概略
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1929年10月22日 | ||
出身地 | ![]() |
||
没年月日 | 1990年3月20日(60歳没) | ||
身長 | 189 cm | ||
体重 | 82 kg |
ポジションはゴールキーパー。
利き足は右。
非常に長い腕と、黒いユニフォームと黒いグローブを付けていた風貌から「黒蜘蛛」または「黒豹」と呼ばれた。
しばしばサッカー史上最高のゴールキーパーと評される。
1963年、2020年現在までにGKで唯一となるバロンドールを受賞している。
彼はディモナ・モスクワとソ連代表のGKとして438試合に出場し、209試合で完封しています。
彼が出場した試合は、48%の確率で完封していたことになります。
まさに伝説のGKです。
1998年にはFIFAの20世紀ワールドチームのGKに選ばれた。
FIFAワールドカップの大会最優秀GKに与えられる賞には、1994年大会から2006年大会まで「ヤシン賞」と名付けられている。
獲得タイトル
ソビエト連邦代表
・オリンピック優勝1回:1956
・欧州選手権優勝1回:1960
ディナモ・モスクワ
・ソ連リーグ優勝5回:1954, 1955, 1957, 1959, 1963
・ソ連カップ優勝3回:1953, 1967, 1970
個人タイトル
・バロンドール:1963
・ソ連年間最優秀GK(アガニョーク誌選定):1960, 1963, 1966[2]
・20世紀世界最優秀GK 1位 (1999年、国際サッカー歴史統計連盟)
・20世紀の偉大なサッカー選手100人(ワールド・サッカー誌選定) 11位(GKとしては最上位):1999
・ロシア・ゴールデンプレイヤー(1954年から2003年の間の同国最優秀選手):2004
・UEFAゴールデンジュビリーポール 8位(GKとしては2位):2004
・20世紀最優秀ゴールキーパー(IFFHS選定)[8]
・20世紀ワールドチーム:1998
・スポーツマスター:1957
・レーニン勲章:1967
・社会主義労働英雄:1990
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1949-1970 | ![]() |
326 | (1) |
代表歴 | |||
1954-1970 | ![]() |
78 | (0) |
6歳で母親が結核のため亡くなり、第二次世界大戦の影響で11歳の時にモスクワ近郊の村にある軍用機の部品工場で父と共に働き、16歳の時には貧しい食生活の影響で胃潰瘍を患い黒海沿岸にある療養施設へ入るなど、苦労の多い少年時代を過ごした。
1944年、戦争による中断期間が解けモスクワでサッカーの試合が再開されると、工場のチームの入団テストを受ける。
当初はストライカーになることを切望していたが、身長が高く跳躍力があったことから、チームのボスはヤシンにゴールキーパーのポジションを割り当てた。
1947年、兵役でモスクワに配属されると、軍のスポーツ部であるディナモ・スポーツ・ソサエティに入団、市議会が主催するチャンピオン・シップでデビューした。
同年7月、アイスホッケーのコーチであるアルカディ・チェルヌイシェフの目に留まり、HCディナモ・モスクワのユースへとスカウトされる。
1949年にFCディナモ・モスクワに加入。
当初は「タイガー」の愛称で知られた名GKアレクセイ・ホミッチの控えであり、その時期のヤシンは先述のHCディナモ・モスクワでアイスホッケーのGKとしてもプレーしていた。
1953年にホミッチの怪我を契機として正GKに定着し、1954年にソ連代表に初招集された。
ソ連代表として1956年メルボルンオリンピックで金メダルを獲得。
1960年に第1回欧州選手権(当時は欧州ネイションズカップと呼称)に優勝し、ベストイレブンにも選出された。
1958年スウェーデン大会に続き自身2度目のワールドカップとなった1962年チリ大会では、10分間に3点差を追い付かれ4-4で引き分けたコロンビア戦や、2度も平凡なロングシュートを失点して2-1で敗れたチリ戦などの不安定な守備を見せたことで、国内では敗退の責任を一身に背負わされる格好となり、その非難の激しさに一時期は真剣に引退を考えたほどだった。
しかし、その悪評は翌1964年に覆された。
彼はソ連リーグで27試合に出場して6失点しか許さず、この年にディナモは優勝した。
10月23日にイングランドで行なわれたFA創設100周年記念試合の世界選抜メンバーに招待されたヤシンは、イングランド代表の度重なる猛攻を無失点に抑えて、前半45分のみの出場ながらも見た者に強い印象を残した。
欧州選手権では準優勝を果たし、前回に続いてベストイレブンに選出された。
ソ連にとってワールドカップ最高成績の4位となった1966年大会では6試合中4試合に出場。
すでに40歳になっていた1970年大会でも控えGKとしてメンバー入りし、同年に現役を引退した。
1971年5月27日に行なわれた引退試合のディナモ・モスクワ対世界選抜には、会場のレーニン・スタジアムに10万人のファンが集まった。
世界選抜にはエウゼビオ(ポルトガル)、ボビー・チャールトン(イングランド)、ゲルト・ミュラー(西ドイツ)といった各国のスター選手たちが参加した。
エピソード
「黒豹」のあだ名の通り、黒いユニフォームでプレイしたことで知られるが、妻のバレンティナ・ティモフィーナ・ヤシーナは「(黒ではなく)濃い紺色だった」と証言しており、「春や秋にはピッチがぬかるんでいましたが、紺色だと泥がついても目立たなかったんです」と語っている。
またバレンティナは、ヤシンが怪我を防ぐ為に、暑い時期になっても厚手のユニフォームを脱ごうとしなかったことやパンツの下にキルトのトランクスも履いていたと証言している。
黒いユニフォームと共にキャップもヤシンの象徴として知られる。
ハイクロスの処理時にはキャップを脱いでヘディングでクリアし、またキャップを被るという光景は、毎回歓声が上がったという。
後に試合のスピードが上がりタフな展開へと変化していったことで、キャップを脱いでのヘディングは止めている。
1960年に第1回欧州選手権でソビエトが優勝した際には、試合終了のホイッスルと同時にピッチへとなだれ込んだ観客にキャップを盗まれるという事件も発生した。
胃癌により他界しているが、妻のバレンティナによれば生前のヤシンは異常なほどの胃酸過多で、常に胃痛に悩まされていたという。
ポケットに必ず重炭酸塩を入れ、それを飲む為の水も可能な限り携帯していた。
その症状は水を持っていない時に胃痛が起こると、水を持って来てもらうのを待っていられないほどの激痛だったと証言している。
2019年現在GKとして唯一バロンドールを受賞しているが、受賞の際に世界最高のキーパーは自分ではなくヴラディミル・ベアラだと主張した。
ヤシンがサッカーを本格的に始めたのは13才の時に地元の工場で働き始めてから、でもその工場にあったサッカーチームでフォワードとしてプレーしていました。
その後その長身を買われてキーパーをすることが多くなり(とりあえずそのチームで一番の長身だったそうです)、メキメキと頭角を現していきました。
しかしキーパーとしてはむしろアイスホッケーで活躍していて、一時はサッカーよりもアイスホッケーを中心にプレーしていた時代もありました。
彼は若い頃からスポーツ万能で、いくつものスポーツで活躍していたそうです。
彼のするどい反射神経はアイスホッケーのゴールキーパー(ゴールテンダー)で養われたものかもしれません。
なにしろアイスホッケーはゴールは小さいものの、あの小さなパック(硬い!)を長い木のスティックで打ってきます。
トップ選手になるとその速度は実に180kmに達するそうです。
その後1950年、20才で名門「ディナモ・モスクワ」に入ったのですが、当時ディナモのゴールマウスは名手アレクセイ・コミーチが守っており、なかなか出場機会には恵まれませんでした。
コミーチのケガでようやく出場機会がまわってきたのは1953年のことです。
しかしその間もディナモのアイスホッケーチームの方でゴールキーパーとして出場しており、その1953年にはアイスホッケーリーグの方で優勝しています。(元々アイスホッケーの方でディナモ入りして、コミーチに誘われてサッカーに転向したという話もあります)。
ヤシンは人間的にも非常に素晴らしい人物だったそうで、1970年に惜しまれつつも引退。
翌年行われた引退試合では、ベッケンバウアーやペレ、エウゼビオなども(ノーギャラで)かけつけ、10万人の観客が集まったというのは有名な話です。
当時のソビエトに西側の選手がこれだけ集まったというのはかなり異例のことでした。
その試合の収益金はすべてチェルノブイリ原子力発電所の事故の被害者の子供たちに寄付されたそうです。
引退後もディナモ・モスクワの職員として働き、ソビエトサッカー界に貢献し続けましたが、1984年に交通事故で右足を切断(血栓症という話もあります)してしまいました。
1988年のソウルオリンピックにもサッカー団長として参加していたそうですが、1990年3月20日、60才でこの世を去りました。
ソビエトの国民的英雄として尊敬を受けていたヤシン、ディナモ・モスクワのスタジアムには彼の銅像が作られ、いまでも献花が絶えないそうです。
後の世界的キーパーと言われたソビエトのリナト・ダザエフも1990年イタリアワールドカップに出場する際、ヤシンの墓参りをして優勝を誓ったそうです(結果は散々でしたが)。
プレースタイル
ヤシンのプレーの特徴は、がっちりした体格で非常にしっかりしたキャッチング、するどいダイビングセーブは見るからに「安定している」という印象があります。
特にダイビング中の空中での姿勢は非常にバランスがよく、それでいて力強いものを感じます。
非常にセービング技術が高く、彼からゴールを奪うのは至難の業でした。
真偽は不明だが語られるところによれば彼は150本以上のPKを止めたという話があります。
必要とあらば積極的にペナルティエリアの外にも飛び出すプレースタイルは同時代のほかのGKには見られない特長だった。
ヤシンは革新者であった。
彼はいち早く“スイーパー”ゴールキーパーとなった一人だ。
現在では一般的で、ドイツの名選手マヌエル・ノイアーをはじめ多くのゴールキーパーがこのスタイルでプレーしている。
1950年代当時は彼のプレースタイルは“サーカス”と呼ばれた。
しかしこれは時代の先取りだったのだ。
ヤシンはペナルティーエリア内を縦横無尽に動いて、シュートを止めるだけでなく、ディフェンダーのサポート、攻撃の起点になるというスタイルを確立しました。
当時は(バスケットの様に)ドリブルすればいくらでも動けたんです。
でもフィールダーがキーパーの前線へのパスを邪魔することが認められていました。
ヤシンは両手でドリブルしながら敵選手の間を抜けて移動し、絶好のボールを前線にフィードしていました。
また彼はカウンター攻撃を仕掛ける際の、クイック・スローを得意としていました。
コメント