概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1973年9月13日(46歳) | ||
出身地 | ナポリ | ||
身長 | 175cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
イタリア代表では、パオロ・マルディーニの代表引退後、キャプテンの座を引き継いだ。
代表136キャップを記録しているが、これはジャンルイジ・ブッフォンが更新するまでイタリア代表の歴代最多出場であった。
2006年ワールドカップ・ドイツ大会でイタリアを優勝に導き、当年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)、イタリアサッカー連盟MVP、UEFAベストイレブンおよびFIFA最優秀選手賞にも選ばれた。
弟はサッカー選手のパオロ・カンナバーロ。
タイトル
イタリア
- コッパ・イタリア – 1998–99, 2001–02
- スーペルコッパ・イタリアーナ – 1999
- UEFAカップ – 1998-99
スペイン
- リーガ・エスパニョーラ – 2006-07, 2007-08
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ – 2008
イタリア代表
- UEFA U-21欧州選手権 – 1994, 1996
- FIFAワールドカップ – 2006
個人
- UEFA U-21欧州選手権最優秀選手賞:1回 (1996)
- UEFA欧州選手権ベストチーム:1回 (2000)
- ESMチーム・オブ・ザ・イヤー:1回 (2004-05)
- セリエA最優秀ディフェンダー:2回 (2005, 2006)
- セリエA最優秀選手賞:1回 (2006)
- セリエA最優秀イタリア人選手賞:1回 (2006)
- FIFAワールドカップシルバーボール:1回 (2006)
- FIFAワールドカップベストチーム:1回 (2006)
- FIFA最優秀選手賞:1回 (2006)
- バロンドール:1回 (2006)
- ワールドサッカー世界最優秀選手賞:1回 (2006)
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー:1回 (2006)
- FIFproワールドイレブン:2回 (2006, 2007)
- 中国サッカー協会年間最優秀監督賞:1回(2017)
経歴
クラブ
1988年、SSCナポリのユースに加入。
1991年、下部組織からナポリのトップチームに昇格し、そのキャリアをスタートさせた。
後にイタリアを代表する監督となり、カンナヴァーロと共にW杯を掲げることになる恩師、マルチェロ・リッピと出会ったのもナポリであった。
しかし、ナポリは極度の財政難に陥り、主力選手の流出が避けられない状況となった。
本人は「たとえセリエBだろうがCだろうがナポリのためならプレーする」と何度もクラブオーナーや幹部に訴えたが、財政難の中にあって、セリエの強豪チームから高額オファーが届いたため、ナポリからの放出が決まった。
既にナポリでもかなりの完成度にあったが、ACパルマへの移籍後、さらに数段DFとして成長することになる。
1対1の強さに加え、インターセプトの技術、先読みの能力を伸ばした。
特にマンマークの技術においては、当時のセリエAはおろか、世界最高の評価を得た。
また、このパルマではジャンルイジ・ブッフォンの的確な指示、リリアン・テュラムとのチェックとカバーリングのタイミングでリーグ最高といわれる守備陣を形成した。
そして、スクデットを獲得するためカンナヴァーロはインテルへと移籍した。
しかし、インテル時代は監督との確執により、本職でないサイドバックやボランチなどを務めたため、本来の能力を発揮することはなかった。
一時、評価を落としたが、ユヴェントスFCに移籍して本来のプレーを取り戻した。
2004-05シーズンには再びパルマ時代の同僚である、ブッフォン、テュラムなどと守備陣を形成し、セリエA最少失点およびスクデット獲得に貢献した。
しかし、2006年のカルチョ・スキャンダルといわれた一連の八百長事件により、ユヴェントスは2004-05シーズンのスクデット剥奪、セリエB降格処分となった。
カンナヴァーロ自身もブラジル代表MFエメルソンと共にレアル・マドリードへ移籍することが決まった。
移籍金は発表されていないが、エメルソンと合わせて2300万ユーロといわれている。
ワールドカップなどでの功績が認められ、2006年のバロンドールを受賞。これは基本的にDFを務める選手としてはフランツ・ベッケンバウアー(2回)、マティアス・ザマーに続く3人目、4回目の受賞である。
しかし、彼らはリベロといわれるポジションであり、両者とも90分のほとんどをMFとしてプレーしていたことを考えると、純粋なDFとしては史上初の受賞である。
また、イタリア人選手では1993年のロベルト・バッジョに続き5人目、更にイタリア人DFとしても、ドイツ人以外のDFとしても初の受賞でもある。
しかし、その後は精彩を欠き、2009年夏に3年間過ごしたマドリーを離れ、古巣ユヴェントスと1年契約で復帰した。
この古巣復帰に際しては、以前のようなパフォーマンスは期待されないだろうとの評価からユーヴェサポーターとの関係も修復されず、シーズン開幕を迎えた。
2009-10シーズン終了後、UAEのアル・アハリ・ドバイと2年契約した。
2011年6月にアル・アハリを退団。
アル・アハリを退団した後、7月に膝の怪我のため現役引退。
代表
代表では1993年、チェーザレ・マルディーニ率いるU-21イタリア代表に招集され、2度の欧州選手権優勝を果たす。
1996年大会では、大会最優秀選手にも選ばれた。
また同年、アトランタオリンピックにも出場した。
ナポリでのプロデビューから6年後の1997年、A代表に招集され北アイルランド戦でデビューを飾った。
EURO2000ではパオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・ネスタ、フランチェスコ・トルドらと守備陣を形成し、決勝までの5試合を2失点に抑えた。
フランスとの決勝戦も90分間を無失点に抑えたが、ロスタイムから同点に追いつかれ、延長線の末に敗れた。
キャプテンとして出場した2006 FIFAワールドカップでは、全試合にフル出場。
GKのブッフォンと共に相手を抑え込むパフォーマンスを披露し、チームの優勝の立役者となった。
同大会のシルバーボール賞(優秀選手投票第2位)も受賞している。
また、同大会決勝戦をもって史上4人目となるイタリア代表通算100試合出場を達成した。
EURO2008ではキャプテンとして守備陣の柱となることを期待されていたが、練習中にジョルジョ・キエッリーニのタックルを受けた際に左足を負傷したため、出場することは絶望的となった。
2009年のFIFAコンフェデレーションズカップ、ブラジル戦でマルディーニの出場数を超え、イタリア代表最多出場記録を更新した。
2010 FIFAワールドカップにもキャプテンとして臨んだが、チームはグループリーグ敗退。
ワールドカップを最後に代表を引退した。
エピソード
- 商業高校を卒業しており、簿記の資格を保有している。高校時代は授業をサボることが多く、そのたび両親が呼び出しを受けていた。堪忍袋の緒が切れた両親は彼にサッカーを1ヶ月間禁止し、彼が大事にしていたナポリのユニフォームを破いてしまった。
- 坊主頭を気に入っており、チームメイトにも勧める。過去、ズラタン・イブラヒモビッチ、ジェンナーロ・ガットゥーゾ等が彼の影響で頭を丸めた。
- パンツェッタ・ジローラモ曰く、ナポリではカンナヴァーロの実家と隣同士らしい。
プレースタイル
DFとしては小柄だが、統率力、ジャンプ力、フィジカルに優れたセンターバック。
彼の能力の中でも特筆すべきは競り合いの巧さでしょうか。
カンナバーロはCBとしては小柄な方なのですが、体の大きな選手にも一方的に当たり負ける事がほとんどない。
それも単純にフィジカルの強さだけで勝つではなく、上手に体を使って相手を押さえていたのが印象的でした。
1対1の強さや読みの鋭さは異常なレベルにあった。
相手が強ければ強いなりに、速ければ速いなりに、巧(うま)ければ巧いなりに、懐から最善のレシピを取り出して、敵を危険地帯の外へと締め出した。
そのハイライトが、イタリアを史上四度目の世界制覇へと導いた2006年のドイツ・ワールドカップだ。