概略
生年月日 | 1942年1月25日 | ||
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出身地 | ![]() (現: ![]() ロウレンソ・マルケス |
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没年月日 | 2014年1月5日(71歳没)![]() |
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身長 | 175cm | ||
体重 | 76kg |
ポジションはFW(センターフォワード)。
利き足は右。
ポルトガル領東アフリカ (現:モザンビーク) のロウレンソ・マルケス(現:マプト)出身。
黒豹または黒い真珠の愛称で呼ばれた。
1960年代から1970年代を代表するフォワード。
同時代にプレーしたペレとも並び称された選手で、現役通算727試合に出場し715得点を記録した。
ポルトガル代表通算64試合41得点。
2005年にペドロ・パウレタに抜かれるまで代表最多得点記録だった。
また、国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)には20世紀で最も偉大な選手の9位に選ばれるなど、アフリカ出身の最も偉大なサッカー選手とされている。
所属クラブのベンフィカに数々の栄光をもたらし、ポルトガル代表を世界の主役に引き上げたアフリカ産の偉人。
人格的にも非常に優れた人物で、試合終了後には相手選手を称える事を忘れず、他の選手からも愛された選手であった。
個人タイトル
- ポルトガルリーグ得点王:1963-64、1964-65、1965-66、1966-67、1967-68、1969-70、1972-73
- バロンドール:1965
- FIFAワールドカップ得点王:1966
- FIFAワールドカップ・ブロンズボール:1966
- ヨーロッパ・ゴールデンブーツ:1967-68、1972-73
- 20世紀世界最優秀選手 9位 (国際サッカー歴史統計連盟) – 1999年
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 10位(ワールドサッカー誌)
- UEFAジュビリーアウォーズ
- FIFA100
経歴
シニアキャリア | |||
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年数 | チーム | アプリ | (Gls) |
1957–1960 | スポルティング・ロウレンソ・マルケス | 42 | (77) |
1961–1975 | ベンフィカ | 301 | (317) |
1975 | ボストン・ミニッツメン | 7 | (2) |
1975 | CFモンテレー | 10 | (1) |
1975–1976 | トロント・メトロクロアチア | 21 | (16) |
1976 | SCベイラマール | 12 | (3) |
1976–1977 | ラスベガス・クイックシルバーズ | 17 | (2) |
1977–1978 | ウニオンデトマール | 12 | (3) |
1978–1979 | ニュージャージー・アメリカンズ | 9 | (2) |
1979–1980 | バッファロー・スタリオンズ | 5 | (1) |
合計 | 436 | (424) |
代表歴 | |||
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1961-1973 | ![]() |
64 | (41) |
1942年、ポルトガル領東アフリカ (現:モザンビーク) で生まれ、1957-60年までロウレンソ・マルケス(現:マプト)にあるスポルティング・ロウレンソ・マルケスに所属。
1960年、ジョゼ・カルロス・バウエルに見出され、ベンフィカのスカウトによってにポルトガルへ連れて来られ、直後に契約。
ベンフィカでのデビュー戦はペレ擁するサントスFCとの試合だったが、いきなりハットトリックを達成した。
ベンフィカ在籍中の15シーズンでリーグ優勝10回、カップ優勝5回、得点王7回(1963-64、64-65、65-66、66-67、67-68、69-70、72-73)、ゴールデンブーツを1969-70(42得点)、72-73(40得点)の2度獲得、UEFAチャンピオンズカップ(UEFAチャンピオンズリーグは除く)での48得点は、アルフレッド・ディ・ステファノに次いで2番目の得点数となっている。
1965年にはバロンドールも受賞した。
1962年のUEFAチャンピオンズカップ決勝でベンフィカは、エウゼビオの挙げた2得点を含む5点を記録し、5-3でレアル・マドリードを下して優勝した。
翌年のUEFAチャンピオンズカップでもベンフィカは決勝まで勝ち進み、エウゼビオは前半18分に先制点を決めるも、後半にジョゼ・アルタフィーニが2得点を挙げて最終的に1-2でACミランの前に敗れた。
1961年10月8日にはルクセンブルク戦でポルトガル代表デビューを果たす。
1966年イングランドワールドカップ準々決勝・北朝鮮戦ではサッカー史に残る驚愕のプレーをやってのける。
前半24分までに0-3とリードされるが前半27分、42分に得点を決め、後半56分に同点ゴール、直後の59分にはPKを決め1人で4連続得点を叩き出し試合をひっくり返してしまった。
試合は更に1点を追加したポルトガルが5-3で大逆転勝利を収めた。
最終順位は3位、自身も6試合出場9得点で得点王になった。
1975年のロードアイランド・オーシャニアーズ(USA)への移籍を皮切りに北アメリカのクラブを渡り歩き、1978年に現役を引退した。
エピソード
当時、ポルトガルのクラブは植民地だったアフリカの国々でサッカーチームを援助し、優れた選手を欧州に連れてくるというシステムを構築しており、エウゼビオはスポルティングが運営するスポルティング・ロウレンソ・マルケスに加入。
蹴る物が、靴下に新聞紙を丸めて入れたボールから皮のボールに代わっても、その高い得点能力に変わりはなかった。
ゴールを量産し、チームに多くの勝利やタイトルをもたらす少年の存在は、早くから欧州に知れ渡り、15歳でイタリアのユベントスのスカウトの目に留まるが、これは母親の反対によって実現せず。
しかし、18歳の時に人生の転換期を迎えた。
60年、ポルトガルのベンフィカを率いていたベラ・グットマンが、旧知である元ブラジル代表選手のジョゼ・カルロス・バウエルを通して、エウゼビオの存在を知らされる。
前線の強化を狙っていたハンガリー人監督は、地元リーグで50ゴール以上を挙げたという少年に注目し、獲得に乗り出した。
バウエルは求めに応じてエウゼビオをリスボンに連れてきたが、同時期にスポルティングも獲得を狙っていたため、ベンフィカはライバルチームがエウゼビオに接触できないよう違う街に“隠す”という念の入れ様。
スポルティングが提示した額の倍以上の契約金を用意することで家族を説得し、ついにこの争奪戦を制してみせた。
この一連の騒動に嫌気が差し、故郷に帰ることも考えたというエウゼビオだが、思い止まってベンフィカに正式加入。
ポルトガル入国から約半年後の61年5月、ようやく初の実戦となるアトレティコCPとの親善試合に出場し、いきなりハットトリックを達成して人々を驚かせる。
初の公式戦は同年6月の国内カップ戦。
ヴィトーリア・セトゥバウ戦でいきなりゴールを決めたものの、一方でPKを外すという悔しさも味わった。同月にはベレネンセス戦で国内リーグ・デビューも飾り、ここでもゴールネットを揺らしてみせた。
こうして欧州でのキャリアの第一歩を踏み出したエウゼビオだが、この直後に早くも世界にその名を知らしめる。
フランス・パリでの親善トーナメントで、ブラジルのサントス相手に途中出場から3ゴールを挙げ、あのペレを差し置いて注目を独占してしまったのだ。
一躍、「王様の後継者」とまで呼ばれるようになった19歳は、61-62シーズン、リーグ戦では17試合に出場して12得点の活躍。
チームは3位に終わるも、国内カップ優勝に貢献、さらにチャンピオンズ・カップ(現リーグ)決勝のレアル・マドリー戦で3-3から決勝の2ゴールを決め、欧州連覇の殊勲者となった。
いきなり大きな勲章を手にし、サッカー界のニューヒーローとなったエウゼビオだが、この記念すべき一戦の後の涙の理由は、タイトルや優勝トロフィーを手にしたことではなく、憧れの存在であるアルフレッド・ディ・ステファノとユニホームを交換できたことによる感激からだったという。
翌シーズンからは絶対的な存在としてチームを牽引し、3年連続のリーグ制覇に貢献。
いずれのシーズンでもエウゼビオは30点に近いゴールを決め、64、65年と連続でリーグ得点王に輝いた。
チャンピオンズ・カップでは62-63シーズン、3年連続の決勝進出を果たすも、残念ながらミランの初優勝を許してしまったが、エウゼビオ自身はここでもチェーザレ・マルディーニやジョバンニ・トラパットーニの厳しいマークをかわして、先制ゴールを決めている。
自身3度目の同カップ決勝となった64-65シーズンも、チームはインテルに敗れたが、チームメイトのジョゼ・トーレスと並んで大会得点王(9点)になった。
このような大舞台でのコンスタントな活躍とチームへの貢献度の高さにより、エウゼビオは65年のバロンドールを受賞。
アフリカ出身の選手としては、初の偉業だった。
プレースタイル
陸上のスプリントでも通用すると言われるほどの爆発的な加速力を誇り、屈強で柔軟な身体から放たれる強烈なシュートでゴールを量産した。
シュートの際、軸足をボールの前に大きく踏み出すエウゼビオのシュートフォームは釜本邦茂に強い影響を与えた。
爆発的なスピード、圧倒的なパワー、平均的な身長(175センチ)をカバーする跳躍力といった身体能力に、優れたテクニックと得点嗅覚が加わったことで、エウゼビオはひとりで敵の守備陣を切り裂き、どこからでも、どんな距離からも相手ゴールを陥れることができた。
相手選手はもちろん、ゴール裏の観客でさえも恐怖を覚えたという弾丸シュートは、「全体重をかけるために、ボールに身体を被せる感覚で毎日練習を繰り返した」(エウゼビオ)ことの賜物であり、必殺の武器を持ってピッチに君臨する彼を、人々は「黒豹」と呼んだ。
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