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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

ロナウド

サッカー

概略

【怪物】ブラジルが生んだ歴代No.1ストライカー ロナウド スーパープレー集(バルセロナ/インテル/レアルマドリード)
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
スペインの旗 スペイン
生年月日 1976年9月22日(43歳)
出身地 リオデジャネイロ
身長 183cm
体重 82kg

 

ポジションはフォワード(センターフォワード)。

 

利き足は右。

 

ニックネームはフェノメノ(怪物)。

 

ブラジル代表の一員として4度のワールドカップ(1994年アメリカ大会(出場機会なし)、1998年フランス大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会)に出場。

 

MVPに選ばれたフランス大会では準優勝、得点王になった日韓大会では優勝に貢献した。

 

元W杯通算歴代最多得点記録保持者(15得点)。

 

ブラジル代表通算62得点は77得点のペレに次ぐ第2位。

 

FIFA最優秀選手賞を3度、バロンドールを2度受賞するなどの成功を収めた。

 

貧しい暮らしの中で育ったロナウドは、2000年から国連開発計画(UNDP)の親善大使を務める。

 

レアル・マドリード時代のチームメイトであり同じくUNDP親善大使であるジネディーヌ・ジダンとともに、貧困撲滅キャンペーンへの協力とチャリティマッチを開催している。

 

この経緯から公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに出演をした。

 

獲得タイトル

 

クラブ

クルゼイロEC
  • コパ・ド・ブラジル : 1993
  • ミナスジェライス州選手権 : 1994
PSVアイントフォーヘン
  • オランダ・カップ : 1995-96
FCバルセロナ
  • スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1996
  • コパ・デル・レイ : 1996-97
  • UEFAカップウィナーズカップ : 1996-97
インテル
  • UEFAカップ : 1997-98
レアル・マドリード
  • トヨタカップ : 2002
  • リーガ・エスパニョーラ : 2002-03
  • スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 2003
SCコリンチャンス・パウリスタ
  • コパ・ド・ブラジル : 2009
  • サンパウロ州選手権 : 2009

 

個人

 

  • 1996 FIFA最優秀選手賞受賞、世界最優秀選手賞受賞
  • 1997 ヨーロッパ・ゴールデンブーツ受賞、FIFA最優秀選手賞受賞、バロンドール受賞、世界最優秀選手賞受賞、オンズドール、ブラヴォー賞
  • 1998 セリエA最優秀選手、セリエA最優秀外国人選手、ブラヴォー賞
  • 2002 FIFA最優秀選手賞受賞、バロンドール受賞、世界最優秀選手賞受賞、UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー、オンズドール
  • 2004 FIFA 100
  • 2006 ゴールデンフット賞受賞
  • 2009 カンピオナート・パウリスタベストプレイヤー

リーグ

  • 1994-95 エールディビジ得点王 (33試合30得点・PSVアイントフォーヘン)
  • 1996-97 リーガ・エスパニョーラ得点王 (ピチーチ賞) (37試合34得点・FCバルセロナ)
  • 2003-04 リーガ・エスパニョーラ得点王 (ピチーチ賞) (32試合24得点・レアル・マドリード)

代表

  • 2002 FIFAワールドカップ 得点王 (7試合8得点)

 

経歴

RONALDO SPEED – SOME RUNS
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1993-1994 ブラジルの旗 クルゼイロ 14 (12)
1994-1996 オランダの旗 PSVアイントホーフェン 48 (42)
1996-1997 スペインの旗 バルセロナ 37 (34)
1997-2002 イタリアの旗 インテル・ミラノ 68 (49)
2002-2007 スペインの旗 レアル・マドリード 127 (83)
2007-2008 イタリアの旗 ACミラン 20 (9)
2009-2011 ブラジルの旗 コリンチャンス 31 (18)
通算 343 (247)
代表歴
1993 ブラジルの旗 ブラジル U-17 7 (5)
1996 ブラジル U-23 8 (6)
1994-2011 ブラジルの旗 ブラジル  98 (62)

 

クラブ

 

リオデジャネイロ郊外のイタグアイの診療所に生まれた。

 

貧困街で育ったロナウドは、路上で裸足でサッカーを始めた。

 

幼少の頃の憧れの選手はジーコだった。

 

リオのクラブでプレーしていた少年時代、ロナウドの噂を聞いたジャイルジーニョが訪れ試合を観戦していたが、その試合で大活躍したロナウドの利き足が左右どちらなのか最後まで分からなかったという。

 

16歳でミナスジェライス州の強豪クルゼイロECに加入。

 

ブラジル全国選手権で13試合出場12得点を記録した。ミナスジェライス州選手権では、最大のライバルアトレチコ・ミネイロとの一戦ではハットトリックを決め、3-1の勝利と優勝に貢献した。

 

また、チーム初のコパ・ド・ブラジル優勝にも貢献したのだった。

 

1994年クルゼイロECの一員として来日。

 

ジュビロ磐田とのプレシーズンマッチに出場しハットトリックを達成(試合は3対1)。

 

なおこの試合が行われた会場は東京ドームである。

 

1994年、わずか1年でブラジルを離れ、オランダのPSVアイントホーフェンに60万ドルで移籍。

 

1年目から30得点を挙げる活躍をみせ、在籍2シーズンで公式戦通算57試合出場55得点(うちリーグ戦通算46試合出場42得点)を記録した。

 

1996年にはKNVBカップ優勝に貢献した。

 

オランダでの活躍が認められ、1996年にスペインのFCバルセロナへ移籍した。

 

移籍金は1700万ドル。バルセロナには1シーズンしか在籍しなかったが、UEFAカップウィナーズカップ、スペイン国王杯の優勝に貢献し、リーグ戦では37試合出場34得点を記録し、リーガ得点王に輝いた。

 

コンポステーラ戦で約60メートルをドリブルで次々とディフェンダーを交わしながら決めたゴールはナイキ社のCMにも使用され、知名度が飛躍的に上がるきっかけとなった。

 

FCバルセロナに所属していた当時、ボビー・ロブソン監督は「私の戦術はロナウドだ」と語っている。

 

シーズン末には契約更新の書類にサインしたが、休暇でブラジルへ戻った後にバルセロナから契約延長はできないと告げられ、1997年夏に1900万ポンドという当時史上最高額となる移籍金でイタリアのインテル・ミラノへ移籍。

 

決勝戦でゴールを決め、UEFAカップのタイトルに獲得に貢献した。

 

移籍初年度に25ゴールを挙げ、同リーグにおいて1年目の外国人選手によるものとしての最多ゴール記録を樹立した。

 

この記録は未だに破られていない。

 

史上最年少でのバロンドール受賞や二年連続でFIFA最優秀選手賞を受賞し、現地のマスコミによって「イル・フェノーメノ(超常現象)」と渾名されるなど、当時のロナウドは絶頂期にあった。

 

しかし、1999年11月21日のUSレッチェ戦で右膝靭帯部分断裂の大怪我を負い、手術とリハビリのため長期の欠場を余儀なくされる。

 

翌2000年4月12日のコッパ・イタリア決勝のSSラツィオ戦で復帰するが、再び同じ個所を完全断裂し、僅か7分間でピッチを去った。

 

その後、20ヵ月間に及ぶリハビリの末、2002 FIFAワールドカップを控えた2001-02シーズン終盤のブレシア戦で復帰すると、チームを救う2ゴールをあげる。

 

その後も10試合の出場ながら7ゴールを挙げた。

 

日韓ワールドカップの活躍で力を取り戻したことを証明したロナウドは、2002-03シーズン開幕前に当時監督だったエクトル・クーペルとの確執もあり移籍を希望した。

 

長期にわたる離脱にもかかわらずサポートしてきたインテルサポーターはこの発言を「裏切り」と受け止め激怒しブラジルから到着するロナウドへの抗議のためマルペンサ空港に集結し混乱を避けるため空港の裏口からロナウドが脱出するという騒動に発展した。

 

その後、同胞でもあるロベルト・カルロスの存在もあり3900万ドルでスペインのレアル・マドリードに移籍した。

 

怪我のためデビューは3ヶ月ほど遅れたが、デビュー戦のデポルティーボ・アラベス戦では途中出場して1分もしないうちにボレーシュートを決め、スティーブ・マクマナマンのパスを流し込みいきなり2ゴールをあげている。

 

優勝が掛かった最終節のアスレティック・ビルバオ戦でも2得点の活躍をするなどリーグ戦23得点の活躍でリーグ制覇に貢献した。

 

UEFAチャンピオンズリーグにおいても、準々決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦ではオールド・トラッフォードでハットトリックを記録し、相手サポーターからスタンディングオベーションを受けた。

 

ロナウドは後に、自身のベストシーズンとして2002-03シーズンを挙げている。

 

ブラジルの5度目のワールドカップ制覇に貢献したことも評価され、2002年暮に3度目のFIFA最優秀選手賞を受賞している。

 

移籍初年度は背番号11をつけていたが、2年目以降はフェルナンド・モリエンテスがASモナコへレンタル移籍したことによって空き番となった9番を背負ってプレーした。

 

2003-04シーズン以降、クラブの守備的選手が次々と放出されるが、それでも得点を重ね自身の好成績は保った。

 

しかし、それとは裏腹にクラブは無冠が続き、不安定なチームバランスの中で運動量豊富な選手を横目にほとんど運動量のないロナウドは、得点できない試合では批判が集中することも多くなり、度々メディアからワースト選手候補として取り上げられた。

 

レアル・マドリードでの晩年は、チームメートからも試合中に激怒されたり、試合後に「やる気のない選手は出て行った方がいい。」などとコメントされることもあり、ファンからは「ピッチの上でキノコ狩りでもしているんだろう。」という強烈な皮肉を言われることもあった。

 

2005年、クラブの外国人枠を空けるためにスペイン国籍を取得。

 

2006年、ファビオ・カペッロがレアル・マドリードの監督に就任すると、年齢や太りすぎによる運動量の低下、ルート・ファン・ニステルローイの加入などから構想から外され出場機会が激減。

 

本人も移籍を希望するようになる。シーズン途中の2007年1月30日、アンドリー・シェフチェンコの放出でストライカーを探していたACミランに、移籍金750万ユーロ、1年半の契約で移籍した。

 

ACミランとの契約に関し、ライバルクラブでありロナウドの古巣であるインテルのマッシモ・モラッティ会長が「不快である」とコメントした。

 

ロナウドのACミラン移籍時、チームの状態は悪かった。

 

しかし彼の加入後から状況は好転に向かい順位上昇、一時は危ぶまれていたチャンピオンズリーグ出場権獲得を果たしたが、既にレアル・マドリードでチャンピオンズリーグに出場していたためミランでのチャンピオンズリーグ出場は出来なかった。

 

ミランでの成績は数字上は目立ったものではなかったが、チームのエースであるカカの負担がロナウドの加入により軽減されたこと、ロナウドという存在が、憂慮なく主力メンバーをチャンピオンズリーグに投入出来るチーム状況を作った事などから、間接的にチャンピオンズリーグでの戦いに貢献したと評する声もある。

 

2008年のシーズンオフ、契約満了にともないACミランを退団。

 

その後ブラジルのフラメンゴでリハビリや練習を続けていたが、2008年12月、コリンチャンスに加入した。

 

3月4日のコパ・ド・ブラジルで約1年ぶりに実戦復帰し、3月8日のサンパウロ州選手権・パルメイラス戦で約14ヶ月ぶりの得点を挙げた。

 

復帰戦では、試合後に報道マイクが右目に当たって腫れるハプニングがあった。

 

2010年に、2011年シーズンを最後に、引退することを表明していたが、2011年2月14日、記者会見にて、甲状腺に問題を抱えていたことを明らかにし、体力の限界を理由に現役から退くことを表明した

 

代表

 

ブラジル代表としては1994年にレシフェで行われたアルゼンチンとの親善試合において17歳で代表デビューを飾った。

 

同年6月のFIFAワールドカップ・アメリカ大会代表にもチーム最年少で選出され、ブラジルは24年ぶりにW杯で優勝したが、出場機会は無かった。

 

ブラジル五輪代表として1996年アトランタオリンピックに出場(登録名はロナウジーニョ)、グループリーグではハンガリー戦でチーム初得点をあげたのを皮切りに、ナイジェリア戦では決勝トーナメント進出を決めた得点など、5得点をあげる。ロナウドを始め、ジーダ、ロベルト・カルロス、ベベット、リバウドらを擁し、優勝候補の筆頭と目されたが、準決勝で大会を制したナイジェリアに敗れ敗退。

 

当時のロナウドは試合後半に投入されるスーパーサブであり、日本では「マイアミの奇跡」として知られる日本戦でもサヴィオと交代で途中出場している。

 

1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会にはロマーリオとの新旧2トップ(RoRoコンビ)で出場する予定だったが、ロマーリオの直前リタイアによりエースの責任を背負うことになった。

 

4得点を挙げ決勝進出に導いたが、決勝戦前日に胃痙攣に襲われて病院に担ぎ込まれ、一時は出場が危ぶまれた。

 

試合に出場することはできたが満足なプレーが出来ず、開催国のフランスに0-3で敗れ、優勝を逃す。

 

しかし、同大会を通じての活躍によりMVPに選ばれた。

 

2002年のFIFAワールドカップ・日韓大会は膝の怪我から復帰直後のためコンディションが不安視された。

 

しかし、大会が開幕するとリバウド、ロナウジーニョと”3R”と呼ばれる攻撃トリオを組み、グループリーグから得点を量産。

 

準々決勝のイングランド戦以外の全試合で得点をあげ、8得点を挙げ得点王に輝くと共に、ブラジルの5度目のワールドカップ制覇に貢献した。

 

準決勝トルコ戦ではフットサル張りのトーキックで決勝点を決め、決勝のドイツ戦では2得点を決める活躍であった。

 

このゴールによってワールドカップ通算得点をペレと並んで12点とし、大会の表彰式ではペレと抱擁を交わした

 

2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会ではロナウジーニョ、カカ、アドリアーノと共に「カルテット・マジコ(魔法のカルテット)」と呼ばれる。

 

体重の増加や、グループリーグ第1戦、第2戦における低調なパフォーマンスもあって批判されたが、監督のカルロス・アルベルト・パレイラは一貫してロナウドを起用し続けた。

 

グループリーグ第3戦の日本戦で2得点を挙げて批判を沈静化させると、決勝トーナメント1回戦ガーナ戦でW杯通算15得点目となるゴールを挙げ、ゲルト・ミュラー(西ドイツ)が残した14得点の大会得点記録を更新した。

 

しかし、準々決勝のフランス戦では0-1で敗れた。

 

ドイツW杯後は、ブラジル代表の元主将のドゥンガが代表監督に就任したが、同監督の構想から外れ、以後は代表に招集されなかった。

 

一時は2010 FIFAワールドカップでの現役引退を希望していたが叶わなかった。

エピソード

怪物ロナウドはとてつもなく凄すぎた!驚愕のスーパーゴール集!バルセロナ レアル ブラジル代表●スピード 海外サッカー【Legend】

 

坊主頭が印象的だが、18歳の時に当時の代理人から、見栄えを良くするためにスキンヘッドになることを勧められた。

 

その後の活躍でブラジル国内でもロナウドを真似て坊主頭にするサポーターが増えた。

 

ミラン加入後、ガリアーニ副会長から「髪をのばしてみたらどうか」と勧められ、少しずつ髪を伸ばしている。

 

2002年の日韓ワールドカップの途中に、前髪のみを三角形に残して残りの髪を全部剃るという奇抜な髪型にしたことがある(日本では、「おにぎりカット」、「大五郎カット」と呼ばれた)。

 

本人は非常に気に入っていたようだが、世界中のファン、果ては自分の息子からも「変だ」と総バッシングを受けた。

 

が、それは自身が緊張するあまり前回のフランス大会決勝で活躍できなかった轍を踏むまい、そして仲間達に踏ませまい、との心遣いだった。

 

事実、当時のキャプテンのカフーから「史上最悪の髪型だな」と揶揄されるほどだったが、セレソン全てが和む事が出来、決勝戦での勝利という最高の形に繋げる事が出来た。

 

また、2002-2003シーズンの終盤にも再び同じ髪型にして試合に臨んだ。ちなみにこの髪型はブラジルの漫画のキャラクターがモデルである。

 

趣味にF1観戦があり、ヨーロッパで開催されるレースを中心にしばしば姿を見せているほか、2005年には、この年に開幕した国別対抗チームによる自動車レース選手権A1グランプリでブラジル代表チームの共同出資者の1人として名を連ねている。

 

その他、ゴルフを趣味としている。

 

現役引退後

 

2011年、2014年ブラジルW杯組織委員会理事に就任。

 

2014年12月、北米サッカーリーグのフォートオーダーデイル・ストライカーズの共同オーナーに就任した。

 

2016年、レアル・マドリードにてアドバイザー兼グローバル大使(南米地区)に就任した。

 

2018年8月、3000万ユーロ(約40億円)を費やしてレアル・バジャドリードの株式51パーセントを取得し、クラブを買収したことが発表された。

 

プレースタイル

【元祖怪物】ロナウド 特徴解説  HD 1080p Ronaldo みにフト(海外サッカー)

 

ストライカーとして驚異的な数のゴールを量産した。

 

そのゴールは巨躯でありながら尋常じゃないスピードにすぐさま加速し、超スピードでありながらシルキーでキレのあるボールタッチで、豪快に繊細にネットを揺らす、万能性満ちたものばかりだった。

 

特にハーフウェーライン付近から爆発的なスピードとパワーとテクニックで独力突破で4人を交わし奪ったゴールは未だに史上最高のゴールとして語り継がれている。

 

プレッシャーを受けても倒れないパワー、キレのあるボールテクニック、爆発的なスピード、驚異的なシュート精度、どれもが超絶で世界に大きな衝撃を与えた。

 

キャリア中盤、靭帯の完全断裂という選手生命の危機すらあった大怪我のリハビリは2年半の時間がかかった。

 

それでも2002年終盤戦で復帰。

 

復帰後はリハビリで膝の筋肉を鍛えたため体重が増加し一時は100kgを越える体重を記録したこともあった。

 

しかし、足元のテクニックは相変わらず世界でもトップクラスを誇り、シュートの決定力やゴール前での狡猾さ・冷静さが若い頃よりも増した。

 

ロナウド自身も「走力は落ちたが、ゴール前での冷静さや状況判断は良くなっている」と述べており、その後も高いゴールへの嗅覚を発揮し多くの得点を挙げた。

 

完全に以前の姿を取り戻した、というよりもプレイスタイルをややスピード重視のものからパワーとテクニックを重視し、よりFWとしての総合力で点を奪う形へマイナーチェンジさせていた事が、復活につながっていった。

 

怪我前の爆発的なスピードを振りかざすものではなく、一瞬のキレや瞬間の駆け引きで相手を上回り、圧倒的なシュートスキルでゴールを陥れる、新たなロナウドとしてのプレイスタイルを確立した。

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