概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1954年7月15日(65歳) | ||
出身地 | ベル・ビジェ | ||
身長 | 182cm | ||
体重 | 78kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は左。
78年W杯でアルゼンチンの地元での初優勝に貢献した70年代の名選手。
同大会では6得点を挙げて得点王にも輝いている。
豪快な突破力と爆発的な得点力から「闘牛士(エル・マタドール)」の愛称を持った。
76年に地元ロサリオからバレンシア(スペイン)に移籍すると、いきなり2年連続でリーグ得点王を獲得して注目を集めた。
獲得タイトル
クラブ
バレンシアCF
・コパ・デル・レイ (1) : 1978-79
・UEFAカップウィナーズカップ (1) : 1979-80
・UEFAスーパーカップ (1) : 1980
・CAリーベル・プレート
・プリメーラ・ディビシオン (1) : 1981
代表
アルゼンチン代表
・FIFAワールドカップ (1) : 1978
個人
・FIFAワールドカップ得点王 (1) : 1978 (6得点)
・FIFAワールドカップ最優秀選手賞 (1) : 1978
・アルゼンチン最優秀選手賞 (1) : 1978
・ピチーチ賞 (2) : 1976-77 (24得点), 1977-78 (28得点)
・南米年間最優秀選手賞 (1) : 1978
・FIFA 100 : 2004
・南米プレーヤー・オブ・ザ・センチュリー 23位 : 2006
経歴
クラブ
父親のマリオもサッカー選手であった。7歳の時にジュニアチームでサッカーを始め、14歳の時に地元のタジェレス・デ・コルドバの下部組織に加わった。
1971年、インスティトゥートACコルドバからデビューし、オズワルド・アルディレスなどとともにプレー。
1974年にCAロサリオ・セントラルに移籍し、同年にはプリメーラ・ディビシオンで25得点を挙げて得点王に輝いた。
セントラルでは105試合で85得点を記録して傑出したゴールスコアラーとしての地位を確立した。
1976年にリーガ・エスパニョーラのバレンシアCFに移籍し、1976-77シーズン(24得点)と1977-78シーズン(28得点)には2シーズン連続でピチーチ賞(得点王)のタイトルを獲得した。
スペインでの活躍や1978 FIFAワールドカップでの活躍などから、1978年にはベネズエラのエル・ムンド誌が選出する南米年間最優秀選手賞を受賞した。
1978-79シーズンにはコパ・デル・レイで優勝し、1979-80シーズンにはUEFAカップウィナーズカップで優勝。
1980年にはUEFAチャンピオンズカップ王者のノッティンガム・フォレストFC(イングランド)を破ってUEFAスーパーカップのタイトルも獲得した。
1981年には母国のCAリーベル・プレートに移籍したが、再びスペインに戻ってバレンシアとエルクレスCFでプレー。
30代となってからはオーストリアン・ブンデスリーガのクラブに在籍した。
1992年にいったん現役引退したが、1995年に現役復帰して1996年までプレーした。
代表
アルゼンチン代表としては43試合に出場して20得点し、1974 FIFAワールドカップ、1978 FIFAワールドカップ、1982 FIFAワールドカップの3回のFIFAワールドカップに出場した。
1973年9月23日、ボリビア戦でアルゼンチン代表デビュー。
20歳だった1974年には西ドイツで開催された1974 FIFAワールドカップに出場したが、6試合出場無得点であった。
1978年にはセサル・ルイス・メノッティ監督によって母国開催の1978 FIFAワールドカップのメンバーに選出されたが、アルゼンチン国外でプレーする選手はケンペス(スペインのバレンシア所属)ただひとりであった。
メノッティ監督は、メンバー発表の際にケンペスを「彼は屈強で、技術があり、スペースを作るのが巧みで、強烈なシュートを放てる。違いを生み出せる選手であり、センターフォワードのポジションでプレーできる」と表現した。
イタリア、フランス、ハンガリーと同組となった1次リーグでは無得点に終わったが、ブラジル、ポーランド、ペルーと同組となった2次リーグでは、ポーランド戦とペルー戦でそれぞれ2得点し、首位で決勝に進出。
ポーランド戦では手を使って失点を阻止し、ポーランドにPKが与えられたが、ウバルド・フィジョールがPKをセーブして失点を免れた。
決勝のオランダ戦 (3-1) は前半に先制点を挙げ、試合は延長にもつれ込んだが、105分に持ち前のドリブルから決めた得点が決勝点となった。
この大会では6得点を挙げて得点王と大会最優秀選手賞を受賞し、アルゼンチンの初優勝に大きく貢献した。
1982年にスペインで開催された1982 FIFAワールドカップでは5試合に出場したが、大会後は代表に選出されることもなくなった。
エピソード
1978年6月にアルゼンチンをW杯初優勝に導きレジェンドとなったケンペスだが、謙虚な彼は決してそのような称号を受け入れようとはしない。
「私はただ、アルゼンチンのサッカーの歴史の一端を担った大勢の中の一人に過ぎないよ」と彼は語る。
彼の謙虚さはその4年後のエピソードでもよく表れている。
選手名のアルファベット順で背番号を決めたアルゼンチン代表で、ケンペスは10番を手渡されることになったが、若きディエゴ・マラドーナがそのユニフォームを強く望んでいることが分かると、すぐにそれを譲ってしまったのだ。
プレースタイル
ポジションはセンターフォワードだがペナルティエリア内に陣取るセンターフォワードではなく、運動量の多いフォワードとして知られ、しばしばペナルティエリア外からもゴールを狙った。
長髪をなびかせる大きなストライドでの突破から強烈なシュートを放つストライカー。
その華麗でダイナミックなプレーにより「エル・マタドール=闘牛士」という異名をとります。
豊富な運動量で常に闘志あふれるプレーを見せた。
華麗さと豪快さを併せ持ち、高い得点能力を誇った。
メノッティ監督は、メンバー発表の際にケンペスを「彼は屈強で、技術があり、スペースを作るのが巧みで、強烈なシュートを放てる。違いを生み出せる選手であり、センターフォワードのポジションでプレーできる」と表現した。
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