概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1984年1月23日(36歳) | ||
出身地 | ベドゥム | ||
身長 | 180 cm | ||
体重 | 80 kg |
ポジションはフォワード(右ウイング)、ミッドフィールダー(右サイドハーフ)。
利き足は左。
オランダが誇る左利きの快足ウィンガー。
チェルシー、レアル・マドリード、バイエルン・ミュンヘンと欧州のビッグクラブで活躍し世界を席巻したドリブラー。
チェルシーのプレミアリーグ2連覇に貢献。
バイエルンでは2017年11月のドルトムント戦のゴールでバイエルンでの外国人最多ゴール記録を更新。
更にブンデスリーガで最多ゴールを記録したオランダ人となった。
バイエルンではブンデスリーガ通算201試合出場99ゴール62アシスト。
8度のブンデスリーガ制覇、5度のDFBポカール制覇、2012-13シーズンのチャンピオンズリーグ制覇に貢献した。
オランダ代表では2010年ワールカップ準優勝に貢献した。
獲得タイトル
クラブ
- PSVアイントホーフェン
- エールディヴィジ:1回 (2002-03)
- ヨハン・クライフ・シャール:1回 (2003)
- チェルシー
- プレミアリーグ:2回 (2004-05, 2005-06)
- FAカップ:1回 (2006-07)
- フットボールリーグカップ:2回 (2004-05, 2006-07)
- FAコミュニティ・シールド:1回 (2006)
- レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ:1回 (2007-08)
- バイエルン・ミュンヘン
- FIFAクラブワールドカップ:1回 (2013)
- UEFAチャンピオンズリーグ:1回 (2012-13)
- UEFAスーパーカップ:1回 (2013)
- ブンデスリーガ:8回 (2009-10, 2012-13, 2013-14, 2014-15, 2015-16, 2016-17, 2017-18, 2018-19)
- DFBポカール:5回 (2009-10, 2012-13, 2013-14, 2015-16, 2018-19)
- DFLスーパーカップ:5回 (2010, 2012, 2016, 2017, 2018)
個人
- オランダ最優秀若手選手賞:1回 (2003)
- ブラヴォー賞:1回 (2005)
- U-21 欧州年間最優秀選手賞:1回 (2005)
- ドイツ年間最優秀選手賞:1回 (2010)
- FIFAワールドカップブロンズボール:1回 (2014)
- FIFAワールドカップ ベストイレブン:1回 (2014)
経歴
クラブ
地元のクラブ、VVベドゥムでサッカーを始める。
FCフローニンゲン在籍時の2000年、16歳でプロデビュー。
レギュラーとしてプレーした後、2002年にPSVへ移籍。
ここでも1年目から12得点を挙げ、2002-03シーズンのヨハン・クライフ賞を受賞した。
2004年3月、移籍金1800万ユーロでチェルシーFCに移籍した。
また同じ頃、精巣腫瘍を患ったが手術により回復した。
同年6月から7月のEURO2004の後、プレシーズンマッチで怪我を負い、その影響でプレミアリーグのデビューは11月となった。
だが、デビュー早々チームの主力選手として活躍し、同月のプレミアリーグ月間最優秀選手賞にも輝いている。
その後も怪我に悩まされながらも、チェルシーのプレミアリーグ2連覇(2004-05シーズン、2005-06シーズン)に貢献するなど、中心選手として活躍した。
本職は4-3-3の左WGながら、2006-07シーズンにはアンドリー・シェフチェンコの加入によりクラブは4-4-2へとシステムを変更。
2007年8月22日、スペインのレアル・マドリードに移籍した。
5年契約で移籍金3600万ユーロ。膝の故障でシーズンは出遅れたが9月18日のチャンピオンズリーグ、ヴェルダー・ブレーメン戦でデビュー。
すぐに左サイドMFのポジションでスターティングメンバーを獲得した。
また、EURO2008にも招集された。
しかし後述のようにレアル・マドリードでプレーした2シーズンでは負傷が多く、負傷回数は10度に達したとされ、2009年にクラブはクリスティアーノ・ロナウドらを大量補強したため、ロッベン本人は残留を望んでいたものの、その金銭補填のために放出されることになったと後に明かしている。
2009年8月28日、バイエルン・ミュンヘンに移籍した。移籍金は2500万ユーロの4年契約とされ、ロッベンは背番号10を背負うこととなった。
フランク・リベリーと共に両サイドから攻撃に参加、デビュー戦となったVfLヴォルフスブルク戦で2得点を挙げた。
2010年3月9日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦2ndレグのACFフィオレンティーナ戦ではミドルシュートを決め、また4月7日の準々決勝2ndレグのマンチェスター・ユナイテッドFC戦でもコーナーキックからボレーシュートを決めた。
4月17日のハノーファー96戦で自身初のハットトリックを達成した(試合は7-0で勝利)。
4月21日のオリンピック・リヨンとのチャンピオンズリーグ準決勝1stレグでも決勝点となるミドルシュートを決め決勝進出に貢献した。
同大会では決勝でインテル・ミラノに敗れ、準優勝に終わったが、ブンデスリーガではチームトップ・リーグ5位タイの16得点を挙げ、バイエルンの2冠に貢献。
シーズン終了後にはドイツ年間最優秀選手に選出された。
2018年12月、このシーズン限りでバイエルンを退団することを発表した。
5月18日リーグ最終戦のフランクフルト戦では交代出場からブンデスリーガ通算99点目となる惜別のゴールを決めた。
JリーグやMLSへの移籍が噂されたが、2019年7月、現役引退を発表した。
バイエルンではブンデスリーガ通算201試合出場99ゴール62アシスト。
8度のブンデスリーガ制覇、5度のDFBポカール制覇、2012-13シーズンのチャンピオンズリーグ制覇に貢献した。
代表
サッカーオランダ代表としては2003年4月30日に行われたポルトガル代表との国際親善試合でデビュー。
2006 FIFAワールドカップでは初戦のセルビア戦で18分に得点を挙げた。
これが決勝点となり、その試合のマン・オブ・ザ・マッチとなった。
大会では、6試合に出場して2得点を挙げた。
EURO2008にも招集された。
初戦のイタリア戦では怪我で欠場したものの、第2戦のフランス戦で復帰すると1ゴールを決めフランス相手に4発快勝に大きく貢献した。
チームはそのままグループリーグを3戦全勝で首位通過するも決勝トーナメント準々決勝でロシアに延長戦の末敗れベスト8に終わった。
2010 FIFAワールドカップのオランダ代表にも名を連ねたが、大会前のハンガリーとの親善試合でフェイントに失敗しハムストリングを負傷したが、グループリーグ第3戦のカメルーン戦から復帰。
決勝トーナメント一回戦のスロバキア戦ではミドルシュートで先制点を挙げ、大会選定のマンオブザマッチに選出される。
準決勝のウルグアイ戦ではヘディングで3点目を挙げた。
しかし大会後、クラブで行ったメディカルチェックにて太ももの筋断裂が発覚し、これに対しバイエルンのカール・ハインツ・ルンメニゲ会長はワールドカップで強行出場を続けさせたとしてオランダ代表を批判した。
この怪我への補償として、2012年5月にアリアンツ・アレーナでバイエルンとオランダ代表の親善試合が行われている。
EURO2012にも招集された。
本戦では優勝候補と目されたが、ドイツ、ポルトガル、デンマークと全チームが優勝経験のある死の組に入り、1勝もあげられず3連敗を喫しグループリーグで敗退した。
なお、自身も3試合無得点で終わった。
2014 FIFAワールドカップでもオランダ代表に選出された。
本大会では3得点を挙げオランダの2大会連続での準決勝進出に大きく貢献した。
一方で、メキシコ戦では同点ゴールとなったPKを得る際にダイブをしたとの疑惑を受けてメキシコ人ファンから激しく批判された。
2018 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選最終節のスウェーデン戦で自身の2ゴールで2-0と勝利するも得失点差で予選敗退が決定し代表からの引退を表明。
エピソード
バイエルン・ミュンヘンで今も確かな存在感を示しているフランク・リベリー、アリエン・ロッベンの両ベテランの短いレポートを寄せている。
21世紀に入ってからのバイエルンの栄光は、つねにこのふたりとともにあった。
だが、ふたりの関係は、当初から良好だったわけではない。
ひとたびピッチを離れれば、ロッカールームまで含めて険悪であった。
そのふたりが、どうして“ロベリー”という愛称で呼ばれるまで今は親密になったのか。
長い時間が育んだ物語をソウデンとメヌージュが語る。
当初はライバル意識をむき出しにしたふたりも、今はお互いをよく理解しながらチーム内の競争を刺激している。そして確かな存在感を放ち続けている。
ふたりが互いをいつくしみ合う姿は、とても微笑ましく映る。
それはまるで年老いた夫婦が、仲睦まじくいたわりあっているようですらある。
9月12日に開催されたチャンピオンズリーグのグループステージ初戦でのこと。
観客にひどくヤジられたリベリーは、怒りにまかせてユニフォームを投げ捨ててピッチを去った。
そんな彼を、ロッベンはこう言って擁護した。
「われわれの目的を達成するために、とりわけチャンピオンズリーグのためにフランクは必要だ。彼のようなワールドクラスの選手は、大試合でこそ存在感を示す」
リベリーもまたロッベンへの信頼を惜しまない。
「率直に言って時間がたつにつれて僕らの絆は深まり、親密になった。アリエンがいい奴だってことは、心の底から良くわかっている」
最初の試合から、ふたりの息はあっていた。
リベリーはロッベンの2得点をアシストし、それはまるで稲妻に打たれたかのような惚れ惚れする一撃だった。
だが、ピッチ外では激しく火花が散った。
リベリーはロッベンのエゴを我慢できなかった。
オフレコで彼は、「あいつは自分のことしか考えていない」と、幾度となく言い放った。
ロッベンとファン・ハールの親密さが増していくにつれて、オランダ的なユーモアを理解できないリベリーには不満が蓄積していった。
ファンハールからユップ・ハインケスに監督が交代しても、ふたりの距離は埋まらなかった。
それぞれが自分のテリトリーを持ち――リベリーは左サイド、ロッベンは右サイド――そこでのプレーに専念した。
軋轢が頂点に達したのが、2012年のチャンピオンズリーグ準決勝、対レアル・マドリー戦のハーフタイムだった。
数週間前からロッベンの態度に業を煮やしていたリベリーは、ロッカールームで彼に殴りかかったのだった。
クラブは事件を表に出さず内々で処理した。
リベリーには重い罰金が科せられたものの、甘い処分にロッベンは大いに不満だった。
だが、そのふたりのライバル関係が、バイエルンをヨーロッパの頂へと誘ったのは間違いない。
チャンピオンズリーグでは決勝に3度進出し――2010年(インテルに敗れる)、2012年(チェルシーに敗北)、2013年(ドルトムントに勝利)――ブンデスリーガを6度も制覇している。
ふたりで挙げた得点は実に212点。アシストも200を超える(ともにすべての公式戦の合計)。
そんなふたりを、いつしか巷では“ロベリー”と呼ぶようになった。
だが、齢を重ねるにつれてふたりの怪我も増えてきた。
ふたりあわせて公式戦570試合に出場しているが、揃って先発出場したのはバイエルンの全公式戦のほぼ3分の1に過ぎない。
2013年の春には、ふたりはヨーロッパの頂点を極める戦いで大いに耀いた。
だが、それ以降は、身体が悲鳴をあげ始めた。
2014年はリベリーが負傷で3カ月離脱し、翌年はロッベンが100日以上チームを離れた。
さらにその昨年も、ロッベンが3カ月間欠場した。
しかしそういったマイナスの要素とは裏腹に、相次ぐ負傷がふたりの結びつきを強めた、という事実がある。
ふたりがかかりつけ医とするハンス=ウィルヘルム・ミュラー=ウォルフファールト医師を間にして、ふたりは徐々に打ち解けていったのである。
ほぼ毎週のようにクリニックを訪れては診断を受けていたふたりは、お互いの距離も縮めていった。
同じ悩みを抱えながら心情を吐露しあうようになり、ライバル心よりも親近感を抱くようになったのだった。
プレースタイル
個”の力に非常に優れた選手で、爆発的なスピードとドリブルスキルを生かした圧倒的な突破力、打開力を見せる。
サイドから中央に切れ込んでシュートまでもっていけるが、故障が多いのが玉に瑕。
爆発的なスプリント力ゆえに筋肉系のけがが多く、シーズンを通じて稼働できない事もあるが世界屈指のカットイン、ミドルシューターとしての実力もあった。
「オランダ代表の試合がロッベンのワンプレーで決まると言っても過言ではない」という意見もある。
右サイドで縦にドリブルしながら、左足アウトでカットインというロッベンのスタイルはあまりにも有名だが、引退するまでずっと有効だった。
この体勢になったら誰も止められなかった。
そのまま縦に突破する裏芸が効いていた面もあるが、それ以上に看板のカットインが圧巻なのだ。
左足のアウトでタッチしながら間合いを計り、縦へ行くと見せかけて中へ入っていくのはジダンと同じだが、ロッベンの切り返しは角度が深い。
自陣へ戻っていくぐらいの角度で切り返す。
そこはジダンもそうなのだが、ロッベンが特別なのはそのあとのキックだ。
ドリブルの進路としては相手ゴールから離れていきながら、左足の巻き込むようなキックでニアでもファーでも正確なシュートを叩き込む。
シュートが入るのだからクロスボールにも変えられる。
わかっていてもロッベンの切り返しを止められないのは、あまりにも角度が大きいので守備側にとっては「圏外」へ出られてしまうからだ。
切り返し対策としては、残り足で刈りとるのが定石である。
ロッベンも逆を突いて切り返しているので、守備者の左足と重心は流れてしまうが、残っている右足でボールを引っかけられる可能性は残る。
ところが、切り返しが深いので右足で刈れる範囲をボールが通らない。
ただ、ここまで深く切り返すと、次のプレーもやりにくいものだが、ロッベンはそこから即時にシュートやパスを繰り出せるのでどうにもならないのだ。
カットインからシュートは高い決定力を誇り「毎回同じようなプレーを見せたが、止める術はなかった」「来ることが分かっていても止められない」と絶賛されている。
ロッベンへの対策は、カットインのコースにもう1人置く以外なかった。
2人いないと止められるドリブルではない。
しかし2人いても、切り返しで1人、キックフェイントでもう1人が抜かれてしまうことも。
ロッベンは、ほぼこの一芸で世界のトップレベルを渡りきった名手だった。