概略
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1960年5月8日(60歳) | ||
出身地 | トラヴァリアート | ||
身長 | 176cm | ||
体重 | 70kg |
ポジションはディフェンダー(リベロ)。
利き足は右。
イタリアサッカー界の功労者の一人として伝説のリベロとされるバレージは、1980年代から1990年代のグランデ・ミラン(ACミラン黄金期)をキャプテンとして引っ張ってきた優れたリベロです。
現役生活を通じてACミラン一筋でプレー、長年、彼が背負った背番号「6」は、引退後にクラブの永久欠番となっている。
実兄のジュゼッペ・バレージも元インテル所属、元イタリア代表のサッカー選手。
獲得タイトル
クラブ
・セリエA 優勝 6回(1978/79、1987/88、1991/92、1992/93、1993/94、1995/96)
・スーペルコッパ・イタリアーナ 優勝 4回(1988、1991、1992、1993)
・UEFAチャンピオンズカップ 優勝 3回(1988/89、1989/90、1993/94)
・UEFAスーパーカップ 優勝 3回(1989、1990、1994)
・インターコンチネンタルカップ 優勝 2回(1989、1990)
代表
・FIFAワールドカップ 優勝 1回(1982年スペイン大会)
その他
・20世紀世界最優秀選手 33位 (国際サッカー歴史統計連盟 1999)
・20世紀の偉大なサッカー選手100人 19位(ワールドサッカー誌選出 1999)
・バロンドール 第2位 1989(受賞はACミランで当時チームメートのファン・バステン)
・コパイタリア 得点王 1989-90
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1977-1997 | ![]() |
532 | (16) |
代表歴 | |||
1982-1994 | ![]() |
81 | (1) |
クラブ
1974年、セリエAの下部組織への加入を希望し各クラブのテストを受けるが、最初に受験したアタランタBCは当時164cmで華奢だった彼を不合格とした。
次に実兄ジュゼッペが所属していたインテルを受けるが、再び身体が小さいという理由で不合格。
そこをACミランの関係者に誘われ、ミランのプリマヴェーラに加入する。
高いディフェンス能力を買われてということもあったが、当時のACミランに若いディフェンダーが不足していたという事情もあったという。
この矢先、同年に父が交通事故により急死した。幼少時に母を亡くしていたバレージは14歳で両親を失った。
1978年、下部チームで実力を増したバレージはトップチームに昇格。
同年4月23日に対エラス・ヴェローナ戦でプロデビューを飾る。
1979年、2年目にしてCB、もしくはスイーパーとしてレギュラーポジションを奪取しリーグ戦30試合に出場。
ジャンニ・リベラ、ファビオ・カペッロといった名手たちとともに、早くも最初のスクデットを手にした。
リベラの引退後、バレージはクラブの主役となったが、翌1980年、大規模な不法賭博スキャンダルが発覚し事件に関与したとされたACミランはSSラツィオと共にセリエBへの降格処分となった。
思わぬ形で2部リーグでのプレーを余儀なくされたが、1981年に1シーズンで這い上がる。
しかし、スキャンダルの余波で有力選手が次々と移籍。
クラブ自体の人気も落ち、収益も減収した。
このシーズンにはバレージ本人もウイルス性疾患を患い数ヶ月戦列を離れた。
これによりミランは14位でシーズンを終え、処分ではなく、実力不足によるセリエB降格となった。
オフシーズン、バレージの元に複数のクラブから移籍話が届いたが、その一切を断りミランに残留。
この決断によりバレージはミランのファンや周囲の大きな信頼を獲得した。
1983年にミランはセリエAに復帰したが、トップグループに一歩及ばない成績が続き人気も下降。
当時のインタビューによれば、選手たちへの給料配布も週給となり、経営難から支払いが止まることもあったという。
1986年、実業家シルヴィオ・ベルルスコーニがミランの会長に就任するとクラブの経営状況は一変。
豊富な資金力で翌1987年に2人のオランダ人フォワード、ルート・フリットとマルコ・ファン・バステンを獲得、さらに当時無名であったアリゴ・サッキを監督に就任させた。
サッキ監督の提案するゾーンプレスに当初はチームメイトらは懐疑的であったが、バレージはサッキ戦術のキーマンとしてチームを牽引。
マウロ・タソッティや当時若手だったパオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタとともに強固なバックラインを形成した。
このシーズン早くもチームは機能し、ディエゴ・マラドーナを擁したSSCナポリを抑えスクデットを獲得した。
1988年、フランク・ライカールトを加えより厚みを増したミランは、主将バレージ率いる守備陣と「オランダトリオ」にを中心とした攻撃陣の活躍もあり、UEFAチャンピオンズカップ2連覇、インターコンチネンタルカップ2連覇とタイトルを獲得。
以降1990年代半ばまでの数年間、ACミランはリーグ優勝、チャンピオンズカップなど多くのタイトルを獲得する黄金期を築きあげ、1989年にはバロンドールの投票で第2位となるなど、バレージは不動のディフェンスリーダー、キャプテンとしてチームを纏め上げた。
1989-90のコパイタリアでは7試合4得点とDFながらトップスコアラーにもなっている。
1990年にはユベントス、レアルマドリードが獲得を試みたが、3年間の契約延長。
1991-92、92-93、93-94とセリエA3連覇に貢献。
特に1991-92は無敗での優勝を成し遂げた。
93-94シーズンは累積警告で決勝ではプレーしなかったが、チャンピオンズリーグの制覇に貢献。
1994-95シーズン限りで現役を引退する決意を固めていたが、周囲の説得でその後2年間現役を続行した。
また、94-95シーズンの開幕戦では当時ジェノアに所属していた三浦知良との競り合いで、三浦が鼻骨を骨折する一幕があった。
試合後バレージは電話や電報を送るなど謝罪をし、後日、サッカー雑誌で対談した際にも謝罪した。
1995-96シーズン、開幕戦のパドバ戦にて、オーバーラップから、リーグ戦では89-90シーズン以来で、又自身のキャリア最後となるゴールを決めた。
また自身最後となるセリエA優勝に貢献した。
1997年6月23日、自身の体力の衰えを理由に現役引退を発表。
最後のシーズンは36歳というサッカー選手では高齢でありながらシーズン26試合に出場したが、スピードや体力の衰えは顕著となっていた。
同一クラブにおける通算試合出場数「541」は、セリエA歴代3位の記録である(2008年11月現在。1位はパオロ・マルディーニ、2位はインテルのハヴィエル・サネッティ)
1997年12月にはオランダトリオ、パパン、ロベルト・バッジョらかつてのチームメートや、ジーコ、ロマーリオらが集まり引退試合が行われた。
代表では1980年、U-21イタリア代表の一員でありながらイタリア代表に招集され、地元開催のUEFA欧州選手権1980の最終メンバーに選出された。
1982年夏に行われた1982 FIFAワールドカップの代表メンバー(背番号2)に招集され優勝を経験したが、2大会とも出場機会はなかった。
代表
1982年12月4日に行われたUEFA欧州選手権1984予選のルーマニア代表戦で代表デビュー。
1984年ロサンゼルスオリンピックでは4位入賞を果たしたものの、1986 FIFAワールドカップでは代表入りを逃した。
その後、レギュラーに定着すると1988年2月20日に行われたソビエト連邦代表戦で初得点を記録し、同年夏のUEFA欧州選手権1988ではベスト4進出に貢献した。
地元開催となった1990 FIFAワールドカップでは全7試合にフル出場し3位獲得入賞に貢献。
守備陣を統率し初戦のオーストリア代表戦から準決勝のアルゼンチン代表戦まで517分間無失点の記録を打ち立てた。
1994 FIFAワールドカップではグループリーグ第2戦のノルウェー代表戦で大膝を痛め途中交代、計3しあいに出場した、一時的に戦線離脱するもすぐに手術を行い、決勝のブラジル代表戦で復帰。
病み上がりとは思えないパフォーマンスで、ディフェンスラインを巧みにコントロールし、ロマーリオとベベットの2トップを120分間に渡って完封したが、PK戦でバレージ自身も失敗し、チームは敗れ準優勝に終わった。
バレージ自身は「PKによって全てが決められてしまうとは、何とも非情な話だ」と評しているが、決勝戦での活躍により改めてその存在を示した。
同年9月7日、UEFA EURO ’96予選のスロベニア戦において代表キャリアを終えた。
この試合を最後にバレージは代表から退き、主将の座はパオロ・マルディーニが引き継ぐことになった。
エピソード
その圧巻の守備力でセリエAを支配していたバレージ氏。
しかし、そんな同氏にも対戦するのが苦手だったアタッカーが当時いたという。
スペイン『MARCA』のインタビューに登場したバレージ氏は、「キャリア最高の同僚と、最悪の相手を教えてください」との問いに対して次のように回答している。
「現役時代、私は多くの例外的に強力な選手たちと共闘してきた。だから、最高のチームメイトは選べないね。でも、私が対戦した中で最強だと思った相手なら挙げることができるよ。マラドーナだね」
バレージ氏が挙げたのは“神の子”と呼ばれた男だ。
もはや当時セリエAでプレイしていたDF全員が苦手としていたと言っても過言ではないレベルの選手だったマラドーナ。
この天才にはミランの名手もかなり苦戦したようだ。
それでも果敢に進撃を食い止めようとチャレンジし続けたバレージ氏。
レジェンド同士のマッチアップには、当時のファンもさぞ興奮していたことだろう。
プレースタイル
バレージは守備の最後尾にポジションをとり、常に味方選手たちを鼓舞しながら、自らも体を張ったディフェンスで、何度もチームのピンチを救い、イタリア代表では、カテナチオの要の存在といっても過言ではありません。
ディフェンダーとしては決して体格に恵まれていたわけではなかったが、リベロとしてのプレーぶりは的確な読みで相手の攻撃の芽を摘み、相手陣内深くドリブルで切り込むこともあった。
特に戦術眼と読みの鋭さは一級品であった。
バレージの良さは、決して大きくない体躯ながらも、屈強な相手攻撃選手に競り負けず、スピードに乗った相手に対しても抜群の読みと俊敏性でボールを奪い、またはプレーを遅らせられること。
リベロとして時折見せる最後尾からの上がりは効果的で、戦術理解度も抜群に高かった。
またバレージは非常に責任感が強く、優れたキャプテンシーを発揮してチームを引っ張りました。
バレージは、非常に適応能力に優れた最強のリベロです。
ACミランでもイタリア代表でもカテナチオの基本は、マンツーマンディフェンスを前提にリベロが置かれました。
通常、それぞれのディフェンスが相手選手にマーンマークにつきますが、リベロはマンマークをせず、ディフェンスが抜かれたときにカバーに入る役割です。
しかし1994年ワールドカップアメリカ大会では、ゾーンプレスを採用しているにも関わらず、バレージはすぐさまゾーンプレスに対応し、ブラジルを零封しています。
このように、バレージはどのようなシステムにも対応できる、優れたキャプテンシーを合わせ持つ最高のリベロです。