Splash Hit“(スプラッシュヒット)と呼ばれる。

 

このスプラッシュヒットをボンズは歴代最多の35本を記録した(歴代2位タイのパブロ・サンドバル、ブランドン・ベルトでさえ通算7本に留まる)。

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