概略
国籍 | ![]() ![]() ![]() |
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生年月日 | 1977年8月17日(42歳) | ||
出身地 | レ・ジュリス | ||
身長 | 188cm | ||
体重 | 83kg |
ポジションはフォワード(センターフォワードまたは左ウイング)。
利き足は右。
愛称は「キング・オブ・クール」。
ゴールしても冷静な振る舞いをする様から名づけられました。
プレミアリーグ歴代最多となる4度の得点王受賞をはじめ、FWA(Football Writers’ Association、サッカーライター協会)の投票によるFWA年間最優秀選手賞を3度受賞、PFA年間最優秀選手賞を2度受賞、UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーを同賞最多の5度受賞と数々の個人タイトルを獲得。
2018-19シーズンまででアンリのプレミアリーグにおける1シーズン歴代最多アシスト数(20アシスト)は未だ破らていない。
タイトル
クラブ
- ASモナコ
- リーグ・アン:1996-97
- トロフェ・デ・シャンピオン:1997
- アーセナルFC
- プレミアリーグ:2001-02, 2003-04
- FAカップ:2001-02, 2002-03, 2004-05
- FAコミュニティ・シールド:2002, 2004
- FCバルセロナ
- FIFAクラブワールドカップ:2009
- UEFAチャンピオンズリーグ:2008-09
- UEFAスーパーカップ:2009
- リーガ・エスパニョーラ:2008-09, 2009-10
- コパ・デル・レイ:2008-09
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:2009, 2010
代表
- U-19欧州選手権:1996
- FIFAワールドカップ:1998
- UEFA欧州選手権:2000
- FIFAコンフェデレーションズカップ:2003
個人
- プレミアリーグ得点王:2001-02, 2003-04, 2004-05, 2005-06
- PFA年間最優秀選手賞:2002-03, 2003-04,
- FWA年間最優秀選手賞:2002-03, 2003-04, 2005-06
- ヨーロッパ・ゴールデンブーツ:2003-04, 2004-05
- プレミアリーグ月間最優秀選手:4回(2000年4月、2002年9月、2004年1月、2004年4月)
経歴
クラブ
父親はグアドループでプロサッカー選手をしていたが、生活の安定を求めてフランス本土に渡り、パリ郊外でティエリを育てた。
6歳の時に地元のクラブであるレ・ジュリス・フットボールに入団し、クラブでの練習のない日は厳格な父親による英才教育を受けた。
なお、このクラブからはパトリス・エヴラもプロサッカー選手に育った。
12歳から15歳の間は色々なクラブを転々としたが、クレールフォンテーヌ(INF、フランスサッカー学院)に入学して英才教育を受けた。
なお、一度は入学試験に落とされたが、辞退者が出たために入学を許可されたという経歴を持つ。
本人が語るところによると、INF卒業後にベルサイユのクラブに1シーズンだけ在籍しており、22試合に出場し76得点を記録しているとのこと。
この時にASモナコのスカウトが視察した試合で7得点を決め、16歳の時に父アントワーヌが仮契約書にサインしASモナコに入団。
ASモナコの下部組織での活躍により、当時トップチームの指揮官であったアーセン・ベンゲルに抜擢され、1994年8月31日にOGCニース戦でリーグ・アンデビュー。
1994-95シーズンは8試合に出場し3得点の成績を残した。
なお、この当時のアンリのポジションはフォワードではなくウイングであった。
1995-96シーズンは母国で開催された欧州U-19選手権のメンバー入りも果たす。
1996-97シーズンには36試合に出場し9得点でチームのリーグ優勝に貢献し、UEFAカップでも初得点を記録。
リーグ・アン年間最優秀若手選手にも選出される。
1998-99シーズン途中に監督ジャン・ディガナとの衝突が原因でセリエAのユヴェントスFCに移籍。モナコでは起用法を巡ってのすれ違いから退団を決めたが、移籍先のユヴェントスでも不慣れな左サイドハーフでの出場を余儀なくされ、実力をほとんど発揮できずに3得点でシーズンを終える。
その頃に、モナコでアンリをトップチームに抜擢したアーセン・ベンゲルから「もし、イタリアでうまくいかなければ、私がまた獲得する」と促されており、その言葉を追うように1999年8月3日にベンゲルが指揮を執るプレミアリーグのアーセナルFCに入団。
この件にはアーセナルがニコラ・アネルカをレアル・マドリードに約45億円で移籍させた背景もあり、アンリ獲得のためにアーセナル側が積んだ金額はアネルカの移籍で得た収入の約半分である。
ニュータイプのフォワードを構想していたベンゲルは、アンリをウイングからセンターフォワードにコンバートする。
移籍初年度こそ新境地のポジションに戸惑いも見せるも、翌2000-01シーズンからは実力を遺憾なく発揮し、得点数こそ昨シーズンと同じながら敵陣のタッチライン際を快足をもって突破していくシーンは観戦者に強烈な印象を与えた。
2001-02シーズンには24得点で得点王に輝き、チームは勝ち点87ポイント得失点差43でプレミアリーグ移行後2度目のリーグ優勝を果たす。
またFAカップも優勝し、二冠を達成。
2002-03シーズンは優勝を逃し、アンリ自身も得点王を逃したが、得点数は昨シーズンと同じ24得点を記録し、PFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞を受賞。
チームの総得点数はリーグ最多の85得点と全体として高いパフォーマンスを誇った。
またFAカップ2連覇。このシーズンに20アシストでアシスト王になったが、このアシスト数は2018-19シーズン終了時点でプレミアリーグにおける1シーズンの歴代最多アシスト記録である。
2003-04シーズン、チームは26勝12引き分け勝ち点90ポイントと無敗優勝を成し遂げ、アンリは30得点で得点王に返り咲く。
2年連続でPFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞を受賞。
この時期のアーセナルはしばしば「The Invincibles(無敵)」と讃えられ、アンリの他にパトリック・ヴィエラやロベール・ピレス、シーズン途中に移籍したシルヴァン・ヴィルトールといったフランス人選手が主力として顔を揃えていた。
また、これらに監督アーセン・ベンゲルを含めて「フレンチ・コネクション」と呼ばれた。
2003年のバロンドールではパベル・ネドベドに次いで2位となった。
2004-05シーズン、アンリは25得点を記録し2年連続で得点王に輝き、更に3年連続でFWA年間最優秀選手賞を受賞。
チームは無敗記録を49試合にまで伸ばし、1977-78シーズンにノッティンガム・フォレストが達成した42試合無敗記録を27年ぶりに更新。
49試合ぶりの黒星はマンチェスター・ユナイテッドに喫した。
アーセナルは勝ち点83ポイント得失点差51で2位。
またFAカップ王者に1年ぶりに返り咲く。
2005-06シーズン、3年間アーセナルの主将を務めたパトリック・ヴィエラがユヴェントスに移籍し、アンリはゲームキャプテンを任せられる。
アンリ自身は27得点を記録し得点王を3年連続で受賞するも、チームは4位でシーズンを終え2連覇を果たしたチェルシーFCとの勝ち点差は24ポイント。
一方で、欧州フットボール界の七不思議とまでいわれ勝てない時期が続いたUEFAチャンピオンズリーグでは連続無失点試合の記録を更新し、決勝でFCバルセロナに敗れるも準優勝と健闘した。
2006-07シーズンは怪我で大半の試合を欠場し、得点王連続記録もここで途絶える。
チームの大黒柱の代役を務めたとは言い難いが、アンリのポジションにはエマニュエル・アデバヨールやロビン・ファン・ペルシーといった新鋭の台頭も見られ、チームの急速な世代交代により栄華を極めた時代の選手はアンリ以外はほとんど退団していた。
2007年6月、2400万ユーロでバルセロナへの移籍が決まる。
リーガ・エスパニョーラ2007-08シーズン、当時3トップを形成していたロナウジーニョ、サミュエル・エトオ、リオネル・メッシと自身を合わせた組み合わせは“ファンタスティック4”と呼ばれ注目されたが、スペインサッカーのスペースの少ないゆったりしたスタイルに戸惑い、また左ウイングのような役割に徹することで終始低調なプレーが続き30試合12得点でシーズンを終える。
2008-09シーズン、新たに監督に就任したジョゼップ・グアルディオラのチーム再編に伴い、ロナウジーニョ、デコが退団。
より強健なチーム作りの中で当初はエトオやアンドレス・イニエスタの控えに甘んじていたものの、次第に復調の兆しを見せ、守備に奔走する姿勢もみせるなか19得点を記録。
チームは第36節アウェーでのマジョルカ戦後に3シーズンぶりのリーグ優勝を決め、最終成績は27勝6分5敗、勝ち点87ポイント得失点差70。
またUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグからの12試合で3得点をあげ、決勝戦でマンチェスター・ユナイテッドを破り優勝。
アンリは5得点を記録。
更にコパ・デル・レイも優勝し、スペインのクラブ史上初の三冠を達成した。
復調の兆しを見せた昨シーズンとはうってかわり、2009-10シーズンは終始単調なプレーを繰り返し、ベンチを暖める場面が増えた。
若手のペドロ・ロドリゲスの活躍の影に潜んでいたが、終盤戦にセンターフォワードでの起用が多くなると、やや調子を取り戻した。
2009-10シーズン終了後、FCバルセロナとの契約を解除した。
その後、クラブを転々とした後、2014年現役を引退。
代表
フランス代表としてのアンリの経歴は15歳の時にまで遡り、早くからその才能を世界の舞台で輝かせている。
本格的な国際大会の初陣としては母国で開催された欧州U-19選手権で、決勝の対スペイン戦では決勝弾を決める活躍で優勝に貢献した。
またマレーシアで開催されたワールドユースにもメンバー入りし、後のA代表の主力となるニコラ・アネルカ、ダビド・トレゼゲと3トップを形成している。
代表デビューは1997年10月11日の対南アフリカ共和国戦。
1998年フランスW杯のフランス代表メンバーに選出され、決勝のブラジル戦以外の6試合に出場。
通算3得点に終わるも、フランスはグループリーグを全勝で勝ち上がり勢いそのままにW杯初優勝。
新世代の台頭を予感させるジネディーヌ・ジダンやリリアン・テュラムの存在が光る大会となった。
その2年後にベルギーとオランダで共催されたEURO2000のメンバーにも名を列ね、3得点を記録。
フランスは今大会でも優勝を果たし、史上初となるW杯と欧州選手権を立て続けに優勝した国となった。
2002年にフランス代表の中心選手として日韓W杯に挑むもグループリーグで敗退。
アンリはグループリーグ2戦目となったウルグアイ戦でレッドカードで退場となってしまい、そのまま3戦目のデンマーク戦にも出場できず戦犯とされる事態に発展した。
同大会のフランス代表はロベール・ピレスが右膝の靭帯断裂で代表に招集されなかったことや、ジダンの左腿の肉離れによる欠場といったことが敗退要因として挙がったが、それでも世界有数の選手を揃えた優勝候補国であることは変りなく、大会早々に大波乱という話題を振りまいて姿を消した。
自国開催となったFIFAコンフェデレーションズカップ2003では2大会連続優勝。
この大会ではジブリル・シセと2トップを組むことが多かったが、先発と控えを作らないというチーム方針で全試合には出場していない。
日本戦は控えに回ったが、アンリコールを繰り返す大歓声に応える形で後半35分に途中出場。
チェイシングを仕掛ける中田英寿を反転して突破し、小笠原満男のスライディングを読んでかわすなど実力の片鱗を見せつけた。
2004年6月にポルトガルで開催されたEURO2004では、フランスはBグループ首位で決勝トーナメント進出を決めるも試合内容は前回王者とは思えないほど精彩を欠いており、とりわけ前々から囁かれていたアンリの代表不調はここにきても変わることはなく、決勝トーナメント一回戦で今大会の王者となるギリシャに敗退。
フランスは2大会連続欧州王者とはならなかった。
ジダンが引退表明をして臨んだ2006年ドイツW杯では3得点を決めチームの準優勝に貢献。
準々決勝のブラジル戦で決めたゴールはジダンのアシストによるもので、1997年のA代表デビュー以来ジダンから受けた最初で最後のアシストとなった。
EURO2008予選ではチーム最多の6得点を記録し、ミシェル・プラティニが持つフランス代表の最多得点記録を更新。
しかし、本大会ではオランダ戦の1得点だけにとどまり、チームもグループリーグで敗退。
なお、このアンリの1得点が大会のフランス唯一の得点である。
EURO2008終了後の最初の試合となったスウェーデンとの親善試合でフランス代表のキャプテンに任命された。
2010年南アフリカW杯欧州予選プレーオフ(対アイルランド)では延長戦で、チームを4大会連続本大会出場に導くウィリアム・ギャラスの決勝点をアシストしたが、その際、ゴールラインの方に流れたボールを自身の左手で止めるような形で当たっていたのが確認され、物議を醸した(アンリ自身も「決してわざとではないが、確かに手に当たった」と認めている)。
W杯終了後、代表引退を表明した。
エピソード
現役時代にアーセナルで多くの得点を挙げたティエリ・アンリ氏だが、ゴール後に笑顔を見せることはほとんどなかった。
その理由について、欧州サッカー連盟(UEFA)の公式サイトで語っている。
アンリは現役時代にアーセナルで226得点、フランス代表で51得点を記録。
多くのゴールでファンを喜ばせたが、アンリ自身の笑顔を見ることができた者はどれほどいただろうか。
現在ベルギー代表のコーチングスタッフを務めるアンリ氏がUEFAに語ったところによると、得点後に笑わなかったのは「父の教育」が理由だったようだ。
「ユース時代の試合で6-0の勝利を収め、私が6ゴール全てを決めた。でも帰り道、父は私のミスを全て挙げていったんだ。もうたまらなかったよ。まだ12歳か13歳だったからね。それからというもの、ゴールを決めた試合のあとも、外したシュートのことばかり考えるようになった。『なぜあのチャンスで決められなかったんだ』と自分に問いかけていたのさ」
幼少期の父親とのエピソードを明かしたアンリ。
どんなゴールにも満足しないストイックな性格こそが世界最高クラスのストライカー“ティエリ・アンリ”の源となっていたのかもしれない。
2008年、レキップ紙に掲載されたBVAによるフランス国民が選ぶNo.1スポーツ選手で44%の票を集めて第1位となった。
自身の浮気が原因で2003年から4年間連れ添ったクレア夫人と離婚、慰謝料はサッカー選手最高額となる1,000万ポンド(約23億2,000万円)とも800万ポンドとも言われている。
引退後はフットボール祭典やテレビの試合解説などでゲスト活動。
大のNBAファンと知られ、マイケル・ジョーダンを深く尊敬していることで知られている。
またトニー・パーカーや元NBA選手のスティーブ・ナッシュとも親交が深いことでも知られている。
2018年10月13日、古巣ASモナコの監督に就任した。
契約期間は3年間。
アーセナル時代のチームメイトセスク・ファブレガスを獲得するなど、低迷に苦しむチームの立て直しを図る。
しかし、就任12試合で2勝にとどまるなど、低空飛行から脱することが出来ず、2019年1月24日に解任された。
プレースタイル
一瞬でDFを置き去る瞬発力、正確なキックで最高ランクに位置するウィング型のFW。
おもに3トップの左でプレーし、左斜め45度からの右足シュートは絶品で「アンリゾーン」とも呼ばれるほど。
一瞬にしてDFを置き去りにするスピードでゴールを容易に陥れる世界屈指のストライカーです。
ボディバランスに優れ、足元のテクニックやFKなど高い決定力を誇ります。
身長は高いほうですが、ヘディングはあまり得意ではありません。
WG経験があるため、ライン際に開いて中に切れ込むプレーを得意としています。
そのスピードとテクニックは超絶ですが、シュートの精度もずば抜けて高く、アーセナルに在籍した全シーズンでリーグ2桁得点を達成するなど得点力は非常に高かった。
またシュートだけでなくアシストも量産するチャンスメーカーでもあります。
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