概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1972年4月19日(48歳) | ||
出身地 | レシフェ | ||
身長 | 185cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ、左ウイング)。
利き足は左。
その類稀なる技術力に“レフティーモンスター”や“左足の魔術師”という呼び名で知られている。
ブラジルが生んだファンタジスタ。
試合を決定づける左足を持った天才。
1999年には世界最優秀選手と欧州最優秀選手(バロンドール)に選ばれ、2002年日韓W杯ではロナウド、ロナウジーニョらと共に3Rと呼ばれる攻撃陣を結成し、ブラジルの5回目の優勝に貢献した。
実家の家計が苦しく、ユース時代にはバス代を節約するために、19kmも離れた練習場まで歩いて通った。
また、プロになって初めてステーキを食べた時に、それまで栄養失調だったことから歯が抜け落ち、入れ歯になってしまった。
2008年10月には古巣モジミリンECの会長に就任した。
息子のリバウジーニョもプロのサッカー選手であり、2015年には自身が会長を務めるモジミリンECで親子競演を果たした。
タイトル
クラブ
パルメイラス
・セリエA : 1994
・サンパウロ州選手権 : 1994, 1996
バルセロナ
・UEFAスーパーカップ : 1997
・プリメーラ・ディビシオン : 1997-98, 1998-99
・コパ・デル・レイ : 1997-98
・コパ・カタルーニャ : 1999-2000
ミラン
・UEFAチャンピオンズリーグ : 2002-03
・コッパ・イタリア : 2002-03
クルゼイロ
・カンピオナート・ミネイロ : 2004
オリンピアコス
・ギリシャ・スーパーリーグ : 2004-05, 2005-06, 2006-07
・ギリシャ・カップ : 2004-05, 2005-06
ブニョドコル
・ウズベク・リーグ : 2008, 2009, 2010
・ウズベキスタン・カップ : 2008, 2010
代表
ブラジル代表
・FIFAコンフェデレーションズカップ : 1997
・コパ・アメリカ : 1999
・FIFAワールドカップ : 2002
個人
・1999年 – FIFA最優秀選手賞
・1999年 – バロンドール
・1999年 – コパ・アメリカ MVP 得点王 (5得点)
・1999年 – 20世紀の偉大なサッカー選手100人 51位 (ワールドサッカー誌選出)
・1999年 – 2000年 – UEFAチャンピオンズリーグ得点王 (10得点) (FCバルセロナ)
・2009年 – ウズベク・リーグ得点王 (20得点)
経歴
クラブ
SEパルメイラスでの活躍を経て1996年、当時ヴェルディ川崎から500万ドルのオファーがきていたが、スペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャに移籍。
初年度にも関わらず46試合で21得点という好成績を残し、移籍したロナウドの後釜としてFCバルセロナへと移籍した。
ルイス・フィーゴとパトリック・クライファートとともに強力3トップを形成。
バルセロナでは1997-98、1998-99シーズンでのリーグ連覇に貢献し、1998-99シーズンにはバロンドールとFIFA最優秀選手賞を受賞。
2000-2001シーズンから背番号が「11」から「10」になり、スター選手であるルイス・フィーゴがライバル関係にあるレアル・マドリードへ移籍したため、リバウドがエースとなった。
また2001-02シーズンでは、パトリック・クライファート、ハビエル・サビオラと共にトリデンテ(三叉の矛)とよばれるトリオの中心として、強烈な攻撃を披露していた、しかし、このシーズンのリバウドは怪我が多く、試合数得点数ともに加入以来最低の成績であった。
ルイ・ファン・ハール監督との折り合いが悪く、2002-03シーズンからファン・ハールがバルセロナの監督を再び就任することになると、2002年にACミランへ移籍した。
だが、イタリアのプレースタイルに馴染めず、更に自身の離婚問題でコンディションを崩し、さらにカカの台頭により出場機会に恵まれず、2003年に退団した。
その後ギリシャのオリンピアコスFCに移籍。
リーグの得点王になるなど中心選手としてリーグ3連覇に貢献したが、2006-07シーズンオフに契約交渉が決裂し退団。
ブラジルに帰国する予定であったが、家族がギリシャに残ることを希望したため、退団して2週間後にオリンピアコスのライバルであるAEKアテネFCと2年契約を結ぶ。
しかし、またもチームと軋轢が生じ、2008年8月29日、ウズベキスタンリーグ1部のFCブニョドコルと2年契約を結んだことがAEKアテネより発表された。
その後、クラブでは2連覇に貢献し、特に2009年シーズンにはリーグ得点王にも輝いた。
2010年8月にブニョドコルとの契約を解除して退団した。
その後、自身のツィッター上において、2011年にリバウド自身が会長を務めるモジミリンECで現役生活を再開することを発表した。
しかし、2011年1月23日にサンパウロFCへのレンタル移籍が発表された。
それからカブスコルプSCド・パランカと契約を結んだ。
そして2012-13シーズンからは、ADサンカエターノと1年契約で移籍し、2013年2月9日、移籍後初ゴールをあげた。
2014年3月15日、自身のインスタグラム内で現役引退を発表したが、2015年6月ブラジル2部で最下位に低迷するモジミリンECを救うために現役復帰を表明、7月7日ナウチコ戦で現役復帰後7月14日のマカエ戦では息子のリバウドJr (ヒバウド・ジュニオール、リバウジーニョとも) と親子揃って先発出場し、ともに得点をあげた。
翌8月に再び現役引退を発表。
代表
ブラジル代表としては1993年12月16日のメキシコ戦で代表デビューを飾る。
1996年アトランタオリンピックのブラジル五輪代表にオーバーエイジとして出場するが、自身のミスもあり準決勝で敗戦した。
この時のブラジル代表はフル代表と五輪代表の両方をザガロが兼務しており、アトランタ五輪での敗退の戦犯とされたリバウドは、五輪後しばらくフル代表に召集されなくなった時期があった。
しかしその後すぐに代表復帰を果たし、FIFAワールドカップではブラジルの栄光のNo.10を1998年と2002年の二大会にわたって背負った。
1998 FIFAワールドカップ大会では、準々決勝のデンマーク戦で当時世界最高のゴールキーパーと言われていたピーター・シュマイケルから2得点を奪うなど計3得点をあげたものの、優勝を逃した事もありブラジル国民を納得させることが出来なかった。
1999年のコパ・アメリカではロナウドとともに得点王になりMVPにも輝くと、2001年に行われた2002 FIFAワールドカップ南米予選では同国は苦戦を続けたが、10月7日のチリ戦で1得点を上げ本大会出場に貢献した。
2002年の本大会では5得点を決め決勝でも2得点に絡む活躍を見せ、代表で活躍出来ないと言われていた批判を一蹴し、ロナウド、ロナウジーニョ、カフー、ロベルト・カルロスらとともに5度目の優勝に大きく貢献した。
エピソード
「ファベーラ」と呼ばれる貧民街に育った彼は幼少期、その貧しさゆえに多くの困難に直面。
日々の食事すら満足に摂れない結果、栄養失調でほとんどの歯を蝕まれたことは、その後の人間性にも大きな影響を及ぼすこととなる。
学校や砂浜で果物を売って家族の生計を支えた彼はまた、歯だけでなく、極度のO脚にも苦しめられた。
そんななかでリバウド少年を励ましたのは、まず何よりも家族だ。
互いに苦労を分け合い、これを乗り越えた存在との絆は、89年に父親を交通事故で失ったことでますます強まり、現在に至るまで、彼の人生において最も大切なものとなっている。
そして、もうひとつがサッカー。
前述の歯の件もあって、人前に出るのが苦手だったリバウドだったが、そのプレーは人々の視線を独り占めにした。
少年にとって唯一の楽しみは、同時に家族が貧しさから抜け出すための希望でもあり、バス代を捻出できない彼は、自宅から15キロも離れた練習場に毎日、徒歩で通い続けた。
プレースタイル
左足から放たれる数々の創造的なプレー、シュート、FKなどどれもが語り草となる、クラッキ(名手)の名にふさわしいブラジル代表史上屈指のファンタジスタです。
左足での卓越したボールコントロールはもちろん、長いリーチを生かした懐の深いボールキープや相手の鼻先でドリブルの進行方向を変える繊細なタッチ、そしてミドルレンジからの強烈な一撃などが武器。
「魔法の左足」を駆使し、多くのチャンスを味方に供給するとともに、重要なゴールを量産し続けたサッカー王国・ブラジルの歴史に残る天才。