概略
誕生日 | 1938年11月24日(81歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | テネシー州シャーロット |
出身 | シンシナティ大学 |
ドラフト | 1960年 1位 |
身長(現役時) | 196cm (6 ft 5 in) |
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体重(現役時) | 100kg (220 lb) |
ポジションはポイントガード(PG)。
右利き。
ニックネームはThe Big O。
NBAにおいて1960年代から70年代の前半にかけて活躍し、NBA史上最高の選手として語られることもある伝説的名選手である。
引退するまでにアシスト王6回、オールスターゲーム出場12回、オールスターMVP受賞3回、オールNBAチーム選出11回、シーズンMVP受賞1回、ミルウォーキー・バックス時代に優勝を果たすなど数々の栄誉に浴した。
また現役中は選手会(NBPA)会長としてNBA選手の地位向上に大きく貢献。
1980年には殿堂入りを果たし、カレッジバスケ界では最も重要な個人賞の一つとして『オスカー・ロバートソン・トロフィー』が設けられている。
1961-62シーズンに達成したシーズン平均トリプル・ダブルはNBAの伝説となっている。
主な実績
個人成績
- NBAレギュラーシーズン通算成績
- 出場試合:1,040試合 (14シーズン)
- 通算得点:26,710得点
- 通算リバウンド:7,804リバウンド
- 通算アシスト:9,887アシスト (歴代6位)
- FG成功率:.485
- NBAプレーオフ通算成績
- 出場試合:86試合
- 通算得点:1,910得点
- 通算リバウンド:578リバウンド
- 通算アシスト:769アシスト
- NBAレギュラーシーズン平均成績
- 平均出場時間:42.2分
- 平均得点:25.7得点 (歴代10位)
- 平均リバウンド:7.5リバウンド
- 平均アシスト:9.5アシスト (歴代4位)
- FT成功率:.838
- NBAプレーオフ平均成績
- 平均出場時間:42.7分
- 平均得点:22.2得点
- 平均リバウンド:6.7リバウンド
- 平均アシスト:8.9アシスト
主なタイトル
- アマチュア
- AP通信選出オールアメリカ1stチーム (1958~1960年 3回)
- 全米バスケットボール記者協会選出年間最優秀選手 (1959年, 1960年 2回)
- 1960年ローマオリンピック 金メダル獲得
- NBA
- NBAルーキー・オブ・ザ・イヤー (1960年)
- オールNBA1stチーム (1961~1969年 9回)
- オールNBA2ndチーム (1970年, 1971年 2回)
- オールスターゲーム (1961~1972年 11回)
- オールスターMVP (1961年, 1964年, 1969年 3回)
- シーズンMVP (1964年)
- NBAファイナル制覇 (1971年)
- スタッツリーダー
- アシスト王 (1962年, 1962年, 1964~1966年, 1969年 6回)
- フリースロー成功率1位 (1964年, 1968年 2回)
- NBA35周年オールタイムチーム (1980年)
- バスケットボール殿堂 (1980年)
- NBA50周年記念オールタイムチーム (1996年)
- ESPN選出の『20世紀の偉大なアメリカンアスリートTop100』において36位 (1999年)
- スラムマガジン誌選出の歴代NBA選手Top75において3位 (2003年)
- 全米カレッジバスケットボール殿堂 (2006年)
- 背番号『14』はサクラメント・キングスの、『1』はミルウォーキー・バックスの永久欠番
- サクラメント・キングスのチーム記録
- 通算22,009得点は歴代1位
- 通算7,731アシストは歴代1位
- 1試合21アシストは歴代1位
- NBA史上2人のみが達成しているシーズン平均トリプル・ダブル達成者
- 通算トリプル・ダブル達成回数181回はNBA歴代1位
経歴
選手経歴 | |
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1960-1970 1970-1974 |
シンシナティ・ロイヤルズ ミルウォーキー・バックス |
代表歴 | |
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キャップ | ![]() |
大学を卒業したロバートソンは1960年の夏、アメリカ代表として1960年ローマオリンピックに出場。ロバートソンにジェリー・ウェスト、ジェリー・ルーカス、ウォルト・ベラミー、テリー・ディッシンガー、ボブ・ブーザー、エイドリアン・スミス、ダレル・イムホフなど錚々たるメンバーが揃ったこの時の代表はドリームチーム以前としては歴代最高の代表チームと評価されている(12選手中10人が後にNBAでプレイし、ロバートソン、ウェスト、ルーカス、ベラミーの4人が殿堂入りしている)。
ロバートソンはウェストと共にチームキャプテンを務め、共にチームの主要得点源としても活躍。
大会平均17.0得点をあげ、試合では平均42.4点差をつけて各国代表を一蹴。
見事に金メダルを獲得した。ポジションはフォワードとして登録されていたが、実質ロバートソンがポイントガードとして代表チームを牽引した。
なお、ロバートソンはルーカス、ブーザー、スミスの3人と後にNBAでもチームメートとして過ごすことになる。
1960年のNBAドラフトで地域指名(地元出身選手を指名できる制度)と全体1位指名を受けてシンシナティ・ロイヤルズに入団。
ロバートソンはルーキーイヤーから平均30.5得点10.1リバウンド9.7アシストと、驚くべきオールラウンドな能力を発揮。
1年目からアシスト王に輝くと共に、平均9.7アシストはNBAではボブ・クージーの記録を抜いて過去最高の数字となり、また平均30.5得点はリーグ3位の好記録だった。
さらに今後12年連続で選ばれることになるオールスターゲームにも出場し、23得点14アシストをあげて見事にオールスターMVPにも輝いた。
当然のように新人王を受賞すると共に、やはり今後9年連続で選ばれ続けることになるオールNBA1stチームにも名を連ねている。
翌1961-62シーズンはロバートソンにとってもNBAにとっても伝説的なシーズンとなった。
彼はこのシーズン平均30.8得点12.5リバウンド11.4アシストを記録し、2016-2017シーズンにラッセル・ウェストブルックが達成するまでNBA史上初のシーズン平均トリプル・ダブルを達成したのである。
平均11.4アシストはリーグ初の二桁の大台突破であり、通算899アシストはクージーの記録を更新するリーグ歴代最多となった。
2年連続アシスト王はもちろんのこと、平均30.8得点はリーグ5位、12.5リバウンドもリーグ9位に入った。
チームは43勝37敗の成績でプレーオフ出場を果たし、ロバートソンはプレーオフ期間中も平均28.8得点11.0リバウンド11.0アシストのトリプル・ダブルの成績でチームを牽引したが、デトロイト・ピストンズの前に1勝4敗で敗退した。
以後もロバートソンは個人成績では準トリプル・ダブルの数字を残し続けるが(ロバートソンの最初の5シーズンは平均30.4得点10.4リバウンド10.6アシストのトリプル・ダブルの成績だった)、プレーオフでは結果を残せない日々が続く。
1963-64シーズンにロバートソンのキャリアは絶頂期を迎える。
彼はこのシーズンに平均31.4得点9.9リバウンド11.0アシストをあげ、3回目のアシスト王に輝くと共に得点王レースではリーグ2位に入り、フリースロー成功率85.3%はリーグ1位となった。
ロバートソンに盟友トゥィマン、ベテランのウェイン・エンブリー、アメリカ代表のチームメートでこのシーズンにNBAデビューを果たしたジェリー・ルーカス、やはり代表チームメートのエイドリアン・スミスにボブ・ブーザーと充実したロスターとなったロイヤルズは、新ヘッドコーチに元ロイヤルズ選手だったジャック・マクマホンを迎え、過去最高の勝ち星となる55勝をあげた。
快進撃の中心にいたロバートソンはシーズンMVPを受賞。
当時、同賞は二大センターのビル・ラッセルとウィルト・チェンバレンの独占状態だったが、60年代にこの2人以外の選手で唯一MVPに輝いたのがロバートソンだった。
さらにロバートソンはオールスターで26得点14リバウンド8アシストをあげ、オールスターMVPも受賞している。
絶好調のシーズンを過ごしたロバートソンとロイヤルズはプレーオフ・デビジョン準決勝でチェンバレンの76ersを破るが、デビジョン決勝では再びラッセルのセルティックスの前に破れ、夢のファイナル進出は叶わなかった。
以後もロバートソンは個人成績では素晴らしい数字を残し続け、ロイヤルズ所属時に計6回のアシスト王、2回のフリースロー成功率1位、1967-68シーズンに記録した平均29.2得点はリーグ1位(当時の得点王は平均ではなく通算で決められていたため得点王ではなかった)となったが、彼の奮闘もチームの成功には繋がらなかった。
1964-65シーズンからは3年連続でプレーオフ・デビジョン準決勝で敗退し、さらに1967-68シーズンからはプレーオフにすら出場できなかった。
不甲斐ないチームに地元ファンの支持も薄らいでいき、1969-70シーズンにはファンを呼び戻すために当時ロイヤルズのヘッドコーチだったボブ・クージーが現役に復帰するという苦肉の策に出るも、チーム成績は回復しなかった。
1969-70シーズン終了後、ロイヤルズとミルウォーキー・バックスとの間でトレードが成立。
バックスからのフリン・ロビンソン、チャーリー・パウルクに対し、ロイヤルズから放出される選手がオスカー・ロバートソンであることにNBAファンは驚いた。
ロイヤルズがチームの大エースを手放した理由で当時最も囁かれたのがロバートソンとボブ・クージーHCの確執であり、クージーが彼が保持していた幾つかのNBA記録をロバートソンが次々と破っていったことに嫉妬したからだというものだった。
ロバートソンはトレードについて「私は彼(クージー)が間違ってたと思うし、このことを決して忘れないと思う」と語っている。
ロバートソンは大学時代の4年間、NBAでの10年間、計14年間過ごしたシンシナティを離れることになった。
ロバートソンのバックス移籍はロバートソンとルー・アルシンダー(後のカリーム・アブドゥル=ジャバー)というビッグデュオの誕生を意味した。
ジャバーはロバートソンよりも一回り若いがすでにリーグトップクラスのセンターとしての地位を確立しており、後には史上最高のセンターの一人と評価されるに至る。
ポイントガードとセンターそれぞれに史上最高クラスの選手を擁したバックスは1970-71シーズンに入ると無類の強さを発揮。
当時のNBA記録となる20連勝を達成し、最終的にはリーグ1位となる66勝16敗を記録した。
ロバートソン個人はエースの役割を若いジャバーに譲り、個人成績は平均19.4得点5.7リバウンド8.2アシストと数字上では過去最低となったが、チームの司令塔として抜群の統率力を発揮し、またジャバーとのピック&ロールは非常に阻止し難いオフェンスパターンとなった。
プレーオフではロバートソンにとって宿願となるデビジョン決勝突破を果たし、ついにNBAファイナルに到達。
ファイナルではウェス・アンセルド、ガス・ジョンソン擁するボルティモア・ブレッツと対決するが、バックスは4戦全勝でブレッツを一蹴し、プレーオフ期間中も12勝2敗という圧倒的な強さを見せつけ、ついにバックス初となる優勝を成し遂げた。
ロバートソンにとっては移籍1年目にしての初優勝となった。
プロ12年目、33歳となっていたロバートソンは歴年の奮闘が祟り、この頃には足に慢性的な故障を抱えるようになったため、念願のチャンピオンリングを手に入れたことで引退も考慮したが、その後もバックスで3年間プレイ。
彼の所属期間中の4年間、バックスは全てのシーズンでデビジョン優勝を果たし、3年連続で60勝超えを達成するなどリーグ屈指の強豪として君臨した。
1973-74シーズンには再びファイナル進出を果たし、ロバートソンには2つ目のチャンピオンリング獲得の機会を与えられたが、彼の夢を阻んだのはまたしてもボストン・セルティックスだった。
バックスとデーブ・コーウェンス、ジョン・ハブリチェック擁するセルティックスは激戦を繰り広げ、優勝の行方は第7戦にまでもつれたが、バックスは第7戦に破れ、惜しくも優勝はならなかった。
ロバートソンは1973-74シーズンを最後に引退を決意。
14年間に及んだNBAキャリアに幕を降ろした。ロバートソンのラストシーズンに59勝をあげたバックスが、彼の引退後の1974-75シーズンに38勝まで成績が落ち込んだことは、ロバートソンの影響力の大きさを物語るものだった。
エピソード
ロバートソンのキャリアの中でも最も輝かしい業績の一つが1961-62シーズンに記録されたシーズン平均トリプル・ダブルである。
もっとも当時はまだトリプル・ダブルという概念そのものが一般に認知されておらず、この記録がいかに偉大で、そして困難極まるものであるかを知る者は少なく、ロバートソン本人ですらも後になって「そんなに凄いことなら毎年でもやっていたのに」と語っていたほどだった。
この偉業がようやく正当に評価されたのは1980年代に入ってマジック・ジョンソンがトリプル・ダブルを量産するようになってからで、近年になり改めてロバートソンの試合のスコアが調べられ、彼がキャリアで181回ものトリプル・ダブルを達成していることが判明した。
これはマジックの138回を大きく引き離す歴代1位の記録である。
プレースタイル
オスカー・ロバートソンは「NBA史上最高の選手」を論じる上で無視できない存在である。
ロバートソンは身長196cm体重100kgとフォワード並みの長身と屈強な肉体の持ち主でありながら、ガードとしての優れたスピードとクイックネスを兼ね備え、さらにバスケットIQも非常に高いという、非の打ち所のない万能な選手であり、当時の記者からは「ハンターの目、マジシャンの手、スプリンターの脚を併せ持った男」と評され、伝説的なコーチ、レッド・アワーバックはロバートソンを今まで見た中で最も才能のある手と評価した。
ロバートソンは得点、リバウンド、アシストなどバスケットに必要なあらゆる面に対して非凡な才能を発揮した。
2度のフリースロー成功率1位(キャリア通算83.8%)の実績が示すようにロバートソンは優れたシューターだった。
その長身故にミスマッチの発生が容易なうえ、さらに肘を開けて放つという独特のシュートフォームのため彼のシュートをブロックするのは難しく、また屈強な肉体を活かしたパワープレイからロングレンジからのジャンプシュートとシュートエリアは非常に広かった。
ルーキーイヤーに記録した平均30.5得点はルーキーとしては歴代3位、キャリア平均25.7得点は歴代10位、オールスター平均20.5得点は歴代1位(4試合以上出場した選手のみを対象)と、ロバートソンの得点力は歴代でも屈指であり、これらの数字はNBAにスリーポイントシュートが導入される以前のガードの選手が残したものとしては異例と言える(スリーポイントシュート導入以前のガードでロバートソンより高いキャリア平均得点を残してるのはジェリー・ウェストのみ)。
彼の得点力に手を焼いた敵チームは当然のようにダブルチームを仕掛けるが、それでも止められないのがロバートソンだった。
広い視野とパスセンスに優れたロバートソンはプレイメーカーとしても極めて優秀であり、ジェリー・ウェストからは「状況判断の上手い選手」、ビル・ラッセルからは「心理戦は得意だがオスカーにはいつも裏をかかれてしまう」と評され、ディフェンスを集中されてもあっさりと味方の得点チャンスに変えてしまうロバートソンに敵チームはお手上げ状態だった。
彼は毎晩のようにアシストを量産し、シーズン平均アシストが初めて二桁の大台を突破した選手となり、6回のアシスト王にも輝いた。
通常得点とアシストを両立することは困難とされているが、彼にバスケットの常識は当てはまらず、史上7回しか達成されていないシーズン平均30得点10アシスト以上はうち5回がロバートソンによるものであり、また平均得点・アシストの双方でリーグトップに立つというNBA史上2人しかいない偉業も達成している。
またゴール下でも競り負けないロバートソンはリバウンドでも才能を発揮しており、ガードの選手としてはロバートソンただ一人が達成したシーズン平均二桁リバウンドを3シーズン連続で記録している。
ロバートソンは数字上の実績のみならず、バスケットボールという競技そのものにも大きな影響を与えた選手である。
彼は「背の低い選手が務める」というガードの概念を打ち破り、後のマジック・ジョンソンのような大型のポイントガードの出現を促し、また1980年代から広まったポイントフォワードの始祖であるという見方もある。
またヘッドフェイクやフェイダウェイ・ジャンプシュートなど、当時はまだ新しかった技術の普及にも貢献した。