スタン・ミュージアル

概略

国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ペンシルベニア州ワシントン郡
生年月日 1920年11月21日
没年月日 2013年1月19日(92歳没)
身長
体重
182.9 cm
79.4 kg

 

ポジションは外野手と一塁手(ファースト)。

 

左投左打。

 

愛称は「The Man男の中の男)」。

 

現役生活の全てをセントルイス・カージナルスで送り、人格者として知られた。

 

通算打率.331、3630安打、456本塁打、1951打点と、輝かしい成績を残し、当然の事ながら殿堂入りを果たした史上最強の打者の一人。

 

タイトル

  • 首位打者 7回: 1943年、1946年、1948年、1950年 – 1952年、1957年
  • 打点王 2回: 1948年、1956年

表彰

  • シーズンMVP 3回: 1943年、1946年、1948年
  • ルー・ゲーリッグ賞:1957年
  • メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チーム選出:1999年
  • DHLホームタウン・ヒーローズ選出:2006年
  • フランチャイズ・フォー選出:2015年

記録

  • MLBオールスターゲーム選出 1943年、1944年、1946年 – 1963年(24試合出場は最多タイ
  • 通算安打数:3630(歴代4位)
  • 通算試合:3026 (歴代6位)
  • 通算打席:12718 (歴代8位)
  • 通算打数:10972 (歴代10位)
  • 通算得点:1,949 (歴代10位)
  • 通算塁打数:6,134 (歴代2位)
  • 通算二塁打:725 (歴代3位)
  • 通算打点:1951 (歴代7位)

カージナルス球団記録

  • 歴代1位 (通算試合、通算打席、通算打数、通算得点、通算安打、通算塁打数、通算二塁打、通算三塁打、通算本塁打、通算打点、通算四球、通算単打)
  • 歴代2位 (シーズン塁打数)

 

経歴

・セントルイス・カージナルス (1941 – 1944, 1946 – 1963)

 

1938年にカージナルスと契約。

 

投手としてマイナーで実績を積み重ねていくが打撃でも非凡な才能を発揮し、登板日以外は外野手としても活躍していた。

 

1940年に試合で外野守備の際にダイビングキャッチを試み、左肩をグラウンドに強打したことで投手を諦め、打撃に専念することになる。

 

1941年9月17日のブレーブス戦でメジャーデビュー。

 

ダブルヘッダーとなったデビュー戦で6安打を放ち、ブレーブスのケーシー・ステンゲル監督をして「あの小僧、5年やそこらで消えるタマじゃないぞ。10年、15年、いやもしかしたら20年近くもつかもしれん」と言わしめた。

 

ミュージアルはその後ステンゲルの予測を上回る22年間メジャーでプレイした。

 

1942年はフルシーズン1年目で打率3割を達成しオールスターにも初出場。

 

チームもワールドシリーズでヤンキースを破り、世界一に輝いた。

 

これ以降カージナルスは5年間で3度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。

 

1943年は初の首位打者、リーグ最多得点に加え、最多安打、最多二塁打、最多三塁打の塁打三冠も獲得しMVPを受賞する。

 

1945年は兵役で試合への出場はなかった。

 

1946年は3年前と同様に首位打者、最多得点、塁打三冠獲得でMVPを受賞。

 

1948年にはタイ・カッブ以来史上2人目の1シーズン4回の5打数5安打を記録。

 

特に4度目となった9月22日は両手首の故障により満足にバットが振れない中で、5スイング5安打を記録した。

 

首位打者、打点王を獲得し、本塁打は自己最多の39本で1位と1本差の2位。

 

降雨ノーゲームとなった試合での本塁打1本が記録されていればナ・リーグ史上5人目の三冠王になるところだったが、3度目のMVPを受賞した。

 

1950年から3年連続で首位打者を獲得。

 

1954年5月2日にはダブルヘッダー第一試合で3本塁打、第二試合で2本塁打、史上初の一日5本塁打を記録した。

 

1955年7月12日ミルウォーキー開催の第22回オールスターゲームのスコア5-5の延長12回裏、先頭打者として打席に向かうとき、自軍のベンチに向かって「残業手当なんかいらないだろう。これでこの試合は終わりにするからな」と宣言し、フランク・サリバンの初球を叩いて右翼席へサヨナラソロ本塁打を放つ。

 

1957年37歳で7度目の首位打者を獲得した。

 

MVPの投票では二冠王ハンク・アーロンの239ポイントに9ポイント及ばなかった。

 

1958年5月13日には史上8人目となる3,000本安打を達成。

 

シーズン終了後にカージナルスが日米野球で来日した際は、稲尾和久と杉浦忠から本塁打を放っている。

 

また、試合前に長嶋茂雄や山内一弘と写った写真も現存している。

 

1959年に初めて打率が3割を割り込み、3割以上は16年で途切れる。

 

1962年は42歳でリーグ3位の打率.330を記録した。

 

1963年8月12日に今シーズン限りでの引退を表明し、9月25日にミュージアルの背番号6はカージナルス初の永久欠番に指定され、9月29日の試合で引退。

 

引退時に29のリーグ記録、17のメジャー記録、9のオールスター記録を保持していた。

エピソード

野球界屈指の紳士と知られ、相手チームからも誰からでも尊敬され愛された選手でした。
常に笑顔を絶やさない選手でした。
そして、セントルイスが生んだ最高の野球選手でした。
その人格の良さで「The Man」と呼ばれたのです。

 

さて、ミュージアルのニックネームは「The Man」であるが彼が「The Man」たる所以をひとつ紹介したい。

 

1947年のこと、ミュージアルが所属していたカージナルスが黒人であるジャッキー・ロビンソンのメジャー入りを嫌い、ドジャースとの試合をボイコットしようと画策した。

 

それに対しミュージアルは真っ向からこれに反対し、多くのチームメイトを相手に口論したという。

 

又、白人と黒人がホテルの部屋を共にするなどありえない風潮だった当時、ハンク・アーロンが初めて白人と同室した相手がミュージアルであった。

 

アーロンとミュージアルは親しく打撃について意見を交わしたという。

 

また、カージナルスは、46年を最後にワールドシリーズ制覇はおろか、リーグ優勝もままならなくなっていたが、ミュージアル引退後、自分の指定席だった左翼の後釜にルー・ブロックが入った64年、
ヤンキースを倒して世界一の栄冠を手にした

 

この時、ミュージアルはチームが強くなった要因を聞かれると、『良い左翼手が入ったからだろ。』と笑ってみせた。

 

スタン・ミュージアルはプロ入り当初は投手であった。

 

1940年にはマイナーで18勝をあげるなど、着実に投手として成長していたミュージアルだったが、打撃が優れていたために外野を守る事もあった。

 

そしてその事がミュージアルの人生を大きく変えた。

 

ある試合で、守備の際左肩を傷めてしまったミュージアルに当時のマイナーの監督が打者転向を薦めた。

 

もともと打撃センスのあったミュージアルは打者としてメキメキと頭角を現し、成功。

 

その後、件の監督に、ミュージアルは家を一件プレゼントし、その恩に報いている。

 

さて、打者として再スタートを切ったミュージアルは、42年に21歳の若さで外野のレギュラーの座をつかみ、打率.315、10本塁打、72打点の成績を残し、チームのリーグ優勝、及び世界一に貢献。

 

早くも、大打者としての片鱗を見せつける。

 

1943年には打率.357で首位打者のタイトルを獲得、同時にシーズンMVPも初受賞、44年は打率.347、46年は.365で2度目の首位打者と、同じく2度目のMVPを獲得。

 

両年ともカージナルスはワールドシリーズを制覇、ミュージアルは好調のチームを牽引して余りある活躍ぶり見せた。

 

48年も.376で首位打者・打点王とMVPを獲得するがこの年は長打力も発揮し、初の30本以上となる39本塁打をマーク、131打点で打点王にも輝き、ミュージアルにとってキャリア最高の年となった。

 

脂の乗ったミュージアルは手のつけられない打撃の王に君臨、48年から、57年まで10年間で実に9度の100打点以上をたたき出し、42年から58年まで打率.310を下回る事は無かった。

 

ミュージアルの活躍で負けても、相手チームの選手は、悔しがる事はしなかった…とまで言われている。

プレースタイル

上体をかがめた独特のクラウティング・スタイル。

 

チャンスに極めて強い強打者。

 

そしてリーディング・ヒッター7回という偉大な記録を持つ。

 

独特のクラウチング・フォームでライナー性のヒットを連発しました。
シーズン40本塁打を記録したことがない、中距離打者だった。
通算1万0972打数で三振はわずか696というバットコントロールの達人であった。
相手投手の配球(球種・コース)の解析に重点を置くバッティングスタイルであったとされる。
守備は得意ではなく、走塁も記録はイマイチ。
しかし、それを補うほどの打撃と人格の良さがありました。
タイトルとURLをコピーしました