概略
誕生日 | 1956年12月7日(63歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | インディアナ州ウエストバーデン |
出身 | インディアナ州立大学 |
ドラフト | 1978年 6位 |
身長(現役時) | 206cm (6 ft 9 in) |
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体重(現役時) | 100kg (220 lb) |
ポジションはスモールフォワード。
右利き。
1980年代にNBAのボストン・セルティックスを3度の優勝に導いた。
得点やパス、リバウンドのセンスに優れ、正確な長距離シュートや試合の先を読む能力に秀でていた。
しばしば史上屈指の選手に挙げられ、史上最高のスモールフォワードの一人と考えられている。
現役時代には既に「伝説 (Legend)」の異名を与えられていた。
シーズンMVPを3度受賞(連続受賞でもある)。
1996年にNBA50周年を記念したNBA50周年記念オールタイムチームの1人に選ばれた。
1998年に殿堂入り。
受賞・タイトル
受賞歴 | |
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経歴
1978-1992 | ボストン・セルティックス |
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代表キャップ | ![]() |
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1978年、ボストン・セルティックスの社長兼ジェネラル・マネージャーだったレッド・アワーバックによりドラフト1順目6位で指名された。
当時バードはインディアナ州立大学の3年生で中退の意図はなかったが、同大学に編入する以前インディアナ大学に属していた時からは4年目になっており、ドラフト規則の盲点を突いたアワーバックの機転による指名だった。
バードはインディアナ州立大学を卒業した翌シーズンよりセルティックスに参加した。
1年目のシーズン、バードはチーム成績を前年の29勝53敗から61勝21敗まで引き揚げるのに大いに貢献し、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)に選ばれた。
また新人ながらオールNBAファーストチームに選出された。
同賞をバードは1988年まで連続で受賞することになる。
この年のプレイオフでは、セルティックスはカンファレンス・ファイナルでフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦し、1勝4敗で敗退した。
翌1980-1981シーズンに、セルティックスはトレードでロバート・パリッシュを、ドラフトでケヴィン・マクヘイルを獲得した。
フロントコートに厚みを増したセルティックスは、レギュラーシーズンをリーグ1位タイの62勝20敗で終えた。プレイオフに進んだセルティックスはシカゴ・ブルズを3戦で退け、セブンティシクサーズを7戦で下してNBAファイナルに進出した。
NBAファイナルではモーゼス・マローン率いるヒューストン・ロケッツと対戦した。
競った展開となったシリーズ第1戦の第4クオーターで、バードは、シュートを放って外れると悟ったバード自身がベースライン右手に駆け出し、リングに弾かれたボールを空中で取りそのままシュートして決めると言う後に有名になるプレーを見せた。
この試合をセルティックスは98対95でものにし、シリーズ全体も4勝2敗で制したセルティックスは5年ぶりに王者に返り咲いた。
翌1981-1982シーズン、セルティックスはリーグ最高の63勝19敗の成績をあげ、次の1982-1983シーズンには56勝26敗とリーグ3位となった。
しかしプレイオフではセブンティシクサーズやミルウォーキー・バックスに敗れてNBAファイナル進出を果たせなかった。
1982年はレイカーズ、1983年はセブンティシクサーズが優勝した。1981年に優勝した時、バードはセルティックスがしばらく連覇できるだろうと考えたが、現実にはカンファレンスのライバルだったセブンティシクサーズに行く手を阻まれ、大学以来のライバルと目されていたマジック・ジョンソンのレイカーズには水を開けられていた。
1983-1984シーズン、セルティックスは62勝20敗で、リーグ最高の成績となった。
シーズン平均24.2得点、6.6アシスト、10.1リバウンドを記録したバードはシーズンMVPに選ばれた。
プレイオフでセルティックスはワシントン・ブレッツ、ニューヨーク・ニックス、バックスを下してNBAファイナルに進出した。
一方ウエスタン・カンファレンスからはレイカーズが勝ち上がった。
大学時代のNCAA決勝で対戦していたラリー・バードとマジック・ジョンソンは、プロ入り以降それぞれイースタン・カンファレンスとウエスタン・カンファレンスの強豪で中心的な選手となっていたが、両者がNBAファイナルで争うのはこの時が初めてだった。
メディアやファンのみならず、全米が注目する中で両ライバルは対決することになった。
ボストンで行われたシリーズの緒戦、レイカーズのカリーム・アブドゥル=ジャバーの活躍もあり、セルティックスは109対115で敗れた。
続く第2戦ではジェームズ・ウォージーの活躍により終盤でレイカーズがリードを奪うが、セルティックスのジェラルド・ヘンダーソンのスティールにより試合は延長に入り、これをものにしたセルティックスがシリーズを1勝1敗のタイに持ち込んだ。
ロサンゼルスに舞台を移した第3戦、マジック・ジョンソンがNBAファイナル記録となる21アシストをマークし、セルティックスは104対137で大敗を喫した。
試合後、普段は言葉少ないバードがマスコミに対し「我々は腰抜けのようなプレイをした」「このチームにはハートがない。12人分の心臓移植をすべきだ」と自分とチームを強く批判した。
第4戦で、バードの発言に鼓舞されたセルティックスは奮闘した。マクヘイルがレイカーズのカート・ランビスを転倒させたこと、バードとアブドゥル=ジャバーの接触などで乱闘寸前になるほど荒れた試合となったが、終盤にマジック・ジョンソンがミスを繰り返し、試合はシリーズ2度目の延長に突入した。
セルティックスは延長を制し、シリーズは再びタイとなった。
続く第5戦、熱波に襲われたボストンでの試合で、バードはフィールドゴールを20本中15本成功させ、34得点をマーク。
セルティックスは3勝目を上げた。
ロサンゼルスで行われた第6戦では、アブドゥル=ジャバーの活躍などでレイカーズが勝利。
シリーズは3勝3敗のタイに持ち込まれた。
ボストンで行われた最終の第7戦では、セルティックスの各選手が活躍し、111対102でセルティックスが勝利。
シリーズ平均27.4得点、14リバウンド、2スティールを記録したバードはファイナルMVPに選ばれた。
続く1984-85シーズン、セルティックスはリーグ最高の63勝19敗の成績で終え、バードは再びシーズンMVPに選ばれた。
このシーズンのバードの平均28.7得点はリーグ2位、10.5リバウンドはリーグ8位、スリーポイントシュート成功率は42.7%でリーグ2位だった。
シーズン中のアトランタ・ホークス戦では、生涯最高となる60点を記録した。
一方、前シーズンの雪辱に燃えていたレイカーズはリーグ2位の62勝20敗の成績を残した。
両チームはプレイオフを勝ち上がり、2年連続でNBAファイナルで対戦した。
セルティックスは緒戦に大勝したものの、その後は一進一退の攻防となった。
ボストンで行われた6試合目を100対111で落とし、4勝2敗でレイカーズの優勝が決まった。
セルティックスがホームで優勝を奪われるのはチーム史上初めてのことだった。
翌1985-1986シーズン開幕前にセルティックスはかつてのMVPセンター、ビル・ウォルトンを獲得した。
バード、ケヴィン・マクヘイル、ロバート・パリッシュに加え、セルティックスのフロントコートはさらに厚みを増した。
シーズンに入るとセルティックスは快進撃を続け、人々はこのチームを史上最強と呼ぶようになった。
シーズン成績は67勝15敗で、勝率は8割を超えた。
ホーム戦の40勝1敗、勝率97.6%はNBA史上最高成績である。
バード自身は平均得点25.8(リーグ4位)、フリースロー成功率89.6%(同1位)、平均スティール数2.02(9位)、平均リバウンド9.8(7位)、スリーポイントシュート成功率42.3%(4位)でスリーポイント成功数82本(1位)と多くのカテゴリーでリーグ上位に入った。
シーズンが終了するとバードはシーズンMVPに選ばれた。
3年連続でシーズンMVP獲得はビル・ラッセルとウィルト・チェンバレンに次いで史上3人目であり、センター以外の選手ではバードが初めてであった。
セルティックスはプレイオフをNBAファイナルまで11勝1敗の成績で勝ち上がり、ロケッツと対戦した。
6試合に渡ったファイナルで、バードはシリーズ平均24得点、9.5アシスト、9.7リバウンドとトリプル・ダブルに近い数字を残し、最終戦となった第6戦では、29得点、12アシスト、11リバウンドとトリプルダブルを記録した。
4勝2敗でセルティックスはロケッツを下し、バードはファイナルMVPに選ばれた。
翌1986-1987シーズン、バードの平均得点はリーグ4位の28.1得点、アシストとリバウンドの平均はそれぞれ7本と9本を超える高い水準だった。
フィールドゴールとフリースローの成功率はそれぞれ50%と90%を超えた。
ビル・ウォルトンの出場試合数は怪我のため10試合にとどまり、チームは59勝23敗でリーグ2位だった。
プレイオフの1回戦でセルティックスはブルズを3勝0敗で一掃したものの、続くカンファレンス・セミファイナルでは合計3回の延長を含めて7戦までもつれての際どい勝利となった。
カンファレンス・ファイナルでは、成長著しいデトロイト・ピストンズと対戦した。
ボストンで行われた最初の2戦ではセルティックスが勝利、デトロイトで行われた続く2戦はピストンズが勝ちを収め、2勝2敗のタイでシリーズ第5戦の舞台は再びボストンに移った。
ピストンズが107対106とリードして試合終了まで残り数秒という時点でピストンズボールのスローインとなったが、アイザイア・トーマスのインバウンズパスをバードがインターセプトし、最後はデニス・ジョンソンがゴールを決めて土壇場で逆転を果たし、セルティックスの3勝2敗となった。
このスティールは、1965年のジョン・ハブリチェック、1984年のジェラルド・ヘンダーソンのスティールとならび、ボストン・セルティックスの歴史上有名なスティールの一つとなった。
続く2試合はそれぞれホームチームが勝利し、セルティックスがNBAファイナルに進出。
4年間で3度目のレイカーズとの対戦となった。
NBAファイナルでは、ロサンゼルスで行われた最初の2戦をレイカーズが勝利。
続くボストンでの3戦目をセルティックスが勝利した。
第4戦の終盤、残り12秒の時点でバードのスリーポイントシュートによりセルティックスがリードを奪うが、コート外に出たボールをマジック・ジョンソンが中央に進め、フックシュートを放ち残り2秒でレイカーズが再逆転した。
最後の瞬間にバードが放ったシュートはリングから落ち、シリーズはセルティックスの1勝3敗となった。
続く第5戦はセルティックスが大勝したものの、ロサンゼルスに戻った第6戦をセルティックスは落とし、レイカーズの優勝が決まった。
バードのセルティックスがNBAファイナルに進んだのはこの年が最後であり、バードとマジック・ジョンソンが優勝を争ったのはこれが最後となった。
年齢的な衰えと怪我により以後はパフォーマンスは低下していく。
1991-1992シーズン、バードの背中の痛みは収まらず、45試合の出場にとどまった。
全米放送された3月のポートランド・トレイルブレイザーズ戦では2度の延長でトリプル・ダブルを達成する快挙を成し遂げたが、プレイオフのカンファレンス・セミファイナルでクリーブランド・キャバリアーズに3勝4敗で敗退し、バードの最後のシーズンが終わった。
この年の夏、ドリームチームの一員として1992年バルセロナオリンピックに出場した後、バードは引退を発表した。
エピソード
- NBAがサラリーキャップ制を導入したとき、ロースター上の選手を確保するためサラリー総額の上限を超過することを認める特別ルールが作られ、それは「ラリー・バード・ルール(ラリー・バード例外条項)」として知られるようになった。
- これは選手が一定年数以上同じチームにとどまった場合には選手に与えられる給与の制限を超えてもよいというものだった。
- このサラリーキャップに対する例外は、1990年代以降選手年俸が高騰する最初のきっかけとなった。
- バードが入団する頃には、リーグの多数は黒人選手が占めており、新人のバードは「白人の希望」と呼ばれることがあった。
- このことをからかうチームメートもおり、バードにとって嬉しい称号ではなかった。
- ライバルとされたマジック・ジョンソンが黒人だったこともあり、バードが白人であることはマスコミにとって取り上げやすい話の種となった。
- バードの運動能力はリーグでも高い方ではなく、俗に言われる「白人はジャンプできない」と言う言葉を体現しているかのようだった。
マジック・ジョンソンと大学時代にNCAA決勝を争って以来、二人のライバル関係は注目を集め続け、それがNBA人気を引き揚げる原動力の一つにもなった。
マジック・ジョンソン率いるレイカーズとバードのセルティックスは1980年代に3回NBAファイナルで対決し、レイカーズの優勝2回(1985年と1987年)、セルティックスの優勝1回(1984年)だった。
ラリー・バードとマジック・ジョンソンはしばしば比較され、様々な点での対称性がマスコミによって強調された。
正確で頭脳的なバードに対し華やかでエンターテインメント性に富むマジックのプレー、言葉少な目なバードと笑顔を絶やさないマジック。
バードはインディアナ州出身の田舎者のイメージで見られることがあり、それに対しマジックは大都市ロサンゼルスのイメージで見られた。
両者の人種の違い、そしてセルティックスとレイカーズがそれぞれ東海岸と西海岸の名門チームということもあった。
マスコミが煽ったせいか両者は初め互いに良い印象を持っていなかったようだが、1984年に二人は一緒にCMの撮影を行う機会があり、以降は交友を持つようになる。
プレースタイル
バードは他の平均的なNBA選手と比べて身体能力・運動能力には恵まれていなかった。
しかし、正確な技術とゲームの流れを読む能力に長けていた。
特に中距離・長距離シュート、リバウンド、パス(アシスト)の技術に秀でていた。
リーグ屈指のスリーポイントシューターであり、肩にボールを担ぐような独特なフォームで、多くのシュートを沈めている。
バードほどの長身でこれほどまでにオールラウンドな選手は、マジック・ジョンソンくらいしかいなかった。
試合の展開を正確に把握していたため、セルティックスの監督を務めていたビル・フィッチは、カメラのように毎回試合中の各場面を脳に記録するという意味でバードに「コダック」のあだ名を与えた。
スモールフォワードにしては大きい206cmの身長がありながらも跳躍力が著しく低く、ダンクシュートは助走を付けなければ満足に成功させることができなかった。
走ることも苦手であり、足も遅かった。
ルーキー時代には、ドリブルも利き手である右手でしかスムーズに突けず、そのドリブルも掌でひっぱたくような危なっかしいものだった。
バードはNBA選手でありながら、バスケットボール自体が苦手のように思われていた。
しかしバードは、尋常ではない情熱と闘争心、そしてたゆまぬ懸命な努力で徐々に眠っていた才能を覚醒させた。
身体能力の低さを補って有り余るほどの、バスケットボールに必要なすべての技術を身につけた。
鈍足ながらもコート上を必死に駆け回ってシュートチャンスをつくり出し、決定打となるシュートを幾度となく沈めた。
バードはアウトサイドプレイを中心とする反面、ここぞという時には果敢にリバウンド争いに参戦し、ベストポジションでリバウンドをもぎ取っていた。
ルーズボールにも怪我を顧みず飛び込んで行き、誰よりも必死に喰らいついていた。
そのような激しい情熱を押し出すバードのハードなプレーは、観る者すべてを引き付けていた。
驚異的な勝負強さを誇り、土壇場でチームを救うプレーが数多くあった。
名将として知られ、ライバルレイカーズのコーチでもあったパット・ライリーは「もし試合を決める場面でシュートをまかせるとしたらジョーダンを選ぶが、自分の生死がかかった場面でシュートをまかせるとしたらバードを選ぶ」と語っている。
スティール技術とディフェンスリバウンドにも長けており、NBAオールディフェンシブセカンドチームに3度も選出されている。
一方で、チャールズ・バークレーのように「バードはディフェンスが苦手だ」と評する者もいた。
リーグトップクラスの選手でありながら、バードの技術は年々向上した。
利き手である右手と遜色なく使える左手のシュートは、プロ入り後に上達させた技術の一つである。
1986年のポートランド戦では試合前に「少なくとも第3クオーターまでは左手でシュートする」とチームメイトに宣言し、左手のシュートだけで20得点を記録した(総得点は47点)。
シーズンオフには、主に実家でトレーニングを行った。
ルーキー時代には酷評されていたドリブル技術も向上し、バードのポジションはスモールフォワードでありながら、ドリブル技術とパス技術に長けているために実質的にはチームのポイントガードを務めていた。
これは、ポイントガードの仕事をするフォワード、ポイントフォワードの先駆けといえる。
ロバート・パリッシュ、ケヴィン・マクヘイル、そしてバードからなるセルティックスのセンターおよび二人のフォワードをNBA史上最高のフロントラインと評価する専門家も多い。
1970年代までのNBAは、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、カリーム・アブドゥル=ジャバーのような有力なセンタープレイヤーが試合の勝敗、チームの優劣を決めてきた。
しかし、バードやマジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダンらの登場により、ガードやフォワードの選手がゲームを支配することが可能であることが示された。
この意味でバードは、NBAひいてはバスケットボールに変革をもたらした選手の一人だった。
試合中は強気な態度を取ることが多く、相手選手を挑発するトラッシュ・トーカーとしても有名であった。