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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

ロベルト・カルロス

サッカー

概略

【悪魔の左足】ロベルト・カルロス 特徴解説  HD 1080p Roberto Carlos みにフト(海外サッカー)
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
スペインの旗 スペイン
生年月日 1973年4月10日(47歳)
出身地 ガルサ
身長 168cm
体重 70kg

 

ポジションはディフェンダー(左サイドバック)。

 

利き足は左。

 

愛称は「風小僧」。

 

現役時代は世界最高の左サイドバックと賞賛されると共に歴代最高の左サイドバックと評される1人であり、果敢な攻撃参加によりサイドバックの概念を変えた選手。

 

1996年から2007年までスペインのレアル・マドリードに所属し、「銀河系軍団」と称されるスタープレーヤー軍団の一員として、黄金期を支えた。

 

その強力なキックは悪魔の左足と呼ばれる。

 

日本ではロベカルの愛称で親しまれている。

 

獲得タイトル

 

クラブ

パルメイラス

・セリエA:1993, 1994
・サンパウロ州選手権:1993, 1994
・リオ-サンパウロトーナメント:1993

レアル・マドリード

・リーガ・エスパニョーラ:1996-97, 2000-01, 2002-03, 2006-07
・スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1997, 2001, 2003
・UEFAチャンピオンズリーグ:1997-98, 1999-00, 2001-02
・トヨタカップ:1998, 2002
・UEFAスーパーカップ:2002

フェネルバフチェSK

・トルコスーパーカップ:2007, 2009

 

ブラジル代表

・オリンピック:銅メダル 1996
・コパ・アメリカ:1997, 1999
・FIFAコンフェデレーションズカップ:1997
・FIFAワールドカップ:2002

 

個人

 

・FIFAワールドカップベストイレブン:1998, 2002
・20世紀の偉大なサッカー選手100人:64位 1999
・UEFA最優秀DF賞:2001-02, 2002-03
・UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー:2002, 2003
・FIFA 100:2004
・ゴールデンフット賞:2008
・ブラジル全国選手権ベストイレブン:2010

 

経歴

Roberto Carlos, El Hombre Bala [Goals & Skills]
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1991-1993 ブラジルの旗 ウニオン・サンジョアン
1993-1995 ブラジルの旗 パルメイラス 44 (3)
1995-1996 イタリアの旗 インテル・ミラノ 30 (5)
1996-2007 スペインの旗 レアル・マドリード 370 (47)
2007-2009 トルコの旗 フェネルバフチェ 65 (6)
2010-2011 ブラジルの旗 コリンチャンス 35 (1)
2011-2012 ロシアの旗 アンジ・マハチカラ 29 (4)
2015 インドの旗 デリー・ディナモス 3 (0)
代表歴
1992-2006 ブラジルの旗 ブラジル 125 (11)

 

クラブ

 

3人の姉を持つ末っ子として出生し、幼少期から父と共に働き貧しい家庭を支えた。

 

自宅から20kmの距離にある繊維工場まで通うバス代が払えなかったため、いつも走って通っていた。

 

また、少年時代は家から学校までの距離が十数キロあったらしいが、毎日走って通学していたという。

 

このような環境であったため、13歳までサッカーボールを蹴ったことすらなかった。

 

地元のクラブであるウニオン・サンジョアンでキャリアをスタートさせ、1993年にパルメイラスへ移籍。

 

直ちに頭角を現しジーニョやエバイールらと共に1993年、1994年のブラジル全国選手権連覇に貢献した。

 

この活躍によって1995年にイタリアのインテルへ移籍。

 

開幕戦でいきなり直接FKをたたき込み、2試合目でも浮き球で得点を決めるなど好スタートを切ったが、監督のロイ・ホジソンは彼を左ウイングの位置で起用する事を望み、左サイドバックでのプレーを望むロベルト・カルロスにとっては不本意なシーズンとなった。

 

イタリアサッカーに順応できなかったロベルト・カルロスに対し、レアル・マドリードのファビオ・カペッロが獲得を試み説得を行った。

 

1996年にスペインのレアル・マドリードへ移籍。

 

その際の移籍金はわずか360万ユーロであった。11シーズン在籍し、通算512試合出場65得点を記録、リーグ通算370試合出場46得点を左サイドバックのポジションで記録した。

 

10年近くの長きに渡り不動のレギュラーとして君臨し、非常に攻撃的なプレーで果敢にオーバーラップを仕掛け、左サイドからの高速グラウンダークロスにラウール・ゴンサレスがニアで飛び込む得点パターンは相手チームに脅威を与え、多くの得点を記録し数々のタイトル獲得に貢献した。

 

クラブでは慢性的にサイドバックの層が手薄でありバックアップを務める選手が未熟だったこともあって、ロベルト・カルロスが欠場せざるを得ない試合は前述のような攻撃もなくなって攻撃力が大幅に低下してしまうことになり、その存在価値はクラブにとってとても大きなものであった。

 

UEFAチャンピオンズリーグ 1997-98決勝ではミヤトビッチの決勝点に繋がるプレーで優勝に貢献、UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02、バイエル・レバークーゼン戦においては、決勝点となるジネディーヌ・ジダンのボレーシュートをアシストした。

 

2003年にフェルナンド・イエロ、クロード・マケレレという守備的な選手が移籍し、攻守のバランスが崩壊してからは彼の評価は無難なものになったが、それでも攻撃面では高いパフォーマンスを維持し続けた。

 

2005年、ブラジル人FWロビーニョの入団後はクラブのEU外国籍の選手枠を空ける為にスペイン国籍を取得した。

 

更にアルフレッド・ディ・ステファノを抜いてレアル・マドリードで最も多くの試合に出場した外国人選手となった。

 

2006年のドイツ・ワールドカップ終了後にブラジル代表を引退。

 

以降はクラブチームでの活動に専念している。

 

2007年冬の移籍市場でマルセロ、同夏の移籍市場でガブリエル・エインセ、ロイストン・ドレンテと左サイドバックでプレーできる選手が加入。

 

入れ替わるように2007-08シーズンからは同郷のジーコが監督を務めていたトルコのフェネルバフチェへ移籍し2年契約を結んだ。

 

フェネルバフチェでの初試合でベシクタシュを下し、トルコスーパーカップを獲得した。

 

2007-08シーズン終盤で怪我をしてしまい、フェネルバフチェは、ガラタサライとの優勝争いから脱落してしまう。

 

2010年1月、ブラジルのコリンチャンスへ移籍し2年契約を結び、ブラジル代表やレアル・マドリードで共にプレーしたロナウドとチームメイトとなった。

 

2011年2月にコリンチャンスとの契約を解除し、ロシアのアンジ・マハチカラに移籍した(2年半契約、年俸500万~650万ユーロ)。

 

守備的MFでのポジションでプレーし、3月8日以降はキャプテンも任された。

 

2011年9月、所属するFCアンジ・マハチカラの監督解任に伴い、選手兼任コーチに就任。

 

2012年、現役引退を表明した。

 

代表

 

ブラジル代表には1992年2月26日に行われたアメリカ合衆国代表との国際親善試合でデビューして以来、125試合出場24得点を記録した。

 

また、ブラジル五輪代表として1996年のアトランタオリンピックにも出場して銅メダル獲得に貢献。

 

日本においてマイアミの奇跡と呼ばれている試合にもスターティングメンバーとして出場していた。

 

1998 FIFAワールドカップフランス大会では7試合全試合に出場した。

 

2002 FIFAワールドカップ南米予選ではパラグアイ代表のゴールキーパーホセ・ルイス・チラベルトから顔に唾を吐きかけられた。

 

チラベルトはこの件で国際サッカー連盟から3試合出場停止処分を受けたが、この行為に至った経緯に人種差別発言があったことを示していた。

 

本大会ではグループリーグのコスタリカ戦を除く6試合に出場。グループリーグの中国戦ではフリーキックから得点を決める等、ブラジルの5度目の世界制覇に貢献した(当時のフォーメーションは 3-5-2 でポジションはウイングバック)。

 

2006年のFIFAワールドカップドイツ大会の準々決勝のフランス戦の敗退を最後に代表から引退した。

 

その後、コリンチャンスへ移籍した2010年1月、ヘジ・グローボで2010年ワールドカップへの出場希望を述べた。

エピソード

ロベカル 見ないと後悔する超弾丸シュートTop5!フリーキック・ゴール サッカーブラジル代表

ロベルト・カルロスという名前は、彼の父親が歌手のロベルト・カルロスから拝借した。

 

歌手のロベルトもその事には、大いに感謝している。

 

奔放な女性関係で知られ、最初の妻・アレクサンドラ元夫人との間には2子と養子1人を儲けている。

 

2009年に再婚した理学療法士のマリアナ夫人との間にも2子を儲けているが、他にも関係を持った4人の女性との間に4人の子供がおり、養子を含めて計9人の子供がいることを明かしている。

 

 

2005年6月24日、ブラジル南東部のベロオリゾンテにて彼の乗った車が銃を持った2人組に襲われるというトラブルに見舞われた。

 

その時彼は偶然にも携帯電話にて生放送のラジオ番組に出演中であり、彼の悲鳴や強盗が窓を叩く音が生中継された。

 

現役時代には引退後は競走馬の育成をするのが夢だと語っていた。

 

現在の副業はクラレンス・セードルフと共同でのバイクチームの運営である。

 

プライベートでは福祉活動にも精力的で、地元ブラジルのサンパウロ州アララス市には彼の寄付で建てられた保育園がある。

プレースタイル

filho do vento(風小僧)の異名を持つ快速を活かし、ラウール・ゴンサレスから「DFの仮面を被ったFWだ」と評された攻撃的サイドバック。

 

レアル・マドリード時代の2005-06シーズンのフィットネステストで、当時32歳にして持久走のタイムがチームトップであり、100m走も10秒9と唯一の10秒台でトップであった。

 

短距離、中距離、長距離のどの走力においてもトップレベルであることから、1人のスプリンターとして「究極のアスリート」と呼ばれることがある。

 

ドリブルやパスも非常に上手く、アウトサイドに引っ掛けたスライス系のシュートを得意としている。

 

独特の長い助走から「悪魔の左足」と評される左足から繰り出す強烈なフリーキックを代名詞としており、時速140kmを超えるシュートは「凶器の弾丸」と呼ばれている。

 

有名なゴールには1997年6月3日、トゥルノワ・ド・フランスのフランス戦でのフリーキックなどが挙げられる。

 

ゴール前約35mの地点から、長い助走から左足で放たれたシュートは、ボールが一旦右に行った後、左方向に鋭くカーブして、ゴールポストに当たり、入った。

 

仏代表GKバルテズは一歩も動けなかった。

 

このフリーキックは秒速30m程度と推定され、回転数が少ないことからボールの中心近くからインステップ気味のアウトサイドキックで蹴ったものと思われる。

 

フランスの物理学者たちは、まるで物理学を無視するかのようなこのフリーキックを一丸となって解明しようとし、2010年、遂に数学的に解明した。

 

そのプレースタイルは、かつて3度FIFAワールドカップに出場した元ブラジル代表のブランコに最も影響を受けたとされており、ロベルト・カルロス本人も歴代最高のサイドバックとしてブランコの名前を挙げている。

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