概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | アラバマ州モービル |
生年月日 | 1934年2月5日(86歳) |
身長 体重 |
6′ 0″ =約182.9 cm 180 lb =約81.6 kg |
ポジションは外野手または一塁手。
右投右打。
愛称は「ハマー(Hammer)」。
通算本塁打755本は、ベーブ・ルースを超え、2007年にバリー・ボンズに抜かれるまで33年間MLB歴代1位だった。
ベジタリアンとしても有名である。
タイトル
- 首位打者:2回(1956年、1959年)
- 本塁打王:4回(1957年、1963年、1966年、1967年)
- 打点王:4回(1957年、1960年、1963年、1966年)
表彰
- シーズンMVP:1回(1957年)
- ゴールドグラブ賞:3回(1958年、1959年、1960年)
- DHLホームタウン・ヒーローズ選出(2006年)
記録
- 通算3771安打(歴代3位)
- 通算755本塁打(歴代2位)
- 通算6856塁打(歴代1位)
- 通算2297打点(歴代1位)
経歴
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エド・スコットの仲介でニグロリーグのインディアナポリス・クラウンズに入団して、最初は遊撃手として力をつけ、ルーキー・イヤーの1952年に早速ボストン・ブレーブス(現・アトランタ・ブレーブス)のスカウトの目にとまり、契約を結ぶ。
1年目は傘下のオークレア・ベアーズで活躍し、ノーザンリーグ新人王を獲得。
この時期に少年時代からのスタイルであったバットのクロスハンド(右打者の場合、構えたとき左手が右手より上になるバットのグリップ)を改善する。
1954年にニューヨーク・ジャイアンツから移籍し左翼手のレギュラーと目されていたボビー・トムソン(1951年のナショナルリーグ優勝決定プレイオフ最終戦でサヨナラ3ランを放った選手)が、春季キャンプの練習試合で2塁へのスライディングの際に足首を骨折するアクシデントが発生。
翌日の試合で左翼手で先発出場したアーロンは、本塁打を放ち、これをきっかけにメジャー契約を勝ち取った。
当時は通算363勝の大エースウォーレン・スパーンや通算512本塁打の主砲エディ・マシューズを擁したチームだった。
1957年にはフレッド・ヘイニー監督に率いられ、ボストンマラソントレーニングのような地獄のキャンプを経て、「ミルウォーキーの奇跡」と呼ばれるナショナルリーグ優勝、ワールドシリーズ制覇を果たす。
9月23日ミルウォーキーでのカージナルス戦、スコア2対2で迎えた延長11回裏、一死でジョニー・ローガンを一塁に置き、午後11時34分にアーロンはビリー・マフェットのカーブボールを叩くと、打球は中堅手ウォーリー・ムーンの頭上を越え、カウンティ・スタジアムのセンター後方にある「ペリニの森」に飛んでいくサヨナラ2ラン本塁打となり、チームは8連勝してリーグ優勝を決めた。
9月24日にはシーズン44号満塁弾(通算110号)を放ち、本塁打と打点の二冠王となり、シーズンMVPを獲得。
同年のワールドシリーズはケーシー・ステンゲル監督率いる、ミッキー・マントルらを擁する強豪ニューヨーク・ヤンキースと対決。
ニューヨークで対戦を開始し、ニューヨークでの第7戦までもつれこむ激戦となり、アーロンは3本塁打、7打点、11安打、22塁打、打率.393の活躍を見せ、チームはヤンキースを4勝3敗で破ってワールドチャンピオンとなり、ニューヨークでは「ド田舎が勝った」と評された。
これがアーロンの唯一体験したワールドチャンピオンとなった(シリーズMVPはルー・バーデット投手)。
なお、10月6日ミルウォーキーでの第4戦の4回裏、ローガン3塁、マシューズ2塁の場面、ステンゲルは「この強風ではベーブ・ルースでも本塁打を打てないだろう」とトム・スターディバント投手にアーロンと勝負させるも、アーロンは3ラン本塁打を放ち、ステンゲルは「奴はベーブ・ルースではなかった」とコメントしている。
その後ブレーブスは1966年にアトランタに移転するが、アーロンの存在は実績に比べてさほど注目されておらず、注目されはじめたのは1970年代に入ってウィリー・メイズの本塁打数を塗り替えた頃であった。
1973年、ルースの記録に追いつくまであと1本のところでシーズンを終える。
しかしこのシーズンオフは、アーロンにとって長いものとなった。
ルースの記録を信奉する者や、白人のルースの記録を黒人のアーロンが破ろうとしていることに反感を抱く白人至上主義者による執拗な嫌がらせや、身の危険となる脅迫が相次いだのである。
アーロンは当初、この事実を隠していたが、ある時ふとした事がきっかけでこれに触れたところ、今度は全米中からアーロンを支持する激励の手紙が届いた。
「貴方への嫌がらせの手紙を処分するいい物を送りましょう」と、マッチを送ってきた白人もいた。
当時アーロンは「ベーブ・ルースを忘れてほしいとは思っていない。ただ、私を覚えてもらいたいのです」と訴えている。
1974年4月4日シンシナティでのシンシナティ・レッズとの開幕戦の初回一死でラルフ・ガーとマイク・ラムを走者に置いて、ジャック・ビリンガム投手がカウント3ボール1ストライクで投じた5球目の低めの直球をシーズン最初のスイングで叩いて714号3ラン本塁打を放ち、ルースの記録に並ぶ。
その4日後の月曜日、4月8日午後7時7分、本拠地フルトン・カウンティ・スタジアム(当時ブレーブス本拠地)での第3打席、4回二死一塁にダレル・エバンスを置いて、ロサンゼルス・ドジャースのアル・ダウニング投手のカウント1ボールでの2球目の真ん中低めのスライダーを叩いたラインドライブの打球は715号2ラン本塁打となり、ルースの記録を破り、試合成立前ではあったが試合を一時中断してセレモニーが行われた。
アーロンは「Thank God it’s over.(すべてが終わりました。神様に感謝します)」とコメントした。ホームランボールはレフトフェンスとスタンドの間にあったブレーブスのブルペンに飛び、リリーフ投手トム・ハウスが直接グラブでキャッチした。
なお、セレモニー途中から一時的な降雨があったが、試合とアーロンの記録は成立し、ブレーブスが7対4で勝利している。
1975年からミルウォーキー・ブルワーズに移籍して、2年間をそこで過ごして現役引退した。
755号本塁打は、1976年7月20日ミルウォーキーでエンジェルスのディック・ドラゴーを打ったシーズン10号であり、グラウンド・クルーのディック・アーンドがキャッチ。
本塁打数755本はメジャーリーグ歴代2位(右打者では1位)。
また通算安打数も3771本で、引退した当時はタイ・カッブに次ぐ記録であった。
エピソード
自身の名前を取った賞がある。
ハンク・アーロン賞は、メジャーリーグ・ベースボールの賞のひとつ。
ハンク・アーロンが、ベーブ・ルースの通算本塁打記録を塗り替えてから25周年を記念して1999年に創設された。
アメリカンリーグ・ナショナルリーグから、その年に最も活躍したそれぞれ一人ずつの打者が選出される。
1975年、日米野球で来日し、読売ジャイアンツの王貞治と本塁打競争を行い、10対9でアーロンが勝っている。
また王に手土産としてスパイクとグラブをプレゼントした。スパイクは王の足には大きすぎたり、グラブも右利き用(王は左利き)だったりしたが、王は喜んで受け取ったというエピソードがある。
王が後にアーロンの通算本塁打記録を塗り替えた時、米メディアの多くは日本の球場の狭さや投手レベルを引き合いに出したが、アーロン自身は王の記録達成に心から敬意を表し、紳士的に祝福した。
そしてフラミンゴのはく製を記念として王に贈っている。
以降、王とは長い親交があり、1990年にはアサヒビール飲料(現・アサヒ飲料)の缶コーヒー「JO」のCMでも共演している。
1934年2月5日に、後にメジャー記録の「755本塁打」という、とてつもない記録を打ち立てるハンク・アーロンは生を受けました。
このころはまだ人種差別が激しく、高校時代までbasaballもした事がなかったアーロンが、メジャーリーガーになる夢をもったのは、このころ黒人選手として初めてメジャーリーガーになったジャッキー・ロビンソンに憧れたためでした。
その後、草野球チームでbaseballを覚え、ニグロリーグ(黒人選手のプロ野球)での活躍が認められ、1952年にブレーブスにスカウトされ、2年後の1954年にメジャーに昇格しました。
この年、ジャイアンツからやって来た大物外野手ボビー・トムソンのケガにより、開幕からレギュラーの座をつかみました。
1年目から、打率.280厘、13本塁打、69打点の成績を残し、順風満帆にメジャーリーグでのスタートを切りました。
1956年には.328厘で首位打者に輝き、翌1957年には、44本塁打、132打点で2冠王に輝きMVPも獲得しました。
その後も数々のタイトルを獲得し、気付けばベーブ・ルースのもつ「714本塁打」の当時のメジャー記録に迫っていました。
この頃からアーロンに対して、嫌がらせや、脅迫行為が急増しました。「ベーブ・ルースの記録を黒人が破るなんて許せない」そんな風潮が多数だったのです。
しかしアーロンはホームランを打ち続け、1973年に40本塁打を放って、これで通算713本とし、ルースの記録に後1本と迫ってこのシーズンを終えると、1974年の開幕戦の第2打席であっさり、714号本塁打を放ちルースに並びました。
そして4月8日、ブレーブスの当時の本拠地、フルトン・カウンティー・スタジアムでのロサンゼルス・ドジャース戦で、アル・ダウニング投手からルースの記録を超える「715本塁打」を放ちました。
「静かなる男」と言われていたアーロンは派手なガッツポーズをするでもなく、いつも通り淡々とベースを1周しました。
その後メジャー記録を「755本塁打」まで伸ばし、1976年に静かにバットを置きました。
ルースの記録を破って30年が過ぎた2004年、このアーロンの記録が破られるのも時間の問題になってきました。
バリー・ボンズです。
2004年のシーズンを終えて「703本塁打」のボンズは順調に行きアーロンの記録を超えました。
しかしアーロンは記録が破られるのに特別な感情はないみたいです。
アーロンは、ルースの記録を破った当時の事をこう振り返りました、「ちょっと憤慨したね。おそらく私の生涯でも光り輝いていたときだったと思う。でも、早く終わってほしいと思っていた時期でもあったんだ」と。
数々の嫌がらせや、脅迫に屈せず、静かにルースの記録を塗り替えたアーロンは、ボンズが自分の記録を超えたのも、静かに見守った事でしょう。
プレースタイル
野球界の歴史上1位2位を争うほどのホームランバッターである。
本塁打数が注目されるが、1960年から1968年まで盗塁数は二桁を数え、特に1963年には30-30(打率3割も記録しているため、トリプルスリーでもある)を達成するなど、俊足と盗塁術も持ち合わせていた。
ゴールドグラブ賞を受賞するほどの守備能力もあり、アーロンは自分自身をホームランバッターでなく万能の選手ととらえ、他の人たちにもそう思ってほしいとコメントしている。
また、自身のバッティングスタイルを、自分の打撃動作の錬磨に重点を置くテッド・ウィリアムズ型ではなく、相手投手の配球(球種・コース)の解析に重点を置くスタン・ミュージアル型であると評価している。
安打製造機としても素晴らしい実績を残しており、20年連続100安打以上を記録した。
この記録はアーロンとタイ・カッブの他、ピート・ローズ、カール・ヤストレムスキー、ジョージ・ブレット、エディ・マレーといった選手達が達成している。
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