概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1913年9月29日 | ||
出身地 | ロッビオ | ||
没年月日 | 1996年10月4日(83歳没) | ||
身長 | 180cm(184cmとも) | ||
体重 | 78kg(84kgとも) |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
イタリア史上最高のセンターフォワードとの呼び声も高い名プレイヤー。
個人タイトル
- セリエA得点王:2回(1936-37、1942-43 ともに21得点)
チームタイトル | 38FIFAワールドカップ |
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1929-1934 | ![]() |
127 | (51) |
1934-1943 | ![]() |
227 | (143) |
1943-1944 | ![]() |
23 | (27) |
1945-1947 | ![]() |
57 | (26) |
1947-1954 | ![]() |
185 | (86) |
代表歴 | |||
1935-1952 | ![]() |
34 | (30) |
ロンバルディア州で生まれます。
幼少時に父親が他界する不幸に見舞われ、ヴェルチェリへ移住します。
地元プロ・ヴェルチェリへ入団すると、イタリアで全国単一リーグとなった1930年2月16日ボローニャ戦にて弱冠17歳でデビューします。
フィオレンティーナ戦では、セリエAの一試合最多得点記録となる6得点を挙げるなど実力を発揮、毎シーズン2ケタ得点を計算できる活躍を見せてラツィオに引き抜かれます。
ここでもエースの座を確立させ、36/37、42/42シーズンと2度の得点王を獲得します。
前者ではチームをボローニャに3ポイント差にせまるリーグ2位に導きました。
インテルのエースであるメアッツァが自身の獲得を切望しましたが、第二次大戦での兵役により入団はなりませんでした。
ラツィオでは歴代最多となる143得点を記録しました。
その後、ユベントス、トリノ、ノヴァーラと渡り歩き、単一リーグ以降の274得点、以前を含めると290得点という事実上の最多記録を残し、43歳までの長い現役生活を終えました。
代表では1938年のフランスW杯では5ゴールを挙げ、チームを優勝に導いた。
また1試合で6得点を挙げ、現在もセリエAの1試合最多得点記録として破られていない。
セリエA通算274得点は歴代トップ(全国統一リーグになる前も含めると290得点)、イタリア代表通算30得点は歴代3位。
キャリア通算364得点もイタリア人1位である。
エピソード
1938年W杯では準々決勝フランス戦、決勝ハンガリー戦でそれぞれ2得点を挙げるなど通算5得点で、史上初の連覇達成の原動力となりました。
戦争などの影響により試合数は34ですが、30得点を記録。
キャリアに障害がなければ、さらにこの記録が伸びたことは想像に難くないといえます。
代表最後である1952年のイングランド戦、1-1のドローで終わったこの試合で得点を手を使って奪いました。
当時は否定したものの、しばらく経った後にハンドを認めています。
1976年に完成したノヴァーラのホームスタジアムの名は、自身の氏名にちなんでいます。
プレースタイル
生粋の点取り屋で並外れたシュート決定力と長身で頑強なフィジカルで空中戦に強さを発揮するのはもちろん、スピードや無尽蔵のスタミナなどFWに必要な要素が備わっています。
代表で2トップを組むエレガントなプレーをするメアッツァとは対照的であり、この相互関係は他国の脅威となりました。