概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1928年10月8日 | ||
出身地 | カンポス・ドス・ゴイタカゼス | ||
没年月日 | 2001年5月21日(72歳没) | ||
身長 | 174cm | ||
体重 | 68kg |
ポジションはミッドフィールダー(セントラルハーフ)。
利き足は左。
フィジカルの弱さを補う戦術眼とゲームメイク能力を生かしたプレーで、ワールドカップに3度出場した。
少年時代、ストリートサッカー中右足に大怪我を負ってしまい、その足をかばうためにフォーリャ・セッカ(folha seca、枯れ葉)と呼ばれる揺れながら急激に落ちる特殊なキックを身につける。
1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で39位に選出された。
個人タイトル
- 20世紀世界最優秀選手 19位 (1999年、国際サッカー歴史統計連盟)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 – 39位 : 1999
経歴
アメリカーノFC 1946
CAレンソエンセ/バリリ 1946-1948
マドゥレイラEC1948-1949
フルミネンセFC 1949-1956
ボタフォゴFR 1956-1958
レアル・マドリード 1959-1960
ボタフォゴFR 1960-1962
スポルティング・クリスタル 1963
ボタフォゴFR 1964
サンパウロFC 1964
ボタフォゴFR 1965
CDベラクルス 1965-1966
サンパウロFC 1966
代表歴 | |||
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1952-1962 | ![]() |
68 | (20) |
1949年にフルミネンセに入団し、ブラジル中にその名を馳せた。
1954年にはワールドカップスイス大会にブラジル代表として出場しメキシコ戦、ユーゴスラビア戦で得点するも、ハンガリー代表に敗れてしまう。
1958年のワールドカップスウェーデン大会ではガリンシャ、ペレらも加わったブラジル代表は南米勢として初めて欧州での優勝を成し遂げ、ジジはワールドカップの後、高額の移籍金でレアル・マドリードへ移籍することになった。
ここで彼はチームのゲームメイクを任され58試合に出場し31点の成績を挙げるが、プスカシュやディ・ステファノといったチームメイトに人種差別的な発言を受けるなど折り合いがつかず、古巣のボタフォゴに帰還した。
1962年ワールドカップチリ大会の後34歳で引退。
その後は監督となり、1970年のワールドカップメキシコ大会にはペルー代表の監督として出場するが、準々決勝で母国ブラジルに敗れた。
エピソード
ジジは1928年10月8日リオデジャネイロに生まれ、ブラジルのほかの子供たちがそうするようにストリートでサッカーを楽しんでいた。
しかし14歳の時に苦難が降りかかる。
いつものようにストリートで仲間たちとサッカーに興じていたジジだが、ある子供に誤って右足を蹴られてしまい、大怪我を負う。
傷は悪化し一時期は足を切断しなければいけないと言われるまでの危機にあい何とか切断は免れたものの、長期間に及ぶ車椅子生活を強いられ、右足には常に痛みが付きまとった。
しかしこの痛みが彼に僥倖をもたらす。
ボールを蹴るときに右足の痛みを和らげようと撫でるような独特の蹴り方をしていたのが、それが相手選手にとって軌道の読めないパスを、そしてゴール手前で急激に落下してゴールネットを揺らす“フォーリア・セッカ(枯れ葉)”と呼ばれるフリーキックを生み出したのである。
ワールドカップの活躍を見てジジに破格のオファーを出したのはレアル・マドリー。
ジジはこのオファーを受け入れ、スペインへの活躍の場を移した。
ジジにとっては金銭はたいしたことではなく、ヨーロッパと世界を席巻していたマドリーの一員としてプレイしたいとの欲求が強かったのである。
当時のマドリーにはマジック・マジャールの中心選手だった“走る少佐”フィレンツ・プスカシュ、主将を務める“カンタブリアの疾風”フランシスコ・ヘント、クレール・フォンティーヌに数々のラストパスを供給した“ナポレオン”レイモン・コパゼフスキーなど錚々たるメンバーが控えていたがジジにとっての不運は“ブロンドの矢”アルフレッド・ディステファノが在籍していたことである。
温厚なジジに対し、独善的なディ・ステファノやプスカシュはジジに対していい感情を持たず、特に素晴らしい選手ではあっても素晴らしい人格者とは言いがたいディ・ステファノは自分以外に絶対的なチームの中心となる選手がいることを快く思わなかった。
ジジを加えたマドリーが2試合を戦ったあと、ディ・ステファノはクラブに「ジジは世界チャンピオンかもしれないが、ただ歩いているだけじゃないか」とジジ追放を求め詰め寄った。
クラブはディ・ステファノの意見に従い、結局ジジのヨーロッパ挑戦は2試合で終わりを告げてしまった。
プレースタイル
いかに繊細なテクニックを持っていてもフィジカルやスタミナ、アジリティが備わっていなければ高いレベルで通用することは難しい現代のフットボールにおいてヴァウディール・ペレイラ“ジジ”が存在していたらおそらくその才能を評価されることの無いまま凡庸な選手としてサッカー人生を終えることだろう。
しかしテクニックと戦術眼が何よりも重要だった1950、60年代の“フチボル”においてジジは間違いなく超一流の選手であり、“8番(ゲームメイカー)”の位置から前線の選手を巧みなパスで操るセレソンの指揮官であった。
彼は試合中は歩いてプレーし、あまり走り回ることはほとんどなかった。
それは彼に非凡なテクニックが備わっていたから許されたことだ。
彼はその類まれな戦術眼と正確無比な長短のパスで攻撃を司る司令塔であった。
所属チームの攻撃は常に彼を経由して行われた。
彼の代名詞は“フォーリア・セッカ(枯れ葉)”と呼ばれるフリーキックである。
相手選手にとって軌道の読めないパスとして、そしてゴール手前で急激に落下してゴールネットを揺らすシュートとして芸術的なフリーキックである。
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