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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

タイ・カッブ

野球

概略

Ty Cobb Rare Footage
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ジョージア州ナローズ
生年月日 1886年12月18日
没年月日 1961年7月17日(74歳没)
身長
体重
6′ 1″ =約185.4 cm
175 lb =約79.4 kg

 

ポジションは外野手(主に中堅手(センター))

 

右投左打。

 

1920年以前のデッドボール時代を代表する選手の1人。

 

ジョージア州の出身であったことから「ジョージア・ピーチ(The Georgia Peach)」のニックネームで呼ばれた

 

1909年にはMLB史上唯一の打撃全タイトル制覇を達成。

 

ピート・ローズに破られるまでメジャーリーグ歴代1位の4191本の安打を打ち、通算打率.366で首位打者を12回獲得するなど数々のMLB記録を保持している。

 

選手の権利というものを最初に訴えた選手である一方、悪評も有名な人物であり、「最高の技術と最低の人格」「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」とも評された。

 

タイトル

  • 首位打者:12回(1907年、1908年、1909年、1910年、1911年、1912年、1913年、1914年、1915年、1917年、1918年、1919年)
  • 本塁打王:1回(1909年)全てランニング本塁打
  • 打点王:4回(1907年、1908年、1909年、1911年)
  • 盗塁王:6回(1907年、1909年、1911年、1915年、1916年、1917年)

表彰

  • シーズンMVP:1回(1911年)
  • DHLホームタウン・ヒーローズ選出 2006年
  • 三冠王:1回(1909年)(史上5人目)

記録

  • 9年連続首位打者(1907年〜1915年)
  • デビューから24年連続本塁打(1905〜1928)
  • 12年連続30盗塁(1907〜1918)
  • 5年連続50盗塁(1909〜1913)
  • デビューから24年連続盗塁(1905〜1928)
  • シーズン打率4割以上:3回(1911年(.420)、1912年(.409)、1922年(.401))
  • 11年連続打率3割6分以上(1909〜1919)
  • シーズン打率3割以上:23回(1906〜1928)
  • 23年連続打率3割以上(1906〜1928)
  • 40試合連続安打(1911年)、35試合連続安打(1917年)
  • 最多安打:8回
  • 200安打:9回
  • 最高出塁率:7回
  • 19年連続出塁率4割以上(1909〜1927)
  • 最多得点:5回
  • 最多二塁打:3回
  • 最多三塁打:4回
  • 最多塁打:6回
  • 最高長打率:8回
  • 最高OPS:10回
  • 二塁打20-三塁打20-盗塁20:4回
  • 二塁打10-三塁打10-本塁打10-盗塁10:2回
  • サイクル・スチール:4回
  • ランニング本塁打:46回(アメリカンリーグ記録)
  • 打撃全タイトル制覇(1909年)(史上唯一)
  • 打撃六冠王(1909年)(MLB史上唯一
  • ホームスチール:55回(世界記録)
  • 通算打率:.366(世界記録)

タイガース球団記録

  • 通算記録(打率1位、出塁率1位、OPS3位、試合数2位、打席1位、打数1位、得点1位、安打1位、塁打数1位、二塁打1位、三塁打1位、打点1位、盗塁1位、単打1位)
  • シーズン記録(打率1位2位、出塁率2位、得点1位2位、安打1位、三塁打3位、盗塁1位2位、単打1位3位)

 

経歴

Rare Ty Cobb video- hitting, running, stealing, and swing
  • デトロイト・タイガース (1905 – 1926)
  • フィラデルフィア・アスレチックス (1927 – 1928)

 

1904年、 独立リーグのアニストン球団に在籍していた時、地元のアトランタ・ジャーナル紙の運動部長グラントランド・ライスのもとに「タイ・カッブという選手が大活躍した」「間違いなく大物だ」「未来の大選手だ」という内容の手紙が連日送られてくるようになり、ライス運動部長はその投書をもとに記事を書いた。

 

それによって無名だったカッブは評判になり、入団テストで一度落ちていたマイナーリーグの地元球団オーガスタ・ツーリスツから注目され、同球団はトレード・マネーを払ってカッブを獲得した。

 

実はこの大量の投書をしていたのはカッブ本人であった。

 

1905年、18歳でオーガスタ・ツーリスツでも打ちまくり、マイナーリーグトップとなる打率.326を残し、頭角を現す。

 

そしてデトロイト・タイガースのスカウトの目にとまり、8月19日にタイガースと契約してメジャーリーグ入りが決まった。

 

しかしこの直前1905年8月5日、カッブがまだ寮生活をしていた最中に、父ウイリアムが母アマンダにライフルで撃たれて死亡する事件が起こる

 

デトロイト・タイガースに移籍して、父親の葬儀を終えた10日後にメジャーリーグに昇格したカッブは、8月30日にニューヨーク・ヤンキース前身のハイランダーズ戦でメジャーデビューを果たした。

 

しかしそこで恒例であった新人歓迎でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こした。

 

同年の成績は41試合出場で打率.240で終わっている。

 

1906年は体調不良などで98試合に出場しただけだったが、後半戦からレギュラーに定着し、打率.316という好成績を残した。

 

1907年、打率.350・119打点・49盗塁の成績で当時史上最年少で首位打者になる(同年以降、24年間の現役生活で打率.323を下回る事はなかった)。

 

更に最多安打、打点王、盗塁王にもなり、本塁打もリーグ2位を記録し、3年目にしてブレークした。

 

サム・クロフォードと共に打線を引っ張る存在となり、カッブの登場により、それまで優勝とは縁のない目立たないチームだったタイガースは大きく飛躍した。

 

同年にチームは初のリーグ優勝を果たす。

 

1908年にもカッブは首位打者、最多安打、打点王の三冠を獲得し、チームは2年連続でリーグを制した。

 

1909年には打率.377・9本塁打・107打点・76盗塁を記録し、3年連続の最多安打、打点王、首位打者に加え、本塁打王、盗塁王を獲得。

 

現在に至るまで唯一の打撃全タイトル制覇(当時はタイトルでなかったものを含む)を達成。

 

さらに得点数、塁打数、出塁率、長打率、OPSを含め合計10部門でリーグトップであり、得点以外はMLB全体でもトップとなっている。

 

一方でこの頃にはカッブの勝利への執念は常軌を逸したものとなり、相手球団の反応を研究するために無謀で大胆なプレーをしばしば試すようになった。

 

様々な形のプレーを試していたが、特に首位を争っていたフィラデルフィア・アスレチックスとの対戦で、半ば反則紛いのラフプレーを行ったとされることが有名になる。

 

他球団からのカッブの評判は最悪なものだったが、こうしたカッブの執念が実を結び、チームはリーグ3連覇を果たした。

 

また同年のカッブの本塁打は全てランニング本塁打で、これは三冠王唯一の記録であり、さらに史上最年少での三冠王達成となった。

 

7月15日には一日に2本のランニング本塁打を放っている。

 

1910年、最終日を残して首位打者を確信していたカッブは、眼の病気などもあり.385の打率を維持するために残り試合を欠場した。

 

しかし打率.376だったナップ・ラジョイがセントルイス・ブラウンズとのダブルヘッダーに8安打し打率.384とカッブを猛追した。

 

ところがそのうちの7本は三塁へのバント安打で、これは相手チームのジャック・オコナー監督がカッブを強く嫌っていたのと、当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために、三塁手へ後ろに下がってプレーするよう命じた結果のものだった。

 

この露骨な八百長行為から、シーズン後にオコナーは監督を解雇され、コーチと共に永久追放されている。

 

1981年、スポーティング・ニューズ社によりこの年の集計に誤りが指摘され、509打数196安打ではなく、506打数194安打であるとし、カッブの打率は.383に下方修正された。

 

しかし、コミッショナー特別委員会は八百長の影響などもあってか首位打者の変更を認めず、MLB公式記録でも509打数196安打のままである。

 

1911年、146試合の出場で当時のMLB新記録となる248安打し、自己最高の打率.420を達成。

 

4回目の打点王も獲得し、この年は投票数満票でのMVP選出となった。

 

また、近代野球以降でのMLB新記録となる40試合連続安打を記録。

 

自己最多の127打点を残し、本塁打もリーグ2位だった。

 

1912年5月15日、ニューヨーク・ヒルトップパークでのハイランダース(現在のニューヨーク・ヤンキース)戦でカッブは観客(事故で片腕を失い、もう片方の手も不自由な人)の野次に逆上してスタンドに殴りこみ、出場停止処分となった。殴られた観客によると、「その男を蹴るんじゃない!両手がないんだぞ!」と止められても「両足が無くたって知るもんか!」と怒鳴り返したという。

 

5月18日、この処分を不服としたチームメートはフィラデルフィアでの試合をボイコット。

 

チームは臨時で大学生らのアマチュア選手を集め、コーチ2人と合わせて試合を行うも24対2で大敗した。

 

結局カッブ自身がチームメートを説得して事態は収拾し、カッブは50ドルの罰金と10日間の出場停止の処分となった。

 

シーズンでは1911年に続いて近代野球では史上初、19世紀を含めてもジェシー・バーケット以来となる2年連続打率4割(.409)を達成した。

 

1914年シーズンは肋骨を骨折し、その後右親指も骨折。怪我に苦しみながらも.368で首位打者に輝いている(公式ではカッブが首位打者であるが、出場不足で首位打者ではないとする指摘もある)。

 

1915年、9年連続の首位打者に輝き、近代野球以降、当時新記録となる96盗塁を記録。

 

同年9月16日のボストン・レッドソックス戦では相手投手のカール・メイズと汚い言葉の応酬で衝突した。

 

この試合の8回にメイズがカッブのインコースに投げた後、カッブはメイズの方向へ向けてバットを投げ、「雌犬の駄目息子」と罵った。

 

これに対してメイズは「黄色い犬(くだらない人間、臆病者の意)」と言い返した。

 

試合再開後、メイズの投球はカッブの手首に直接当たった。

 

メイズは後に相手打者のレイ・チャップマンを死亡させる頭部死球事故を引き起こしたが、カッブとの一件はメイズが「ビーンボールを投げるヘッドハンターである」との評判を確固たるものとした出来事であった。

 

1916年には.371の高打率を記録するも、トリス・スピーカーの.386には届かなかった。

 

1917年から1919年まで3年連続首位打者を獲得し、通算12度に及んだ。

 

1917年には35試合連続安打も記録している。

 

1918年には初登板を果たし、合計2試合に登板。

 

防御率は4.50だった。

 

また、同年10月に徴兵されてフランスのショーモンに拠点を置くアメリカ合衆国陸軍化学作戦部隊に所属して約67日間務めた後に名誉除隊で帰国した。

 

1920年、外野守備時に打球を追い、チームメイトと激突してしまい右膝靱帯を断裂する大怪我を負った。

 

様々な治療法を用いながら無理に復帰するも、更に右膝を痛めてしまい、現役続行は不可能と思われた。

 

しかし奇跡的に怪我を治し、打率.334を残した。

 

1921年、選手兼任でタイガースの監督に就任した。同年のワシントン・セネタースとの一戦では審判の判定に激高し、試合後に観客と息子のジュニアが見守る中で審判のビリー・エバンスと取っ組み合いの大喧嘩を起こした。

 

シーズンでは.389の高打率を残しながらも首位打者は獲得できなかったが、自身初の二桁本塁打を残している。

 

また、同年はハリー・ハイルマンとカッブが打率1位と2位を独占し、リーグ史上最高となるチーム打率.316を記録した。

 

しかしこの頃からベーブ・ルースを擁するヤンキースが圧倒的な強さを見せ始め、タイガースもカッブやハイルマンがチームを牽引するものの、優勝には手が届かないシーズンが続いた。

 

1922年には.401の高打率を残すが、首位打者は.420を記録したジョージ・シスラーに譲った。

 

しかし3回目の打率4割は近代野球以降で史上初の記録となり、19世紀を含めてもエド・デラハンティ以来の記録となった。

 

1925年には目を悪くしたことで手術を行ったが、現役にこだわり、.378の高打率を残す。

 

首位打者獲得はならなかったものの、自身2度目の2桁本塁打を記録した。

 

同年にはシスラーと野手同士の登板を演じ、無失点に抑え初セーブを上げている。

 

1926年、39歳となったカッブは打率.339を記録するもシーズン終了後、八百長疑惑(後述)などもあってタイガースを退団し、フィラデルフィア・アスレチックスに移籍。

 

3902安打、2087得点、664二塁打、286三塁打といった記録は、現在でもタイガースの球団記録として残っている。

 

監督としての成績は6年で試合数933、勝利479、敗戦444で勝率.519であり、最高順位は2位。

 

この間にチャーリー・ゲーリンジャーやハリー・ハイルマンといった選手を育成している。

 

1927年2月、自身が尊敬していたコニー・マックの熱心な説得により、アスレチックスへの移籍を決意し、翌日に発表した。

 

1927年は打率.357の好成績を残し、史上初の通算4000本安打を達成した。

1928年も.323の打率を記録するが、年々落ち始めた打率と、目の病気のため、「ヒットを打てるうちに引退したい」と41歳で現役引退を決断した。

 

デビューから途切れることのなかった本塁打と盗塁は、24年連続となり、通算4189安打は後にピート・ローズによって更新されるまで、最多通算安打となった。

 

また、引退時には通算安打をはじめとする90ものMLB記録を保持していた。

 

現在も通算打率.366、通算本盗55(54個説もある)など、30を超える記録が健在である。

エピソード

TY COBB – American Legend

粗暴な態度と歯に衣着せぬ口の悪さで有名であり、そのため周囲からは忌み嫌われ、疎まれる存在だった。

 

カッブと長い間チームメートだったデイビー・ジョーンズも、「彼(カッブ)がスランプに陥ったときは、話しかける事なんかできなかった。(ただでさえひどい態度が)悪魔よりもひどくなっていたから」と語っている。

 

曲がった事を嫌い、すぐに頭に血が上りやすい性格であったため、グラウンド内やプライベートでもトラブルを生むことが多く、タイガース時代はタイガースのファンからも野次を受けていた。

 

1909年のシーズン終盤、1.5ゲーム差で首位を争うフィラデルフィア・アスレチックスとの試合で、三塁へ盗塁を試みて故意にスパイクで三塁手フランク・ベイカーの腕を刺したり、試合後半に安打を打つと迷わず二塁を目指してスライディングで二塁手エディ・コリンズに足払いをかけて転倒させたりするなど、強い闘争心と勝つためには手段を選ばない姿勢を持っていた。

 

このことからいくつかのエピソードを残しており、有名なものに「ダッグアウトで相手にわざと見えるようにしてスパイクの歯を研いでいた」というものがある。

 

これは「進塁先の守備を萎縮させるためにスパイクを研いで見せ、ラフプレーを印象付ける」というものであり、足の速くなかったカッブが盗塁を稼げたのはこの行為によるもの、と悪評が全米に知れ渡り「最高の技術と最悪の人格の持ち主」と形容されるようになってしまう。

 

一方、カッブはこれについて「記者が意図的に悪評をでっちあげたもの」と自伝で完全否定している。

 

悪評に加え、絶好調のときのカッブは良く打つため、相手から報復とも言える行動をされることも少なくなかった。

 

相手投手の中には危険球といえるようなボールしか投げてこない投手も多かったという。

 

明らかなボール球をストライクと判定する審判については、選球眼に絶対の自信があったカッブはすぐさま文句を言い、審判との乱闘になることも多かった。

 

カッブへ行われた乱暴行為は打席のみに留まらず、外野への安打で、二塁をまわった際に腰に体当たりをされて三塁打を二塁打に止められ、相手選手と乱闘になったなどの逸話もある。

 

プレイスタイル、顔つき、体型、言動などベーブ・ルースと対極を成す人物として挙げられることが多い。

 

特にルースは毎日のように好物のビールとステーキを平らげ豪遊していたのに対し、カッブは徹底した体調管理を行いお金の使い方に関してもケチであったなど、生活の面でも正反対であったという。

 

ルースが「ヒーロー」と敬われているのとは対照的に、カッブは映画や書籍などの様々なメディアで「ヒール(悪役)」として描かれている。

 

カッブは人種差別主義者として広く知られている。

 

しかし実際は黒人少年を付き人として雇ったり、ニグロリーグのデトロイト・スターズの試合に頻繁に観戦に行き、多くの黒人選手と親交があった。

 

また、ウィリー・メイズを「私が唯一お金を払って見たい選手」と形容したり、ロイ・キャンパネラを「偉大な選手」と評価したりするなど、黒人選手を賞賛するコメントを数多く残している。

 

カッブの人種差別主義的逸話の多くは、死後に書かれた自伝のゴーストライター、アル・スタンプの捏造した挿話がほとんどで、カッブの生前の記事や発言に彼が人種差別主義者だったという証拠は見つかっていない。

 

試合後にホテルのバーに足しげく通い、経済や株式の情報を集め、投資することを楽しみとしていた。

 

カッブが買ったユナイテッド・モータースという小さな会社は、1年後にゼネラル・モータースと合併し、キャデラックのヒットにより一株180ドルに高騰。

 

世界最大の自動車会社へと成長した。さらにカッブは他に先んじてコカ・コーラの大株主のひとりにもなり、莫大な富を得て億万長者となっている。

 

億万長者になった一方、メイドの給料や保険代や牛乳の代金を安く値切ろうとしたり、死の直前に入院した肝臓癌の治療費の支払いまで拒否したりするなど、吝嗇家は変わらなかった。

 

また、電気代がもったいないと発電機を自主製作するものの、電圧が安定しなかったためにトースターが燃えてしまい、あやうく怪我人を出してしまうところだったという。

 

カッブはフリーメイソンの会員で、父親もフリーメイソンの会員であった。そのためトラブルがあった際、警官が来ることが出来ないときはフリーメイソンの会員が何人かカッブを守りに来てくれたりもしていたという。

 

大統領だったころのウォレン・ハーディングやウィリアム・タフトとはポーカー仲間であり、よく勝負をしていた。

 

また、陸軍元帥のダグラス・マッカーサーはカッブの自伝に序文を書いており、カッブと交流があった。

 

トーマス・エジソンとも交流があった。

 

1927年、アスレチックスはエジソンの研究所に招かれた。

 

エジソンはカッブが野球を精密科学のように研究していることについて知りたいといい、それを聞いた宣伝係の一人が「カッブがボールを投げ、エジソンが打席で構えるところを写真にとりたい」と言った。

 

エジソンはそれを快諾し、日を改めて球場に集まった。

 

プレースタイル

Ty Cobb JUST Game Footage

握りの部分(グリップエンド)が根元に近づくにつれて円錐状に太くなっているバットを発案し、愛用していた。

 

日本では、そのようなバットを「タイ・カッブ(タイカップ)型バット」と呼ぶことがある。

 

また、1907年からはネクストバッターズサークルで黒いバットを使い始めた。

 

実際に試合で使ったのはシーズンの最初だけだったが、カッブはそのバットを「魔法のバット」と呼んでおり、同年の結婚式でも持ち出している。

 

右手と左手を離してバットを握り、そのまま構えるという独特のフォームをとり、体調に合わせてバットの重さを変えていた。

 

両手をあけてバットを握るため、「ボールに十分『力』が乗らないのでは」との声もあったが、カッブは「単に『力』のみが強い打球を生み出すものではない」と言い、そのグリップで剛速球をたたいて、外野にまで飛ばし奥深く守っていた右翼手のグローブをはじきとばした上にその選手の指を折ってしまったこともあったという。

 

基本的にシングルヒット狙いで、安打では特にバント安打を好んだ。

 

柵越えを狙わないため、通算本塁打の半分近くがランニング本塁打であり、本塁打王を獲得したときも全てがランニング本塁打である。

 

1920年代に入ると、ベーブ・ルースの出現で時代は本塁打偏重に傾き、「ルースはスラッガーだが、カッブは単打しか打てない」と揶揄され、ルースの豪打ばかりが持て囃されるようになった。

 

それに対しカッブは、38歳になった1925年5月のブラウンズ戦前で、囲んだマスコミ陣に対し、「明日、明後日の試合で見せたいものがある。よく見ておきなさい」と宣言した。

 

カッブは翌日のブラウンズ戦で文句なしの柵越えの本塁打を3本に二塁打を含む6打数6安打を記録し、翌々日の同カードの試合でも本塁打を2本、フェンス直撃の二塁打を2本放った。

 

そしてルースには「ホームラン狙いをやめれば、打率4割も打てるのにな」と進言したという。

 

また、その話を聞いた警官が、自動車のスピード違反でカッブを捕まえた際、「今日の試合でホームランを2本打てば違反はなかった事にしよう」と言ったところ、カッブは本当に本塁打を2本打ち、約束どおりに違反は取り消しになったという逸話もある。

 

投手が3球投げる間に、一塁から二盗、三盗、本盗に成功するなど、エキサイティングな選手としても評価されていた。

 

「ベーブ・ルースが本塁打を打つよりも、カッブが四球で出塁した時の方が興奮した。なぜなら本塁打は柵越えすればそこで終了だが、カッブは出塁した時からが興奮の始まりだからだ」と評されたこともある。

 

走塁においては、二塁に滑り込む際にタッチを避けるためになるべくベースから遠ざかって爪先をひっかけることでセーフ判定を狙う「フック・スライディング」を考案・実践した。

 

走塁時には野手の目の動きに注目し、ボールを見なくとも走りながら野手の視線を見ることで、ボールのコースや位置を確認していた。

 

それによって滑り込む際の角度やタイミングを変えていたという。

 

ベースランニングの際にはベースの内側を踏み小さく回る走塁、三塁に走り込む際には送球線上に身体を持っていき背中で返球を妨害するなど、近代野球の基礎となる戦術を実践していた。

 

さらに二塁へ進む際、ダブルプレーをとられないよう相手内野手に足を向けて滑り込んでゆく「ゲッツー崩し」を積極的にしかけたのもカッブが初めてである。

 

また、鉛をつめて普通の3倍も重くした靴を履いて走塁の訓練をしていたという。

 

球場にあるカッブの銅像は滑り込んでいる姿やスライディングの姿が非常に多い。

 

相手投手の投球フォームやクセの観察によって弱点を見つけたり、攻撃時や守備時に外野へ吹く風を計算に入れたりするという戦術を最初に取り入れた。

 

足に関してはそれほど速くはなかったと自身も語っており、クセを見つける戦術によって盗塁数を稼いでいた。

 

1イニングで二盗、三盗、本盗を決めるサイクル・スチールを通算4度、1年に2度達成している。

 

また、安打を放った際、走りながら外野手が利き腕でボールを取っているかを確認し、ボールから眼を離した隙に進塁することでジャッグルを誘うなど、高度な走塁技術を確立していた。

 

守備では主に中堅手(センター)を務めた。

 

外野手としての392補殺はメジャー歴代2位である。

 

外野の三つのポジション以外にもファースト、セカンド、サード、さらには投手として3試合に登板している。

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