概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1962年9月1日(57歳) | ||
出身地 | アムステルダム | ||
身長 | 191cm | ||
体重 | 83kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、右サイドハーフ、センターハーフ、デフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ、右ウイング)、デフェンダー(リベロ)。
利き足は右。
日本語表記ではグーリットとも。
愛称はオランダ出身、独特の髪型などを小説の題名になぞらえた「黒いチューリップ」。
「オランダトリオ」のひとり。
「オランダトリオ」の一画としてFWからリベロまでこなすマルチプレイヤーでトータルフットボールの申し子。
ドレッドヘアーがトレードマークでレゲエミュージシャンの一面も。
ミランでは黄金期を築き(グランデ・ミラン)サッキ監督の下、同時に加入したファン・バステンらと共にセリエAに旋風を巻き起こし、マラドーナ擁するナポリに快勝するなど低迷していたチームに9年ぶりのスクデットをもたらし、オランダ人としてクライフ以来2人目のバロンドール、世界年間最優秀選手に選ばれました。
翌シーズンにライカールトも加わり「オランダ・トリオ」で世界を席巻、3度のスクデット、チャンピオンズ杯、欧州スーパー杯、インターコンティネンタル杯(1年目はケガで出場ならず)の3冠を2年連続で達成します。
自身も88/89シーズンのチャンピオンズ杯決勝S・ブカレスト戦でファン・バステンと共に2ゴールを挙げ、2度目の世界年間最優秀選手賞を受賞しました(この2度のタイトルを当時投獄されていた黒人解放運動の中心人物マンデラ氏に捧げました)。
個人タイトル
- バロンドール 1回 (1987)
- Onze d’argent 2回 (1988,1989)
- ワールドサッカー誌選定年間最優秀選手賞 2回 (1987,1989)
- オランダ年間最優秀選手賞 2回 (1984,1986)
- オランダゴールデンシューズ賞 1回 (1986)
- UEFA欧州選手権1988、UEFA欧州選手権1992ベストイレブン
- 20世紀世界最優秀選手 18位 (国際サッカー歴史統計連盟 1999)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 29位 (ワールドサッカー誌選出 1999)
経歴
クラブ
1979年、HFCハールレムでデビューを飾り、高い技術力を見せた。
1982年にはフェイエノールトへ移籍し、ヨハン・クライフとともにリーグ優勝に貢献する。
その後、PSVアイントホーフェンを経て、1987年に当時マラドーナに次ぐ約12億円の移籍金でイタリアセリエA・ACミランへ移籍。
マルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトとともに「オランダトリオ」としてACミランの黄金期を支え、数々のタイトルをもたらし自身もこの年バロンドールを受賞した。
1987年8月23日コパイタリア、バーリ戦で初出場を果たすと、その試合でゴールを決め、リーグ戦デビューとなった9月13日ACピサ戦でゴールを決めるデビューを飾り、1987-88シーズン久しく優勝から遠ざかっていたミランにリーグ優勝をもたらした。
1988-89チャンピオンズカップ決勝ステアウア・ブカレスト戦では2ゴールを決め優勝に大きな貢献したが、1989-90シーズンに膝を故障、1989年のトヨタカップを欠場するなど、治療とリハビリに一年間を費やす。
この故障は引退時まで大きく引きずる事になる。
1990年12月のトヨタカップオリンピア戦ではクロスでライカールトの先制点をアシストし、3-0での優勝に貢献。
1991-92シーズンも怪我に悩まされながらもリーグ無敗優勝に貢献した。
1992-1993シーズンは10月4日のフィオレンティーナ戦でシーズン初出場を果たすと2ゴール2アシストの活躍、4月10日のミラノダービーではゴールを決めたが、怪我やジャン・ピエール・パパンの加入などもあり、徐々にベンチを暖める機会が増え、1992-1993のチャンピオンズカップ決勝でもベンチ外となった。
1993-94シーズン、アルベリゴ・エヴァーニと共にサンプドリアにレンタル移籍する事になった。
そこで、監督のスヴェン・ゴラン・エリクソンの下で復活する。
8月29日開幕戦となったナポリ戦でゴールを決める好調なスタートを切り、1993年10月31日の古巣ACミラン戦においてはカタネッチの先制点をアシストしただけでなく、ボレーシュートで決勝ゴールを決め3-2で勝利した。
これらの復活劇で翌シーズンにミランに返り咲きを果たした優勝争いの末リーグ優勝は逃したがリーグ3位、コッパ・イタリアでは優勝、フリットはゴールを量産、15ゴールと得点王争いをするなど、その立役者となった。
1994-95シーズンに復帰したミランでは、イタリアスーパーカップで古巣サンプドリア戦でゴールを決め、開幕戦のジェノア戦でシモーネの決勝ゴールをアシスト、9月11日第2節のカリアリ戦でゴール、9月18日第3節ラツィオ戦では2ゴールを挙げが、前線で孤立することが多く、以降ノーゴールが続き、不調ミランの敗戦の責任をなすりつけられるなど、不振に陥り、「この辛さを理解してくれるのはシモーネだけだった。」と語った、シーズン途中にアレッサンドロ・メッリとのトレードでサンプドリアに再び移籍、22試合に出場し9ゴールを決めたが、前年程のインパクトを残すことは出来なかった。
1995年、チェルシーへ移籍、ここではリベロとしてプレー、1995年9月16日サウザンプトン戦で移籍後初ゴールを決め、FAカップ準決勝のマンチェスターU戦ではゴールを決めたが1-2と敗れタイトルを逃した。
シーズン中にはチーム率いていたグレン・ホドル監督がイングランド代表監督に就任すると、その後任として現役のままプレーイングマネージャーに就任、このシーズンは初めてDFとしてプレーしたにも関わらず、PFA年間ベストイレブンに選出された。
1997-98シーズンは、リーグ戦6試合カップ戦1試合の出場、最後のリーグ戦出場は1998年1月17日エヴァートンFC戦で16分間プレー、1月28日リーグカップ準決勝アーセナルFC戦のファーストレグに出場したのが選手として最後の出場となった。
代表
オランダ代表では、1981年9月1日のスイス戦で代表デビューを飾る。
1988年ヨーロッパ選手権ではグループリーグのイングランド戦で2アシストで勝利に貢献、決勝のソビエト戦でゴールを決めオランダの初のメジャータイトルをもたらした。
1990年ワールドカップには欧州王者として優勝候補の一角に挙げられていたが、チーム内は監督交代など内紛を抱え、フリット自身も膝の故障から回復したばかりでそのカリスマ性をベーンハッカー監督に期待されての起用であったが、予選リーグ北アイルランド戦で1ゴールを決めたものの満足なプレーをすることが出来なかった。
少しずつ調子を取り戻していた決勝トーナメント1回戦で、この大会を制する西ドイツと対戦。守備の要であったライカールトの退場などもあり拮抗した展開の末、1-2で敗退した。
1992年のEURO1992において準決勝デンマーク戦では1点リードを許す中ライカールトのゴールをアシストしたが、2-2からPK戦の末(6-7)で敗れた。
1993年12月16日ワールドカップ予選、トルコ戦に出場しゴールを決めたが、以降代表から遠のいた。
サンプドリアにおける好パフォーマンスもあり、1994年のアメリカW杯直前の1994年5月27日のスコットランド戦代表復帰を果たし、出場した。
ロナルド・クーマンが、エゴイストのフリットを嫌い代表から追い出そうとした事や、かねてから要望し続けたクライフの代表監督就任も遂に叶わず、以降は代表辞退となった。
エピソード
人種差別に抗議し、ミュージシャンとしてヒットチャートに名を連ね、5ヶ国語を操るマルチリンガルの面もあり、ピッチの外でも異彩を放ちます。
サッカーシューズはイタリアのスポーツメーカーロット社の物を愛用した。
南アフリカの黒人指導者、ネルソン・マンデラと親交があり、1987年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)受賞時にはトロフィーをマンデラに贈った。
3度の結婚と2度の離婚をし、3度目の結婚相手はヨハン・クライフの姪である。
別居中の妻に、キックボクサーのバダ・ハリと不倫される。
イタリアW杯前には日本航空の国際線CMキャラクターとなり、日本国内でも知名度があがった。
プレースタイル
人間離れしたフィジカルと繊細な技術と卓越した戦術眼を備え、FWからリベロまでハイレベルでこなす「トータル・フットボーラー」。
抜群の身体能力とボール扱いに長けたテクニックを持ち、ストライカーから、右サイドや中央の攻撃的ミッドフィルダー、守備的ミッドフィルダー、そしてディフェンダーまであらゆるポジションを高いレベルでプレーした。
186センチの大柄な体ながら、柔らかいボールタッチ、テクニカルなドリブルでサッカーファンを魅了した。
90年のトヨタ杯では、またぎフェイントからライカールトへの長いアシストを送った。
どんなポジションもこなせたため、「自由人」と呼ぶ人もいた。
褐色の肌とドレッドロックという独特な風貌とカリスマ性、リーダーシップも備え、オランダ代表とミランの中心として活躍しました。