概略
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1972年11月4日(47歳) | ||
出身地 | リスボン | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはミッドフィールダー(右サイドハーフ)、フォワード(右ウイング)。
利き足は右。
愛称は「白豹」。
ポルトガル代表として127試合に出場するなど、黄金世代の中心選手として長らく代表を支えた。
その創造性とドリブル技術の高さから、1990年代で最も偉大な選手の一人とも評されている。
リーガ・エスパニョーラでは通算106アシストを記録しており、これはリオネル・メッシに次ぐ歴代二位の記録である。
2000年にはバロンドールを受賞し、翌年の2001年にはFIFA最優秀選手賞の受賞した。
また、2004年にはペレが作成した偉大な100人のサッカー選手のリスト、FIFA 100にも選出されている。
フィーゴは、スペインにおけるライバルチームとして知られるFCバルセロナとレアル・マドリードの双方でプレーした選手の一人でもある。
2000年に6000万ユーロでバルセロナからレアル・マドリードに移籍した際は、大きな物議を醸した。
獲得タイトル
クラブ
スポルティングCP
・ポルトガルカップ:1回 (1994-95)
FCバルセロナ
・UEFAカップウィナーズカップ:1回 (1996-97)
・UEFAスーパーカップ:1回 (1997)
・スペインリーグ1部:2回 (1997-98, 1998-99)
・コパ・デル・レイ : 2回 (1996-97, 1997-98)
・スペインスーパーカップ:1回 (1996)
レアル・マドリード
・スペインリーグ1部:2回 (2000-01, 2002-03)
・スペインスーパーカップ:2回 (2001, 2003)
・UEFAチャンピオンズリーグ:1回 (2001-02)
・UEFAスーパーカップ:1回 (2002)
・トヨタカップ:1回 (2002)
インテル・ミラノ
・セリエA:4回 (2005-06, 2006-07, 2007-08, 2008-09)
・コッパ・イタリア:1回 (2005-06)
・スーペルコッパ・イタリアーナ:3回(2005, 2006, 2008)
代表
U-20ポルトガル代表
FIFAワールドユース選手権:1回(1991)
個人
・欧州年間最優秀選手:1回 (2000)
・英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手:1回 (2000)
・FIFA最優秀選手賞:1回 (2001)
・リーガ・エスパニョーラ最優秀外国人選手:3回 (1998-99, 1999-2000, 2000-01)
・ポルトガル最優秀選手:6回 (1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000)
・プリメイラ・リーガ最優秀選手:1回 (1994)
・UEFAベストイレブン:1回 (2003)
・FIFA 100
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1989-1995 | ![]() |
137 | (16) |
1995-2000 | ![]() |
172 | (30) |
2000-2005 | ![]() |
164 | (38) |
2005-2009 | ![]() |
105 | (9) |
代表歴 | |||
1991-2006 | ![]() |
127 | (34) |
フィーゴはストリートでサッカーを始め、11歳の時、ポルトガルのスポルティングCPの下部組織に入団した。
あまりの学業の優秀さから、入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」という内容が含まれていた。
1989年からトップチームに昇格し、1994年にはプリメイラ・リーガ最優秀選手、1995年にはポルトガル最優秀選手に選出された。
1995年にユヴェントスFC、パルマFCが獲得に興味を示した。
ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマと契約し二重契約の状態となった。
そのためユヴェントスはイタリアサッカー連盟に契約の不服を訴え、協議裁定の結果、フィーゴはその後2年間の間イタリアのクラブと契約を締結する事を禁止された。
この出来事がきっかけでリスボンで居場所がなくなり、同年に移籍金225万ポンドでスペインのFCバルセロナへ移籍。
契約的にはパルマの選手でありながら、バルセロナの選手でもある形になっていたが、1996年夏にパルマはフィーゴの所有権をバルセロナに売却した。
パトリック・クライファート、リバウドと共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、ドリーム・チーム以降のバルセロナのシンボルとして支持を得た。
2000年には、欧州年間最優秀選手を受賞した。
2000年7月、フィーゴはバルセロナのライバルチームであるレアル・マドリードに、6000万ユーロの金額で電撃移籍を果たした。
レアル・マドリードでは、伝統的なライバル間の移籍というプレッシャーの中、ラウール・ゴンサレス、ロベルト・カルロス、翌2001年に加入したジネディーヌ・ジダンらと共に攻撃陣を形成し、銀河系軍団と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年にはFIFA最優秀選手賞を受賞した。
また、同クラブ在籍中にはリーガ通算100アシストという記録も達成した。
2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとしてトーマス・グラヴェセンが加入してからはスポルティングCP在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォーマンスを見せていたが、終盤にルシェンブルゴ監督との確執が生じ、それ以降は先発出場が激減した。
2005-06シーズンからは、前述の確執により、半ば喧嘩別れに近い形でインテルへ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した。
レアル・マドリード時代は限界説が囁かれたが、セリエAでもUEFAチャンピオンズリーグでも中盤の右サイドで活躍した。
2006年12月にサウジ・プレミアリーグの強豪アル・イテハドへのレンタル移籍が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は消滅した。
プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、2007-08シーズンもインテルで戦うことを決定した。
しかし、起用法などから徐々にロベルト・マンチーニ監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。
その後、2008-09シーズンからは同胞のジョゼ・モウリーニョがインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。
同シーズン、2009年5月30日に、現役引退をインテルの公式サイトで発表した。
そして、5月31日のアタランタ戦を最後に現役を引退した。
代表
1991年にはポルトガルU-20代表としてFIFAワールドユース選手権優勝に貢献。
ルイ・コスタ、パウロ・ソウザ、フェルナンド・コウト、ジョアン・ピントらと共にポルトガルの将来を担う「ゴールデン・ジェネレーション(黄金の世代)」と呼ばれた。
1991年10月16日にルクセンブルクとの親善試合で代表デビューを飾った。
当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ(2002 FIFAワールドカップ、2006 FIFAワールドカップ)、3度の欧州選手権(EURO1996・EURO2000・EURO2004)に出場した。
2000年のEURO2000では初戦のイングランド戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝のトルコ戦ではヌーノ・ゴメスへ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。
その後、一度は代表引退を表明していたが、2006 FIFAワールドカップ予選で復帰し、ポルトガル代表は無敗で予選を通過した。
本大会では、グループリーグ初戦のアンゴラ戦では得意のドリブルからアシストを見せるなど、ポルトガルの40年ぶりのベスト4進出に貢献。
ドイツとの3位決定戦を最後に、代表から引退した。
代表での通算出場試合数は127試合、通算得点数は32得点であり、通算出場試合数の記録は2016年にクリスティアーノ・ロナウドに更新されるまでポルトガル代表の歴代最多記録だった。
エピソード
2000年7月、フィーゴはバルセロナのライバルチームであるレアル・マドリードに、6000万ユーロの金額で電撃移籍を果たした。
この「禁断の移籍」は、激怒したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営するバルセロナ市内の日本料理店を破壊するという騒動にまで発展した。
そのため引退した現在もなお、ペセテーロ(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタも多い。
しかし、後にフィーゴは「バルサを去ったのは、お金のためではなく、クラブから評価を受けられなかったからだ。」と、金のための移籍ではなかったことを明かした。
2000年10月に行われたレアルへの移籍後初のカンプ・ノウでのバルセロナとの試合では、フィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億ペセタ(移籍金)のニセ札が投げ込まれた。
また、2002年11月の同スタジアムにおける試合では、フィーゴがコーナーキックを蹴ろうとした際はスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには子豚の頭まで投げ入れられるなどして、約10分間試合が中断された。
また、EURO2004のギリシャとの決勝戦でも、試合中にFCバルセロナの旗を持ったバルセロナ・サポーターの男性がピッチに乱入する場面もあり、いまだに過去の確執が続いている。
この移籍によるバルセロナとの遺恨は引退後も残っており、2015年にはチャンピオンズリーグ決勝の前日に決勝を戦う両クラブ(バルセロナとユヴェントスFC)の元所属選手が世界選抜と試合をするフレンドリーマッチにおいて、UEFAはバルセロナのレジェンドとしてフィーゴを招待したものの、バルセロナがこれを拒否しフィーゴは試合に参加しなかった。
このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、インタビューでは「バルセロナで過ごした時間は、最高に素晴らしい日々だった」と振り返っている。
その一方で、「レアル・マドリードへの移籍という判断に後悔は無い」、「バルセロナでは自分が悪役であっても構わない」とも語っている。
プレースタイル
味鋭いドリブルを武器としていたウインガーです。
緩急自在のドリブルを得意とするウィンガーで精度の高いキックや強いメンタリティーも併せ持つ。
常に自分のど真ん中にボールを置いてドリブルする。
彼はボールを見てドリブルをするのではなく相手と空間を見てドリブルを仕掛ける。
フィーゴの全盛期は誰も止められなかった。
フィーゴは余計なフェイントを一切しない。
シザースとキックフェイントだけである。
この選手の基盤はボールをど真ん中に置いておける技術にほかならない。
いつでもスピードアップできる。
いつでもストップできる。
いつでも蹴れるところにボールを置いておける。
強靭な体幹や左右両足での繊細な技術が光るのはもちろんだが、足もとのインサイド側、いうなれば自分の“部屋”にボールを入れている時間が長いため、相手にとってはボールが見えているのに手を出せず。
そこからシザーズ、さらに軸をずらされてのキックフェイントで抜きます。
フィーゴのドリブルの最大の特徴は他のWG選手に比べてインサイドを多様してボールを懐深くに置いてることです。
ですから曲線的にボールを運ぶ際に一定のリズムを刻むことはありません。
滑らかに変則的です。
この中盤の選手のボールコントロールのようなドリブルはスピードを上げれば上げるほどドリブルを成立させる為の継ぎ接ぎ作業が難しくなりますが、それをいとも簡単にやってしまうのはフィーゴのドリブル技術の高さ故で、その連続性がとてもスリリングでタイミングの掴みづらいドリブルにさせています。
そして彼の最大の特徴はドリブルの緩急です。
それと相手の重心と体重移動を巧みに読む洞察力です。
緩急をつけたドリブルで相手を抜き去ります。
またキックの精度も抜群に高く、多くのアシストを記録しています。