アレッサンドロ・デル・ピエロ

概略

国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 1974年11月9日(45歳)
出身地 コネリアーノ
身長 173cm
体重 73kg

 

ポジションはフォワード(セカンドトップ)。

 

利き足は右。

 

イタリアの正当なファンタジスタの系譜を受け継ぐ名選手。

 

ユヴェントスの歴代最多試合出場者、最多得点者である。

 

カルチョ・スキャンダルによるチームのセリエB降格といった苦難も乗り越えるなど、2012年に退団するまでの19年間、ユヴェントスの象徴であり続けた。

 

2006年ドイツワールドカップでは優勝を経験。

 

得点はイタリア代表歴代4位である。

 

獲得タイトル

クラブ

  • セリエA(1994-95, 96-97, 97-98, 2001-02, 02-03, 11-12)
  • セリエB(2006-07)
  • コッパ・イタリア(1994-95)
  • イタリア・スーパーカップ(1995, 1997, 2002, 2003)
  • UEFAチャンピオンズリーグ(1995-96)
  • UEFAスーパーカップ(1996)
  • UEFAインタートトカップ(1999)
  • トヨタカップ(1996)

代表

  • FIFAワールドカップ(2006)

個人

  • UEFAチャンピオンズリーグ得点王(1997-98)
  • セリエA得点王(2007-2008)
  • セリエB得点王(2006-2007)
  • コッパ・イタリア得点王(2005-06)
  • トヨタカップ最優秀選手(1996)
  • イタリア最優秀選手(1998,2008)
  • ブラヴォー賞(1996)
  • ゴールデンフット賞(2007)
  • UEFAチャンピオンズリーグ10周年ベストアタッカー(2006)
  • UEFA Golden Jubilee Poll(2004)
  • FIFA 100(2004)
  • 20世紀の偉大なサッカー選手100人 77位(ワールドサッカー誌選出 1999)
  • ESM Team of the Year(1995-96, 1996-97, 1997-98)
  • ユベントスクラブ歴代最多得点記録(更新中)
  • ユベントスクラブ歴代最多出場記録(更新中)

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1991-1993 イタリアの旗 カルチョ・パドヴァ 14 (1)
1993-2012 イタリアの旗 ユヴェントス 513 (208)
2012-2014 オーストラリアの旗 シドニーFC 48 (24)
2014 インドの旗 デリー・ディナモスFC 10 (1)
通算 585 (234)
代表歴
1991  イタリア U-17 3 (1)
1992-1993  イタリア U-18 14 (12)
1993-1996  イタリア U-21 12 (3)
1995-2008 イタリアの旗 イタリア 91 (27)

 

クラブ

 

1991から92シーズンにセリエB(当時)のカルチョ・パドヴァでキャリアをスタート、1992年3月15日のメッシーナ戦でトップチームデビューを果たした。

 

パドヴァで2シーズンを過ごした後、1993-94シーズンにセリエA のユヴェントスに移籍、1993年9月12日のフォッジャ戦にてセリエAデビュー、その一週間後のレッジャーナ戦で初ゴール、1994年3月のパルマ戦では初のハットトリックを達成する。

 

翌シーズン、ロベルト・バッジョがワールドカップでの疲れから負傷や、やや不調であったこともあって、出場回数を増やしていくと、1994年12月のフィオレンティーナ戦にて、背後からのロングボールをダイレクトで、しかもアウトサイドにかけたボレーシュートを決めたことによって、デルピエロの名前はファンタジスタとして認知されるようになった。

 

このシーズン、自身初のスクデット獲得。

 

1995-96シーズン、バッジョの ACミラン移籍によって、ミシェル・プラティニやバッジョが背負ってきたユベントスの背番号10を引き継ぐことになった。

 

このシーズン、5試合連続を含む6得点とUEFAチャンピオンズリーグ制覇に貢献し、エースとしての役割を果たした。

 

前年に続いてバロンドール投票では自己最高の4位を記録した。

 

翌シーズンには、トヨタカップの決勝点をあげ、MVPに選ばれた。

 

また、このシーズンのスクデットも獲得している。

 

UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦では、ヒールキックによるゴールを決めたものの敗れ、準優勝に終わった。

 

1997-98シーズン、このシーズンに加入したフィリッポ・インザーギと先シーズンから所属するジネディーヌ・ジダンとともに強力なトライアングルを形成し(特にインザーギとの2トップは「デル・ピッポ」と呼ばれた)、スクデット連覇を果たした。

 

チームだけでなく、デルピエロ自身も好調で、リーグでは21得点、チャンピオンズリーグでは得点王(10得点)となった。

 

1998年11月、ウディネーゼ戦で左膝十字靭帯断裂などの選手生命も危ういほどの重傷を負い、膝の手術を行った。

 

約9ヶ月間のリハビリの後、復帰するも以前の調子は取り戻せず、スランプに陥った。

 

しかし、2000-01シーズンに復調の兆しを見せ、2001-02シーズン、リーグ16得点をあげて完全復活を果たし、4年ぶりのスクデットを獲得した(その後も、度々、怪我に悩ませられることになるが、そのたびにこれを克服した)。

 

翌シーズンにもリーグ16得点とチームを牽引し、自身5度目となるスクデットを獲得した。

 

2005-06シーズン、先シーズンにリーグ14得点と結果を残したデルピエロであったが、加入して2年目となるズラタン・イブラヒモビッチをファーストチョイスと考えるファビオ・カペッロ監督にスタメンを外され、サブに甘んじることになった。

 

しかし、スーパーサブとしてデルピエロはリーグ12得点をあげ、リーグ7得点のイブラヒモビッチを上回る活躍をみせた。

 

2006年1月10日に行われたコッパ・イタリアの対フィオレンティーナ戦でハットトリックをマーク。

 

これがユヴェントスでの185得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つクラブ歴代最多得点記録を塗り替えた。

 

2006年に発覚したカルチョ・スキャンダルでユベントスはセリエBへと降格するが、デル・ピエロはイングランドの強豪マンチェスター・ユナイテッドFCからのオファーを断り、真っ先にチームへの残留を表明した。

 

彼に続くようにネドベドやブッフォンらも残留を決意した。

 

セリエB降格に伴い年間試合数が減ったことから、チームの練習とは別に専属トレーナーと契約し肉体改造に取り組んだ。

 

その結果、20代の頃の体のキレを取り戻すことに成功し、セリエB得点王となりチームを1年でセリエAに復帰させる原動力となった。

 

セリエAに復帰した2007-08シーズン、自己最多タイとなるリーグ21得点での得点王に輝き、パオロ・ロッシ以来、史上2人目となるセリエB・セリエA連続得点王の快挙を成し遂げた。

 

また、2008年4月6日のパレルモ戦がユベントスでの553試合目となり、ガエターノ・シレアの持つクラブ歴代最多出場記録を更新した。

 

3シーズンぶりのUEFAチャンピオンズリーグ出場となった2008-09シーズン、ユベントスはグループリーグでレアルマドリードと対戦。

 

デルピエロは敵地エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで2得点を記録し、後半アディショナルタイムにパオロ・デ・チェリエとの交代でベンチに退く際、マドリスタからのスタンディングオーベーションを受けた。

 

エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで、アウェーの選手がスタンディングオーベーションを受けたのは、ディエゴ・マラドーナやロナウジーニョなど、数少ない

 

2008年11月29日レジーナ戦でユヴェントスでの通算250得点を記録。

 

2010年3月14日シエナ戦でキャリア通算300得点を達成。

 

2010年10月30日に行われたセリエAの対ACミラン戦で決勝ゴールをマーク。

 

これがセリエAでの179得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つセリエAでのクラブ最多得点記録を塗り替えた。

 

2011-12シーズンをもってユヴェントスを退団。

 

9月5日にAリーグ・シドニーFCへの移籍が発表された。

 

契約は2年間で年俸は約200万オーストラリア・ドルと、Aリーグ史上最高の年俸となる。

 

2014年4月28日、ブログでシドニーFC退団を発表した。

 

2014年8月28日、自身の公式ツイッターでインドのデリー・ディナモスFCに移籍することを明らかにした。

 

デル・ピエロは、「今日、デリー・ディナモスの一員になり、インド・スーパーリーグの新アンバサダーとなったことを報告できることを嬉しく思う」と発表した。

 

代表

 

イタリア代表デビューは1995年3月25日のエストニア戦。

 

イタリア代表通算27得点はバッジョと並んで歴代4位タイ。

 

FIFAワールドカップには1998、2002、2006年と3大会連続、ユーロには1996、2000、2004、2008年と4大会連続で出場している。

 

しかし、大会直前に怪我をしていたり、不慣れなポジション(左サイド等)でのプレーを強いられることが多く、本大会では実力を発揮できているとは言えない

 

ユーロ1996では、1994年のU-21欧州選手権を制し、アトランタ五輪を控える当時のU-21世代から飛び級のような形で代表に選ばれるも、初戦のロシア戦で怪我を負い、このロシア戦前半のみの出場に終わった。

 

1998年のフランスワールドカップでは、アッズーリのエースとして大会に臨むも、1997-98チャンピオンズリーグ決勝レアル・マドリード戦で負った怪我の影響から全く見せ場を作れず、主役をバッジョに譲った。

 

ユーロ2000では、決勝のフランス戦でシュートチャンスを外し、批判を浴びた。

 

また、1998年11月の大怪我から不調に苦しむ間にフランチェスコ・トッティの台頭もあり、2000年代からは背番号10をトッティに譲った。

 

これについてデルピエロは「僕は『7』の方が合っている」と言って快く譲るなど性格、人間性なども優れた人格者でイタリア国内での人気も高い。

 

なお何故7番かといえば「初めてもらった背番号がこれだったから」と語っている

 

2002年日韓ワールドカップでは、予選で5得点と良い成績を残したが、本大会前になって監督ジョバンニ・トラパットーニはシステムをより守備的なものに変更、スタメンを外される。

 

それでもグループリーグのメキシコ戦で途中出場ながらワールドカップ初ゴールを決めてこの試合を1-1の引き分けに持ち込み、グループリーグ敗退の危機にあったチームを救った。

 

ゴール後のパフォーマンスでは、右手の人差し指で天を指し、開幕前に亡くなった父へと捧げた。

 

ユーロ2004では、予選こそ不振のチームを救うほどの活躍を見せていたが、本大会では不慣れな左サイドというポジションや直前の左大腿部の怪我から思うような活躍をすることはできなかった。

 

2006年のドイツW杯ではかつてユベントスの監督であった恩師リッピ監督からの信頼が厚く、23人のメンバーに名を連ねる。

 

準決勝のドイツ戦では延長戦から途中出場し、アルベルト・ジラルディーノからのパスを受け、「デル・ピエロ・ゾーン」から2点目となるダメ押しゴールを奪った。

 

決勝のフランス戦では後半途中から出場し、PK戦では4人目のキッカーも務め、同国4度目のFIFAワールドカップ優勝に貢献した。

 

ユーロ2008本戦への招集は危ぶまれていたが、2007-2008シーズンのセリエA得点王としての活躍が認められ4度目のユーロ出場を果たした。

 

グループリーグ第2戦のルーマニア戦では、ゲームキャプテンを務めるも、ロベルト・ドナドーニ監督は戦術上デルピエロを重用することはなかった。

エピソード

93年、それは若きデル・ピエロと世界の頂点に達していたバッジョという、希有な才能を持つふたりのファンタジスタが、揃ってユベントスのユニフォームを身に纏った運命的な年である。

 

しかし、ふたりの共存が許されたのは’94-’95シーズンまでだった。

 

その背景にはイタリアという国の特異なサッカー文化が、そして時代という抗えない流れがあったのである。

 

  • 遠征先などでは、仲間の選手と一緒にテレビゲームをする。好きなゲームはマリオシリーズ。ゲームを通じ、他の選手とのコミュニケーションを取ったり、リラックスを(相互に)したりする。

 

  • モータースポーツの観戦も趣味の一つ。2003年に亡くなったMoto-GPレーサーの加藤大治郎に生前サインを求めたことがある。2013年1月には、アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)に参戦するデンプシー・レーシングの共同オーナーに就任することが発表された。

 

  • イギリスのロックバンドオアシスのファンでもある。また、2006年にミラノで行われたローリング・ストーンズのライブに、マルコ・マテラッツィと共に現れた。

 

  • 自身の日本語ブログを開設するなど親日家としても知られ、以下の様なエピソードがある。なお日本に興味を持つようになったのは小学校の地理の授業で先生から「どこかひとつ海外の国を選んで発表しなさい」という課題にたまたま日本を選んだことに由来するという。

 

  • キャプテン翼の作者である高橋陽一は2000年にヨーロッパを訪れた際にデル・ピエロから「子どもの頃にキャプテン翼を読んでましたよ」と声をかけられており、2011年には自身のブログの中で明石家さんまから贈られた高橋陽一直筆のイラストを公開しているなど、今でも愛着を持っている事が伺える。

 

  • 新日本プロレスの熱烈なファン。1970年代後半から1980年代前半にかけてイタリアでもTV放映されていた『ワールドプロレスリング』を子供の頃よく見ていたという。中でも藤波辰爾、アントニオ猪木、木村健吾、タイガーマスク(初代)のファンであり、2005年にテレビ朝日のインタビューで藤波辰爾と対面した際には歓喜して、彼の技のひとつであるドラゴンスリーパーをリクエストしてかけられていた

 

  • アニメ『ルパン三世』のファン。

 

  • 2011年3月に日本で起きた東北地方太平洋沖地震の惨事を知り、チャリティー用に自らデザインしたTシャツ(イタリアの国旗の上に日の丸を乗せ「友」と言う文字が刻まれている)を販売し、その売り上げは復興の為に寄付する事を発表した。特に被害甚大であった仙台市は2002 FIFAワールドカップのイタリア代表のキャンプ地であり、その惨状を視て深い悲しみに陥ったと言う。そのTシャツを長友佑都も着用している。

 

  • 2012年7月21日、日本のカシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチに自ら参加を申し入れゲストプレーヤーとして参加。『Jリーグ TEAM AS ONE』(被災地のクラブ・出身者の選抜チーム)の一員としてプレーし、後半25分にはミドルシュートで自ら得点を決めた。

 

プレースタイル

最上級のテクニックと創造性で見る者を魅了したデル・ピエロ。

 

パス、ドリブル、シュートはどれも一級品。

 

その技術を駆使した創造性あるプレーで一瞬にして試合を決定づけてしまう選手。

 

しかし彼には予期せぬ転機があった。

 

1998年に左膝十字靭帯断裂の悲劇に見舞われてしまったのだ。

 

以降の彼はかつてのような輝きを失い「終わった選手」とのレッテルを貼られたが、2001-02シーズン、16ゴールを記録し完全復活を遂げる。

 

ただしその姿は、かつて人々を魅了したファンタジスタとしての彼ではなく、より実用的で、より得点に特化したアタッカーとしてのデル・ピエロであった。

 

そんなデル・ピエロの代名詞といえば、なんといっても「デル・ピエロ・ゾーン」である。

 

ユーヴェで通算208得点を記録した彼であるが、特にゴール前左45度を得意の角度としており、そのエリアのことを人々はそのように呼んだ。

 

右足のインフロントから放たれたシュートが、美しい弧を描いてゴールに吸い込まれていくシーンは誰もがよく見たものだ。

 

これは利き足と反対サイドに選手を配置する昨今では決して珍しくない。

 

サイドから内へ切れ込み、得意の足でシュートを放つことができるからだ。

 

 

 

 

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