概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1980年3月21日(40歳) | ||
出身地 | ポルト・アレグレ | ||
身長 | 182cm | ||
体重 | 80kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)またはフォワード(セカンドトップ、左ウイング)。
利き足は右。
愛称はガウショ (Gaúcho)。
バルセロナ時代には中心選手として2度のリーガ・エスパニョーラと14年ぶりとなるUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験し、2004年と2005年の2年連続でFIFA最優秀選手賞、2005年にはバロンドールを受賞。
ブラジル復帰後の2013年にはアトレチコ・ミネイロでコパ・リベルタドーレスを制覇し、ヨーロッパと南米の国際大会を両方を制した史上8人目の選手となった。
またブラジル代表としては2002 FIFAワールドカップ優勝に貢献。
オーバーエイジ枠で出場した北京オリンピックは銅メダルを獲得した。
高いテクニックから生み出される独創的なプレーや、試合中にもしばしば笑顔を見せるサッカーを楽しむプレースタイルから世界中からファンタジスタと称賛される。
獲得タイトル
クラブ
- グレミオ
- コパ・スル (1) : 1999
- カンピオナート・ガウショ (1) : 1999
- パリ・サンジェルマン
- UEFAインタートトカップ (1) : 2001
- バルセロナ
- リーガ・エスパニョーラ (2) : 2004-05, 2005-06
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ (2) : 2005, 2006
- UEFAチャンピオンズリーグ (1) : 2005-06
- フラメンゴ
- タッサ・グアナバラ (1) : 2011
- タッサ・リオ (1) : 2011
- カンピオナート・カリオカ(1) : 2011
- アトレチコ・ミネイロ
- コパ・リベルタドーレス (1) : 2013
- カンピオナート・ミネイロ (1) : 2013
代表
- U-17 ブラジル代表
- FIFA U-17世界選手権 (1) : 1997
- U-23 ブラジル代表
- 夏季オリンピック 銅メダル : 2008
- ブラジルA代表
- コパ・アメリカ (1) : 1999
- FIFAワールドカップ (1) : 2002
- FIFAコンフェデレーションズカップ (1) : 2005
個人
- FIFAコンフェデレーションズカップ最優秀選手 : 1999
- FIFAコンフェデレーションズカップ 得点王 : 1999
- カンピオナート・ガウショ得点王 : 1999
- シドニーオリンピック南米予選 得点王 : 2000
- FIFAワールドカップ 優秀選手 : 2002
- FIFA 100 : 2004
- ドン・バロン・アワード 最優秀外国人選手賞 (2) : 2003-04, 2005-06
- EFEトロフィー (1) : 2004
- FIFA最優秀選手賞 (2) : 2004, 2005
- UEFAクラブ・フットボール・アワード 最優秀フォワード (1) : 2004-05
- バロンドール (1) : 2005
- FIFPro年間最優秀選手賞 (2): 2005, 2006
- UEFA年間最優秀選手 (1): 2005-06
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー (3) : 2003-04, 2004-05, 2005-06
- FIFPro年間ベストイレブン (3) : 2004-05, 2005-06, 2006-07
- ゴールデンフット賞 (1) : 2009
- プレミオ・クラッキ・ド・ブラジレイロン : 2011, 2012
- ボーラ・ジ・プラッタ : 2011, 2012
- ボーラ・ジ・オーロ 2012
- FIFAクラブワールドカップ 得点王:2013
- 南米年間最優秀選手賞:2013
経歴
クラブ
ロナウジーニョはグレミオの下部組織でサッカーを始め、1998年のコパ・リベルタドーレスでトップチームデビューした。
2001年にはイングランドのアーセナルFCがロナウジーニョとの契約に興味を示したが、彼はEU圏外選手であり、イギリスの労働許可証の取得条件を満たさなかったため、この移籍話は破談となった。
同年にはスコティッシュ・プレミアリーグのセント・ミレンFCにレンタル移籍することを検討したが、偽造パスポート事件に巻き込まれたために取りやめとなった。
2001年、フランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンFCと5年契約を結んだ。
移籍金は500万ユーロ。パリ到着後、背番号21を与えられ、ブラジル代表のアロイジオ (Aloísio José da Silva)、ミケル・アルテタ、ジェイジェイ・オコチャなどが在籍する攻撃陣の一員に加わった。
2001年8月4日のAJオセール戦 (1-1) で途中出場してリーグ戦デビューし、2001-02シーズン前半戦は先発出場と途中出場を交互に繰り返した。10月13日のオリンピック・リヨン戦 (2-2) では途中出場し、79分に移籍後初得点となる同点弾をペナルティキックで決めた。
ウィンターブレーク後のASモナコ戦 (1-2)、スタッド・レンヌFC戦 (2-1)、RCランス戦 (1-1)、FCロリアン戦 (5-0) では4試合連続得点を記録し、2002年3月16日のトロワAC戦 (3-1) では残留争いに苦しむ相手から1試合2得点を記録した。
4月27日のFCメス戦 (2-0) でシーズン最後のゴールを挙げ、移籍初年度のリーグ戦は9得点でシーズンを終えた。
同シーズンはクープ・ドゥ・ラ・リーグでもチームに大きな影響を与え、ラウンド16のEAギャンガン戦ではハーフタイムに途中出場して後半だけで2得点を挙げた。
チームは準決勝に進出し、準決勝でFCジロンダン・ボルドーに敗れた。
プレーでは移籍初年度から健闘したが、「サッカーよりもパリでの夜遊びで注目を集め、ブラジルでの休暇から予定通りに帰国しない」と主張するルイス・フェルナンデス監督との確執によって台無しとなった。
2002年夏には背番号を10に変更し、2002-03シーズンに臨んだ。
2年目のシーズンは1年目と比較して失望の残るシーズンであったが、それでも見事な成績を残した。
2002年10月26日、オリンピック・マルセイユとのル・クラスィク (3-1) で2得点を挙げた。
最初の得点は直接フリーキックによるもので、カーブしたボールは壁の横を通り抜けてベドラン・リュンジュ (Vedran Runje) が守るゴールに吸い込まれた。
スタッド・ヴェロドロームで行われたアウェー戦でも得点し、3-0で快勝した。
クープ・ドゥ・フランス準決勝のFCジロンダン・ボルドー戦 (2-0) では2得点を挙げ、再び称賛を集めた。
22分に先制点を決め、81分にはGKウルリッヒ・ラメが適切なポジション取りをしていたのにもかかわらず、頭を抜くチップシュートを決めて試合を締めくくった。
これらの活躍で、パリ・サンジェルマンFCの観客にスタンディング・オベーションを贈られた。クラブにとって不幸なことに、決勝のAJオセール戦 (1-2) ではロナウジーニョ自身もチームも本来の調子を出せず、ロスタイムのジャン=アラン・ブームソンの得点に屈した。
2002-03シーズンのリーグ戦は11位と失望の順位に終わり、欧州カップ戦出場権を逃したことで、ロナウジーニョは他クラブへの移籍希望を明らかにした。
当初、FCバルセロナのジョアン・ラポルタ会長はデヴィッド・ベッカムの獲得を公約していたが、ベッカムはレアル・マドリードに移籍したため、FCバルセロナはロナウジーニョの獲得争いに参加し、マンチェスター・ユナイテッドFCよりも高額な3000万ユーロのオファーを提示して獲得に成功した。
アメリカのワシントンにあるロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムで行われたACミランとの親善試合でデビューし、その試合で1得点を挙げて2-0で勝利した。
2003-04シーズン前半戦には負傷離脱していた時期もあったが、復帰後はチームをリーグ戦2位に導いた。
2004年12月20日にはFIFA最優秀選手賞を受賞し、2004-05シーズンには移籍後初のリーグ優勝を果たした。
2005年3月8日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦・チェルシーFC戦セカンドレグ (2-4) では2得点を挙げたが、2試合合計4-5で敗退が決まった。
2005年9月にはFIFPro年間ベストイレブンとFIFPro年間最優秀選手賞を受賞し、同年にはUEFA年間最優秀選手賞も受賞した。
さらに、FIFA最優秀選手賞の投票では956点を集め、2位のフランク・ランパード(306点)に3倍以上の大差をつけて2年連続で受賞した。
2005年11月19日、レアル・マドリードとのエル・クラシコ (3-0) では2得点を挙げた。
勝利を決定づける2点目を決めると、アウェーでのダービーマッチにもかかわらずレアル・マドリードのファンからスタンディング・オベーションが贈られた。
2006年1月には3年連続でUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝・SLベンフィカ戦セカンドレグでは先制点を決めた。
準決勝のACミラン戦ファーストレグではリュドヴィク・ジュリの決勝点をアシストし、2試合合計1-0で決勝に駒を進めた。
5月26日に行われた決勝ではアーセナルFCを2-1で下して優勝を果たした。
決勝の2週間前にはセルタ・デ・ビーゴに1-0で勝利してリーガ・エスパニョーラ2連覇を決めており、キャリア初の2冠を達成した。
全公式戦を通じて自己最多の26得点を挙げ、UEFAチャンピオンズリーグの大会最優秀選手に選ばれた。
2006年11月25日のビジャレアルCF戦では2度目となるオーバーヘッドキックでの得点を決め、FCバルセロナでのリーグ戦得点数が50点に達した。
このビジャレアル戦での得点は少年時代から夢見ていたゴールであると後に語っている。
12月にはFIFAクラブワールドカップに出場し、準決勝のクラブ・アメリカ戦 (4-0) では1得点1アシストの活躍を見せたが、決勝のSCインテルナシオナル戦 (0-1) に敗れて準優勝に終わった。
この大会でロナウジーニョはブロンズボールに輝いた。
SCインテルナシオナル戦の翌日にはFIFA最優秀選手賞が発表されたが、2006 FIFAワールドカップで優勝したイタリア代表のキャプテンであるファビオ・カンナヴァーロ、準優勝のフランス代表のキャプテンであるジネディーヌ・ジダンに次ぐ3位に終わった。
2007年1月、最多となる29万票以上を集めてUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに3年連続で選出された。
エル・クラシコ (3-3) で負傷し、3月13日のチャリティマッチには出場できなかった。
2008年2月3日のCAオサスナ戦に出場し、FCバルセロナでの公式戦通算200試合出場を達成した。
しかし、2007-08シーズンは全体的に負傷に苦しめられ、4月3日には右足の筋肉断裂により一足早くシーズンを終えた。
5月19日、ラポルタ会長は「ロナウジーニョは新たなチャレンジを必要としている」と発言し、トップ選手としてやっていくためには移籍が必要であると主張した。
6月6日、マンチェスター・シティFCのタクシン・シナワットオーナーはロナウジーニョの獲得に興味を示した。
6月28日、ロナウジーニョとリオネル・メッシはベネズエラで開催された人種差別撲滅のための親善試合でそれぞれのチームのキャプテンを務め、試合は7-7の引き分けに終わった。彼は2得点2アシストを記録したが、この試合がFCバルセロナの選手としての最後の試合となった。
2010年のジョアン・ガンペール杯前日、FCバルセロナのファンと選手たちに対して「FCバルセロナでの5年間が最高の時期であった」とする手紙を公開した。
2008年7月、ロナウジーニョはマンチェスター・シティFCからの移籍金2550万ポンドのオファーを拒否し、イタリア・セリエAのACミランと3年契約を結んだ。
年俸は約510万ポンド(650万ユーロ)であり、移籍金は約1450万ポンド(1850万ユーロ)と考えられている。
希望の背番号10は既にクラレンス・セードルフが着けていたため、生まれ年の1980年に因んで背番号80を選んだ。9月28日、インテルとのミラノ・ダービー (1-0) で初得点を挙げた。
10月19日のUCサンプドリア戦 (3-0) では初の1試合2得点を記録した。
11月6日、UEFAカップグループリーグのSCブラガ戦では93分に決勝点を挙げた。
2008-09シーズンは全大会を通じて32試合に出場して10得点した。
良好なスタートを切った後、コンディション不良に苦しんで途中出場が多くなり、ACミランでの初年度は失望に終わった。
2009-10シーズン序盤はベンチから試合開始を迎えることも多かったが、その後調子を取り戻し、攻撃的ミッドフィールダーから馴染み深い左ウイングに役割を変え、このシーズンのチームの最優秀選手と言ってもよい活躍を見せた。2010年1月10日、アウェーでのユヴェントスFC戦 (3-0) では2得点を挙げた。
翌週の1月17日に行われたシエナ戦 (4-0) では、1点目をペナルティキック、2点目をコーナーキックからのヘディングシュート、3点目を20ヤードの距離からのミドルシュートで決め、移籍後初のハットトリックを達成した。
1月16日には移籍後初めてのUEFAチャンピオンズリーグの試合となるマンチェスター・ユナイテッドFC戦に出場し、序盤に得点してリードを得たが、ポール・スコールズとウェイン・ルーニー(2点)に得点を許して最終的に2-3で敗れた。
4月13日、カルチョ・カターニア戦 (2-2) でマルコ・ボリエッロの得点をアシストし、アシスト数はリーグトップの14に達した。
5月15日にはホームでのユヴェントス戦 (3-0) で2得点を記録し、ライバル相手に1シーズンで計4得点を記録した。
この試合はレオナルド監督のACミラン監督としてのラストマッチとなった。
なお、2008-09シーズンもペナルティキックを1度失敗していたが、2009-10シーズンは3度もペナルティキックを失敗している。
2010年夏にマッシミリアーノ・アッレグリ監督が就任し、4-3-3フォーメーションではなく主に4-3-1-2フォーメーションが採用された。
2010-11シーズン開幕戦のUSレッチェ戦 (4-0) ではキレの良いプレーを見せたが、役割が変更になると徐々にフェードアウトし、シーズン前半戦は11試合出場無得点に終わった。
2011年冬にフラメンゴに移籍後、母国のクラブを転々とし2018年に現役を引退。
代表
全ての年代でブラジル代表に選ばれた数少ない選手の一人である。
1997年にはU-17ブラジル代表としてFIFA U-17ワールドカップで優勝し、ブロンズボールに輝いた。
1999年はブラジル代表で大きな結果を残した年となった。
4月にはナイジェリアで開催されたFIFA U-20ワールドカップに出場し、グループリーグ最終戦(1得点)と決勝トーナメント1回戦のU-20クロアチア戦(4-0、2得点)で計3得点を挙げた。
準々決勝でU-20ウルグアイ代表に敗れ、2大会連続のベスト8に終わった。
6月26日、コパ・アメリカ1999前最後の親善試合となったラトビア戦 (3-0) でブラジル代表初出場を果たし、コパ・アメリカ1999中に代表初得点を記録した。
コパ・アメリカが閉幕して1週間後にはFIFAコンフェデレーションズカップ1999に招集され、メキシコに3-4で敗れた決勝以外の全ての試合で得点した。
特に準決勝のサウジアラビア戦 (8-2) ではハットトリックを達成し、大会得点王と大会最優秀選手賞を同時受賞した。
2000年前半にはCONMEBOLプレオリンピック大会 (CONMEBOL Men Pre-Olympic Tournament) に出場し、7試合で9得点を挙げて優勝に導いた。
同年夏にはU-23ブラジル代表としてシドニーオリンピックに出場したが、優勝したU-23カメルーン代表に準々決勝で敗れた。
ロナウジーニョは4試合に出場し、U-23カメルーン戦での1得点に終わった。
2002年には初めてのFIFAワールドカップとなる2002 FIFAワールドカップの代表メンバーに選ばれ、コパ・アメリカ1999を共に制したロナウドやリバウドなどと共に脅威的な攻撃陣を構成した。
いわゆる3Rである。
大会を通じて5試合に出場して2得点し、更にいくつかの重要なアシストでもチームに貢献した。
最初の得点はグループリーグの中国戦 (4-0) であり、次の得点は準々決勝のイングランド戦 (2-1) であった。
この試合で彼は35mの距離から直接フリーキックを蹴り、デヴィッド・シーマンが守るゴールネットを揺らした。
この得点の7分後にダニー・ミルズへのファールで退場処分を受けたが、フリーキックでの得点が決勝点となって準決勝進出を決めた。
準決勝は出場停止であったが、決勝のドイツ戦 (2-0) には先発出場し、5度目の優勝を果たした。
2006年にはドイツで開催されたワールドカップのメンバーに選ばれ、アドリアーノ、ロナウド、カカと共に構成されたマジック・カルテットの一員として全5試合に先発出場した。
しかしブラジル代表は全体的に低調で、この4人組は計5点しか奪えなかった。
ロナウジーニョはグループリーグの日本戦でジウベルトの得点をアシストしたが、代表キャリアの中でも最悪の大会となり、大会を通じて無得点1アシストに終わった。
準々決勝のフランス戦 (0-1) では何もできず、ブラジル代表は枠内シュートを1本しか打てない体たらくで敗退が決まった。
この代表チームはブラジル帰国後にファンやメディアの批判にさらされ、フランス戦の2日後の7月3日には、チャペコ (Chapecó) にあった7.5m(23フィート)ものグラスファイバーと樹脂製のロナウジーニョの彫像が過激なファンによって破壊された。
この彫像は2004年にFIFA最優秀選手賞受賞を記念して設立されたものだった。
同じ日、バルセロナに戻ったロナウジーニョは自宅にアドリアーノを招いてパーティを催し、ナイトクラブで早朝まで夜遊びを続けた。
このことは多くのブラジルのファンに「努力の足りないブラジル代表に裏切られた」という感情を抱かせた。
コンディションを取り戻した後は、2010年5月11日に2010 FIFAワールドカップのブラジル代表候補30人に選ばれ、自身も南アフリカ行きを熱望していたが、ドゥンガ監督は本大会に出場する23人のメンバーからロナウジーニョを除外した。
ジャーナリストの中には、ロナウジーニョ、アレシャンドレ・パト、アドリアーノ、ロナウドのような選手を選外とすることはブラジルの伝統的なプレースタイルであるJoga Bonitoを放棄する兆しであると主張する者もいた。
2011年9月5日のガーナとの親善試合で10ヶ月ぶりに代表に復帰すると、得点こそ奪えなかったものの好調をみせ、監督のマノ・メネゼスに「彼を代表へ復帰させなければならない」と言わしめた。
同年10月11日のメキシコとの親善試合では代表では4年ぶりとなる得点を挙げ、勝利に貢献した。
エピソード
2008年4月、アムウェイのサプリメントブランドであるニュートリライトとグローバル契約を結んだ。
ナイキのCMにも多く出演しており、主にその華麗なボール捌きを題材にしている。
特に、ボールを一度も落とす事なく4連続でクロスバーに当てると言う映像は、実際のプレーなのか合成映像なのか論争になり、現在も真偽は不明だが本人は合成であることを否定している。
ナイキジャパンのスタッフで、現地にいた人間は「あれは実際にやったプレー」と証言している。
2006年にはナイキとの縁で、ファンであるマイケル・ジョーダンと対談した。
スーパースターであるロナウジーニョも、さすがに憧れのジョーダンの前では子供のように目を輝かせていた。
2006年には、ゴマブックスから人生を叙事的につづった『ロナウジーニョ The Smiling Champion』が出版された。
W杯やコンフェデ杯などでは、セレソンの中で率先してサンバを歌っている姿などが見かけられる。
サンバ楽器のパンデイロの演奏の腕前はプロミュージシャン並みだと言われている。
2006年には彼自身がサンバなどのブラジル音楽を選曲したコンピレーションCD「ゴー!ゴー!ロナウジーニョ」が発売されており、1曲目では彼がサンバを歌っている曲が聴ける。
大の負けず嫌いで、勝負事では手を抜かないことは有名だが、反面 燃え尽き症候群のようなことも多々見られる。
日韓W杯優勝、05-06CL優勝後のロナウジーニョの言動の変貌ぶりは周りの人間を驚かせたという。
試合中もサッカーを楽しむことを忘れない選手であり、たびたび笑顔をちらつかせプレーしている。
これほど笑顔を絶やさずプレーする選手は、かつてのセレソンの英雄ガリンシャとロナウジーニョをおいて他にいないと言われている。
世界屈指の人気選手であり、Twitterのフォロワー数は2014年6月現在で約968万人である。
世界のあらゆるアスリートの中でもクリスティアーノ・ロナウド、カカ、レブロン・ジェームズ、ネイマールに次いで5番目に多い。
1993年に13歳だったロナウジーニョは、高校のある大会で1試合に23得点も挙げたという。
プロの世界では23得点は1シーズンをかけても取れない選手が多い。
得点王を狙っているストライカーだけがそれぐらいのゴールの数にたどり着くのだ。
確かに高校サッカーのレベルはプロの世界と比べれば低いし、ロナウジーニョの故郷ブラジルでは守備の教育が浅いと言われている。
しかし、1試合で23得点というのは、4分に1得点のペースでゴールを奪い続けるということ。
「すごい」としか言えない出来事だ。
プレースタイル
当代最高のスキルを持つ選手と称される。
高い得点能力を持つためウィングや中央のいくつもの攻撃ポジションをこなすことが出来、またミッドフィルダーでは典型的な10番のようにプレーしているがフォワードやウィンガーのようにも展開する。
非常にクリエイティブなプレイヤーであるにもかかわらずペナルティエリアの内外で正確なフィニッシャーであり、またフリーキックやペナルティキックのスペシャリストである。
加速力・敏捷性・バランス・ボールコントロール・ドリブル能力が特に賞賛されており、1対1の状況でフェイントを使い個人で抜くことが出来る。
特に1970年代のブラジルのスター・リベリーノから学んだ「エラシコ」は彼の得意技の一つである。
ESPNは彼を速さ・精力性・巧みさ・トリッキーさ・スキルフル・奔放さを持つ司令塔と称している。
ロナウジーニョは独創的なプレーの数々で、内容のない退屈な試合を充実したものにする力を持っていると言われている。
相手3人をかわすドリブル、ループシュート、ソンブレロ(ボールをふわっと浮かせて抜くフェイント)と多才な技のオンパレードを持つ。
あるときは至極のソリスト、またあるときはオーケストラの指揮者であったロナウジーニョは、その際限のない創造力で様々なフェイントやドリブル、他に類のないプレーの数々を生み出して、誰も近づきえない存在であったのは間違いない。
称賛の声は高くサッカーのレジェンドと比較を耳にする。
すべてを兼ね備えたその姿に、往年の名選手たちのイメージをオーバーラップさせる。
元ブラジル代表のトスタンによればロナウジーニョは、リベリーノのドリブル、ジェルソンの視野の広さ、ガリンシャの無遠慮さ、ジャイルジーニョのスピード、ジーコの技、ロマーリオの創造性を持ち合わせているという。