概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1972年8月30日(47歳) | ||
出身地 | ヘプ | ||
身長 | 177cm | ||
体重 | 70kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「チェコの大砲」、「デュラセル」。
疲れを知らないのごとく、無尽蔵のスタミナで試合中走り回り、当たりに強い体格であり、スピードのあるドリブルや正確なパスなどの優れたテクニックを兼ね備えた理想的な攻撃的ミッドフィルターであったことから、あだ名は「鋼鉄のロボット」、「チェコの大砲」などがある
チェコの英雄として名を馳せ、世界最高のスタミナとユーティリティーでダイナミックなスキルを持ち、地上最高のダイナモの名を欲しいままにし、銀河系のスタープレーヤーがひしめく時代の中でバロンドールも獲得した。
2002-03シーズン、ユーベの大黒柱と化したネドベドは、故障者が続出して危機的なチーム状況の中ほとんどの試合にフル出場し、シーズン終盤には「バロンドール間違いなし」と批評家から評価を受ける程の活躍ぶりを見せた。
チームも2年連続のスクデットを獲得した。
そのシーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、ユヴェントスは決勝に進むも、ネドベドは準決勝のレアル・マドリード戦でイエローカードをもらい累積2枚目となったため、決勝には出場することが出来なかった。
なお、ユヴェントスはPK戦の末にACミランに敗れ優勝を逃した。
代表ではカレル・ポボルスキー、ヤン・コレル、ロシツキー、ヤンクロフスキらチェコ代表史上最高と言われるタレントらと共にはチェコ代表のベスト4に貢献したが、準決勝のギリシャ戦で足を負傷し交代、チェコ代表はその後延長戦で敗れた。
獲得タイトル
クラブ
- スパルタ・プラハ
- チェコスロバキアリーグ (1992-93)
- ガンブリヌス・リーガ (1993-94, 1994-95)
- チェコカップ (1996)
- ラツィオ
- セリエA (1999-2000)
- コッパ・イタリア (1997-98, 1999-2000)
- ユベントス
- セリエA (2001-02, 02-03)
- セリエB (2006-07)
個人
- バロンドール (2003)
- セリエA最優秀選手 (2003)
- セリエA最優秀外国人選手 (2003)
- チェコ最優秀選手 (1998, 2000, 2001, 2003, 2004)
- UEFAベストイレブン (2003, 2004, 2005)
- チャンピオンズリーグ最優秀MF (2003)
- 英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手(2003)
- ゴールデンフット賞 (2004)
- FIFA100
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1991-1992 | ![]() |
19 | (3) |
1992-1996 | ![]() |
98 | (23) |
1996-2001 | ![]() |
137 | (33) |
2001-2009 | ![]() |
244 | (51) |
代表歴 | |||
1994-2006 | ![]() |
91 | (18) |
14歳となった1986年からスコダ・プルゼンという地元のクラブに加入。
デュクラ・プラハというクラブを経てスパルタ・プラハに加入。
当初はチームに馴染めず、監督のカロル・ドビアシュからも低い評価を受けていたが、周囲の視線を気にせず着実に力をつけたネドベドは2シーズン目には主力としてリーグ連覇に貢献。
更に1994年6月のアイルランド戦で代表デビューを果たし、EURO ’96にも出場。
チームの顔は同僚のカレル・ポボルスキーだったが、着実なプレーで欧州におけるネドベドの評価を高めた。
EURO ’96での活躍が認められ、同年セリエAのラツィオに移籍。
当時のラツィオは中堅クラブを脱するか否かのステージにいたが、毎年活発な選手補強を行いシニシャ・ミハイロヴィッチやフェルナンド・コウト、セバスチャン・ヴェロン、エルナン・クレスポといった選手を揃えて一躍ビッグクラブ並の布陣となる。
その中でネドベドはスタミナを武器に大車輪の活躍を見せ、1999-2000シーズンにリーグ優勝を果たした。
2000-01シーズン終了後、クラブ側は長期の契約延長をネドベドに提示し、彼もこれを受け入れ合意に至ったが、会長のセルジョ・クラニョッティがオーナーを務める大手食品会社チリオの業績悪化の影響で、チームは急きょ資金調達と高額な年俸を支払っている主力選手の放出を余儀なくされた。
ネドベドも例外ではなく、休暇から戻ってきたネドベドは急転直下、ユヴェントスへの移籍を言い渡された。
この一連の流れはチームの顔であったアレッサンドロ・ネスタを手放す程の主力組の大放出劇であった。
2001-02シーズン序盤ユーベは低迷しており、ネドベド自体もフィットしていないと評され、優勝争いからも脱落すると思われた。
しかし、シーズン終盤を迎えるとこのシーズン最強と評されたインテルを抜き去ってスクデットを獲得。決してネドベドの貢献が大きかったとは言えないが、この勢いをベースにした手ごたえは翌シーズンに発揮されることになった。
2002-03シーズン、ユーベの大黒柱と化したネドベドは、故障者が続出して危機的なチーム状況の中ほとんどの試合にフル出場し、シーズン終盤には「バロンドール間違いなし」と批評家から評価を受ける程の活躍ぶりを見せた。
チームも2年連続のスクデットを獲得した。
そのシーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、ユヴェントスは決勝に進むも、ネドベドは準決勝のレアル・マドリード戦でイエローカードをもらい累積2枚目となったため、決勝には出場することが出来なかった。
なお、ユヴェントスはPK戦の末にACミランに敗れ優勝を逃した。
2006-07シーズン、ユーベは不正疑惑の為にセリエB降格の処分が下され、主力だったカンナヴァロ、テュラムらが次々とユヴェントスを去り、自らにも多くのクラブからオファーがきた。
シーズン終了前は引退も口にしていたネドベドだったがデル・ピエロ、ブッフォンに続き、「世話になったクラブに恩返しをしようと思う」と現役続行と残留を表明、チームを1シーズンで再昇格させる原動力となる活躍を見せた。
2007-08シーズン、新加入のチアゴにレギュラーの座を脅かされていたが、35歳という年齢ながらレギュラーを死守した。
2009年2月25日、2008-09シーズンをもって現役を引退することを発表した。
エピソード
- 一時期サッカー選手よりも医者になることを目指していた。チェコの名門スパルタ・プラハがネドベドをスカウトした際に、彼自身は大きな興味を示し、結果的には加入することになるが、まだ学生という身分を理由に周囲の人間からは猛反発された。また、スパルタ・プラハに加入してからも会計士の勉強に力を入れ、着実な道を歩もうとしていた。
- ラツィオ所属時にPKを得たにもかかわらず、自らPKでないとアピールしたことがある。
- 努力家として知られる。本人によると、少年時代には家から60マイル(およそ96km)離れたサッカースクールに通っていたという。にも関わらず当時練習時間は毎日12時間を費やしていた。さらに趣味と聞かれると「練習」と言うくらいの練習の虫である。「サッカーをしていない時は?」と聞かれた際には家族サービスと回答している。
- 朝は7時に起床し、朝食前にランニング、チーム練習は常に最後まで残り、夜10時には就寝するというスタイルを長年続けている。
- パトリック・ベルガー、トマシュ・レプカとは犬猿の仲で、このために二人は早期に代表引退している。カレル・ポボルスキーとは親友である。
- タイトルがかかった重要な試合などには出場が出来ないことが多い。試合中に熱くなり過ぎるのが原因である。
プレースタイル
基本的なサッカーのスキルが高く、身体能力的にもパワフルさも兼ね備えていた。
尋常じゃない運動量で90分を毎試合走り続けるその活躍に誰もが感嘆し畏怖する存在だった。
走力やスタミナがある選手は、縁の下のちから持ち的な印象が強いが、ネドベドのその異常なスタミナはそれだけでピッチを支配できるレベルのものであり、誰もが走る近代化アスリート化が加速した現代サッカーでもネドヴェドの運動量はずば抜けて高かった。
単純なスピードも平均値よりも高く、終盤まで止まることなく走り続けられ、まさにボックストゥボックスの理想的な形だった。
フィジカルレベルも高く、ただ敏捷に追いつくだけでなくファイトしてボールを奪えるパワフルな体幹もある。
不屈のメンタルが時に、アツく振り切れすぎてしまうこともあるが、誰もが何も文句言えないほどの運動量は説得力に溢れ、背中と行動で見せるピッチ上のボスとして君臨し続けるのも必然だった。
単純な走力でのチームへの貢献度も間違いなく歴代最高レベルだったが、それ以上にネドベドは相手にとって怖い選手で有り続けられるスキルも兼ね備えていた。
無尽蔵の運動量をもってして数多くボールを触り、ピッチのどこからでも推進力を発揮できるボールを持った時の走力もあった。
何より強力な武器はある程度相手陣側のボックスに近づけば、あっさりとゴールを奪えるほどの強烈無比なミドルシュートを両足で打てる事。
その威力、精度ともに世界屈指のレベルでチェコの大砲という異名もわかる、なにしろ思い切りが抜群に良かった。
数多くの貴重なゴールをそのミドルから奪い、金髪を振り乱すほどのダイナミックなシュートフォームはファンの心に刻まれている光景だ。
普通どんなレジェンドプレーヤーでもキャリアの晩年はクラブのレベルを落としたり出場試合数が落ちていくのが通常だ。
それに比べるとネドベドはあまりに異常な出場数。
最後の一年もユベントスで29試合に出て7点決めている。
試合数も得点もキャリアのほぼ平均値だ。
パワーもスタミナもほぼ衰えなかった事も流石だが、その根底にあるボールスキルの部分がこのキャリアを支えた一面もあったのだろうと思う。
走れるだけ、パワーがあるだけの選手はこうはいかない。
異常なスタミナを、更にムダにしないための技術というハイブリットさが、彼の異様さの正体であると言えるかもしれない。