ルート・クロル

概略

国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 1949年3月24日(71歳)
出身地 アムステルダム
身長 184cm

 

ポジションはディフェンダー(左サイドバック、リベロ)。

 

利き足は右。

 

クロルは1970年代のオランダのトータルフットボールと呼ばれた戦術の中で中盤からセンターバック、サイドバックを務め、守備能力と果敢なオーバーラップで重要な役割を担った。

 

1974年、1978年のワールドカップをともに準優勝という成績に貢献した。

 

アヤックスではリヌス・ミケルス監督の下、ヨハン・クライフらと共にチームを牽引、リーグ優勝7回、カップ優勝4回、UEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)優勝3回、インターコンチネンタルカップ優勝1回など数多くのタイトルを獲得。

 

1970-71シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝は、足の骨折のため出場出来なかったが、翌1971-72と1972-73シーズンでは決勝に出場し大会三連覇に貢献するなど、アヤックスの黄金時代を支えた。

 

獲得タイトル

クラブ

アヤックス
  • エールディビジ:1969-70, 1971-72, 1972-73, 1976-77, 1978-79, 1979-80
  • KNVBカップ:1969-70, 1970-71, 1971-72, 1978-79
  • ヨーロピアン・カップ:1970–71, 1971–72, 1972–73
  • UEFAスーパーカップ:1972, 1973
  • インターコンチネンタルカップ:1972

代表

オランダ代表
  • FIFAワールドカップ準優勝:1974, 1978
  • UEFA欧州選手権3位:1976

個人

  • FIFAワールドカップ・ベストイレブン:1974, 1978
  • UEFA欧州選手権ベストイレブン:1976
  • バロンドール3位:1979
  • グエリン・ドーロ:1979

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1968–1980 オランダの旗 アヤックス 339 (27)
1980 カナダの旗 バンクーバー・ホワイトキャップス 14 (0)
1980–1984 イタリアの旗 ナポリ 107 (1)
1984–1986 フランスの旗 カンヌ 63 (0)
通算 523 (24)
代表歴
1969-1983 オランダの旗 オランダ 83 (4)

 

クラブ

 

クロルは1968年にアヤックス・アムステルダムでキャリアを開始した。

 

デビュー当初は出場機会に恵まれなかったが、1969年夏に左サイドバックのテオ・ファン・ダイフェンボーデがフェイエノールトへ移籍すると、出場機会を掴みレギュラーとなった。

 

リヌス・ミケルス監督の下、ヨハン・クライフらと共にチームを牽引、リーグ優勝7回、カップ優勝4回、UEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)優勝3回、インターコンチネンタルカップ優勝1回など数多くのタイトルを獲得。

 

1970-71シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝は、足の骨折のため出場出来なかったが、翌1971-72と1972-73シーズンでは決勝に出場し大会三連覇に貢献するなど、アヤックスの黄金時代を支えた。

 

その後、クライフとヨハン・ニースケンスが新天地を求めてクラブを去り、1974年10月にピート・カイザーが引退すると主将としてアヤックスを牽引。

 

1979年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)ではケビン・キーガン、カール=ハインツ・ルンメニゲに次ぐ第3位に選ばれている。

 

1980年に北米サッカーリーグのバンクーバー・ホワイトキャップス 、イタリアのSSCナポリを渡り歩き、1986年にフランスのASカンヌ(当時リーグ・ドゥ所属)で現役を引退した。

 

代表

 

オランダ代表としては1969年11月5日のイングランド戦でデビュー。

 

クロルは1970年代のトータルフットボールと呼ばれた戦術の中で中盤からセンターバック、サイドバックを務め、守備能力と果敢なオーバーラップで重要な役割を担った。

 

1974年のワールドカップ・西ドイツ大会では主に左サイドバックとしてプレーし、2次リーグのアルゼンチン戦では1得点。

 

2次リーグ最終戦のブラジル戦では65分にロブ・レンセンブリンクとのパス交換から左サイドを突破、正確なクロスを上げクライフのジャンピングボレーシュートをアシストする活躍を見せた。

 

決勝戦では地元の西ドイツに1-2で敗れ準優勝に終わった。

 

1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会ではリベロを務め、参加を辞退したクライフに代わって主将を務めた。

 

前回大会に続いて決勝進出に導いたが地元のアルゼンチンに延長戦の末1-3で敗れ去った。

 

1979年5月22日に行われたアルゼンチンとの親善試合で65試合出場を果たし、オランダ代表歴代最多出場記録を更新。

 

1980年のUEFA欧州選手権1980にも出場したが、ワールドカップ・スペイン大会予選ではフランスに競り負け敗退。

 

1983年のUEFA欧州選手権1984予選、スペイン戦を最後に代表から退いた。

 

クロルは国際Aマッチ83試合に出場し4得点を記録した。

 

なお出場記録は2000年6月29日のUEFA欧州選手権2000準決勝、イタリア戦でアーロン・ヴィンターによって塗り替えられるまで歴代最多出場記録であった。

エピソード

引退後は指導者の道へ進み、1994年にエジプトのアル・ザマレクの監督に就任。

 

エジプトカップ優勝1回(1999年)、 アフリカチャンピオンズカップ(CAFチャンピオンズリーグの前身)優勝1回(1996年)、アフロアジアクラブ選手権優勝1回(1997年)に導いた。

 

2000年からはオランダ代表のコーチを務め、ルイス・ファン・ハール監督を補佐。

 

2002年からはロナルド・クーマン監督の下で古巣のアヤックスでコーチに就任し、2005年にクーマンが監督を辞任すると暫定監督を務めた。

 

プレースタイル

体格にも恵まれ、大型ながらスピードや技術に優れ、情勢を冷静に把握する頭脳と統率力により攻守に幅広く活躍。

 

左SBとリベロという異なるポジションで世界的な地位を確立させました。

 

「ボール狩り」なんて言われた中盤のプレス、この中心的な役割もこなしていました。

 

70年代後半からは、統率力、冷静な判断力を発揮してリベロとして活躍しました。

 

DFとしての才能は図抜けていました。

 

大柄な体格からは想像できないほどに機敏に動き、冷静な判断力と統率力から素晴らしいディフェンダーというだけではなく、素晴らしいキャプテンとして絶大なる存在感を発揮した。

 

また、総合的な能力を備えており、本職のディフェンダーのみならず中盤もこなすユーティリティーさを備え、ディフェンダーとは思えないほどのテクニックと疲れ知らずの底抜けのスタミナはチームに欠かすことの出来ない、監督としては非常に使い勝手の良い選手であった。

 

オランダとアヤックスを当時の世界最高のチームにまで仕立て上げた名将ミゲルスの素晴らしき教え子であり、ミゲルスとクライフの両方の考えを即座に理解することが出来る非常に頭の良い選手でもあった。

 

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