概略
誕生日 | 1972年3月6日(48歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | ニュージャージー州ニューアーク |
出身 | ルイジアナ州立大学 |
ドラフト | 1992年 1位 |
身長(現役時) | 216cm (7 ft 1 in) |
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体重(現役時) | 154kg (340 lb) |
ウィングスパン(現役時) | 231cm (7 ft 7 in) |
足のサイズ | 42cm |
最高到達点 | 385cm |
ポジションはセンター。
右利き。
通称「シャック」。
「Shaquille Rashaun(シャキール・ラシャウン)」とは、アラビア語で「小さな勇士」という意味である。
NBAの歴史の中で最も偉大な選手の一人と考えられている。
巨人が集まるバスケットボール選手の中でも7 ft 1 in (2.16 m)、325 pounds (147 kg)と規格外の体格をもつ選手の一人だった。
獲得タイトルその他
タイトル
- NBAチャンピオン:2000年、2001年、2002年、2006年
- 得点王(1試合平均):1995年(29.3)、2000年(29.7)
- シーズン通算最多得点:1995年(2315)、1999年(1289)、2000年(2344)
- シーズン最多フィールド・ゴール:1994年(953)、1995年(930)、1999年(510)、2000年(956)、2001年(813)
- フィールド・ゴール%:1994年(.599)、1998年(.584)、1999年(.576)、2000年(.574)、2001年(.572)、2002年(.579)、2004年(.584)、2005年(.601)、2006年(.600)
受賞歴
記録
- フィールド・ゴール成功率のタイトルを9回獲得、または5年連続獲得しているのはNBA史上ウィルト・チェンバレンとオニールのみ。
- 史上初となる13年連続で1シーズン平均20得点10リバウンドを記録(チェンバレン、カリーム・アブドゥル=ジャバー、アキーム・オラジュワンは12年連続で2位)。
- プレイオフ史上唯一、通算記録がフィールド・ゴール55%以上で4,700得点、2,200リバウンド、500アシスト、400ブロック、100スティールに達している。
- 史上4人いる、14年連続でオールスターに選出された1人(ジェリー・ウェスト、カール・マローン、コービー・ブライアント)。
- 1973-74シーズンにリーグが公式にブロックショットを記録し始めて以来、史上3人目となる通算24,500得点、11,000リバウンド、2,600アシスト、2,300ブロックを記録(先の2人はジャバーとオラジュワン)。
- 史上5人いる、ファイナルMVPを3回受賞した1人で、3年連続受賞はマイケル・ジョーダンとオニールのみ(他の3人は、マジック・ジョンソンとティム・ダンカンとレブロン・ジェームズ)。
- 史上初となるルーキーでシーズン開幕第1週の週間MVP選出。
- プレイオフ記録
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- 通算フリースロー最多試投:2,085
- 1ハーフ・フリースロー最多試投:27(2000年5月20日ブレイザーズ戦)
- 1クォーター・フリースロー最多試投:25(2000年5月20日ブレイザーズ戦)
- ファイナル記録
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- 4ゲーム・シリーズ最多得点:145(2002年)
- 4ゲーム・シリーズ最多フリースロー成功:45(2002年)
- 4ゲーム・シリーズ最多フリースロー試投:68(2002年)
- 4ゲーム・シリーズ最多ブロック:11(2002年)
- 1試合最多ブロック※:8(2001)※パトリック・ユーイング、ティム・ダンカンと並ぶタイ記録
- 1ハーフ最多フリースロー成功:13(2000年)
- 1クォーター最多フリースロー成功※:9(2000年)※アレン・アイバーソンと並ぶタイ記録
- 1試合最多フリースロー試投:39(2000年)
- 1クォーター最多フリースロー試投:16(2000年、2002年)
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- チーム記録
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- マジック
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- 1試合最多リバウンド:28(1993年)
- 1試合最多ブロック:15(1993年)
- レイカーズ
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- シーズン最多オフェンシブ・リバウンド:336 (1999-2000)
- プレイオフ通算最多オフェンシブ・リバウンド:561
- プレイオフ1試合最多オフェンシブ・リバウンド:11(2001年)
- 1試合最多フリースロー試投:31(1999年)
- プレイオフ1試合最多フリースロー試投:39(2000年)
- 1ハーフ最多フリースロー試投:20(2002)
- プレイオフ1ハーフ最多フリースロー試投:22(2000年)
- プレイオフ1クォーター最多フリースロー試投:16(2000年)
- ヒート
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- プレイオフ1クォーター最多フリースロー試投※:10(2006年)※アマー・オドムと並ぶタイ記録
- 最高の選手の1人と言われるオニールだが、彼の所属するチームはプレイオフで対戦チームに1勝も出来ずに全敗する事が多い。
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- オーランド時代
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- 1994年プレイオフ 1回戦 インディアナ対オーランド 0勝3敗で敗北
- 1995年プレイオフ ファイナル ヒューストン対オーランド 0勝4敗で敗北
- 1996年プレイオフ 3回戦 シカゴ対オーランド 0勝4敗で敗北
- ロサンゼルス時代
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- 1998年プレイオフ 3回戦 ユタ対レイカーズ 0勝4敗で敗北
- 1999年プレイオフ 2回戦 サンアントニオ対レイカーズ 0勝4敗で敗北
- マイアミ時代
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- 2007年プレイオフ 1回戦 シカゴ対マイアミ 0勝4敗で敗北
その他の業績
- オールスター戦出場15回:1993年、1994年、1995年、1996年、1997年、1998年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2009年
- ヒートでファイナルに進出し、ゲイリー・ペイトンと共に、異なる3つのチームでファイナルに出場した史上11、12番目の選手となった。
- レギュラー・シーズンで40得点以上を記録したのは48回。50得点以上が3回。60得点以上も1回。
- 2000年12月8日の試合ではフリースロー全11投を全て外し、ウィルト・チェンバレンが持っていた10投の記録を更新した。
経歴
1992-1996 1996-2004 2004-2008 2008-2009 2009-2010 2010-2011 |
オーランド・マジック ロサンゼルス・レイカーズ マイアミ・ヒート フェニックス・サンズ クリーブランド・キャバリアーズ ボストン・セルティックス |
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代表キャップ | ![]() |
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1992年のNBAドラフトでルイジアナ州立大学からオーランド・マジックに全体1位で指名されオニールはNBA入りを果たす。
ルーキー・イヤーからバスケットのゴールをダンクシュートで2度も破壊(1度はリングをもぎ取りボードが粉々になった)するというパフォーマンスを見せ、改めてその怪物ぶりを示している。
チームを41勝41敗と勝率5割に導いたものの1勝差でプレイオフ進出を逃した。
ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を受賞し、華々しいスタートを切った。
1994-95シーズン、マジックに新たにホーレス・グラントが加わりオニールは毎試合インサイドを牛耳るようになり、前年逃した得点王の座についた。
オニールとスーパースターに成長を遂げたハーダウェイとのコンビは「マジック・ジョンソンとカリーム・アブドゥル=ジャバー以来の強力デュオ」といわれた。
オニールはチームをイースタン・カンファレンス最高勝率に導き、プレイオフでのホームコートアドバンテージを獲得した。
そしてチームを初のNBAファイナルへと進出させることに貢献した。
だが、ファイナルではアキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラーを擁するヒューストン・ロケッツの前に1勝も出来ずに敗退した。
1995-96シーズン、オニールは28試合を欠場するが、その間にハーダウェイが目覚しい活躍を見せマジックは勝ち星を積み重ねていた。
ハーダウェイがオニールを上回る契約をマジックと交わしていたこともあり、この辺りから二人の不仲が徐々に表面化し始める。
チームは2年連続で地区優勝を果たしプレイオフで再びブルズと対戦したが、今回は全く歯が立たずに敗退、オフにフリーエージェントとなったオニールは、ロサンゼルス・レイカーズへ移籍した。
1996年オフ、オニールは7年間1億2,000万ドルという契約でロサンゼルス・レイカーズに入団した(オニールは昔からレイカーズのファンだった)。
レイカーズはオニールを含め複数のオールスター選手を抱えるチームだったが、オニールの唯我独尊のスタイルは相変わらずで、同じ年に入団したコービー・ブライアントとの確執も度々取り沙汰されるようになり、彼が移籍してから3年の間はファイナル進出はほど遠い状態だった。
1999年オフ、チームがフィル・ジャクソンをヘッド・コーチに迎えるとレイカーズはオニールを主軸にトライアングル・オフェンスを布いて一気にウェスタンカンファレンス屈指の強豪へと生まれ変わった。
オニール自身もチームプレーヤーへと変貌、1999-2000シーズンはチームを破竹の連勝に導きホームコート・アドバンテージを獲得する。
プレイオフでは勝負強い試合運びを見せ、遂に念願のNBAチャンピオンとなる。
オニールはこの年、レギュラー・シーズン、オールスター、ファイナル全てのMVPを独占している。
2000-01シーズン、ホームコート・アドバンテージはサンアントニオ・スパーズに譲ったものの、プレイオフに入るとレイカーズはウェストの対戦相手をことごとく無敗で退け、最終的にこの年のプレイオフを15勝1敗という強さで乗り切り2連覇を果たした。
オニールは2年連続でファイナルMVPに選ばれた。
翌2001-02シーズンは、足の怪我の影響で15試合を欠場するが、プレイオフでは調子を上げまたもファイナルへ進出。
フィル・ジャクソンに3度目のNBA3連覇(スリーピート)、初の4勝0敗でのファイナル勝利をもたらし、オニール自身も3年連続ファイナルMVPに選ばれた。
3連覇達成は史上3チーム目(他はボストン・セルティックスとシカゴ・ブルズのみ)という偉業である。
2002-03、03-04シーズンはプレイオフに進出するも、それぞれカンファレンス準決勝、ファイナルで敗退してしまう。
チームでは以前から噂が絶えなかったオニールとコービー・ブライアントの確執が一層騒がれるようになり、結局オニールはレイカーズを去った。
オニールのトレードは、オフにFAとなるコービーが球団に「若い自分を採るか、オニールを採るか(これ以上オニールとプレーする気はない、彼が残るなら自分が出て行く)」と迫ったことによる、と言われている。
2004-05シーズン、イースタン・カンファレンスのマイアミ・ヒートへと移籍、これにより東西の勢力図は大きく変化する。
オニールはチームメイトでオールスターガードのドウェイン・ウェイドとともにヒートをイースタン最高の成績に導き、チームを一気に強豪へと押し上げた。
そして2005-06シーズン、プレイオフ開始前の下馬評は高くなかったが、デトロイト・ピストンズをカンファレンス決勝で破った後、ファイナルではダラス・マーベリックスと対戦、4勝2敗でチームを初優勝へと導き、自身4つ目のチャンピオンリングを手に入れた。
ヒート移籍の前後から、以前のような圧倒的な支配力に陰りが見え始めたオニールだが、このシーズンはその衰えが数字にもはっきりと現れ、ルーキー時代から続いていたシーズンアベレージのダブル・ダブルが初めて途絶えたが、それでもオールNBAファーストチーム入りを果たし、リーグのトップセンターであることを証明した。
故障による欠場が多くなり始めたオニールの2006-07シーズンの出場試合数は僅か40試合に留まった。
そしてシーズン途中の2月に、ショーン・マリオンとマーカス・バンクスとの交換で、フェニックス・サンズに放出された。
この背景には、2007年秋に夫人との離婚を申請したことなど、私生活における問題を抱えていたことや、パット・ライリーとの確執も影響している。
サンズに移籍したオニールだったが、数年前にMVPの価値観を巡って舌戦を繰り広げ、不仲説が取り沙汰されていたスティーブ・ナッシュとの関係にも注目が集まった。
移籍当初こそチームのスタイルとプレーがかみ合わずに負けが先行、チームも一時地区首位から転落するが、その後チームのスタイルとプレーがかみ合いだすとオニールも復調し、チームはプレイオフに進出。
ただプレイオフ1回戦でチームはサンアントニオ・スパーズに敗れてしまう。
その後チームを転々とした後、2011年6月1日、フロリダ州オーランドの自宅から、自身のツイッターで19年にわたる現役生活からの引退を表明した。
エピソード
公式試合でゴールを2回壊したことがある。
1度目は天井から吊るされた支柱が折れて危うくバックボードの下敷きになるところであった。
2度目は垂直に立つ支柱を支えるフレームが壊れ収納する状態になった。
またヒート時代にも2度目の様になりかけたこともある。
現在は構造が改良されたため、よほどのことがない限りゴールが壊れることはない。
FG成功率よりもFT成功率の方が低いという特異な成績は有名だが、長年チームの中心として活躍したが故にチーム成績にも大きな影響を与えており、シャックが在籍したチームはFG成功率では安定して上位に入る一方でFT成功率は漏れなく下位に低迷するという極端な成績がチームにも大きく反映されていた。
大のWWE好きとしても知られ、たびたびPPVの会場に足を運んでいる。
さらに2009年7月27日のRAWで番組ホストを務めた。
当時統一タッグ王者のクリス・ジェリコをクリスティーナ、ビッグ・ショーを太っちょと挑発し、メイン戦のジェリコ&ビッグ・ショーvsクライム・タイムの特別審判員を務めた。
王者組の反則負けで試合は終わったが試合後にビッグ・ショーとの対戦が開始し、クライム・タイムの援護もあり、勝利した。
現在はサクラメント・キングスの共同オーナーを務めており、ボグダン・ボグダノビッチやディアロン・フォックスら主力選手の相談相手を買って出ている。
プレースタイル
シャキール・オニール氏は、その巨体を以ってペイントエリアを制し続けてきた。
現役時代の体格は、身長216cm体重156kgと「超」がつくほど雄大な体格をしており、バスケットシューズのサイズに至っては、なんと驚愕の41cmもあった。
そんな巨体にも関わらず、俊敏さも相応に備えており、運動能力が非常に高くペイントエリアでは唯一無二とも言える存在感を放っていた。そして最も相手から恐れられていたのはそのパワーだった。