概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | カンザス州フンボルト |
生年月日 | 1887年11月6日 |
没年月日 | 1946年12月10日(59歳没) |
身長 体重 |
6′ 1″ =約185.4 cm 200 lb =約90.7 kg |
ポジションは投手(ピッチャー)。
右投右打。
ニックネームはThe Big Train(人間機関車)。
通算417勝を挙げたMLBを代表する剛速球投手。
今までのメジャー・リーグの新記録である4日間での3完封という記録を達成したことを・・・。
投手が完投などが珍しい時代の現在では完封はレアな記録です。
4日間で3完封した話は神話の世界の話です。
100年前の野球なので連投は当たり前なのかもしれませんが、タフな投手です。
21世紀の現在ジョンソン投手の世界一の記録はひとつしかないが、それは今ではアンタッチャブル・レコードとして残っている。
通算完封勝利数 110である。(ちなみに日本記録はスタルヒン投手の83回)
今後もこの記録は破られることはないだろう。
1936年、ベーブ・ルース、タイ・カッブ、クリスティー・マシューソン、ホナース・ワーグナーとともに最初の5人として、栄光の第1回目の野球殿堂入りをした。
打撃成績
- 通算成績:933試合、2324打数547安打、本塁打24、打点255、打率.235
獲得タイトル・表彰
- アメリカンリーグ最優秀選手:2回(1913年、1924年)
- 投手三冠:3回(1913年、1918年、1924年)(歴代1位タイ)
- 最多勝利:6回(1913年 – 1916年、1918年、1924年) (歴代2位タイ)
- 最優秀防御率:5回(1912年、1913年、1918年、1919年、1924年) (歴代3位タイ)
- 最多奪三振:12回(1910年、1912年 – 1919年、1921年、1923年、1924年)(歴代1位)
記録
- 通算勝利数:417 (歴代2位)
- 通算完投数:531 (歴代4位タイ)
- 通算完封数:110(歴代1位)
- 通算投球回:5914.1 (歴代3位)
- 通算防御率:2.17(歴代8位:投球回2000イニング以上)
ツインズ球団通算記録
- 防御率:2.17 (歴代1位:投球回500イニング以上)
- 勝利数:417 (歴代1位)
- 登板数:802 (歴代1位)
- 投球回:5914.1 (歴代1位)
- 奪三振:3509 (歴代1位)
- 先発数:666 (歴代1位)
- 完投数:531 (歴代1位)
- 完封数:110 (歴代1位)
- 記録は全てセネタース時代に残したもの
経歴
・ワシントン・セネタース (1907 – 1927)
野球選手を志すようになったのは、父親が石油事業を始めるためカンザス州からカリフォルニア州に移住した1901年頃のことだった。
高校在学中からその球速は注目され、高校卒業後すぐに、アイダホ州のアイダホ・ステートリーグのセミプロチームでプレイしていたところをスカウトされる。
ただジョンソン自身は、当時田舎暮らしをよしとしていて、都会に出て行くことを渋っていたというが、1907年にワシントン・セネタースとプロ選手としての契約を結ぶ。
デビュー戦のデトロイト・タイガースとの試合に勝つことはできなかったものの、対戦したタイガースのタイ・カッブは、ジョンソンが並外れた能力を持った投手であることをすぐに察知し獲得するように進言したが上の連中が聞き入れなかったという。
1年目のジョンソンの勝敗は5勝9敗だったが、防御率は1.88と良い数字を残した。
ジョンソン入団後もしばらくセネタースは下位に低迷し、ジョンソン自身の勝ち星も伸びなかった。
また、この頃のジョンソンはバント処理が苦手でそこを狙われるケースも目立った。
しかし1910年には弱点を克服し25勝17敗・防御率1.36、リーグ最多の313奪三振と更に成績を上げ、1912年には防御率と奪三振でリーグトップとなる。
ジョンソンに引っ張られる形でようやくセネタースの成績も向上し、この年チームはリーグ2位まで躍進した。
1913年から1919年のジョンソンの活躍は特に凄まじかった。
1913年に最多勝、最多奪三振、最優秀防御率の投手三冠を獲得し、同年のチャルマーズ賞(最優秀選手賞)を受賞した。
またこの年から4年連続でのリーグ最多勝利投手、奪三振数も1912年から1918年まで8年続けてリーグ最多となる。
1916年にはリーグ最多の369回を投げながら、ついに1本のホームランも浴びることがなかった。
30歳になった1918年には二度目の投手三冠に輝き、1919年にも最優秀防御率、最多奪三振の2部門でリーグトップとなった。
毎年のようにリーグの投手タイトルをとってきたが、ボールの規格が変わった1920年の成績は8勝10敗・防御率3.13と落ち込んだ。翌1921年にジョンソンを相次いで不幸が襲う。
7月に父親が脳卒中で亡くなり、同じ年のシーズンオフには長女がインフルエンザで亡くなった。
相次ぐ悲劇にジョンソンは現役引退を考えていたが、ファンの懇願もあり、それまで一度も成し得ていなかったセネタースのリーグ優勝を目標に現役続行を決意する。
悲願となったセネタースのリーグ優勝はついに1924年に成し遂げられ、既に36歳になっていたジョンソンも23勝7敗と大活躍、同年は自身3度目となる投手三冠を獲得し、二度目のリーグ最優秀選手に選ばれた。
翌1925年には37歳で20勝を達成、セネタースのリーグ2連覇に貢献した。
1927年、39歳までメジャーで投げ続け、翌年40歳で現役を引退。
晩年になっても剛速球は健在だった。21年間で通算417勝279敗、生涯防御率2.17、3508奪三振、110完封、20勝以上12度、防御率2.00以下の年が11度という驚異的な数字が残った。
最多奪三振12度は現在でもMLB最多記録である。
エピソード
きわめて紳士的な性格であり、またやや臆病な面があったといわれ、それに気づいていたタイ・カッブは、ジョンソンとの対戦のときにはあえてホームプレートぎりぎりまで身体を寄せて、ジョンソンが内角球を投げにくいように対策を施したというエピソードがある。
またジョンソンは自身の剛速球で死球を与えることを極端に嫌がっていたとも言われ、ボールを頭に当ててしまったときマウンドで真っ青になっていたと言われている。
投手としての球種はカ-ブ(米書「guide to pitchers 」 より)タイカッブは自伝で剛速球と抜群の制球とスタミナを持つがその優しく紳士的な性格が弱点であると指摘していた。
プレースタイル
野球史屈指の豪速球投手。
サイドハンドスローのフォーム。
このフォームで時速160キロ近い球を投げたそうです。
ジョンソンの球速は99マイルはあったといわれ、シンシナティ・レッズのジョージ・ハーパーが2ストライクであきらめてバッターボックスから帰ってしまったこともあった。
サム・クロフォード曰く、「音だけは聞こえた」という。
タイ・カッブは目をつぶって当たることを期待しながら振っていたとも。
30歳になった1918年には二度目の投手三冠に輝き、1919年にも最優秀防御率、最多奪三振の2部門でリーグトップとなった。
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