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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

ジョージ・ベスト

サッカー

概略

ジョージ・ベストのプレイ集【変幻自在のエル・ビートル】
国籍 北アイルランドの旗 北アイルランド
生年月日 1946年5月22日
出身地 ベルファスト
没年月日 2005年11月25日(59歳没)
身長 174cm
体重 65kg

 

ポジションはフォワード(両ウイング)、ミッドフィールダー(両サイドハーフ)。

 

利き足は右。

 

愛称は「エル・ビートル」。

 

マンチェスター・ユナイテッドFCにおいてボビー・チャールトン、デニス・ロー等と共に「聖なる三位一体(ホーリー・トリニティ)」あるいは「黄金のトリオ」と呼ばれて1960年代に一時代を築き、それまで労働者階級のスポーツであったサッカーにおいて階級を超えた人気を博した。

 

アイドルのような容姿とピッチ上の活躍からエル・ビートルや5人目のビートルズと呼ばれた。

 

マンチェスター・ユナイテッドに在籍した11シーズンでリーグ優勝2回を果たし、1967-68シーズンには28得点を挙げ得点王に輝いた。

 

1968年にはUEFAチャンピオンズカップで優勝して史上最年少でバロンドールを受賞している。

獲得タイトル

クラブ

マンチェスター・ユナイテッド
  • フットボールリーグ1部1964年から1965年1966年から1967年
  • チャリティーシールド1965年1967年
  • ヨーロピアンカップ1968

個人

・バロンドール : (1968)
・FWA年間最優秀選手賞 : (1968)
・20世紀世界最優秀選手 16位 (1999年、国際サッカー歴史統計連盟)
・20世紀の偉大なサッカー選手100人 8位 : (1999)
・イングランドサッカー殿堂 : (2002)
・FIFA100 : (2004)
・ゴールデンフット賞 (all time legend) : (2005)

 

経歴

George Best- 'The Best Tribute'!
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1963-1974 イングランドの旗 マンチェスター・ユナイテッド 361 (137)
1974 → 南アフリカ共和国の旗 ジューイッシュ・ギルド 5 (1)
1974 → イングランドの旗 ダンステーブル・タウン 0 (0)
1975 イングランドの旗 ストックポート・カウンティ 3 (2)
1975-1976 アイルランドの旗 コーク・セルティック 3 (0)
1976 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス・アズテックス 23 (15)
1976-1977 イングランドの旗 フルアム 42 (8)
1977-1978 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス・アズテックス 32 (12)
1978-1979 アメリカ合衆国の旗 フォートローダーデール・ストライカーズ 28 (6)
1979-1980 スコットランドの旗 ハイバーニアン 17 (3)
1980-1981 アメリカ合衆国の旗 サンノゼ・アースクエイクス 56 (21)
1980-1982 アメリカ合衆国の旗 サンノゼ・アースクエイクス(室内) 21 (33)
1982 香港の旗 海峰 2 (0)
1982 香港の旗 香港流浪足球会 1 (0)
1983 イングランドの旗 ボーンマス 5 (0)
1983 オーストラリアの旗 ブリスベン・ライオンズ 4 (0)
1983 オーストラリアの旗 オズボーン・パーク・ガレブ 1 (1)
1983 イングランドの旗 ナニートン・タウン 0 (0)
1984 北アイルランドの旗 トーバーモア・ユナイテッド 0 (0)
代表歴
1964-1977 北アイルランドの旗 北アイルランド 37 (9)

 

15歳でトライアルに合格したが、英国サッカー協会の規定によりクラブは17歳以下の選手とプロ契約を結ぶことが禁じられていたため、週給4ポンドで靴の手入れや更衣室、トイレの掃除といった雑務をこなしつつチームで練習に励んだ

 

1963年5月22日、17歳の誕生日にマンチェスター・ユナイテッドとプロ契約を交わした。

 

リザーブチームが所属するセントラルリーグでトップチームへの昇格を目指して研鑽を重ねていたが、1963-1964シーズンの9月14日ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦、鼠径部を負傷していたイアン・モイアーの代役として7番ライトウィンガーで先発出場し、トップチームデビューを果たし、1-0の勝利に貢献した。

 

英国『ガーディアン』紙はこの試合のジョージ・ベストについて「ベストのサッカーは時として質の高いものだが、未熟さも見せた。(中略)六五分にベストはスタイルズにショートパスを入れて、それがゴールにつながった」と戦評している。

 

その後、レギュラーのイアン・モイアーが怪我から復帰したため、次の試合からはまたもリザーブチームで過ごしたが、12月28日のバーンリーFC戦で再び出場し、左足で初ゴールを決めた。

 

バーンリー戦の活躍でレギュラーに定着し、リーグ戦17試合に出場、4得点を挙げたが、チームは勝ち点4差でリヴァプールFCに届かず2位に終わった。

 

また、FAカップでは三回戦から準決勝でウェストハム・ユナイテッドFCに敗れるまでの全ての試合に出場し、3得点を記録している。

 

欧州カップ戦ではスポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルとの試合に出場し、欧州デビューを飾っている。

 

マンチェスター・ユナイテッドでの活躍が認められたベストは北アイルランド代表に初招集され、1964年4月15日のウェールズ戦で初出場した。

 

17歳での代表デビューは最年少出場記録であった。

 

この頃のベストは、17歳でデビューしたこと、右ウイングにポジションしていたこと、ドリブルが得意なことなどから往年の名手スタンリー・マシューズと比較されることが多かった。

 

1964-65シーズンは序盤こそチームとしての調子が上がらなかったが、新加入のノビー・スタイルズとの連携がかみ合ってくるにつれて勝ち点を重ねていき、最終的に26勝9分7敗で首位リーズと並んだ。

 

僅かながらマンチェスター・ユナイテッドが得点率差で逆転したため、8シーズンぶりにリーグ優勝を果たした。

 

ベストは代表戦で欠場した1試合を除いて全ての試合にフル出場し、通算10得点を挙げて優勝に貢献した。

 

2年目にして既にチームに欠かせない主力選手へと成長したベストは、活躍の度に全国紙に大きく掲載されるようになり、知名度が飛躍的に高まった。

 

1965-66シーズンのUEFAチャンピオンズカップ準々決勝では当時ヨーロッパ最強と目されていたSLベンフィカと対戦し、セカンドレグで2得点を決めて世界中に名を知らしめた。

 

1966-67シーズンは公式戦45試合すべてにフル出場し、2位のノッティンガム・フォレストFCに勝ち点4差をつけてのリーグ優勝に貢献した。

 

1967-68シーズンのUEFAチャンピオンズカップ準決勝ではレアル・マドリードと対戦し、ファーストレグで1ゴール、セカンドレグで1アシストを決めて勝ち抜けに貢献した。

 

決勝ではまたもやベンフィカと対戦し、延長前半に得点して初優勝に貢献した。

 

同シーズンのリーグ戦では28ゴールを挙げて得点王に輝き、マンチェスター・Uの選手としては3人目となるバロンドールを史上最年少で獲得した。

 

1969年夏にはデンマーク人女性と婚約するが、すぐに彼女への熱は冷め、11月には婚約を解消したため、訴訟問題に発展した。

 

この頃には飲酒量も多くなり、しばしば二日酔いで練習を無断欠席した。

 

12月3日のマンチェスター・シティFC戦では、判定に抗議して審判の手の中にあったボールをはたき落したため、4週間の出場停止と100ポンドの罰金処分を下された。

 

出場停止が明けて出場したFAカップ・ノーサンプトン・タウンFC戦では、ダブルハットトリック(6得点)を達成して気を吐いた。

 

1970年4月18日には、北アイルランド代表のスコットランド戦で審判に泥を投げ付け、退場処分を受けた。

 

ベストはたびたび判定にクレームをつけたため、1971年1月4日には英国サッカー協会の懲罰委員会から、6週間の執行猶予付き出場停止と250ポンドの罰金処分を受けた。

 

罰金額は過去最高額だった。

 

その4日後には、チェルシーFC戦に出場せずに恋人と食事しているところを見られ、メディアの注目の的となった。

 

1971年から72年には何度も脅迫状を受け、前述のトラブルなどもあってコンディションを落とした。

 

1972年5月20日、25歳にして現役引退を宣言したが、これはすぐに撤回された。12月19日には再び引退願いをクラブに提出し、今度は半年の間プレーから遠ざかった。

 

1973年10月6日にリザーブチームの試合で復帰し、10月20日のバーミンガム・シティFC戦で11カ月ぶりにトップチームのリーグ戦に復帰した。

 

1974年1月1日、クイーンズ・パーク・レンジャーズFC戦がマンチェスター・Uでのラストゲームとなった。

 

ベストがいなくなったマンチェスター・Uは1973-74シーズンを21位で終え、2部リーグに降格した。

 

南アフリカやアイルランド、スコットランド、オーストラリアなどのクラブを渡り歩き、アメリカでプレーした際にはペレと対戦したこともある。

 

北アイルランド代表では37試合出場し9得点を上げているが、同国自体は決して強いチームではなかった為、FIFAワールドカップに出場することはできなかった。

エピソード

George Best, The Best [Goals & Skills]

ポルトガルのスポーツ紙『ア・ボーラ』が「エル・ビートル」と呼びその活躍を取り上げると、サッカーそのものに関心が無い少女たちからもポップスター並にアイドル視されるようになる。

 

これは1960年代半ばのサッカー選手には前例の無い特異な現象であり、ベストは自伝『恵まれし者』で「人々は私についてあらゆることを知りたがった。サッカー観ばかりでなく、服や音楽の好みや、行きつけのクラブなども。突然私のやることなすことすべてが、ヒップでクールだということになった」と述べており、こうした現象について「私はひとつのアイコンになったのだと思う」と回顧している。

 

一挙手一投足を注目されるようになったベストは女性関係や夜遊びなどのスキャンダルについても頻繁に報道されるようになり、それがストレスとなってさらに酒を浴びるように飲み、アルコール依存症へと陥ってしまうなどの一面もあった。

 

こうした経緯もあってベストの妹、バーバラ・マクナリーは夫のノーマンとともに2006年に「ジョージ・ベスト基金」を立ち上げ、アルコール依存症患者に対する救済やアルコールに関わる医学研究への支援を行うことを表明した。

 

また、宗教的観点からベストの果たした功績について言及するものもいる。

 

ベストは北アイルランド出身でプロテスタント系の出自であったが、自身は宗派に固執せず、無頓着な態度を示していた。

 

アラン・ベアナーはこうした態度がカトリック色の強かったマンチェスター・ユナイテッドにおいてカトリック系住民とプロテスタント系住民の対立を止揚し、エキュメニカルな働きをしたと指摘している。

プレースタイル

George Best • Legendary Dribbling Skills

ジョージ・ベストと言えばその切れ味鋭いドリブルが有名だろう。

 

ドリブルで相手を抜く時に、子どもたちが最初に使う技は「切り返し」ではないかと思う。

 

最も単純なドリブルでありながら、けっこう奥が深い。

 

切り返しと言えば、まず思い浮かぶのがジョージ・ベストだ。

 

ベストはドリブルのポイントとして2つの「変化」を挙げている。

 

切り返しのキレが抜群だった。

 

密集に突っ込んでいってスラロームのようにかわしていく。

 

ボールと体の動きが一体になっているわけだが、ボールなしでも十分驚異的なバランス感覚。

 

ベストの周囲だけ重力がないみたいだった。

 

ドリブルの名手はたいがい切り返しの名手でもある。

 

ベストとクライフ以外にも多くの達人がいるが、その技自体の鮮やかさだけでなく、時代の先端を往く存在の尖り具合がキレを引き立てる背景になっていたことから、この2人が双璧だろう。

 

まだ映像がモノトーンの時代だがDFは平気で後ろからのスライディングを許されている。

 

それを凌駕するベストは何度もヒラリとかわす。後ろに目があるかのごとく。

 

足がもろに当たっても決して倒れない。

 

そのままバランスを建て直しゴールを決める。

 

相手の動きを読んだキックフェイント。

 

明らかにリズムの違うステップワーク。

 

右も左も同じ威力と精度で。

 

ヘディングも訳無く決める。

 

現在の選手はタックルを受けた時点でファールを主張し必ず倒れこむ。

 

しばしゲームは止まるのだ。

 

しかしジョージベストの場合は止まらない。

 

フィニッシュに至るまでゴールに突き進む。

 

練習は誰よりも早く走り、誰よりも長く練習し、左足が利き足の右足よりも動くように練習したとのこと。

 

ベストはイギリスが生み出したサッカー選手の中で最も天賦の才を備えた選手であり、ペレはベストについて「世界最高の選手」と評している。

 

ペレ、ヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ジネディーヌ・ジダンらと同じく、運動能力・判断力・創造性を総合してプレイを魅せることが出来る選手として評価されている。

 

緩急自在のドリブルを駆使して幾度も決定機を創出し、華奢に見える身体つきながら激しいタックルにもひるまず倒れないバランス感覚を持っており、こうした特質がファンの記憶に長く留めさせている。

 

またシュート能力そのものにも長け、ヒールキックやループシュートのようなトリッキーなものもあれば、相手選手の意表をついて遠距離からシュートを放ち得点を挙げることもあった。

 

一方で27歳という若さでマンチェスター・ユナイテッドでのキャリアを終えたことと、私生活の放蕩ぶりから「フィールドの内でも外でも、プレッシャーに耐えるには不十分な能力、人格、バックグラウンドを持ったサッカーヒーロー」と批判する声もある。

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