概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1977年6月27日(42歳) | ||
出身地 | マドリード | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 74kg |
ポジションはフォワード(セカンドトップ)。
利き足は左。
愛称は「エル・ニーニョ(神の子)」。
レアル・マドリードとスペイン代表で一時代を築いたゴールスコアラー。
レアル・マドリードの歴代最多出場、2015年にクリスティアーノ・ロナウドに更新されるまでクラブ最多得点の記録保持者であり、レアル・マドリードの象徴的存在の選手。
欧州カップ戦における通算得点記録保持者でもある。
その他スペイン代表でも102試合に出場して44得点を挙げ、当時の歴代最多得点記録も持っていた。
2002 FIFAワールドカップ後から最後の代表招集まで主将を務めた。
その知名度の高さから2016年オリンピックのマドリード招聘のためにコペンハーゲンにて最終プレゼンを任された。
2015年よりLFPのアンバサダー(親善大使)を務め、また、FAOの大使としての活動も行なっていた。
レアル・マドリード、シャルケ04、アル・サッド、スペイン代表とキャリアのほとんどで背番号7を背負ってきた。
マンチェスター・ユナイテッドで背番号7を付けていたデビッド・ベッカムやクリスティアーノ・ロナウドも、レアル・マドリードではラウルが7を付けていることから別の番号を背負ってプレーした。
獲得タイトル
クラブ
スペイン
・リーガ・エスパニョーラ – 1994-95, 1996-97, 2000-01, 2002-03, 2006-07, 2007-08
・スーペルコパ・デ・エスパーニャ – 1997-98, 2001-02, 2003-04, 2008-09
・UEFAチャンピオンズリーグ – 1997-98, 1999-00, 2001-02
・UEFAスーパーカップ – 2002-03
・トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ – 1998, 2002
ドイツ
・DFBポカール – 2010-11
・DFLスーパーカップ – 2011
カタール
・カタール・スターズリーグ – 2012-13
・アミールカップ – 2014
アメリカ合衆国
・北米サッカーリーグ – 2015春
・北米サポーターズトロフィー – 2015
・サッカーボウル – 2015
個人
・最優秀新人選手(リーガ・エスパニョーラ) – 1995
・最優秀スペイン人選手 – 1997, 1999, 2000, 2001, 2002
・リーガ・エスパニョーラ得点王 – 1998-99, 2000-01
・UEFAチャンピオンズリーグ得点王 – 1999-00, 2000-01
・UEFA年間最優秀FW – 1999-00, 2000-01, 2001-02
・UEFAチャンピオンズリーグ最優秀FW – 2000-01, 2002-03
・インターコンチネンタルカップ マン・オブ・ザ・マッチ – 1998
・UEFA欧州選手権2000 チーム・オブ・ザ・トーナメント – 2000
・IFFHS 世界得点王 – 1999
・FIFA 100 – 2004
・トロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノ – 2007-08
・マルカ・レジェンダ – 2009
・ドイツ ゴール・オブ・ザ・イヤー – 2011, 2013
・カタールリーグ フェアプレー賞 – 2013
・NASL月間最優秀選手 – 2015.5
経歴
1992年にレアル・マドリードのユースに移籍。
その2年後、当時監督をしていたバルダーノによってトップチームに昇格し、1994年10月のサラゴサ戦でクラブ最年少記録の17歳と4ヶ月でトップチーム・デビュー。
しかし、その試合ではあまり活躍できず、さらにはチームも負けてしまい、ラウールとバルダーノは批判を浴びた。
しかし翌週のアトレティコ・マドリード戦に先発出場したラウールは、ミッチェルとサモラーノのゴールをアシスト、37分にはラウドルップのアシストからプロ入り初得点を決める活躍を見せた。
その後、チームの中心人物であったブトラゲーニョからポジションを奪った。
1995年にはスペイン代表としてワールドユース選手権に出場。5試合で3得点を挙げた。
また、1996年に行われた自国開催のUEFA U-21欧州選手権にも出場、9試合で8得点を挙げる活躍をし、スペインの準優勝に貢献した。
ラウールは各世代の代表ユースで、合計17得点を記録した。
1998年のトヨタカップ、ヴァスコ・ダ・ガマとの対戦では相手DF二人を軽々かわして決勝ゴールを決め、大会MVPを受賞した。
1998-99シーズンと2000-01シーズンの2度、ラ・リーガの得点王に輝き、UEFAチャンピオンズリーグでも1999-2000シーズンと2000-01シーズンに得点王になっている。
2001年には、バロンドールにおいて2位、FIFA最優秀選手賞では3位にそれぞれ選ばれた。
また、1999-00シーズンから2001-02シーズンまでの3年間、UEFA年間最優秀FW賞に選ばれた。
スペイン代表として臨んだEURO 2000の予選では、オーストリア代表との試合で4ゴールを挙げ、さらにその4日後に行われたサンマリノ代表戦でもハットトリックを記録。
最終的に予選8試合で合計11得点を記録した。
また、フェルナンド・イエロの代表引退、アル・ラーヤンSC移籍後はそれぞれでキャプテンを引き継いだ。
2002-03シーズン、クラブの銀河系政策により、コンビを組むFWが最高の連携を見せていたフェルナンド・モリエンテスやグティからロナウドへシフトした。
翌2003-04シーズンには、主力の守備的選手が移籍してチームバランスを失うという事態が生じ、運動量豊富なラウルは運動量のないロナウドのサポート的な役割が増大して組み立てや守備に走り回ることとなり、次第に自身の得点が減少していった。
2003年11月には、マドリード市内に所在するレイ・フアン・カルロス大学 (Universidad Rey Juan Carlos) のスポーツ施設入り口にエスタディオ・ラウール・ゴンサレス・ブランコ (El Estadio Raúl González Blanco) が設立された。
2005-06シーズン、UEFAチャンピオンズリーグのグループステージ第2節、オリンピアコス戦で通算50ゴールを記録し歴代1位になった。
また、スペイン代表の最多得点記録もかつて持っており、スペイン代表の800得点目と900得点目を決めたのも彼である。
2006年8月15日のアイスランドとの親善試合(0-0)で史上2人目の代表通算100試合出場を達成した。
レアル・マドリードでは国内リーグ制覇6回、UEFAチャンピオンズリーグ制覇3回、トヨタカップ勝利2回などのタイトルを獲得しているが、コパ・デル・レイは獲得していない。
また、ナショナルチームでは当時のスペイン代表歴代最多得点を記録している一方、大一番で不発に終わることが多く、タイトルを獲得できていない。
ここ数シーズンは所属するレアル・マドリードの不調と共にラウル自身の得点数が減っており、2004年の欧州選手権後はついに国内外から非難が集中し、2006年のワールドカップ後の2006年10月よりスペイン代表に招集されていない。
それについてレアル・マドリードのチームメイトであるグティは現在ラウールが代表に招集されていない事をおかしいとし「スペインの恥」と発言している。
この頃はメディアでラウルの放出についての報道が相次いだがチーム、ラウル本人ともこれを否定し残留している。
この際ラウルは「チームに必要とされている限り、ここ(レアル・マドリード)を出るつもりはない。」と語っている。
2006-07シーズン前、当時調子を落としていたラウルをクラブ上層部がレンタル移籍させる事で話を進めていたが、ファビオ・カペッロ監督が反対し放出を免れた。
カペッロは精神的な部分でクラブを支えるラウルの存在は絶対不可欠であると上層部を説得した、とカペッロ自ら語っている。
また、同年ルート・ファン・ニステルローイが加入し、出場機会が減少したロナウドが半年後に移籍した。
そしてそれまで迷走中だったマドリーはシーズン終盤戦に立て直り4シーズンぶりに優勝を飾った。
2007-08シーズン、シーズンを通して本来のセカンドトップで起用されるようになるとかつてのような得点力を取り戻し、前シーズンを大きく上回る得点を記録、リーグ優勝の原動力となった。
また、このシーズンより始まったトロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノの最初の受賞者となった。
2009年2月15日のスポルティング・ヒホン戦で2ゴールをあげ公式戦通算ゴール数を309とし、クラブ歴代の最多得点記録を持つアルフレッド・ディ・ステファノの307をも超えた。
2010年7月、レアル・マドリードを退団。
シャルケなど複数のクラブを渡り歩いたあと2015年現役引退。
エピソード
かつてライバルチームであったアトレティコ・マドリーのユースに所属していたことは有名。
当時のヒーローはポルトガル代表のパウロ・フットレ。
ラウールは読書家であり、愛読書はアルトゥーロ・ペレス=レベルテ。
また、狩りやスペイン音楽、闘牛も好む。
優勝時には、レアル・マドリードのエンブレムの入ったカポーテで闘牛のパフォーマンスを行ったこともある。
ラウールがレアル・マドリードから移籍した後は、このパフォーマンスはセルヒオ・ラモスに受け継がれた。
レアル・マドリードの一員として親善試合のため来日した際、フェルナンド・モリエンテスと共にフジテレビのバラエティ番組・めちゃ×2イケてるッ!のコーナー「やべっち寿司」に出演した。
その際にペナルティのワッキーが披露した芝刈り機のモノマネについて、すごく面白かったと語っている。
ゴールを決めた際に、結婚指輪にキスするゴールパフォーマンスは有名。
ワールドサッカーダイジェストのインタビューにて、試合前審判に指輪を外すよう言われたことは何度もあるが、そのたび隠して持ち込んでいたと話している。
他にはゴールを決めた際に背番号を指したりアシストした選手を指差して称えるパフォーマンスがある。
プレースタイル
素早い思考やスペース活用の上手さ、ゴールへの嗅覚を活かした、ゲルト・ミュラーやエミリオ・ブトラゲーニョのようなプレーが持ち味。
特にマークを外す動きとポジショニングの上手さは特筆される点だ。
シュートの精度や技術も高く、ヘディングも得意であり、ループシュートなどのテクニカルなシュートやペナルティエリア外からのミドルシュート、ドリブルからの得点などあらゆる形で得点することができた。
タックルやディフェンスもでき、フェルナンド・モリエンテスやロナウド、ルート・ファン・ニステルローイら様々なタイプのFWとコンビを組むことができた。
パスの受け手にも送り手にもなれる器用さを持ち、得点だけでなくアシストやチャンスメイクにも優れている。
セカンドストライカーとしての他にもサイドハーフとしてもプレーできるほか、1997-98シーズンなど攻撃的MFとしてプレーすることもあった。
また、運動量も豊富であり、自宅に低酸素室を設置して心肺の強化に努めている。
フェルナンド・イエロは、技術や上品さ、パフォーマンスからフェラーリに喩えて賞賛した。
ドン・バロン・アワードでは、最多の5度最優秀スペイン人選手に選ばれており、2004年にはFIFA 100にも選ばれている。
この賞に選ばれたスペイン人は、ラウールの他にはブトラゲーニョ、ルイス・エンリケの2人のみである。
フランチェスコ・トッティは「ラウールのような選手がバロンドールの受賞経験がないなんておかしな話だよ」と賞賛した。