概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1979年5月19日(41歳) | ||
出身地 | フレーロ | ||
身長 | 177cm | ||
体重 | 68kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ)。
利き足は右。
正確なパスと高度な戦術眼を武器とし、レジスタとして活躍した。
フリーキックの名手としても知られる。
UEFAチャンピオンズリーグ優勝、FIFAワールドカップ優勝という輝かしいキャリアを残した。
そして2007年のバロンドール投票でカカ、クリスティアーノ・ロナウド、リオネル・メッシに次ぐ4位の票数を獲得した。
獲得タイトル
クラブ
- ACミラン
- セリエA 2003-04, 2010-11
- コッパ・イタリア 2002-03
- スーペルコッパ・イタリアーナ 2004
- UEFAチャンピオンズリーグ 2002-03, 2006-07
- UEFAスーパーカップ 2003, 2007
- FIFAクラブワールドカップ 2007
- ユヴェントス
- セリエA 2011-12, 2012-13, 2013-14, 2014-15
- コッパ・イタリア 2014-15
- スーペルコッパ・イタリアーナ 2012, 2013
代表
- UEFA U-21欧州選手権 2000
- FIFAワールドカップ 2006
個人
- セリエA最優秀選手 2012, 2013, 2014
- UEFAチャンピオンズリーグベストチーム:1回 (2014-15)
経歴
クラブ
当初は地元のチームといっても過言ではない「フレーロ」や「ボルンタス・ブレシア」というチームに所属していた。
そのまま地元で活躍し、1995年にブレシアに引き抜かれ、そこでセリエAデビューを果たす。
翌年、クラブはセリエBに降格したが、1年で昇格。
この時にロベルト・バッジョと出会い、「自らの後継者」として指名された。
セリエBでのプレーが目に留まり、1998年7月1日に自身の憧れのチームでもあったインテルに移籍した。
しかし、トップ下と言うマークの集中するポジションを担う選手としては、彼のフィジカルの脆弱さは致命的であった。
選手層の厚いインテルではまともな出場機会も与えられぬまま1999年にはレッジーナ、2001年には古巣のブレシアにレンタルに出される。
ブレシアではカルロ・マッツォーネ監督の下、バッジョがいることもあり中盤の底でのプレーを経験した。
2001年7月1日、インテルのライバルであるACミランに完全移籍する。
しかし、トップ下にはマヌエル・ルイ・コスタがいたためファティ・テリム監督の構想外であり、出場機会はほとんどなかった。
2001-02シーズン途中にカルロ・アンチェロッティが新監督に就任。
ピルロは攻撃の指揮を司る存在として、長短織り交ぜたパスを供給し続けレジスタ(regista)としてのポジションを確立した。
UEFAチャンピオンズリーグ優勝にも貢献した。
そして2007年のバロンドール投票でカカ、クリスティアーノ・ロナウド、リオネル・メッシに次ぐ4位の票数を獲得した。
2009年、恩師であるアンチェロッティがチェルシーFCの監督に就任したことにより、チェルシーへの移籍が噂されていたが残留した。
その後は故障が相次ぎ、本来の出来には程遠い状態が続いた。
2011年5月18日、6月30日で満了となる契約を延長せずに10年間在籍したミランを退団する事を発表。
5月24日、移籍金なしの3年契約でユヴェントスFCへ移籍した。
背番号はミラン時代と同じ21番でズデニェク・グリゲラから譲られた。
過去にはジネディーヌ・ジダンやリリアン・テュラムが着用していた番号でもある。
ライバルからの移籍であることや前年の不振から獲得には疑問の声が上がったが、ミラン時代を思わせるような正確無比なパスで一躍不可欠な存在となった。
加入前は2年連続7位だったが、チームはアントニオ・コンテ新監督の下で快進撃を続け2002-03シーズン以来(※2005-06シーズンのタイトルはカルチョポリにより剥奪)のスクデット獲得・ならびに1991-92シーズンのミラン以来20季ぶり2チーム目となる無敗優勝に貢献した。
また、この活躍によって、UEFA.comのシーズンレビューで年間最優秀選手に選ばれた。
2014-15シーズン、ミラン時代に不仲が噂されたマッシミリアーノ・アッレグリが監督に就任するものの、双方とも不仲を否定。
W杯の疲労からか欠場や途中出場が多かったものの、ユヴェントスの二冠とチャンピオンズリーグ準優勝に貢献した。
2015年7月6日、MLSのニューヨーク・シティFCに移籍が決定した。
2017年11月6日、自身のtwitterで引退することを発表した。
代表
A代表初出場は2002年9月7日のアゼルバイジャン戦。その後は代表に定着し、UEFA EURO 2004にも出場を果たしている。
アテネオリンピックにはオーバーエイジとして出場し銅メダル獲得に貢献した。
2006 FIFAワールドカップでは準決勝ドイツ戦で見せたファビオ・グロッソへのノールックパスなど、大会を通じて好プレーを披露。
初戦のガーナ戦、準決勝のドイツ戦、決勝のフランス戦で3度のマンオブザマッチに輝き、ブロンズボール賞を受賞。
イタリアのワールドカップ優勝に貢献した。
2010 FIFAワールドカップにメンバー入りするも、負傷により初戦・第2戦を欠場した。
グループリーグ突破には勝利が必要となった第3戦には、1点ビハインドになったため後半途中から強行出場したが、スロバキアに2-3で破れグループリーグで姿を消した。
UEFA EURO 2012ではハイプレスとポゼッションを基本としたチームの新戦術の中心として活躍。
準々決勝のイングランド戦ではPK戦にまでもつれ込み、1人失敗したあとの3人目のキッカーとして登場すると、チップキックでPK戦の流れを変えた。
結果、イタリアはPK戦を制し最終的には決勝に進出。
決勝ではスペインに0-4のスコアで敗れ準優勝という結果に終わったが、準々決勝で見せたプレッシャーの掛かる場面でのチップキックに関しては、評価を受けた。
2013年5月に2014 FIFAワールドカップを最後に代表から引退する意向を明かした。
同年6月16日のFIFAコンフェデレーションズカップ2013、メキシコ戦でイタリア代表史上5人目となる、通算100試合出場を達成。
この試合では直接フリーキックから先制ゴールを挙げ、大会選定のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。
2014年9月7日、代表復帰を表明した。
その後代表に復帰しユーロ2016予選では4試合でプレーした、しかしユーロ2016では候補者30人のリスト入りをするも、コンテは最終メンバーにピルロを選ばなかった。
エピソード
子供のころはアニメ『キャプテン翼』に夢中で、特に三杉淳に憧れていたことを語っている。
監督のおかげで成長できたという経験から、若い選手たちには「監督の話はちゃんと聞くように」と忠告している。
キャリアの最初はトップ下の選手としてプレーを始めた。
才能あふれるファンタジスタとして注目を浴びていたがトップ下と言うマークの集中するポジションを担う選手としては、彼のフィジカルの脆弱さは致命的であった。
選手層の厚いインテルではまともな出場機会も与えられぬまま1999年にはレッジーナ、2001年には古巣のブレシアにレンタルに出される。
ブレシアではカルロ・マッツォーネ監督の下、バッジョがいることもあり中盤の底でのプレーを経験した。
2001年7月1日、インテルのライバルであるACミランに完全移籍する。
しかし、トップ下にはマヌエル・ルイ・コスタがいたためファティ・テリム監督の構想外であり、出場機会はほとんどなかった。
2001-02シーズン途中にカルロ・アンチェロッティが新監督に就任。
アンチェロッティもトップ下にはルイ・コスタを起用し続け、試合出場を願うピルロは、通常のトップ下のポジションではなくアンカーとしての起用を直訴した。
ピルロのブレシアでの経験を知っていたアンチェロッティはこれを承諾した。
トップ下ほどフィジカルの当たりが激しくない中盤の底で、クラレンス・セードルフ、ジェンナーロ・ガットゥーゾといった強力なハードワーカーや、マッシモ・アンブロジーニのような守備能力に秀でたディフェンシブミッドフィルダーといったチームメイトにも恵まれ、ピルロは攻撃の指揮を司る存在として、長短織り交ぜたパスを供給し続けレジスタ(regista)としてのポジションを確立した。
プレースタイル
中盤の底でゲームをコントロールする“レジスタ”の代表的選手。
とくにパスにおいてテクニックと視野の広さは世界屈指にあり、さらにFKのレベルは世界最高峰。
スピードはなく、弱く、ヘディングもタックルもスプリントもしないが、彼のテクニック、メンタルといった面での天賦の才は、彼が今も唯一無二の存在であることを示している。
涼しい顔でピッチを動き回り、まるでチェスの達人かのようにボールとチームメートを動かし、スタイリッシュな曲線を描くフリーキックは純粋に美しい。
たった一本のパスで決定的なシーンを演出し、勝負を決める。
ゴールを奪う者がピッチという舞台の“主役”だとすれば、レジスタ(演出家)という言葉は、この男によく似合う。
視野の広さは抜群で「一人ひとりの選手がピッチ上のどこに、どうポジショニングしているかを正確につかむこと」
いとも簡単なことのように、その口から発せられた『レジスタとして最も大切なこと』の難易度の高さは、改めて説明するまでもないだろう。
そしてその場所にピンポイントでパスを届けられる技術の高さは芸術の域に達している。
特にそのロングパスの精度は神がかっていた。
中盤の底から一気にフォワードてアシストにつながるロングパスを繰り出すのだ。
長短のパスの正確さも神業のレベルだが、ドリブルやトラップなどのボールを扱う技術は抜きんでている。
まさに芸術家、アーティスト、天才である。