概略
誕生日 | 1976年4月25日(44歳) |
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国 | ![]() ![]() |
出身地 | ![]() セント・クロイ島 |
出身 | ウェイク・フォレスト大学 |
ドラフト | 1997年 1位 |
身長(現役時) | 211 cm (6 ft 11 in) |
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体重(現役時) | 113.5 kg (250 lb) *ドラフト時249lb→最大260lb→現在250lb |
ウィングスパン(現役時) | 224cm (7 ft 4 in) |
シューズ | アディダス |
ポジションはパワーフォワード。
右利き。
NBAのサンアントニオ・スパーズ一筋19年にわたり活躍し、スパーズに5度のNBAチャンピオンをもたらした。
2019–20 シーズン からサンアントニオ・スパーズのアシスタントコーチを務めている。
ウェイク・フォレスト大学時代にカレッジバスケの個人賞を総舐めにした後、1997年のNBAドラフトにてサンアントニオ・スパーズから全体1位指名を受けてNBA入り。
以後スパーズの黄金期を築き上げ、NBAファイナルを5回制覇。
個人としてもNBAルーキー・オブ・ザ・イヤー、シーズンMVP受賞2回、ファイナルMVP受賞3回、デビューしてから2010年まで13シーズン連続で、オールNBAチーム、NBAオールディフェンシブチーム、オールスター(ロックアウトの影響で開催されなかった1999年を除く)に選ばれ続けた。
プレイに華やかさはないため「地味」というイメージが付き纏うが、その圧倒的な実績から史上最高のパワーフォワードとの呼び声も高い。
どんな試合状況であっても常に冷静な判断を失わず、基本に忠実なプレースタイルからThe Big Fundamentalの愛称で知られる。
タイトル・記録
タイトル
- ジョン・ウッデン賞:1997
- ネイスミス賞:1997
- NBAチャンピオン:1999, 2003, 2005, 2007,2014
- レギュラーシーズンMVP:2002, 2003
- ファイナルMVP:1999, 2003, 2005
- オールスターMVP:2000(シャキール・オニールと共同受賞)
- ルーキー・オブ・ザ・イヤー:1998
- オールNBAチーム
- 1stチーム:1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2007, 2013
- 2ndチーム:2006, 2008, 2009
- 3rdチーム:2010
- オールディフェンシブチーム
- 1stチーム:1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2005, 2007, 2008
- 2ndチーム:1998, 2004, 2006, 2009, 2010, 2013
- NBAオールスターゲーム出場 : 1998, 2000~2011, 2013, 2015
- IBM選手賞:2002
- The Sporting News 最優秀選手:2002
- ACC50周年記念オールタイムチーム:2003
- APBR(Association for Professional Basketball Research)選出の「20世紀の偉大なプロバスケットボール選手100人」の1人:2007
- スラムマガジンが選ぶNBAオールタイム選手Top50において第8位:2009
歴代記録
- レギュラーシーズン ダブル・ダブル達成試合数 830試合 歴代1位
- プレーオフ ダブル・ダブル達成試合数 164試合 歴代1位
- 18年連続シーズンリバウンド500以上 歴代1位
- 同一チームに於けるレギュラーシーズン勝利数 954勝 歴代1位
- オールNBAチーム、オールディフェンシブチーム両方選出 13年連続(1997-2010) 歴代1位
- オールNBAチーム 15回選出 歴代1位
- オールディフェンシブチーム 15回選出 歴代1位
個人記録
- 最多得点:53得点
- 最多リバウンド:27本
- 最多ブロック:9
- 最多アシスト:11(2回)
- 最多スティール:8
- 最多フリースロー成功:17本
- 最多出場時間:52分
- ファイナルMVPを3回以上受賞するという偉業はマジック・ジョンソン(3回)とマイケル・ジョーダン(6回)、シャキール・オニール(3回)に続き史上4人目の快挙。
- デビューから2010年まで、オールNBAチームとオールディフェンシブチームの両方に選出され続けている。13年連続は史上最多。2位の記録は7年連続のデビッド・ロビンソン。
- 入団以来8年連続でオールNBA1stチームに選出された5人目の選手。残りはエルジン・ベイラー(10年連続)、ボブ・ペティット(10年連続)、ラリー・バード(9年連続)、オスカー・ロバートソン(9年連続)の4人。2005-06シーズンには故障を抱えたままでのプレイが続いたため1stチームには選出されず、この記録は途絶えたが、翌シーズンには復調し、返り咲いた。
経歴
1997-2016 | SAS サンアントニオ・スパーズ |
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代表キャップ | ![]() |
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クラブ
NBAにとっては待たされたダンカンのNBAドラフトエントリーだったが、彼を指名できる幸運を得られたのがサンアントニオ・スパーズだった。
リーグ屈指の強豪チームであるはずのスパーズがドラフト全体1位指名権を獲得できたのは、前年1996-97シーズンに大黒柱のデビッド・ロビンソンがシーズンをほぼ全休してしまい、その影響で20勝62敗、リーグワースト3位の成績となったからである。
ドラフト抽選で見事に1位指名権を射止めたスパーズのグレッグ・ポポヴィッチヘッドコーチは、迷わずその1位指名権をダンカンに行使。
ダンカンはスパーズに入団することになった。
当時スパーズは1位指名権を得るために故意に多く負けたと巷で囁かれたことは、ダンカンに対する期待の高さの表れでもあった。
ダンカンのスパーズ入団は強力なビッグマンデュオ、すなわちツインタワーの形成を意味した。
216cmのロビンソンはリーグのベストセンターの一人であり、その傍らにカレッジバスケの個人賞を総なめにした身長211cmのダンカンが居座る(NBA入り当初は公称213cmだった)ということは、対戦するチームにとっては悪夢でしかなかった。
なお、大学時代はセンターを務めていたダンカンだが、スパーズではロビンソンがいるため、パワーフォワードにコンバートされている。
ツインタワーはダンカン、ロビンソン双方にとって大きくプラスに働いた。
人格的にも優れたロビンソンからダンカンはNBAで活躍するための多くのノウハウを学び、またその実力は誰もが認めながらもリーダーシップに欠けると度々指摘を受けてきたロビンソンは、ダンカンの入団でその負担が大きく軽減された。
ダンカンはNBA入りした時点ですでに超一流の選手だった。公式戦デビュー戦で15得点10リバウンド2ブロックを記録したダンカンは、3戦目のシカゴ・ブルズとの試合では当時リーグ屈指のローポストディフェンダーだったデニス・ロッドマンとマッチアップし、19得点22リバウンドをあげた。
毎晩のようにダブル・ダブルを重ね、全ての月間新人賞を独占。
オールスターゲームにもコーチ推薦ではあるが出場。
平均21.1得点11.9リバウンド2.7アシスト2.5ブロックの成績を残し、当然のように新人王を受賞すると共に、新人としては異例となるオールNBA1stチームとオールディフェンシブ2ndチームにも名を連ねた。
新人ながらオールNBA1stチームに選出されるのはラリー・バード以来であり、ダンカンはNBA入り1年目にして早くもリーグ最高の選手の一人に数えられるまでになった。
ダンカンにとってNBA2年目の1998-99シーズンはロックアウト発生により開幕が2月にまでずれ込み、レギュラーシーズンが通常の82試合から50試合に短縮されるという異例の事態から始まった。
スパーズは開幕から6勝8敗と成績が伸び悩み、ポポヴィッチHCは非難の矢面に立たされたが、彼らのヘッドコーチをツインタワーが救い、以降の試合を31勝5敗、勝率.861という驚異的な成績で切り抜け、最終的には37勝13敗とした。
ダンカンは平均得点・リバウンド・ブロックでチーム1位となる21.7得点11.4リバウンド2.4アシスト2.5ブロックの成績を残し、オールNBA1stチームとオールディフェンシブ1stチームに選出される。
プレーオフ1回戦ではダンカンと同い年ながらNBAでは2年先輩のケビン・ガーネットが率いるミネソタ・ティンバーウルブズと対戦し、3勝1敗で降すと、カンファレンス準決勝ではシャキール・オニール、コービー・ブライアント擁するロサンゼルス・レイカーズを4戦全勝で一蹴。
カンファレンス決勝でも大学時代からのライバルであるラシード・ウォレースが所属するポートランド・トレイルブレイザーズをやはり4戦全勝で降し、ついにチーム史上初のNBAファイナル進出を果たす。
ファイナルでは第8シードから奇跡的なファイナル進出を果たしたニューヨーク・ニックスと対決。
ニックスの顔はデビッド・ロビンソンと共にリーグトップセンターの一角を成したパトリック・ユーイングだったが、ユーイングは故障でファイナルを全休。
戦前から大黒柱不在のニックスに対し、ツインタワー擁するスパーズが有利であろうと予想され、現実もその通りとなった。
初のファイナルという大舞台に第1戦前半のダンカンは僅か4得点2リバウンドに終わったが、後半に入ると復調し、終わってみれば33得点16リバウンドでチームを勝利に導いていた。
ニックスにもベテランのラリー・ジョンソンや将来有望なカート・トーマス、マーカス・キャンビーらが居たが、ツインタワー相手には力不足で、インサイドの主導権は完全にスパーズが握り、第2戦も勝利して2連勝を飾った。
このシリーズにはヴァージン諸島からも大応援団が駆けつけており、スパーズのホーム・アリーナ、アラモドームの客席は満杯となり、第2戦で記録された観客動員数39,554人はNBA新記録となった。第3戦ではニックスのガード陣、ラトレル・スプリーウェルやアラン・ヒューストンの活躍でスパーズは不覚を取ってしまうものの、第4戦ではツインタワーがニックスを圧倒。
ダンカンとロビンソンの2人だけでニックスの総リバウンド数を上回る35リバウンドをあげ、優勝に王手を掛けた。
第5戦ではダンカンとニックスのスプリーウェルの一騎討ちとなり、試合の行方は最後までもつれた。
そして76‐77とスパーズが1点のビハインドを抱えたまま残り1分を切り、逆転を狙うスパーズはダンカンにボールを託し、そしてニックスもダンカンにダブルチームを仕掛けた。
ダンカンはすぐにチームメートのショーン・エリオットにパスを送り、そしてエリオットはコーナーサイドでフリーで待つエイブリー・ジョンソンにパス。ジョンソンのジャンプシュートが決まり、スパーズに劇的な逆転勝利をもたらした。
シリーズ4勝目をあげたスパーズがチーム史上初の、そしてロビンソンにとってもNBA10年目の節目の年に初めての優勝を果たし、そしてダンカンはNBA入り2年目にして最初のチャンピオンリングを手に入れると共に、シリーズ平均27.4得点14.0リバウンドの成績でチームを優勝に導いたとして、ファイナルMVPの称号も手に入れた。
2年目でのファイナルMVP受賞はカリーム・アブドゥル=ジャバーと並ぶ歴代2番目の速さである(マジック・ジョンソンはルーキーイヤーに受賞)。
早くもNBAにおける最大の成功を手にしてしまったダンカンだったが、チャンピオンチームとして臨んだ1999-00シーズンも慢心することなく、平均23.2得点12.4リバウンドを記録してもはや常連となったオールNBA1stチーム、ディフェンシブ1stチームに選ばれると共に、24得点14リバウンド4アシストをあげたオールスターゲームではシャキール・オニールと共にオールスターMVPを共同受賞した。
しかしスパーズ自体はチームの高齢化に悩む時期に入っており、デビッド・ロビンソンやエイブリー・ジョンソン、ショーン・エリオット、マリオ・エリーら主力選手は皆30代半ばに入っており、チーム全体に疲弊が見られ、このシーズンは53勝29敗とチャンピオンチームとしてはやや物足りない成績に終わった。
翌2000-01シーズンに怪我から回復したダンカンは平均22.2得点12.4リバウンド、オールNBA、ディフェンシブ両チームで1stチーム入りするという例年通りの成績を残し、スパーズもデレック・アンダーソン、アントニオ・ダニエルズといった若い血をチームに注ぎ、前年を上回る58勝24敗を記録。プレーオフでは1回戦でティンバーウルブズを3勝1敗で、カンファレンス準決勝では後にダンカンとスパーズの強力なライバルとなるダーク・ノヴィツキー擁するダラス・マーベリックスとの初対決を4勝1敗で制し、ここまで順調に勝ち上がったが、カンファレンス決勝で前年チャンピオンのロサンゼルス・レイカーズが立ちはだかる。
シャキール・オニールにコービー・ブライアントという強力なデュオに率いられ、当時黄金期を迎えていたレイカーズにスパーズは全く歯が立たず、屈辱の4戦全敗を喫した。
2季連続で期待外れの結果に終わったスパーズとダンカンだったが、2001-02シーズンのダンカンは個人としては絶頂期を迎えた。
ダンカンはキャリアで初めてとなる平均40分以上の出場を果たし、キャリアハイとなる平均25.5得点を記録。
他にも12.7リバウンド3.7アシスト2.5ブロックと多くの部門で軒並み高い数字を残し、シーズン通算1,042リバウンド、フィールドゴール成功数764本、フリースロー成功数560本はリーグ1位となった。
また苦手としているフリースローでも成功率.799とダンカンとしては非常に良い数字を残してる。
当然のようにオールNBA、ディフェンシブ1stチームに選ばれると共に、シーズンMVPも初受賞した。
2002-03シーズンも、平均23.3得点のほかキャリアハイとなる12.9リバウンド3.9アシスト2.9ブロックを記録し、2年連続シーズンMVP受賞を達成する。
チーム改革を進めるスパーズは1999年の優勝を知る者はダンカンとロビンソン、マリック・ローズ、スティーブ・カーの4人のみとなり、すでにエイブリー・ジョンソンやショーン・エリオットらの姿は無かった。
新たにチームの核を形成するのはシューティングガードのスティーブン・ジャクソンに守備のスペシャリストであるブルース・ボウエン、そしてこの年から加わったフランス人ポイントガードのトニー・パーカーとアルゼンチン人ペネトレイターのマヌ・ジノビリだった。
高齢化問題を解消し、若手、中堅、ベテランとバランスの良い布陣となったスパーズは60勝22敗、リーグ1位の勝率でプレーオフに突入した。
スパーズは1回戦でステフォン・マーブリー擁するフェニックス・サンズに苦戦しながらも4勝2敗で破ると、カンファレンス準決勝で宿敵レイカーズと対決。
ダンカンはシリーズが決した第6戦で37得点16リバウンドをあげるなどし、スパーズは4勝2敗で宿願となる打倒レイカーズを果たすとともに3年間続いたレイカーズによるリーグ支配に終止符を打った。
カンファレンス決勝でマーベリックスを降したスパーズは、1999年以来となるファイナルに進出。
ジェイソン・キッド率いるニュージャージー・ネッツと対決するが、ネッツにはダンカンに抵抗できるようなビッグマンはおらず(ディケンベ・ムトンボが居たが、故障とバイロン・スコットヘッドコーチとの確執などで満足にプレイできなかった)、ダンカンは第1戦から思う存分暴れ回り、32得点20リバウンド6アシスト7ブロック3スティールと5部門全てでチームハイを叩き出し、チームを勝利に導いた。早くもファイナルはスパーズの楽勝ムードに包まれたが、第2戦以降ネッツがダンカンに徹底したダブルチームを敷いたこともあり、ネッツに2敗を喫したスパーズは3勝2敗で第6戦を迎えた。
この試合でダンカンは21得点20リバウンド10アシスト8ブロックと、あとブロック2本でクアドルプル・ダブルに迫る快記録を残し、ネッツを粉砕。
88対78で勝利したスパーズが4年ぶりの優勝を飾った。
ファイナル中平均24.2得点17.0リバウンド5.3アシスト5.3ブロックを記録したダンカンは2回目となるNBAファイナルMVPを受賞。
第6戦での8ブロックはファイナルタイ記録、合計32ブロックはパトリック・ユーイングの記録を抜くファイナル新記録となった。
この優勝をもって盟友ロビンソンは現役から引退し、6年間他チームの脅威であり続けたツインタワーは終焉を迎えた。
2003-04シーズンは平均22.3得点12.4リバウンドをあげ、チームも57勝25敗と前年から3勝減だったもののリーグ3位の好成績だった。
プレーオフ1回戦ではパウ・ガソルが所属するメンフィス・グリズリーズを4戦全勝で降すと、カンファレンス準決勝で因縁のレイカーズと対決。
結局スパーズは4連敗で敗退した。
2004-05シーズン、ダンカンは故障の影響もあって過去最低となる平均20.3得点11.1リバウンドの成績に終わるが、チームは引き続き好調でこのシーズンは59勝23敗を記録。
プレーオフではデンバー・ナゲッツやスーパーソニックスを破って順調にカンファレンス決勝に進出し、このシーズンスティーブ・ナッシュを獲得して大躍進を遂げたフェニックス・サンズと対戦。
リーグ1位のオフェンス力を誇るサンズ相手にディフェンス重視のスパーズは珍しくハイスコアゲームを展開したが、サンズの脆いディフェンスを突き崩したスパーズが4勝1敗でシリーズを制し、2年ぶりのファイナル進出を果たす。
ファイナル、前年レイカーズを破って優勝していたデトロイト・ピストンズとの対決はダンカンにとっては試練となった。
ピストンズが誇る2人のビッグマン、ベン・ウォーレスとラシード・ウォーレスを相手にしなければならなかったからである。
ベンは4度の最優秀守備選手賞に輝くローポストディフェンスの鬼であり、また大学時代からのライバルであるラシードも厄介な好ディフェンダーだった。
ダンカンは2人のウォーレスの徹底したダブルチームに苦み得点が伸び悩んだが、マヌ・ジノビリの活躍もあって第1戦、第2戦をスパーズが連勝する。
しかしデトロイトでの第3戦、4戦はピストンズが連勝したが、第5戦のロバート・オーリーの価千金の逆転3ポイントシュートで優位に立つも、実力伯仲の両者は3勝ずつしてシリーズは第7戦までもつれた。
第7戦では頼れる大黒柱が復活、第3Qでこの日最大の9点ビハインドを背負ったスパーズは、ダンカンが第3Qだけで15得点をあげる活躍を見せ、第4Q最初のダンカンのダンクがスパーズの優勝を決定付けた。
逆転を果たしたスパーズはこのリードを守りきり、4勝目を奪取。
見事に前年と前々年のチャンピオンチーム同士の頂上決戦を制し、3度目の優勝を果たした。
2人のウォーレスに苦しんだダンカンだったが、終わってみればシリーズ平均20.6得点14.1リバウンド、全試合でダブル・ダブルを達成する活躍であり、マジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダン、シャキール・オニールに続いて史上4人目となる3度目のファイナルMVPを受賞した。
優勝や数多の個人賞と数々の名誉を手に入れたダンカンにとって残された最後の仕事がファイナル連覇だったが、連覇の期待が掛かった2005-06シーズン、ダンカンは足底筋膜炎に苦しみ、ルーキーイヤーから続いた平均20得点10リバウンド以上がついに途絶え、18.6得点11.0リバウンドとなり、やはりルーキーイヤーから選ばれ続けたオールNBA1stチームの選考からも漏れ、2ndチーム選出となった。
ダンカンの不調に、しかしスパーズはかつてない勢いで勝ち続けた。
この頃からビッグスリーと呼ばれていたダンカンにトニー・パーカー、マヌ・ジノビリの力関係に変化が見られ始め、それ以前はダンカンがスパーズの絶対的なエースとして君臨していたが、このシーズンに特にパーカーが急速な成長を見せたため、ダンカンの負担が大きく軽減された。
パーカーはダンカンにかわってリーディングスコアラーとしてチームを牽引し、ジノビリは卓越した技術と爆発力でチームに活気をもたらし、そしてダンカンは攻守両面における要としてチームを支える存在となった。
スパーズはチーム史上最高勝率となる63勝19敗を記録。
プレーオフでは1回戦でサクラメント・キングスを破ると、カンファレンス決勝でダラス・マーベリックスと対決。
同じテキサス州に本拠地を置き、同じパワーフォワードにチームの最重要選手を置く実力伯仲の両者は熾烈な争いを展開。
レギュラーシーズン中は故障の影響でプレーをセーブしていたダンカンだったが、プレーオフでは本来の姿を取り戻して見違えるような活躍をし、マーベリックスのエース、ダーク・ノヴィツキーの平均27.1得点に対し、ダンカンは平均32.2得点11.7リバウンドをあげた。
しかしダンカンの身を削ったプレイをもってしてもこの激戦を制することができず、第7戦では41得点15リバウンド6アシストをあげるが、延長戦にもつれた末にマーベリックスに惜敗。
連覇の夢は叶わなかった。
プロ10年目、30歳となる2006-07シーズンを迎えたダンカンは、成績を平均20.0得点10.6リバウンドに回復させ、オールNBA1stチームにも復帰。チームは58勝24敗を記録してプレーオフも順調に勝ち進んだ。
このシーズンはレギュラーシーズンで断トツの勝率を残したダラス・マーベリックスが優勝候補だったが、マーベリックスが1回戦で敗退してしまったことで、カンファレンス準決勝でのフェニックス・サンズとスパーズのシリーズが事実上の優勝決定戦となった。
サンズとのシリーズは乱闘騒ぎも発生するなど荒れた内容となったが、サンズを得意な相手としているスパーズは4勝2敗でサンズを降すと、カンファレンス決勝ではユタ・ジャズを破り、ファイナルに進出。
クリーブランド・キャバリアーズとのシリーズでは、キャバリアーズの若きエース、レブロン・ジェームズにエースキラーのブルース・ボウエンがマッチアップするが、そのボウエンの後ろにダンカンが控えているとあっては、さしものレブロンも手も足も出なかった。
チーム間の実力に明らかな差があるシリーズとなったファイナルは、スパーズが4戦全勝でキャバリアーズを一蹴。
4度目の優勝を飾ったが、先の3回の優勝と違う点はファイナルMVPを受賞したのがダンカンではなく、トニー・パーカーであったことである。
ダンカンもシリーズ平均18.3得点11.5リバウンドと活躍したが、それ以上に平均24.5得点をあげたパーカーの活躍が目覚しかった。
スパーズに再び連覇のチャンスが訪れた2007-08シーズンは、ダンカンは平均19.3得点11.3リバウンド、スパーズは56勝26敗の成績を残した。
プレーオフ1回戦では、元レイカーズで過去に何度もスパーズとダンカンを苦しめてきたシャキール・オニールが電撃移籍してきた、打倒スパーズを目指すフェニックス・サンズと対戦。
ダブルオーバータイムにもつれる接戦となった第1戦は、1つ目のオーバータイム終盤で3点ビハインドを背負った状況からダンカンの珍しい3Pシュートが決まるという劇的な場面も見られ、ダンカンが40得点をあげたスパーズが勝利。
勢いに乗ったスパーズは4勝1敗でこのシリーズを制した。カンファレンス準決勝ではライジングチームのニューオーリンズ・ホーネッツと対戦。
若手No.1ポイントガードのクリス・ポールに手を焼いたもののこれも4勝3敗で辛うじて退け、夢の連覇にまた一歩近づいたが、ダンカンの前に立ちはだかったのがオニールの放出による一時の低迷から復活したロサンゼルス・レイカーズだった。
コービー・ブライアントにパウ・ガソル擁するレイカーズに、ホーネッツとのシリーズで疲弊していたスパーズは1勝するのがやっとで、1勝4敗でまたもやスパーズの連覇はならなかった。
2008-09シーズンはダンカンの衰えが指摘され始めたシーズンだった。
膝に慢性的な故障を抱えるダンカンは、それでも平均19.3得点10.7リバウンドと立派な成績を残し、チームもダンカンの他にマヌ・ジノビリなどの故障を抱えた状況ながら、ディビジョン1位となる54勝28敗をあげた。
しかし1999年の優勝以降に襲われた高齢化問題に再び直面するスパーズは、力を着けたレイカーズやボストン・セルティックスなどの優勝候補チームの有力な対抗馬とは見なされず、プレーオフでは1回戦でダラス・マーベリックスの前に敗退。
スパーズにとっては2000年以来となる1回戦敗退となった。
2009-10シーズンは主力の高齢化がさらに進み。
ポポヴィッチはプレーオフに向けたレギュラーシーズンの徹底的なプレータイムの管理を行った。
ダンカンもプロ入り以来最も短いプレータイムとなり、平均17.9得点とキャリア最低の平均得点となりプレーオフに突入した。
万全の体調で迎えたプレーオフ一回戦で第2シードのマーベリックスを撃破しアップセットを達成。
しかし、カンファレンスセミファイナルではサンズに0勝4敗のスィープを喫しシーズンを終了した。
2010-11シーズンはダンカン率いるスパーズはウェスタンカン・ファレンスを首位で突破。
だがプレイオフ初戦でザック・ランドルフとパウ・ガソルの弟のマーク・ガソル率いる第8シードのメンフィス・グリズリーズと対戦。
グリスリーズは徹底的にダンカンにマークしてインサイドを制圧し、4勝2敗でチーム史上初のプレイオフで勝利をあげた。
第1シードのチームが第8シードのチームに負けることは珍しくファーストラウンドが7試合制になった以降としては史上2回目の出来事だった。
その後様々な記録を残し2016年7月11日、スパーズは記者会見を開き、ダンカンの現役引退を発表。
スパーズに5度の栄冠をもたらしたダンカンは、遂に19年にわたる選手生活に終止符を打ったのであった。
代表
ダンカンは1998年のバスケットボール世界選手権のアメリカ代表に選ばれたが、この時はロックアウトの影響でNBA選手の代表入りは見送られ、大学生選手やCBAの選手と入れ替わっている。
ダンカンが初めて代表チームに参加したのは1999年のオリンピック予選を兼ねたバスケットボールアメリカ選手権であり、彼は大会平均12.7得点9.1リバウンド2.4ブロックの成績でチームを優勝に導いた。
しかし本番の2000年シドニーオリンピックは膝の故障で参加できなかった。
2003年のアメリカ選手権でも代表入りし、平均15.6得点8.0リバウンドを記録して優勝。
満を持してアテネオリンピックに出場するも、アメリカ代表は期待を裏切ってダンカンのチームメートであるマヌ・ジノビリがいるアルゼンチン代表に敗北するなど同大会で3敗を喫し、銅メダルに終わった。
アメリカ代表がオリンピックにNBA選手を送り出すようになって以来、金メダルを獲得できなかったのは初めてのことだった。
ダンカンはオリンピック終了後、代表から引退することを表明。
ダンカンは代表に5回参加し、40の国際試合に出場した。
エピソード
趣味はテレビゲームで、日本刀のコレクターである。
30歳を過ぎてからは出場時間を制限するようになり、オールスター以降は得点やリバウンドといった個人成績が一気に下がる傾向にあるが、これは無理にダンカンを出さなくても勝てるというスパーズの自信の表れであり、チーム状態を測るバロメーターになっている。
上記の通りシーズン終盤にはプレーオフに照準を合わせるためチームから休養を与えられる事も多いが、欠場理由が前代未聞の“old”(年齢による衰え)という理由で休養を命じられた時はさすがのダンカンも苦笑しながらベンチで試合を見つめていた。(休養目的の欠場でも普通はコーチの判断と申告するか適当なケガをでっち上げて無理矢理休ませる事がほとんどである)
当然ながら、NBAの長い歴史の中で公式記録として年齢を理由に欠場したのは後にも先にもダンカンただ一人である。
プレースタイル
基本に忠実で基本どおりのプレイをし華やかではないが勝利への道を最短で行くような彼のプレーはしばしば「退屈である」と指摘され、1999年の優勝時にスポーツ・イラストレイテッド誌はファイナルMVPに輝いたダンカンを「静かで退屈なMVP」と評し、またシャキール・オニールから付けられたニックネーム、”The Big Fundamental”も最初は決してダンカンを賞賛する意味ではなかった(ただし、スポ・イラもシャックもダンカンが築いた実績に対しては賞賛を惜しまない)。
このような評価に対してダンカンは「気にならない。好きなように批評すればいい」と泰然自若の態度である。
一つ一つのプレーの安定感・正確さ、自己犠牲もいとわないチームを第一に考えた献身的な態度、勝者のメンタリティを持つ精神的に浮ついたところのない逞しさなど、現役時代は最も信頼されたパワーフォワードの一人であった。
アウトサイドからのシュートも驚くべき正確性を誇る攻守ともに抜群の才能を見せる。
ダンカンがプレイする時代のNBAはパワーフォワードの層が非常に充実しており、彼がNBA入りした頃にはカール・マローンやチャールズ・バークレー、クリス・ウェバーらが、そして彼の同世代にはケビン・ガーネットやダーク・ノビツキー、ラシード・ウォーレス、ジャーメイン・オニールらが居たが、そんな猛者たちを抑えてルーキーイヤーから8年連続オールNBA1stチームに選出され続けたことは、彼が同時代における最高のパワーフォワードであったことを意味している。
また優勝5回、シーズンMVP2回、ファイナルMVP3回と、過去これに匹敵するほどの実績を残したパワーフォワードはおらず、カール・マローンを指導したユタ・ジャズのジェリー・スローンHCをしてダンカンを「史上最高のパワーフォワード」と言わしめたほどである。
また11回の優勝を誇るビル・ラッセルはダンカンを「同世代において最も有能な選手」と評し、カリーム・アブドゥル=ジャバーも彼の意見を支持した。
身体能力が高いほうではないが、抜群のバスケットIQと無駄を一切排したプレースタイルで、ダンカンはリーグトップクラスのスコアラーであり、リバウンダーであり、ショットブロッカーであり、ディフェンダーであり、そしてクラッチプレーヤーであった。
重要な時間帯ほど多用されるダンカンの1on1は、ミドルポストでディフェンダーと正対した状態から開始され、その場からのジャンプシュートやドライブからのフックシュートなどが展開され、それは至極単純なプレーであるが彼を止めることは困難だった。
バックボードの使い方が非常に優れており、バンクショットを得意としていることでも知られ、またパスセンスも高く、ディフェンダーに囲まれた際もフリーの味方にパスアウトできる判断力と柔軟性を持ち合わせていた。
通算ダブル・ダブル達成回数歴代1位という成績が示すように、抜群の安定感を持っていることもダンカンの大きな長所である。
スパーズのチームカラーである強力なディフェンスも、ダンカンの存在が根底にあり、ブルース・ボウエンが現役時にはペリメーターにボウエン、インサイドにダンカンと鉄壁の守備が構築され、多くのスコアラーが袋小路に迷い込んでは彼らの餌食となった。
さらにプレーオフに入ると個人成績が軒並み上昇することからも分るように、より重要な試合で真価を発揮できる選手である。
2001-2002シーズンでは得点、リバウンド、ブロックショットなどの5つの部門でリーグトップ10入りを果たした。
彼の唯一の弱点はフリースローと言われているが、キャリア通算で成功率は70%に届いていないが致命的に低いという程度ではない。
ただし、シーズンによって59%~79%とバラつきがあると言える。