概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1953年5月25日 | ||
出身地 | チェルヌスコ・スル・ナヴィーリオ | ||
没年月日 | 1989年9月3日(36歳没) | ||
身長 | 178cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはディフェンダー(リベロ)。
利き足は右。
イタリア史上屈指のリベロ。
UEFAとFIFAによって承認されたサッカークラブのすべての国際トロフィーを獲得した、ヨーロッパのサッカー史上わずか5人のプレーヤーの1人です。
獲得タイトル
クラブ
- ユヴェントス
- 7 Serie A: 1974–75, 1976–77, 1977–78, 1980–81, 1981–82, 1983–84, 1985–86
- 2 Coppa Italia: 1978–79, 1982–83
- 1 UEFA Cup: 1976–77
- 1 UEFA Cup Winners’ Cup: 1983–84
- 1 European Cup: 1984–85
- 1 UEFA Super Cup: 1984
- 1 Intercontinental Cup: 1985
代表
- イタリア代表
- 1 FIFA World Cup: 1982
- FIFA World Cup (Fourth place): 1978
- UEFA European Football Championship (Fourth place): 1980
-
個人
- UEFA European Championship Team of the Tournament: 1980
- Italian Football Hall of Fame: 2011
- Juventus Greatest XI of All Time: 2017
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1972-1974 | ![]() |
58 | (1) |
1974-1988 | ![]() |
371 | (23) |
代表歴 | |||
1975-1984 | ![]() |
78 | (2) |
ユヴェントスやイタリア代表では、ゴールキーパーのディノ・ゾフとともに鉄壁の守備陣を築き、ユヴェントスのUEFAチャンピオンズカップ優勝や7度のスクデット獲得。
アッズーリのスペインW杯優勝の原動力となった。
ユヴェントスでの公式戦出場552試合は、2008年にアレッサンドロ・デル・ピエロによって破られるまでのクラブ記録だった。
イタリア代表においては、フランコ・バレージを抑えて長年レギュラーとして活躍した。
1988年に現役を引退。
エピソード
ピッチの内外問わず温厚で紳士的な性格であったシレアは、現役生活の中で一度も退場処分を受けなかった。
シレアの名はイタリア国内ではスポーツマンシップの代名詞として、若い世代の大会名やフェアプレー賞に冠されている。
UEFAカップでユヴェントスと対戦する予定になっていたポーランドのグールニク・ザブジェを視察し車で帰国する道中、交通事故に巻き込まれ、36歳で死去した。
没後、90年に新設されたユヴェントスのホームスタジアムであったスタディオ・デッレ・アルピの観客席の一角には、「Curva Scirea」と呼ばれるサポーター席が設けられた。
プレースタイル
モダンで非常に才能のあるディフェンダーであり、優れたテクニカルスキルと戦術的能力を備えていました。
インテリジェンス溢れるDFであり、テクニックと研ぎ澄まされた感覚で世界中の攻撃プレーヤーを苦しめ、そして相手チームの攻撃を封じた。
機を見た攻撃参加は、ユーベ、アズーリのどちらにおいても効果的であり、また時に自ら重要なゴールを奪った。
非常にゲームを読む力に優れスイーパーとリベロの役割を自在に試合の中でこなし、また優れた戦術眼とコーチングから見事に味方ディフェンダーをまとめ上げチームの堅守を一人で支えました。
リーダーシップにも優れておりユヴェントス、イタリア代表どちらでもキャプテンを任されました。
またフェアプレーでも知られクレバーなディフェンスで生涯一度も退場処分を受けたことがなかった。
元ミッドフィールダーだったこともありパス能力やビジョン、ボールに対する落ち着きがありました。
キャリア後半はセンターバックとしてより守備的な役割を果たした。