概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1969年2月1日(51歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 185cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は「バティ」、「獅子王」。
1990年代を代表するフォワードの一人で、長くイタリア・セリエAで活躍し、セリエAの外国人最多通算得点記録を保持している。
「バティ・ゴール」と形容される左右両足から繰り出される強力なシュートが持ち味。
またアルゼンチン代表にも選抜され、歴代2位の得点記録保持者である。
2005年に引退した。
獲得タイトル
クラブ
リーベル・プレート
・プリメーラ・ディビシオン : 1989-90
ボカ・ジュニアーズ
・プリメーラ・ディビシオン : 1990-91C
フィオレンティーナ
・セリエB : 1993-94
・コッパ・イタリア : 1995-96
・スーペルコッパ・イタリアーナ : 1996
ローマ
・セリエA : 2000-01
・スーペルコッパ・イタリアーナ : 2001
代表
アルゼンチン代表
・コパ・アメリカ : 1991, 1993
・キング・ファハド・カップ : 1992
・アルテミオ・フランキ・トロフィー : 1993
個人
・コパ・アメリカ得点王 : 1991, 1995
・キング・ファハド・カップ得点王 : 1992
・セリエA得点王 : 1994-95
・アルゼンチン年間最優秀選手賞 : 1998
・欧州年間ベストイレブン : 1998-99
・カタール・リーグ得点王 : 2003-04 (24得点)
・アラブ圏ゴールデンブーツ賞 : 2003-04
・FIFA 100
・20世紀の偉大なサッカー選手100人 : 23位 (ワールドサッカー誌選出 1999)
経歴
クラブ
1969年2月1日、アルゼンチンのサンタフェに生まれる。
1978年このころ(9歳)はサッカーよりバスケットボールに興味があったが、地元開催のW杯アルゼンチン大会で、当時のアルゼンチン代表のエース・マリオ・ケンペスのプレイを見たことでサッカーへの興味を膨らませた。
1986年17歳にしてようやくバスケットボールからサッカー選手へと本格的に転向、地元のクラブ レコンキスタ・サンタフェと契約。1987年ニューウェルズ・オールドボーイズへ移籍。
1988年1987-88シーズン、ニューウェルズ・オールドボーイズでリベルタドーレス杯準優勝。
1989年アルゼンチンのリーベル・プレートに移籍。
1989-90シーズン、リーベル・プレートでアルゼンチンリーグ優勝。
しかしパサレラに評価されず、シーズン終了後、同じブエノスアイレスを本拠地とするリーベル最大のライバル、ボカ・ジュニアーズに移籍。
ストライカーとして頭角を現した。
1991年1990-91シーズン、ボカ・ジュニアーズで19試合で11得点を叩き出した。
1991年セリエA・フィオレンティーナへ移籍。
2節のジェノア戦でセリエA初ゴール、20節フォツジア戦でセリエAでは初のハットトリックを達成。
ラザロニ監督の辞任に伴い、就任したラディーチェ監督に見出され、レギュラーの座を手にした。
1991-92シーズン、セリエAでの1シーズン目を、27試合出場13ゴールという好成績で終了。
1992-93シーズン、フィオレンティーナは低迷、9試合連続ノーゴールに終わるなど、セリエB降格となった。
それに伴い、バティストゥータも移籍が取りざたされたが、チームに残留。
1994-95シーズン、1節のカリアリ戦から11月27日、サンプドリア戦まで、開幕11試合連続ゴールのセリエA新記録を達成(それまでの記録はエンツォ・パスクッティの開幕10試合連続ゴール)。
マヌエル・ルイ・コスタとのコンビが冴え渡り、26得点を挙げセリエA得点王となった(アルゼンチン人としてはディエゴ・マラドーナ以来2人目)。
1995-96シーズン、チーム・個人共に好調を維持、一時は2位と優勝争いをした。
リーグを4位で終えた。
また、コッパ・イタリア優勝を達成した。
1997-98シーズン、開幕戦ウディネーゼ・カルチョ戦でハットトリックを達成。
1998-99シーズン3節ACミラン戦、17節カリアリ戦でそれぞれハットトリックを達成、前半戦、17試合で17ゴールの活躍。
後半、チームの好調とともに得点王レースの首位を走っていたが、リーグ終盤に左足の怪我を負い、最終節に得点を挙げたウディネーゼのマルシオ・アモローゾに追い抜かれ、2度目の得点王を逃した。
1999-00シーズン、チャンピオンズリーグではグロープリーグのマンチェスターU戦ではホーム、アウェイで共にゴールを奪い、10月27日アーセナル戦で豪快にゴールを決め、アーセナルを破るなど存在感を示した。
セリエAの3節のエラス・ベローナ戦、最終節のヴィチェンッア戦でハットトリックを達成。
2000年5月、スクデット獲得への思いと、破格の移籍金(当時としてはサッカー史上2番目の3,490万ユーロ≒約40.4億円)で同じセリエAのASローマへ移籍。
2000-01シーズン、セリエA2節レッチェ戦で移籍後初ゴールと2点目のゴールを決め、5節ブレシア戦ではハットトリックを達成、移籍1年目で20ゴールを記録して、ローマの1983年以来18年ぶりのセリエA優勝に貢献。
自身としては初のリーグ優勝だった。
2003年1月、セリエA・インテルへ移籍した。
この移籍はそれまでインテルのエースストライカーであったエルナン・クレスポの怪我に伴うものであった。
セリエAでのラストゴールは2003年3月16日のコモ戦となった。
2002-03シーズン終了後、12年間すごしたイタリアを去り、カタールリーグのアル・アラビへ移籍。
2005年に現役引退を表明。
代表
1991年6月27日、ブラジル・クリチバで行われた対ブラジル戦でアルゼンチン代表デビューを飾る。
コパ・アメリカ・チリ大会では6ゴールを挙げ、アルゼンチン代表を優勝へ導いた。
また、個人タイトルとして得点王も獲得した。
1993年コパ・アメリカ・エクアドル大会では決勝戦での2ゴールなどで、アルゼンチンの大会2連覇に貢献。
1994年W杯アメリカ大会、ギリシャ戦でハットトリックを達成、ベスト16ルーマニアの戦ではゴールを決めたが敗退した。
1995年コパ・アメリカ・ウルグアイ大会ではチームは優勝を逃したが、自身は得点王となった。
1996年-1997年W杯フランス大会・南米予選で当初バティストゥータはダニエル・パサレラ監督に出場機会をあまり与えられていなかったが、最終的にはレギュラーとして代表に復帰した。
1998年W杯フランス大会。初戦はW杯初出場である日本戦。
ここで1点を決め、勝利に貢献した。
また、ジャマイカ戦ではW杯記録となる(1994年大会と続いての)2大会連続のハットトリックを決めた。
大会を通じて5ゴールでシルバーブーツ賞、チームはベスト8の成績。
2002年W杯日韓大会。
アルゼンチン代表のエースとして参加するが、ナイジェリア戦で1得点をあげるのみに終わり、チームはグループリーグで敗退した。
バティストゥータはアルゼンチン代表からの引退を宣言した。
アルゼンチン代表としては、二大会連続でハットトリックを達成するなど、78試合56得点の成績を残した。
エピソード
1992-93シーズンにフィオレンティーナは思うような成績を上げられずセリエBに降格したが、バティストゥータはフィオレンティーナに留まり、翌年の再昇格へ大きな役割を果たした。
その後1994-95シーズンにはセリエA得点王、1995-96シーズンにはチームのコッパ・イタリア優勝に貢献した。
最終的に合計9シーズン、フィオレンティーナに在籍し通算269試合出場、167ゴールという結果を残した。(セリエA通算は318試合184ゴール)
彼はフィレンツェの英雄と称えられ、フィオレンティーナのファンは本拠地アルテミオ・フランキの前に銅像を建てた。
2000年にASローマへ移籍。
フィオレンティーナのファンは悲しみ、また憤りのあまり彼の銅像を破壊してしまった。
この移籍はバティストゥータ自身がフィオレンティーナでは成し得なかったスクデットをどうしても獲得したかったことと、多額の移籍金(約40億円、当時セリエA史上2番目の高額)によりクラブが断りきれなかったことが理由であり、彼自身、フィオレンティーナへの愛は不変であると公言している。
ローマへの移籍初年度にオリンピコでフィオレンティーナと対戦した際には、同点で迎えた終了間際にミドルシュートで決勝点となるゴールを奪った。
しかし彼は喜びの感情を表すことはなく、チームメイトに祝福される輪の中で俯いたままであった。
彼のフィオレンティーナへの愛着を表すシーンとして、またスクデットを獲得したチームに数々のゴールによって最大限に貢献した彼の献身を象徴する試合として、その年のハイライトシーンとなった。
キャリアの最後はフィオレンティーナでプレーしたいと述べるなど、フィオレンティーナへの変わらぬ愛情を示していた。
小さな頃からバスケットボールが大好きで、将来の夢はバスケットボールのアルゼンチン代表としてオリンピックに出場することだった。
その一方で学業でも優秀な成績を収め、医者を志しもした。
プレースタイル
「バティ・ゴール」と形容される左右両足から繰り出される強力なシュートが最大の持ち味。
サッカー史上随一と言える強烈なシュートを武器とし、他の一流FWと比較しても、遥かに遠い位置からゴールを狙えた。
ヘディングも得意とし、スペースへの飛び出しや、ポジショニングの上手さも超一流で決定力も抜群のスーパーストライカー。
特に利き足である右足でのキックは強力で超破壊的な右足とヘディングに高い決定力を備え、ポストプレーからアシストに至るまでのすべてが超一流だった。
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