概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | オクラホマ州スパビナウ |
生年月日 | 1931年10月20日 |
没年月日 | 1995年8月13日(63歳没) |
身長 体重 |
180.3 cm 90.7 kg |
ポジションは外野手(主にセンター)。
右投両打。
ニックネームは「The Mick」、「The Commerce Comet」、「Muscles」。
1950年代から1960年代にかけてニューヨーク・ヤンキース の主砲として活躍し、スイッチヒッターとしては史上最多の通算536本塁打を記録した。
史上最高の5ツール・プレーヤーの1人であるミッキー・マントル。
ルース、ディマジオらと並ぶヤンキースのレジェンドの1人。
MLB史上最高のパワーとスピードの持ち主と言われ、172メートルも飛んだと言われるホームランや189メートル飛んだと発表されたものもあります。
さらに一塁への到達タイムもイチロー以上だったとも言われる。
史上最高のスイッチヒッターと言われるだけの実績は残し、通算536本塁打はスイッチヒッターとしては最多です。
タイトル
- 首位打者 1回:1956年
- 本塁打王 4回:1955年 、1956年 、1958年 、1960年
- 打点王 1回:1956年 (130)
表彰
- シーズンMVP 3回:1956年、1957年、1962年
- ゴールドグラブ賞 1回:1962年
- ハッチ賞 1回:1965年
- アメリカ野球殿堂入り:1974年
記録
- 三冠王 1回:1956年(.353)、(52)、(130)(スイッチヒッター初)
- オールスター出場 16回:1952年 – 1965年、1967年、1968年
経歴
・ニューヨーク・ヤンキース(1951 – 1968)
ヤンキースは中心打者のジョー・ディマジオが兵役から帰還後の成績が振るわず全盛期の力を取り戻せないことで、その後継者として強力なスラッガーでありスタープレーヤーになりうる人材を探していた。
GMのジョージ・ワイスは、ブルックリン・ドジャースのスカウトでジャッキー・ロビンソンの入団に功績のあったトム・グリーンウェイドを迎え入れ、全米のスカウト網を駆使してポスト・ディマジオを探し求めた。
グリーンウェイドは1949年春にオクラホマ州コマースのセミプロチームでプレーしていたマントルの情報を聞きつけて自ら足を運び、高校の卒業式の夜に出場したナイトゲームを視察。
小柄な体躯からは想像もつかない火の出るような打球を連発するのを目の当たりにし、即契約金1,100ドル、マイナーリーグ参加報酬400ドルで契約を結んだ。
ヤンキースに入団するまではミシシッピ川の東に渡ったことも無かったという。
1949年は当時マイナーの最下級であるD級のカンザス・オクラホマ・ミズーリリーグのインディペンデンスでプレイ。
1950年にC級のウエスタン・アソシエーションのジョプリンに昇格し、打率.383・26本塁打・136打点の好成績を残した。
1951年にアリゾナのメジャーキャンプに招集され、監督のステンゲルから外野手へのコンバートを命じられる。
マイナー時代に89試合で47失策を記録した遊撃手よりも、外野手であれば俊足を生かした広い守備範囲と肩の強さが発揮できるとの判断によるものだった。
開幕メジャー入りを果たし、4月17日のボストン・レッドソックスとの開幕戦で、3番・右翼でスタメン出場してメジャーデビュー。
当時の背番号は6だった。
デビュー当時の大きな特徴は球界随一と言われる俊足であった。
一塁までの到達タイムは3秒1で当時のメジャーリーガーの中でも最高と言われるほどで、しばしばドラッグバントで内野安打を稼いだりした。
やがてステンゲルに「フィノメナル」(驚異的)と言われたことから「フィノム」と呼ばれるようになるが、デビュー当初はメジャーの壁にぶつかり、また「ディマジオの後継者」としてのプレッシャーに押しつぶされてスランプに陥り、AAA級アメリカン・アソシエーションのカンザスシティ・ブルースに降格した。
打率.361・11本塁打・50打点を記録し、8月下旬にメジャーに再昇格した。
再昇格後に背番号を「7」に変更し、以後引退まで身に着けた。シーズン通算で打率.267・13本塁打・65打点を記録し、チームのリーグ3連覇に貢献。
ワールドシリーズでは、同年にメジャーデビューして20本塁打・68打点でナショナル・リーグ新人王を受賞したウィリー・メイズが所属するニューヨーク・ジャイアンツと対戦。
第2戦、メイズのセンターフライを追うディマジオのバックアップの際にスプリンクラーの溝に足を引っかけて転倒。膝の靭帯を断裂して手術を受け、以後の試合を欠場。
同年父マットが39歳の若さで死去した。
1952年は故障から復活し、前年限りで引退したディマジオに代わり中堅に転向。
出場機会はなかったもののオールスターゲームに初選出され、以後14年連続で選出された。
リーグ最多の111三振を喫するが、打率.311・23本塁打・87打点、リーグトップのOPS.924の成績で、チームはリーグ4連覇。
ドジャースとのワールドシリーズでは打率.345・2本塁打の活躍でシリーズ4連覇を果たし、MVPの投票では3位に入った。
1953年は打率.295・21本塁打・92打点を記録し、チームはリーグ5連覇。
ドジャースとのワールドシリーズでは第5戦で満塁本塁打を放つなど2本塁打・7打点でシリーズ5連覇に貢献した。
1954年は27本塁打・102打点と活躍するが、チームは103勝を挙げながら111勝のクリーブランド・インディアンズに及ばず2位に終わり、連覇が途切れた。
1955年は、それまで苦しめられていた内角高めの速球を克服したこと、ボルティモア・オリオールズから加入したボブ・ターリーに相手投手の癖を見破るテクニックを学んだことで飛躍する。
打率.306、いずれもリーグトップの37本塁打・11三塁打・出塁率.431・長打率.611・OPS1.042を記録し、自身初の本塁打王を獲得。
チームは2年ぶりにリーグ優勝したが、4度目の対戦となったドジャースとのワールドシリーズでは故障の影響で4試合に欠場し、チームも3勝4敗で敗退した。
1956年4月17日に敵地グリフィス・スタジアムで迎えたワシントン・セネターズとの開幕戦、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が観戦する前で、第一打席に中堅の438フィート(約133.5m)と書かれているフェンスの遥か上を飛び越して場外へ消える本塁打を放ち、飛距離は525フィート(約160m)と推定された。
アイゼンハワーは試合後に会見し「あんな大きな本塁打は今までに見たことないよ」と賛辞を惜しまず、マントルは会見後チームメイトに「鉱山労働者の息子に過ぎない自分に、アメリカの大統領が握手をしてくれた」と語り、喜びを隠せなかった。
6月8日まで打率4割を維持するなど終始好調で、最終的にいずれもリーグトップの打率.353・52本塁打・130打点・132得点・376塁打・長打率.705・OPS1.169を記録し、当時史上9人目(11度目)の三冠王を獲得。
スイッチヒッターとしては史上唯一の達成で、また52本塁打は三冠達成時の最多記録である。
前年に続いてドジャースとの対戦となったワールドシリーズでは3本塁打を放つ活躍。
第5戦では4回にサル・マグリーから先制の本塁打を放ち、ドン・ラーセンの完全試合を援護した。
最終第7戦までもつれ込んだシリーズを4勝3敗で制して前年の雪辱を果たし、3年ぶりのワールドチャンピオン。
オフに初のMVPを満票で受賞した。
1957年はいずれもキャリアハイの打率.365・146四球・出塁率.512・OPS1.177を記録したが、レッドソックスのテッド・ウィリアムズが打率.388をマークしたため首位打者は逃した。
無冠に終わったがMVPの投票ではウィリアムズを抑えて2年連続で受賞した。
1958年は42本塁打を記録して自身3度目の本塁打王を獲得。
1960年は3年連続リーグワーストの125三振ながら、いずれもリーグトップの40本塁打・119得点・294塁打・OPS.957の成績で4度目の本塁打王を獲得し、チームは2年ぶりのリーグ優勝を果たす。
ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズでは打率.400・3本塁打・11打点の活躍を見せたが、最終第7戦でビル・マゼロスキーにサヨナラ本塁打を浴びて敗退した。
同年カンザスシティ・アスレティックスから移籍して打点王を獲得したロジャー・マリスとのコンビがMM砲と呼ばれるようになる。
エクスパンションにより10球団に増えた1961年は両者共に開幕から本塁打を量産し、ベーブ・ルースが持つシーズン60本塁打を更新するかが注目を集めた。
結局61本塁打を放ったマリスが記録を更新したが、マントルもキャリアハイの54本塁打を記録した。
同一チームの2選手合計の本塁打115は2018年現在まで破られていない。
MVPの投票ではマリスと僅か4ポイント差の2位で受賞を逃した。
1962年は途中1ヶ月の離脱もあって123試合の出場に留まるが、リーグトップの122四球・出塁率.486・長打率.605・OPS1.091の成績でチームはリーグ3連覇を果たすが、ジャイアンツとのワールドシリーズでは打率.120・本塁打なしの不振。
それでも4勝3敗でシリーズ連覇を達成した。
続く1964年はワールドシリーズにおいてセントルイス・カージナルスと対戦し、第3戦、第6戦、第7戦でマントルは最後となったシリーズホームランを打ったが、打者ではルー・ブロック、ケン・ボイヤー、カート・フラッドを、投手ではボブ・ギブソンを擁するカージナルスの攻勢に晒されて、結局3勝4敗で敗れた。
これ以後、ヤンキースは長い低迷の時期に入り、マントルはそのようなチーム事情に自身の肉体的な衰えから引退の時期を見誤ることになった。
後年、マントルは現役生活をこの1964年限りで止めればよかったと後に語っているが、この年以降、打率が2割3分から2割8分台しかマークできず、通算打率が3割を切った事に非常にコンプレックスを持っていたためだという。
1967年に通算500号本塁打を達成、同年はヤンキースが地区最下位に転落しており、どん底な状況の中での明るい話題ではあった。
最後のシーズンとなる1968年は2割3分台と自己最低の打率となり、ついに翌1969年のシーズン前に現役引退を表明した。
引退時は満身創痍の身で、まさに現役時代は怪我との戦いではあったが、ヤンキース一筋の野球人生だった。
エピソード
1960年にタイガー・スタジアムでかっ飛ばした本塁打は195m(640フィート)あったとされて1995年度版ギネスブックに「史上最長本塁打」として掲載されている。
「王冠を賭けた恋」で有名なウィンザー公は彼のファンとしてマントルの現役時代にヤンキー・スタジアムのロッカールームを訪れたこともある。
ジョー・ディマジオがアーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』をはじめ多くの作品で取り上げられていることは有名だが、マントルもまたスティーヴン・スピルバーグの映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のなかで、レオナルド・ディカプリオ演じる詐欺師の主人公が、「ヤンキースはなぜ強いのか知ってるかい?対戦相手がヤンキースの縦縞のユニフォームに見とれているからさ」と言うと、トム・ハンクス演じる刑事が「ヤンキースが強いのはミッキー・マントルがいるからであって縦縞に見とれているわけではない。」というやり取りにおいて取り上げられている。
野球選手としては輝かしい実績を残したマントルだが、私生活の面では暗い部分があり、祖父・父ともに早くして亡くなったため(ホジキン病による。2人ともオクラホマの炭鉱夫・鉱山技術者だったことも一因とされる。)に、早世の家系だと思い込んだマントルは、その恐怖を紛らわせるために飲酒に走り、選手生活の晩年には二日酔いの状態でバッターボックスに立つこともあったという。
他にも子息にも先立たれるなど、幸せとはいいがたいものだったとされている。
その飲酒がマントルの現役生活や寿命を縮めたらしく、1994年に肝臓癌と診断され、テキサス州ダラスのベイラー大学メディカルセンターに入院。
生体肝移植手術を受け、周囲を心配させる(もっともこの頃のマントルはさすがに酒をきっぱりと断っており、一時は周囲を安心させた)。
しかし、癌は全身に転移しており、翌1995年8月13日、63歳で亡くなった。死の1か月前の7月、入院先のベイラー大学メディカルセンターにて行った記者会見に臨んだマントルは、
「私はいい手本だ。どうか私のようにはならないでほしい。」 |
と言い残している。
プレースタイル
通算の打点と安打数は後にエディ・マレーに破られたが、通算536本塁打は今もスイッチヒッターとしてはMLB史上最多で、MLB史上最高のスイッチヒッターとしてその名を残した。
また、ワールドシリーズにおける通算18本塁打、40打点はいずれもMLB記録である(2013年終了時点)。
故障には始終悩まされていた。
前述にもあるように1951年のワールドシリーズ第2戦で、外野の守備でニューヨーク・ジャイアンツのウイリー・メイズの打球を追っていた時にスプリンクラーに足をひっかけて膝を痛め、終生この膝の故障に悩まされた。
また1963年にはフェンスに激突して65試合にしか出場できなかった。
それでも数々のタイトルを獲得しているので、同僚のエルストン・ハワードは「怪我がなければ史上最高の打者になっていただろう」「年間70本も夢じゃなかった」と語っている。
マントル本人が「私の野球人生の中で最も強烈な打球」と語っているのは、1963年5月22日にヤンキー・スタジアムでビル・フィッシャー(アスレチックス)のカーブをとらえたもので、ヤンキースタジアムのライト最上部の鉄傘に直撃して跳ね返り、もう少し打球が高ければ場外ホームランだったという驚愕のものである。
この本塁打の飛距離については諸説あるが、いかにマントルの飛距離が人間離れしているかがよくわかる。
監督のケーシー・ステンゲルはその天性のパワーがあれば全力で振らなくてもコンパクトなスイングをすれば確実性もあがるとマントルを幾度となく説得したが、マントルは耳を貸さなかったという。
また、マントルは左打席から一塁まで3.1秒で到達できた俊足で、ドラッグバントも得意としていた。
チームの試合スタイルが変わっていたら、40-40(40本塁打40盗塁)どころか、50-50(50本塁打50盗塁)もできていたとも言われる。
実際、1988年にホセ・カンセコが40-40を達成したそのオフ、57歳になっていたマントルはこう述べている。
「(カンセコの40本塁打40盗塁が)あんなに大したことになるとわかっていれば、5度か6度はやっていた。」 |
他にも現役時代は指名打者制度がまだなかった(導入されたのは引退後の1973年から)ため、もし導入されていれば守備の負担軽減で、膝や足のケアができるためにもっと長く現役生活を続けられていただろうと言われている。