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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

ペドロ・マルティネス

野球

概略

ペドロ・マルティネスの投球集【完全無欠のエース】
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地 サント・ドミンゴ州マノグアヤボ
生年月日 1971年10月25日(48歳)
身長
体重
5′ 11″ =約180.3 cm
195 lb =約88.5 kg

 

ポジションは投手(ピッチャー)。

 

右投右打。

 

サイ・ヤング賞を3回受賞し、1999年にはレッドソックス史上初となるシーズン300奪三振を記録。

 

引退後の2015年にアメリカ野球殿堂入り、背番号45はボストン・レッドソックスの永久欠番に制定。

 

ロサンゼルス・ドジャースのエースとして活躍したラモン・マルティネスは実兄。

 

タイトル

  • 最多勝利:1回(1999年)
  • 最優秀防御率:5回(1997年, 1999年, 2000年, 2002年, 2003年)(歴代3位タイ)
  • 最多奪三振:3回(1999年, 2000年, 2002年)

表彰

  • サイ・ヤング賞:3回(1997年, 1999年, 2000年)
  • ピッチャー・オブ・ザ・マンス:8回(1997年8月、1999年4月・5月・6月・9月、2000年4月、2001年5月、2002年7月)
  • プレイヤーズ・チョイス・アワーズ
    • 年間最優秀選手:1回(1999年)
    • 優秀投手:4回(1997年、1998年、1999年、2000年)
  • MLBオールスターゲームMVP:1999年

記録

  • 投手三冠:1回(1999年)
  • MLBオールスターゲーム選出:6回(1996年 – 2000年, 2002年)
  • 8試合連続二桁奪三振(1999年8月19日 – 9月27日)

 

経歴

全盛期のペドロ・マルティネスのピッチング
  • ロサンゼルス・ドジャース (1992 – 1993)
  • モントリオール・エクスポズ (1994 – 1997)
  • ボストン・レッドソックス (1998 – 2004)
  • ニューヨーク・メッツ (2005 – 2008)
  • フィラデルフィア・フィリーズ (2009)
代表チーム ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国代表
WBC 2009年

 

1988年6月18日にロサンゼルス・ドジャースと契約。

 

1992年はAAA級で開幕を迎え7勝6敗・防御率3.81の成績を残し、9月24日のシンシナティ・レッズ戦でメジャーデビュー。

 

1993年は球団新人記録となる65試合に登板し、リリーフ投手としてはリーグ最多の10勝、リーグ新人投手3位タイの119奪三振、防御率2.61を記録。

 

ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では9位に入った。

 

1993年11月19日にデライノ・デシールズとの交換トレードでモントリオール・エクスポズに移籍。

 

1994年からは先発に転向。

 

ストライキでシーズンが打ち切りとなったが、11勝5敗・防御率3.42を記録した。

 

1995年は13勝10敗・防御率3.70・222奪三振を記録し、初めて200の大台を上回った。

 

1997年は開幕から8戦8勝を記録。

 

17勝8敗・防御率1.90、カート・シリングに次いでリーグ2位の305奪三振、リーグトップの13完投を記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得。

 

18試合で2桁奪三振を記録し、奪三振・防御率は共に球団新記録となった。

 

サイ・ヤング賞の投票では1位票を28票のうち25票獲得し初受賞した。

 

また右投手が300奪三振と防御率1点台を同時に記録するのは1912年のウォルター・ジョンソン以来の快挙だった。

 

1997年11月18日にカール・パバーノ、トニー・アーマス・ジュニアとの交換トレードでボストン・レッドソックスに移籍し、6年総額7500万ドル、7年目はオプションで1750万ドルという投手としては当時史上最高額の契約を結んだ。

 

1998年は自身初の開幕投手を務め、開幕5連勝。

 

いずれもリーグ2位の19勝(7敗)・防御率2.89・251奪三振を記録し、チームのワイルドカード獲得に貢献。クリーブランド・インディアンスとのディビジョンシリーズでは第1戦に先発し、7回3失点で勝利投手。

 

チームはその後3連敗で敗退した。

 

サイ・ヤング賞の投票では満票で受賞したロジャー・クレメンスに次ぐ2位に入った。

 

1999年は4月15日から5月18日にかけて7試合連続二桁奪三振を記録するなど前半戦で15勝を挙げ、30勝を達成するのではと騒がれた。

 

地元ボストンで行われたオールスターゲームに先発し、2イニングを投げて5三振を奪い、MVPに選出された。

 

三振を喫したマーク・マグワイアを「あんな投球をされたら誰も打てやしない」と脱帽させた。

 

オールスターで肩を痛めたが、8月19日から9月27日にかけてメジャー記録となる8試合連続2桁奪三振を記録。

 

23勝4敗・防御率2.07・313奪三振の圧倒的な成績で最多勝・最優秀防御率・最多奪三振を獲得して投手三冠を達成し、奪三振率13.2は当時のメジャー記録となった。

 

チームは前年に続きワイルドカードを獲得。

 

ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、7回を2安打12奪三振無失点で勝利投手となるが、チームはその1勝のみに終わり敗退した。

 

オフに2度目のサイ・ヤング賞を満票で獲得し、MVPの最有力候補と言われた。

 

投票では1位票を最多の8票獲得したが、239対252と13ポイント差でイバン・ロドリゲスに次ぐ2位に終わり、「投手にMVPの資格はないのか?」と論争になった。

 

2000年は18勝6敗・防御率1.74・284奪三振、リーグ最多の4完封を記録し、最優秀防御率・最多奪三振の二冠を獲得。

 

防御率は2位クレメンスの3.70に1.96という大差を付けた。

 

被出塁率は.213でウォルター・ジョンソンが1913年に記録した.217を更新。

 

WHIPに至っては史上最高の0.74という驚異的な数字を記録し、被打率.167もメジャー記録と、記録ずくめのシーズンだった。

 

オフに3度目のサイ・ヤング賞を満票で受賞した。

 

2001年は5月までに7勝1敗・防御率1.44、11試合中8試合で2桁奪三振を記録するなど好調だったが、肩の回旋筋腱板損傷のため離脱し、復帰後も未勝利に終わる。

 

2002年は開幕戦のトロント・ブルージェイズ戦では3回8失点の大乱調だったが、4月7日に前年5月30日以来の勝利を挙げた。

 

その間8試合連続で勝星がなかったのは自己ワースト記録である。

 

4月19日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で史上57人目となる通算2000奪三振を達成。

 

開幕から7連勝、6月20日から9連勝を記録するなど20勝4敗、共にリーグ1位の防御率2.26・239奪三振を記録し、最優秀防御率・最多奪三振の二冠を獲得。

 

サイ・ヤング賞の投票では23勝で最多勝を獲得したバリー・ジトに次ぐ2位だった。

 

2003年は4月12日のボルチモア・オリオールズ戦で自身ワーストの10失点。

 

5月から約1ヶ月離脱するが、14勝4敗・防御率2.22・206奪三振の成績で2年連続の最優秀防御率を獲得し、チームはワイルドカードを獲得。

 

ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、7回4失点で敗戦投手。

 

この試合では自軍の打者に対する死球に激昂してマウンドに駆け寄ったヤンキースのベンチコーチで、当時72歳だったドン・ジマーの首に腕を絡めて地面に叩き落とした(ジマーは現役時代に死球により意識不明に陥った過去がある)。

 

最終第7戦では8回表まで5-2とリードしていたが、その裏集中打を浴びて同点に追い付かれ降板。

 

チームは延長の末サヨナラ負けを喫しリーグ優勝はならなかった。

 

2004年は16勝9敗・217奪三振を記録したものの防御率3.90で8年ぶりの3点台と今ひとつだったが、チームは2年連続でワイルドカードを獲得する。

 

アナハイム・エンゼルスとのディビジョンシリーズでは第2戦に先発し勝利投手。

 

ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発するが6回3失点で敗戦投手となり、第5戦では勝敗付かず。

 

3連敗からタイに戻した最終第7戦では7回からリリーフ登板するも2失点で降板。

 

チームは史上初の3連敗からの4連勝で、18年ぶりのリーグ優勝を果たす。

 

セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは第3戦に先発して7回無失点で勝利投手。

 

チームは4連勝で86年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。

 

オフにFAとなった。

 

2004年12月17日にメッツと4年総額5200万ドルで契約した。

 

2005年は15勝8敗・防御率2.82・208奪三振を記録し、被出塁率は.250でリーグ1位、メジャー全体でヨハン・サンタナに次ぐ2位だった。

 

奪三振率が8.6で9年ぶりに9を下回ったが、奪三振と四球の割合は4.43でリーグ1位だった。

 

2006年は開幕から5連勝。

 

4月17日のアトランタ・ブレーブス戦で7回途中まで6安打3失点に抑え、メッツの選手としてはオーレル・ハーシュハイザーに次いで史上2人目となる通算200勝を達成。

 

84敗での達成は史上最も少ない敗戦数である。

 

途中故障で1ヶ月離脱し、復帰後も故障がちで9勝8敗・防御率4.48に終わる。

 

チームは18年ぶりの地区優勝を果たしたが、ポストシーズンでは登板なし。

 

10月1日に右肩の手術を行うことを発表した。

 

投球再開までには少なくとも8ヶ月はかかる見通しで、翌年シーズン前半戦の出場は絶望となった。

 

復帰後に本来の力を再び発揮できるかどうか不安を感じており、11月6日のニューヨーク・タイムズ紙には元通りにならないようであれば引退を考える旨のコメントを寄せている。

 

9月3日のレッズ戦で復帰を果たし、史上15人目、ラテンアメリカ出身の選手として初めて3000奪三振を達成した。

 

与四球が1000以下で達成したのは史上4人目だった。

 

5試合に登板して3勝1敗・防御率2.57の成績を残した。

 

チームは残り17試合で2位のフィラデルフィア・フィリーズに7ゲーム差を付けて地区首位だったがその後5勝12敗と失速し、9月30日のレギュラーシーズン最終戦でフロリダ・マーリンズに敗れ、1ゲーム差でフィリーズに地区優勝を奪われポストシーズン進出を逃した。

 

2008年は故障がちで調子が上がらず、5勝6敗・防御率5.61に留まり、オフにFAとなった。

 

2009年3月に第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のドミニカ共和国代表に選出された。

 

第1戦のオランダ戦に3番手として登板し3回を4奪三振無失点と好投したが、チームは敗れた。

 

第3戦のオランダ戦でも2番手として登板し、3回を2奪三振無失点と好投したが打線が振るわず逆転サヨナラ負けを喫し、チームは一次リーグ敗退となった。

 

2009年7月14日、フィリーズと年俸100万ドル+最大150万ドルのインセンティブ付き契約を結んだ。

 

チームは地区優勝を果たし、ポストシーズンも勝ち上がってリーグ優勝を果たす。

 

連覇を賭けて臨んだヤンキースとのワールドシリーズでは第2戦に先発したが、松井秀喜に地面すれすれの変化球を掬い上げられる本塁打を浴びるなど、7回途中3失点で敗戦投手となる。

 

王手をかけられた第6戦でも2回に松井に先制2点本塁打を喫し、3回にも2点タイムリーを打たれるなど4回4失点で敗戦投手となった。

 

結果的にこれが自身メジャー最後の登板となった。

エピソード

ペドロ・マルティネス

ペドロ・マルティネスという投手を語るにあたって、代名詞とも言える内角攻めも避けては通れないでしょう。

 

ドジャースのアカデミーに在籍していた時代に実戦で死球を与えた後、コーチから「メジャーで成功するには、絶対に必要。内角に投げるのをやめるんじゃない」と諭され、その教えを守ったという話は興味深いものがあります。

 

ペドロ自身も「僕よりも背が高く、体重があり、強い肉体を持つ投手-すなわち他のほとんどの投手が、なぜ内角を積極的に攻めようとしないのか、僕にはまったく理解できない」と語っています。

 

一方で、現役時代に与えた死球の「90%は意図的」とも明かし、挑発行為と受け取れる態度を取った打者には故意にぶつける、といったメジャーリーグの負の文化を最も体現した投手の1人だったことも分かります。

 

「首狩り族」(Head Hunter)というあだ名で他球団やメディアに批判されながら、それでも臆せず内角に投げ続けた気の強さには脱帽します。

 

投手として必要なあらゆる要素を兼ね備えていたペドロも、最初から全てを持っていたわけではありません。

 

往年の名左腕サンディー・コーファックスやラモン、投手コーチらの助言を消化しながら、少しずつ技術を上げていったことが、自伝では紹介されています。

 

ペドロの到達点は1999年と2000年でしょう。

 

1999年は23勝を挙げ、奪三振数は313、奪三振率は13.20。いずれも自身のキャリアハイです。

 

2000年は、WHIPが0.74でメジャー歴代最高、ERA+が291で歴代2位(1位は1880年の記録)、防御率 は1.74で2位のロジャー・クレメンス(3.70)に2点近い差を付けるなど、異次元のパフォーマンスを見せました。

 

ステロイドの使用によって本塁打が飛び交い、打者が投手より圧倒的に優勢だった時代です。

 

 

2000年、アメリカンリーグの打者の平均打率は.276でした。

 

そんな背景をものともせず、球史に残る突出した成績を打ち立てたのは驚異的と言うほかありません。

 

「僕のピークは、バッターのピークと重なった」「誰もまったくドーピングをしていなかったら、1990年代後半から2000年代初頭にかけての僕の防御率は、さらに低くなっていたのではないだろうか? そんなふうに想像することもある」とペドロは本音を吐露しています。

 

 

その言葉通り、同じ能力を持って違う時代に投げていたら、いったいどれほどの数字を残していたでしょうか。

 

プレースタイル

イチロー★ペドロ・マルティネスを語る

身長は公称180cmとなっているが、実際にはもっと小柄と言われており、体格も細身であった。

 

サイドスローに近いスリークォーターから、全盛期には常時95mph前後、最速99mph(約159km/h)の伸びのある速球(フォーシーム、ツーシーム)、切れ味の鋭いカーブ、サークルチェンジ、カットボールを抜群のコントロールで操り、投手に必要な技術を網羅しているとされ、イチローをして「完璧な投手」と言わしめた。

 

160キロ近い浮きあがるような軌道の直球、まるで意思を持ってバットから遠ざかっていくようなチェンジアップ、右打者が思わずのけぞるほど鋭く曲がるカーブ、狙って四隅に決められる抜群のコントロール…。

 

投手として必要なあらゆる要素を兼ね備えていたペドロ。

 

ソフトバンクホークスの千賀投手の決め球が“お化けフォーク”と言われていますが、マルティネスの場合は“お化けカーブ、お化けチェンジアップ、お化けスライダー”を投げるようなイメージですね。

 

 

この変化球の影響もあり、通算奪三振率10.04MLB歴代2位の記録となっています。

 

しかし、度重なる故障の後は速球のスピードは最速でも90mph序盤程度になった。

 

松井秀喜やイチローによると「ペドロの凄さはキレの良いさまざまな変化球をコーナーにきちんと投げ分けられること」だという。

 

高速で急激にブレーキがかかる彼のカーブはパワーカーブと呼ばれた。

 

本人はこれをハードカーブと呼んでいるとインタビューで語った。

 

握りはナックルカーブである。

 

またサークルチェンジでも有名で、日本で言うところのスクリューボールのように鋭く変化し三振の山を築いた。

 

ピンチになると球速が上がるなどの特徴を持つ。

 

通算投球回数2000回以上の投手が対象である、投球回数9回に対する通算の奪三振率が9.0以上の投手4人のうちの1人であり、投球回数9回に対する通算の奪三振率10.04は、ランディ・ジョンソンに次いでMLB史上2位である。

 

ペドロ・マルティネスという投手を語るにあたって、代名詞とも言える内角攻めも避けては通れないでしょう。

 

レッドソックス時代は打者に恐怖心を与えるために故意に頭部を狙い、いわゆるビーンボールを投げる「ヘッドハンター」と見られていた。

 

「首狩り族」(Head Hunter)というあだ名で他球団やメディアに批判されながら、それでも臆せず内角に投げ続けた気の強さには脱帽します。

 

投手が打席に立つナ・リーグへ移籍した2005年は前年の16死球から4死球へ減少。

 

自伝において「(キャリアを通じて)死球の90パーセントは故意だった」と告白している。

 

2015年5月、米スポーツ専門局ESPNの「これまで対戦したなかで手強かった打者は?」という質問に対して、バリー・ボンズ、エドガー・マルティネス、デレク・ジーター、ケニー・ロフトン、イチローの5名を挙げた。

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