概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1987年12月19日(32歳) | ||
出身地 | リヨン | ||
身長 | 187cm | ||
体重 | 79kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は「El Tigre(虎)」、「El Emperador(皇帝)」、「El Guerruo(戦士)」など。
レアル・マドリードで活躍するフランス代表ストライカー。
レアル・マドリードで共にプレーしたガレス・ベイル、クリスティアーノ・ロナウドとの3トップは3人の名前の頭文字からBBCと呼ばれていた。
獲得タイトル
クラブ
リヨン
- Ligue 1: 2004–05, 2005–06, 2006–07, 2007–08
- Coupe de France: 2007–08
- Trophée des Champions: 2006, 2007
レアル・マドリード
- La Liga: 2011–12, 2016–17, 2019–20
- Copa del Rey: 2010–11, 2013–14
- Supercopa de España: 2012, 2017
- UEFA Champions League: 2013–14, 2015–16, 2016–17, 2017–18
- UEFA Super Cup: 2014, 2016, 2017
- FIFA Club World Cup: 2014, 2016, 2017, 2018
代表
フランス代表 U17
- UEFA European Under-17 Championship: 2004
個人
- Bravo Award: 2008
- Ligue 1 Top Goalscorer: 2007–08
- UNFP Ligue 1 Player of the Month: January 2008, April 2008
- UNFP Ligue 1 Player of the Year: 2007–08
- UNFP Ligue 1 Team of the Year: 2007–08
- Étoile d’Or: 2007–08
- FIFA FIFPro World11 nominee: 2009, 2011, 2012, 2019 (15th forward)
- FIFA FIFPro World11 3rd team: 2015, 2017
- FIFA FIFPro World11 4th team: 2014, 2016
- FIFA FIFPro World11 5th team: 2018
- UEFA Champions League top assist provider: 2011–12
- La Liga Player of the Month: October 2014,June 2020
- French Player of the Year: 2011, 2012, 2014
- Fastest goal in an El Clásico on 10 December 2011 (21 seconds)
- Trophées UNFP for Best French Player playing Abroad: 2019
- UEFA La Liga Team of the Season: 2019-20
経歴
クラブ
1950年代の後半に祖父が一家でアルジェリアからリヨンに移住。
両親はベルベル系アルジェリア人。
リヨン郊外のブロンで生まれ育つ。
兄弟は8人。
両親のために家を購入し、現在も同居している。
9歳の時、当時ベンゼマの所属していたSCブロンはリヨンのジュニアチームと対戦。
SCブロンがベンゼマの2得点により2-0で勝利し、この時にリヨンに引き抜かれた。
リヨンのU-16チームでは、1シーズンで38ゴールを奪う活躍を見せた。
U-18でも高い得点力は健在であり、14試合で12得点を挙げた。
2005年1月15日、メス戦で後半77分から途中交代の形でトップチームデビュー。
この試合ではアシストも記録し、2-0での勝利に貢献した。
その5日後、トップチームと3年間の選手契約を行った。
2005-06シーズンにはアジャクシオ戦でプロ初得点を挙げ、UEFAチャンピオンズリーグに初出場となったローゼンボリ戦でチャンピオンズリーグ初得点も挙げる。
2006-07シーズンからはチームの主力となり、リヨンのリーグ6連覇に貢献し、フランス代表に招集される。
背番号を10に変更し迎えた2007-08シーズンはチャンピオンズリーグでは、7試合に出場して4得点を記録しリヨンのベスト16入りに貢献。
リーグ・アンでは自己最多の36試合に出場し20得点を挙げ得点王となり、リヨンのリーグ7連覇に貢献した。
メス戦でハットトリックを記録した。
この活躍から2008年のブラヴォー賞を受賞した。
2008-09シーズンもチャンピオンズリーグ8試合に出場し5得点、リーグ36試合に出場し2位タイの17得点を挙げる活躍をみせるが、リヨンは3位に終わり8連覇を逃した。
FCバルセロナ、レアル・マドリード、マンチェスター・ユナイテッドFCなどのビッグクラブ、他にもインテル・ミラノ、ACミランなどからもオファーが届き、2009年オフにはマンチェスター・ユナイテッドとレアル・マドリードが争奪戦を繰り広げた。
ベンゼマは当初「あと1シーズンはリヨンに残る」としていたが、7月1日、レアル・マドリードへの移籍がリヨンのホームページで発表された。
移籍金は3500万ユーロで移籍後の活躍次第で最大600万ユーロが追加される。
2009年8月29日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でリーガ・エスパニョーラデビュー。
9月20日のシェレス戦で移籍後初得点を挙げた。
開幕当初はスタメン起用されていたが、チームやリーグにあまり馴染めずに昨季チーム得点王であったゴンサロ・イグアインにスタメンの位置を奪われる。
結局、27試合の出場で9得点にとどまり、結果的に南アフリカW杯出場を逃した。
さらに、W杯後の2010年7月21日にはフランク・リベリーとともに買春容疑で事情聴取されるなど公私にわたって惨憺たるシーズンとなった。
2010年夏の移籍市場では、チームの象徴だったラウール・ゴンサレスがドイツのシャルケ04へと移籍したことにより空いた背番号7をクリスティアーノ・ロナウドが求めたため、それまでC・ロナウドが付けていた背番号9が空き番となり、憧れの選手であるロナウドと同じ9番を付けることとなった。
2010-11シーズン前、ベンゼマはファンに「最高のベンゼマを披露すると約束する。今年は僕の年になるだろう。」と語った。
しかし、シーズンが始まってもベンゼマは寝坊や練習の怠慢などを繰り返したため、ジョゼ・モウリーニョ監督から叱責を受けた。
その後手術によってイグアインが離脱してからは多くのチャンスが与えられ、先発出場する機会も増えた。
UEFAチャンピオンズリーググループステージ最終戦のオセール戦や8-0で大勝したコパ・デル・レイレバンテ戦ではハットトリックを記録した。
一方リーグ戦では得点を決めることが出来ず、リーガ第4節エスパニョール戦で決めて以降、1月24日の第20節マジョルカ戦まで無得点であった。
モウリーニョからの信頼を勝ち取ることが出来ず、アルメリア戦では怪我明けのカカを起用するために、チーム唯一のCFであるにも関わらずベンゼマは先発に選ばれなかった。
しかし、3月になって突如量産体制に入り、アトレティコ・マドリードとのマドリードダービー直近の8試合で10得点を挙げた。
2011-12シーズン前にアーセナルFCやユヴェントスFCからの関心が伝えられるもレアル・マドリード残留を明言。
その際には「来シーズンは、本当のベンゼマを見ることになるよ」と語った。
シーズン前のトレーニングにより体重を8kg落として臨み、プレシーズンでは、7試合で8得点を挙げるなど好調を保ち、リーガ開幕前のスーペルコパでもメスト・エジルの先制点をアシストすると、自らも同点ゴールを決めた。
リーガではともに自己最多となる34試合21得点を記録。
全大会合計で34得点、15アシストを挙げ、レアルのチャンピオンズリーグ準決勝進出、4年ぶりのリーガ制覇に貢献した。
2014年1月18日、レアル・ベティス戦にてレアル・マドリード通算100得点を記録。
2013-14シーズンのコパ・デル・レイ決勝、FCバルセロナ戦ではアンヘル・ディ・マリアの先制点をアシストしてタイトル獲得に貢献し、一週間後に行われたUEFAチャンピオンズリーグ準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では試合唯一のゴールを奪った。
2014-15シーズン、UEFAチャンピオンズリーググループステージのFCバーゼル戦では、UEFA主催大会におけるレアル・マドリード通算1000得点目を記録した。
2016年1月9日に行われたデポルティーボ戦でリーガ・エスパニョーラでの自身通算100得点を記録。
2016年12月7日に行われたドルトムント戦でチャンピオンズリーグ通算50得点に到達した。
同月に行われたクラブワールドカップの準決勝のクラブ・アメリカ戦、決勝の鹿島アントラーズ戦ではいずれも先制ゴールを記録した。
2017年9月21日、レアル・マドリードとの契約を2021年まで延長した。
クリスティアーノ・ロナウドが退団した2018-19シーズンは、2011-12シーズン以来のキャリア通算3度目となるシーズン30得点を記録した。
また、チャンピオンズリーグのアヤックスにてクリスティアーノ・ロナウド、リオネル・メッシ、ラウールに次ぎルート・ファン・ニステルローイに並ぶ大会通算60得点目を記録した。
2020年6月18日に行われた、2019-2020シーズン第29節の対バレンシアCF戦で2ゴールを記録、クラブ通算得点を243に伸ばし、フェレンツ・プスカシュを超えて歴代5位となった。
リーグ戦ではメッシの25ゴールに次ぐ21ゴールを決め、3年振りのリーグ制覇に貢献した。
代表
全世代のフランス代表に選抜された。
2004年のUEFA U-17欧州選手権ではナスリやベン・アルファらと共に優勝に貢献し、U-18代表では14試合12ゴールを挙げ、早くから決定力を見せ優勝メンバーの一員となった。
アルジェリア国籍を持つことからアルジェリア代表からも招集を受けるが、フランス代表を選択し、2007年3月28日の親善試合・オーストリア戦でフランス代表デビュー。
この試合で決勝点となる代表初得点を挙げた。EURO2008代表メンバーにも選ばれるが、目立った活躍はできずフランス代表もグループリーグで敗退した。
所属クラブであるレアル・マドリードでのプレーの調子や前述の買春問題などから南アフリカW杯メンバーからは落選した。
2012年の欧州選手権では招集を受け、全試合に先発出場した。
ウクライナ戦では2アシストを記録して勝利に貢献したが、ベンゼマ自身は大会4試合でゴールを決められず、決勝トーナメント1回戦でスペインに敗れた。
2012年6月5日のエストニア戦以降15試合、およそ1222分間代表でのゴールから見放されていたが、2013年10月に行われたオーストラリア代表との親善試合でゴールを決めた。
2014年W杯予選は9試合で2ゴールだけでしたが、ウクライナとのプレーオフでは2ndレグでの決勝点で母国を逆転勝利に導き求心力を取り戻しました。
本戦ではホンジュラス戦で相手のオウンゴール含め全ゴールに絡み、スイス戦と計3ゴールを挙げました。
2016年欧州選手権予選は3試合戦いアルメニア戦で2ゴールを挙げますが、2015年に彼の代表生活は突如として幕を下ろす(後述)。
エピソード
2015年11月に、性行為を映した映像を利用し、同じフランス代表の僚友マテュー・ヴァルブエナを恐喝に関与した容疑でフランス警察当局に逮捕された。
事件の発端は、2014年夏頃に当時、マルセイユに所属していたヴァルブエナがマルセイユの選手らと親交の深かった人物に携帯電話のデータ移行を手伝ってもらった際にデータを抜かれたとされる。
2015年6月頃からこの人物らが含まれる犯罪グループからヴァルブエナへの恐喝が始まり、ヴァルブエナはフランス代表の警備を務める警察官を通じて警察に被害届を提出した。
以来、恐喝はなかったが、10月の代表合宿中にベンゼマがヴァルブエナに映像の件を解決してくれる人物として自身の幼馴染と面会するよう勧めてきたという。
この幼馴染はベンゼマと兄弟同然の幼馴染だが、犯罪歴のある人物とされ、ヴァルブエナはこれを金銭を目的とした仲介と受け止め、警察もこの幼馴染を事前に参考人として捜査していた。
警察は事前にこの幼馴染の電話を盗聴しており、ベンゼマがヴァルブエナを茶化しながら幼馴染に報告していたことから関与したと判断した(ただしこの幼馴染はベンゼマの援助のおかげで困窮しておらず、ベンゼマも恐喝の意図を否定したうえで純粋にヴァルブエナを助けることが目的だったと断言、この電話でヴァルブエナを茶化したことは軽率だったと後に釈明している)。
またこの犯罪グループには潜入していた覆面警官もおり、仲介役を担ったこの警官が犯行を積極的に促したとして後にベンゼマの弁護士が警察の不正捜査を訴えることになる。
逮捕後の12月にフランス首相を務めていたマニュエル・ヴァルスから「偉大なスポーツ選手は模範的でないとならない。そうでないならば、フランス代表のチームに居場所はない」と批判され、フランスサッカー連盟からは無期限代表活動停止処分が科された。
処分を受けたベンゼマはヴァルブエナの捏造と非難し、ヴァルブエナもベンゼマが関与したとして二人は非難の応酬となった。
2016年3月11日、恐喝行為への関与によって科されていた法的制約の一部解除が決定され、UEFA EURO 2016に向けて法的にフランス代表への復帰が可能となった。
この件についてマニュエル・ヴァルス首相とパトリック・カネル大臣はベンゼマの代表復帰に懐疑的な見解を示したが、ベンゼマの代表復帰に肯定的なフランソワ・オランド大統領は「下らない事はやめろ」とこの問題に触れないよう促した。
4月14日、フランスサッカー連盟のノエル・ル・グラエ会長が「和を乱さぬため」とUEFA EURO 2016にベンゼマを招集しない事を発表した。
代表監督のディディエ・デシャンもこの決定を支持したことから、ベンゼマは「人種差別主義者グループの圧力に屈した」とデシャンを非難、両者の確執へと発展した。
2016年8月、事件の容疑者のひとりがベンゼマの無罪を認めたことが報じられた。
最終的に裁判での無罪、恐喝の事実も関与もないと認定されたが、連盟やデシャンとの確執から2020年現在もフランス代表への復帰は叶っていない。
フランスサッカー連盟のノエル・ル・グラエ会長は「フランス代表での彼の冒険は終わった」と今後も復帰させないことを明言しており、デシャンもこれに同調している。
ベンゼマは「他国の代表チームでプレーさせて欲しい」と訴えている。
プレースタイル
柔らかいタッチと両足を扱う器用さでタメを作り、正確で強烈なシュート、ヘディングやポジショニングセンスも秀逸で、FWに必要な要素を高いレベルでそろえています。
基本的に中央に位置していますが、サイドに開くプレーも見せます。
豪快なシュートと繊細なテクニックを併せ持つ俊英。
高い決定力に加え、体の強さや足元の技術もハイレベルであり、視野も広く周囲の状況を見ながらプレー選択を変える知性も持ち合わせる。
どんなアタッカーにも合わせる能力が高く、サイドに流れて起点を作ることもしばしば。
指導したカルロ・アンチェロッティは「すべてを兼ね備えた選手」と絶賛している。
テクニックを持つ上、スピードにも優れた選手である。
相手選手に走り負けないため、多少アバウトなボールであってもキープ可能だ。
ベンゼマ選手は視野が広く、パスセンスにも優れているためアシストも多い。
ゲームメイクもできるため、しばしば「背番号9.5」の選手と称される。
ベンゼマがフィルミーノのように、チャンスメイクできる理由は高いキープ力です。
中央のスペースを作るために、一列降りてきてボールを受けたとしても、ロストすることなくボールを前へと運ぶことができます。
また、中央は相手選手が密集しています。
プレスをかけられたとしても打開できるテクニックがあるのも特徴的です。
黒子でもストライカーでも演じられる万能さがあります。
ベンゼマは守備時にも果敢に相手へプレスをかけるプレーを見せてくれます。
こういった献身性も彼の魅力のひとつです。
何でも出来ちゃうフォワード・・・それがベンゼマです。